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城戸朱理のブログ

2015年11月05日

平塚B級グルメツアー〜老郷(ラオシャン)の平塚湯麺

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平塚には、平塚湯麺と呼ばれる地ラーメンがある。

八王子ラーメンなら、ネギのかわりに刻んだタマネギ、甘めの醤油だれで、同じ仕立てのラーメンを何店かが出しているが、平塚湯麺は、老郷(ラオシャン)と花水ラオシャンの2店とその支店のみ。

しかも、湯麺といえば野菜がたっぷり入った白湯(パイタン)と決まっているが、老郷のそれは、具は大量のワカメとタマネギ、メンマのみ、しかも、スープは酸っぱい。

なんとも不思議な湯麺だが、これがバンビことパンクな彼女の大好物。

平塚に行くことにしてから、老郷で湯麺を食べるのを楽しみにしていたのである。


「老郷、まだあるかな?
潰れてないかな?」


バンビは心配していたが、老郷は平塚では、鎌倉の鳩サブレのように(?)、不動の位置を占めている。

当然、いまだに繁盛店なのだった。


平塚駅前の支店に入ったのだが、メニューは潔く「湯麺」「みそ麺」「餃子」の3つだけ。

しかし、この店で「みそ麺」を食べている人は見たことがない。


頼んだのは、湯麺と餃子。


久しぶりの老郷湯麺にバンビは喜んでいたが、豚骨や鰹節を濁らせないように仕込んだ澄んだスープは、自然な旨味と酸味が調和して、後を引く。

麺は、かん水を加えない中太のストレート麺。

老郷湯麺のスープは、醤油だれに米酢と白ワインで調味しているらしいが、不思議なスープである。


久しぶりに食べて、麺の量が多いのと、ワカメがやたらと大量なのに驚いたが、
平塚で、なぜ、こんな斬新な湯麺が生まれたのかは、いまだに聞いたことがない。
posted by 城戸朱理 at 10:06| 美味しい話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

平塚市美術館で



「画家の詩、詩人の絵」展を観たあとは、新収蔵品展へ。


「石田徹也の世界」が特集され、12点があったが、31歳で夭折した画家の絵は、現代人の病理をダイレクトなメタファーになっており、息苦しくも圧倒される。


Edgeにも出演してもらった日本画家、三瀬夏之介の大作「空虚五度」も、墨の濃淡で生み出される宇宙観に息を呑んだ。


会場を歩き回っていたバンビことパンクな彼女と合流し、美術館を後にしようとしたところ、バンビが「JRP50回記念写真展」もちょっと覗いて行こうと言うので、今度は写真展へ。

JRP(日本リアリズム写真協会)は、土門拳や木村伊兵衛の精神の継承を謳うグループだが、その湘南支部16人の写真が展示されていた。

プロではないのだろうが、1970年代から今日まで撮られた写真は、力作揃いで、ちょっと覗くつもりが、ここでも、じっくり観ることに。


平塚市美術館を出たときは、もう夕方だった。
posted by 城戸朱理 at 09:52| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

平塚市美術館「画家の詩、詩人の絵」展へ

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11月3日は、文化の日。

この日は「画家の詩、詩人の絵」展を観るべく、平塚に出かけた。

平塚駅から歩いて20分ほど。


カフェの前には佐藤忠良の彫刻、そして銀色の巨大なホセ・デ・リベラの「コンストラクション#115」が出迎えてくれる。

大理石が敷かれた館内は、静けさに満ちており、都内の美術館より恵まれた環境にある。


「画家の詩、詩人の絵」は、前から楽しみにしていた展覧会だが、これが実に素晴らしく、時を忘れるほどだった。

会場に掲げられていた瀧口修造の言葉を引用しておこう。


「詩人と画家、
それはふたつの人種ではない。
二人はある日、どこかで出会ったのだが、
あとから確かめるすべもなく
ふたつが、ひとつのものの
なかで出会う」


展覧会のサブタイトル「絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」は、ローマの詩人、ホラティウスの言葉。


詩と絵画の、互いに引かれてやまない重力の磁場において、成立した展覧会ということができそうだ。


会場は、「画家の詩」と「詩人の絵」のふたつに分かれている。

「画家の詩」のギャラリーでは、青木繁や萬鐵五郎に息を呑み、古賀春江の作品に見入った。

香月泰男、松本竣介、草間彌生からイケムラレイコまで。


2012年に急逝した瓜南直子の作品も3点、草間彌生作品の隣に並ぶ。

これが、公立美術館における瓜南直子作品の初の展示となるが、深いマチエールを持つ瓜南作品を美術館で観るのは、また違う趣きがあって、素晴らしかった。


「詩人の絵」は、もともと画家志望だった佐藤春夫や西脇順三郎を始めとして、草野心平、三好豊一郎ら、詩人の余技としては済まされない作品が並んでいた。

瀧口修造、北園克衛、そして新國誠一の前衛的な試み、さらには吉増剛造の「詩の傍らで」まで。

宮澤賢治の「日輪と山」を観ることが出来たのも嬉しかった。


行きつ戻りつしながら、自分が眼だけになってしまうような時間を過ごしたが、その時間は、私に問いかける。

おまえにとって、「自分の絵」はどこにあるのか、と。
posted by 城戸朱理 at 09:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする