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城戸朱理のブログ

2017年02月26日

ビストロ・オランジェで、お手軽フレンチ

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壽福寺から海蔵寺を回った、この日の散歩は2時間。

これくらいだと、ちょうどいい。


バンビことパンクな彼女と相談し、夕食は、ローライ同盟の打ち上げでもおなじみ、御成通りのビストロ・オランジェで取ることにした。

以前は、ル・ポアン・ウェストという店名で、御成通りのもっと先で営業していたのだが、鎌倉駅の近くに移転してから店も広くなり、予約なしでも入れるのが嬉しい。

ル・ポアン・ウェスト時代には、柳美里さん一家と会食したこともあった。


入店してみたら、開店2周年のサービスで、なんとスパークリングワインが、1000円で1時間飲み放題。

さっそく、バンビとスパークリングワインを頼んで、メニューを読む。


この日は、まずプロヴァンス風烏賊のラタトゥイユとアンディーブ・アラ・フランドル(フランドル地方のジャガイモとアンディーブとブルーチーズのグラタン)から。

バゲットとバターも頼んだが、私はスパークリングワインを飲むのに専念(?)。


さらに、リ・ド・ヴォーのムニエルを。

リ・ド・ヴォーは、仔牛の胸腺で、成長するにつれて無くなるため、ホワイトヴィール(ミルクだけで育った仔牛)からしか取れない稀少部位で、フレンチには欠かせない食材である。

黒トリュフのソースでいただくのだが、バンビは、リ・ド・ヴォーのふわりと柔らかく、口のなかにさらりとした脂が広がる食感を喜んでいた。

たしかに、似たようなものが思いつかない食感である。


メインは、ブルターニュ風仔羊のローストを頼む。

スパークリングワインの飲み放題が時間切れになったので、赤ワインをグラスでもらったのだが、これが、まったりしたフルボディで、とても良かった。

銘柄を聞かなかったのが悔やまれる。


ビストロ・オランジェの会計は、チェーン店の居酒屋と変わらないので、気楽に立ち寄れるのがありがたい。
posted by 城戸朱理 at 11:03| 美味しい話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海蔵寺、十六ノ井

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海蔵寺の境内に入り、左手の道を行くと、民家が立ち並んでいるのだが、左手に木の扉を持つ「やぐら」のようなものがある。

これが、十六ノ井で、肉眼では、手前の岩床が丸く、くり貫かれた井戸しか見えないほど暗い。

ところが、写真に撮ってみると、内部の様子が分かるのだから、肉眼とレンズの違いを痛感した。


十六ノ井は、鎌倉時代から湧水をたたえていたそうだが、今でも綺麗な水が湧いている。

奥には、聖観音像と弘法大師が安置されていた。

海蔵寺は臨済宗だから、聖観音も弘法大師も祀らない。

十六ノ井は、真言宗の寺院の管轄に置かれた時代があったのかも知れない。


井戸と知らなければ、異様な気配さえ漂うところで、バンビことパンクな彼女は、熱心に写真を撮っていた。
posted by 城戸朱理 at 09:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月25日

海蔵寺門前の底脱ノ井

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海蔵寺の門前、右手には鎌倉十井のひとつ、底脱(そこぬけ)ノ井が水をたたえている。


二度にわたる元寇を退けた鎌倉幕府第八代執権、北条時宗を支え、幕府の重職を歴任した安達泰盛の娘、千代能が、水を汲んだとき、水桶の底が抜け、千代能が詠んだ一首が、その名の由来だそうだ。


千代能がいただく桶の底抜けて
水たまらねば月もやどらず


この一首は、事実を歌ったのではなく、解脱の心持ちを詠んだのだという解説があったが、「月もやどらず」という結びが素晴らしい。
posted by 城戸朱理 at 09:11| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

清水基吉の句碑

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海蔵寺の山門を入って、すぐの左手に清水基吉(もとよし)さんの句碑があった。



侘び住めば八方の蟲四方の露



鎌倉に住まっていると、「八方の蟲、四方の露」というのは、実感にほかならないのだが、いい句だと思う。


清水基吉は、石田波郷門下で、「火矢」を主宰した俳人である。

太平洋戦争のさなか、昭和20年(1945)に、「雁立」で芥川賞を受賞、この年から亡くなるまでを鎌倉で過ごした。


戦後は、俳句に専念、鎌倉文学館の設立にも関わり、館長もつとめられたが、バンビことパンクな彼女は、仕事で清水先生のお宅にうかがうたびに、お菓子や果物を御馳走になったそうだ。


海蔵寺のあたりは、鎌倉駅から歩いて20分ほどだが、山のなかのような気配で、「侘び住めば」という上五も、そのまま、うなずけるところがある。
posted by 城戸朱理 at 09:11| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海蔵寺へ

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壽福寺のあとは、扇ガ谷の谷戸の突き当たり、小高い山にかこまれた海蔵寺まで歩いた。


海蔵寺も臨済宗建長寺派、室町時代に鎌倉公方・足利氏満の命で、源翁禅師として知られる心昭空外が開山となり、応永元年(1394)に創建された。


源翁禅師といえば、謡曲「殺生石」を思い出す。

鳥羽天皇が那須で白狐を殺させたところ、白狐は石と化し、これに触れた者は、ことごとく死んでしまうため、殺生石として怖れられるようになった。

ところが、後代に源翁禅師が読経し、杖で石を叩いたところ、殺生石は砕け散り、白狐の霊も成仏したという。

金槌の別名「玄能」も、源翁禅師に由来するものである。


海蔵寺は、鎌倉公方の命で、上杉氏定が開基となった寺だけに、鎌倉時代には七堂伽藍を誇る大寺だったという。


鎌倉公方は、室町時代に、関東十か国、後には出羽・陸奥まで含めた東国を支配した鎌倉府の長官であり、足利尊氏の四男、足利基氏を初代とする。

将軍が任命したが、室町幕府から独立性を持ち、東国は、鎌倉公方によって支配されていたと言ってもいい。

その意味では、室町時代は、東国を鎌倉府が、西国を室町幕府が統治していたことになる。

鎌倉公方を補佐したのが、関東管領・上杉家で、後に戦国大名となった。

かの上杉謙信が、関東管領職を継いだのも、鎌倉は鶴岡八幡宮においてである。


海蔵寺は、鎌倉有数の花の寺としても知られており、紅白の梅が咲きこぼれていた。


本尊は、「啼(なき)薬師」の別名を持つ薬師如来。

尊像の胎内に、もうひとつの薬師さまの顔が納められた不思議な仏像である。


江戸時代に建てられた茅葺きの庫裡(くり)も堂々たるもので、素晴らしかった。
posted by 城戸朱理 at 09:10| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月24日

壽福寺の墓地

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壽福寺の裏手、裏山の裾野は墓地になっており、俳人、高浜虚子や作家、大佛次郎の墓がある。

墓以上に目立つのは、山裾の「やぐら」だろう。

「やぐら」は、中世の墳墓で、鎌倉では、至るところで見かける。

柳美里さんは南相馬に転居されたが、鎌倉の御宅の庭には、たしか「やぐら」がふたつあったっけ。


かつては、権力者が亡くなると法華堂を建立したわけだが、鎌倉は三方を山に囲まれた狭小の地、土地がなくなってしまうという理由で、鎌倉幕府は法華堂の建立を禁止した。

それで、有力者は岩肌をくりぬき墓所を作るようになったのが、「やぐら」である。

「やぐら」は壁を漆喰で塗り固め、なかには仏像や供養塔が安置されている。


壽福寺には、北条政子と源実朝の「やぐら」があるが、北条政子の墓じたいは、静岡の韮山に移されたそうだ。


源実朝の「やぐら」の前で、手を合わせながら、12歳で征夷大将軍となり、28歳という若さで暗殺された天才歌人、実朝のことを思った。
posted by 城戸朱理 at 09:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

壽福寺に散策

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先月から、急ぎの締切がない週末は、鎌倉散策の時間を取るようにしている。

バンビことパンクな彼女は、この散歩を楽しみにしているようだ。

「お散歩のあとは何を食べようか?」
・・・・・・

いや、バンビが楽しみにしているのは、正確には、散歩のあとの御飯なのだが。


しかし、バンビに道案内をさせると、野生児だけに険しい山道ばかりを選ぶ傾向があるので、とんでもないことになるのは、すでに経験済みである。

そこで、2月19日(日)は、車も走っている普通の道路を歩いて、まずは、壽福寺に立ち寄った。


壽福寺のある扇ガ谷のあたりは、かつて源頼朝の父、義朝の屋敷があったそうだ。

壽福寺は、臨済宗建長寺派で、鎌倉五山の第三位。

正治2年(1200)、北条政子が、臨済宗の開祖、栄西を招いて創建されただけに、寺宝として、栄西が、鎌倉幕府第三代将軍・源実朝に献上した『喫茶養生記』(国指定重要文化財)が残されている。

ふだんは拝観できないが、掃除が行き届いた境内には、清浄の気が漂う。

山門のかたわらの紅梅が、満開だった。


壽福寺は、中原中也が、その晩年を過ごした中也終焉の地でもある。

中也は、壽福寺の境内の借家に暮らし、そこで息を引き取った。
posted by 城戸朱理 at 09:50| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月23日

出光美術館での講演

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2月14日(火)は、翌日の出光美術館での講演のため、資料を読み、コピーを取り、準備に費やした。

この日は、バレンタインデー。

バンビことパンクな彼女=鹿千代が、モエ・エ・シャンドンを買ってきてくれたので、夜はシャンパンで乾杯する。


15日(水)は、いよいよ、出光美術館の水曜講演会である。

これは、出光美術館開館50周年記念「古唐津 大いなるやきものの時代」展に合わせたもので、私の演題は「古唐津と私」。


3時に会場入りして、再び展示をじっくり見てから、6時からの講演に臨んだ。

出光美術館は、皇居のお堀端という立地だけに、東京の夕景が、実に美しい。


出光美術館の水曜講演会は、会員限定だが、会場には百数十人もの聴衆の方々が。


担当学芸員の柏木真理さんの紹介のあと、講演は、魏志倭人伝に登場する唐津地方のことから話し始めた。


「また一海を度(わた)りて千余里、末盧国(まつらこく、佐賀県唐津市及び東松浦郡)にいたる。
四千余戸あり、山海に浜(そ)いて居す。
草木は茂りて盛ん、行くに前人を見ず、好く魚鰒(あわび)を捕り、水の深浅なく沈み没してこれをとる」


古代から史書に登場する唐津地方は、わが国にとって大陸から東南アジアへの玄関であり、6世紀には大友狭手彦による半島侵攻、11世紀には二度にわたる刀伊(女真族)の来襲、そして13世紀には、やはり二度にわたる元軍・高麗軍による元寇があった。

一方、日本側も松浦党を中心にした和寇が、半島から大陸を侵略、16世紀には嘉靖の大和寇時代を迎える。

そして、16世紀末には豊臣秀吉による文禄・慶長の役。

二度の戦役で、日本に連れてこられた朝鮮人は、20余万人。

当時は、織田信長から始まった茶の湯の隆盛期であったため、半島の陶工は優遇され、九州諸窯が開かれたので、文禄・慶長役は「焼き物戦争」とも呼ばれている。

古唐津もまた、そうした半島との関係から最盛期を迎えることになったのだった。


朝鮮王朝では、陶工は貧しく、妻帯もできなかったというが、日本では士分に取り立てられ、テクノクラートとして遇されたため、帰郷を望む人は、ほとんどいなかったらしい。

ちなみに、高取焼の祖、高取八山(朝鮮名、八山)は、黒田長政に七十人扶持で召し抱えられた。

池波正太郎の『鬼平犯科帳』でおなじみの長谷川平蔵宣以(のぶため)は、火付盗賊改方長官だが、この加役の役料が四十人扶持だから、陶工の優遇ぶりが分かるのではないだろうか。

ちなみに一人扶持は、1.8石なので、七十人扶持は126石。

江戸時代は、一石が一両、米価で換算すると一両は約10万、大工の手間賃で換算すると、現代の30万ほどになるという。

江戸時代には、物価が高い江戸でさえ、一両あれば四人家族が数カ月、余裕をもって暮らしていけたというから、実勢に近い大工の手間賃で換算すると、高取八山の年収は、今日の3780万円ほど、年収四千万弱になる。

もちろん、単純には比較できないが、最下級の武士の俸給が三両一人扶持――武士を罵るときのサンピンはここから来ている――だから、陶工が特別な扱いを受けたことが分かると思う。

ここまでが前振りで、そこから、私が考える古唐津の魅力を語っていったのだが、最大のポイントは、李氏朝鮮の陶工の作る焼き物が、一世代も経ずに、すぐさま和様化したのは、なぜだったのかということだろう。

もうひとつ、留意したのは器物と言葉の関係なのだが、この講演は出光美術館の館報に採録される予定である。


講演が終わってからは、学芸課長の笠嶋忠幸さん、柏木真理さんと会食。

出光美術館が入っている帝劇ビル地下に、神田の老舗鰻屋きくかわの支店があって、ビールで乾杯したあと、美味しい料理と鰻を御馳走になった。



翌日は、有栖川有栖『狩人の悪夢』の付箋を貼り込んだページを再読してから、「週刊 現代」のための書評を執筆する。

前日の講演で燃え尽きたためか、異様に時間がかかったが、夕方に、ようやく書き終えることができた。


数日ぶりにメールをチェックしたら、三井喬子さんから『現代詩文庫 三井喬子詩集』解説の執筆依頼が。

喜んでお引き受けすることにしたが、『現代詩文庫 和合亮一詩集』解説を書き終えたら、次は、三井さんの解説を書くことになる。
posted by 城戸朱理 at 00:13| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月22日

テレコムスタッフで試写のあとは

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外出が続いて、ブログの更新が滞ってしまった。

原稿の締切を連日、抱えているときでもブログは書けるが、打ち合わせや講演で外出が続くと、ろくに更新ができなくなるのは、疲れ方が違うからだろうか。


深川吟行の翌日、2月13日(月)は、青山のテレコムスタッフでCS放送番組2本の試写が4時からあった。

1本目は、「Edge カニエ・ナハ篇」で、これまで番組ADをつとめてくれた熊田草平氏の初ディレクター作品。

半年がかりの撮影となったが、前衛を生きる詩人の姿は、圧巻だった。


もう1本は、伊藤憲ディレクターによる「ノロとユタ 奄美の生き神様たち」。

これは、柳美里さんが青森のイタコを訪ねたコンテンツに続く「民衆の信仰 その祈りとかたち」の2作目になる。

いまだに生活のなかに息づく神事。

「ノロ」は、共同体の神事を司る、いわば神官的な役割の「生き神様」で、特別な家系の女性だけがなれる。

それに対して「ユタ」は、個人の悩みや苦しみを神の力で取り除く「生き神様」で、本人の意思とは関係なく、なってしまうシャーマン的存在。

奄美には、今でも数十人の「生き神様」がいるという。

その様子は、映像で見ているだけでも、自分のなかの「近代」が音を立てて崩れていくような衝撃だった。

奄美、そして琉球弧とは、なんと不思議な土地なのだろう。


試写のあとは、伊藤憲ディレクターと、進行中の「Edge 杉本真維子篇」の打ち合わせ、
さらに平田潤子ディレクターとEdgeのホームページの打ち合わせをしてから、近所の「田」で寺島高幸プロデューサーらと軽く飲む。


さらに、保土ヶ谷駅に隣接する千成寿司で、島村輝フェリス大教授と9時に待ち合わせていたので、新橋経由、横須賀線で保土ヶ谷へ。

島村先生は先に着いていたので、まずはビールで乾杯する。

千成寿司では、岩手放送に就職がきまったフェリスの4回生、佐藤桃花さんがバイトをしているので、ときどき佐藤さんを交えながら、歓談。

次に佐藤さんに会うとしたら、盛岡だろうか。


帰宅したのは0時前だった。
posted by 城戸朱理 at 12:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バレンタインも江戸時代???

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「鹿千代にござりまする!」

また、バンビことパンクな彼女が時代劇モードになってしまった――

「鹿千代は武士の子でござりますれば」


「南蛮渡来のものではなく、国元の菓子にしてみました」
!!!!!!

そういって、バンビ=鹿千代が出したのは、鎌倉は豊島屋のチョコレートだったのである!


豊島屋といえば、鳩サブレーが有名すぎて、和菓子や洋菓子、はてはパンまで扱っているのは、あまり知られていないが、どれもレベルが高い。

そこでバンビ=鹿千代は、今年のバレンタインのチョコレートを豊島屋で選ぶことにしたらしい。


たしかに、ゴディバのような「南蛮渡来」ではなく、「国元の菓子」だが、そもそもチョコレート自体が「南蛮渡来」である。

パンクなうえに、鹿千代は「六つか七つ」という子供の設定だから、仕方がない。

だいたい「鹿千代」も「しかちよ」ではなく、「シカッチホ」と発音している。

シカッチホ――

楽しげな響きではあるが、「武士の子」という感じではなく、ディズニーのキャラみたいだ。


ともあれ、小美人剣士・鹿千代物語は、当分、続くらしい。

パンクだから仕方がないが、さらなる注意が必要である。
posted by 城戸朱理 at 10:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする