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城戸朱理のブログ

2017年02月28日

梅の花が咲くころの酒器

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鎌倉は、梅の季節。

家の近所にも見事な紅白の老梅がある。


そして、この時季になると、酒器にも梅の気配が欲しくなる。

今月になってから、私が使っていたのは、写真のぐい呑みと徳利。

織部梅文六角盃と志野柳文徳利である。


織部梅文六角盃は、もともと小向付として作られたもの。

茶の湯で、小向付を盃に転用したのが「ぐい呑み」だから、その意味では、まさにぐい呑みらしいぐい呑みということになるが、伝世品であることは間違いないものの、これが桃山から江戸初期の本歌なのか、それとも時代が下るのかは分からない。

ただ、仕服は、黒柿の箱、古更紗の風呂敷と、由緒正しいしつらえで、長く愛玩されてきたことは分かる。

この盃は、京都の割烹に持参したとき、新羅の徳利と古染付の枡盃を持ち込んで飲んでいた骨董屋さんに乞われてお見せしたところ、「桃山だね」と言われたが、私には、やはり分からぬままで、分からぬまま、ただ卓上で梅の香を聴くように使っている。

緑釉も鮮やかで、新緑を思わせるあたりが、すがすがしい。


徳利は、北陸の名家に伝来したもので、桃山とのことだったが、これは桃山だろうか。

志野は、日本で初めて焼かれた白い器だが、灯りといえば灯明くらいしかなかった当時の暮らしのなかでは、志野は光をまとうように見えたことだろう。


志野も織部も、もっぱら茶の湯のために美濃で焼かれたものだが、フォルムが不定形で、肌ばかりがあるような日本ならではの陶器だと思う。


こと酒器に関しては、古備前の徳利と古唐津の筒盃が酒徒垂唾の取り合わせとされ、私も備前と唐津さえあれば何もいらないとまで思い詰めたことがあった。

しかし、いざ古備前と古唐津を手にしても、すぐに新しい酒器を探し始めるのだから、どうしようもない。


志野や織部といった美濃物は、備前や唐津のような手強い感じはなく、柔らかい。

それだけに、お盆も、いつものような木地盆ではなく、春慶塗りに。

美濃物の柔らかさが、春の気配を感じるようになった時季にふさわしいと思えるようになった。
posted by 城戸朱理 at 09:54| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月27日

ドキュメンタリー映画「幻を見るひと 詩人、吉増剛造」(井上春生監督)完成間近!

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川端康成が滞在して『古都』を執筆した京都、岡崎の真澄寺別院・流響院を舞台に、吉増剛造が、京都、ひいては日本の古層に触れながら歩いていくドキュメンタリー映画「幻を見るひと」が、井上春生監督の尽力によって編集を終え、仕上げに入っている。


これは、2015年春から16年冬にかけて、春夏秋冬の京都を訪れた詩人を撮影し四本のCS放送番組を制作するとともに、番組放送に先だって、全素材を使って映画化を試みたもの 。


春には醍醐寺を、夏には貴船神社を、秋には『古都』の舞台でもある北山杉の産地、中川地区を、そして冬には大徳寺と妙心寺を訪ね、吉増さんは言葉を紡いでいく。


京都は、その地下に、琵琶湖に匹敵するほどの豊かな伏流水をたたえている。

今にして思うと、吉増さんの旅は、その水と出会うものでもあったように思う。

吉増さんにとって、京都の旅は、触手のような「水の舌」に触れ、「水の言葉」を聴き取ることでもあった。



夏に、京都の水神たる貴船神社を訪れた吉増さんは「惑星に水の樹が立つ、という詩が書けるかもしれないなあ」と呟いたのだが、
映画のクライマックスは、冬の妙心寺法堂、狩野探幽による天井画・雲竜図の下で、吉増さんが新作「惑星に水の樹が立つ」を朗読する場面だろうか。


このドキュメンタリー映画は、ハグマシーン制作、プロデューサー・監督が井上春生氏、私がエグゼクティブ・プロデューサーをつとめる。

また、アシスタント・プロデューサー&スチールとして参加した小野田桂子による写真が、ポスターを飾ることになるだろう。


現在、英語字幕を制作中で、完成したら国際映画祭への出品を考えているのだが、改めて、映画祭について調べてみたところ、驚くべき現実に行き当たった。

映画祭は、なんと日本国内だけでも120も(!)開催されており、「国際」を冠した映画祭も少なくない。

これが、世界となると数百、あるいは千を超えるのではないだろうか。

そのうち、権威があるとされているのは、国際映画制作者連盟(FIAPF)公認の映画祭で、カンヌ、ベルリン、ヴェネツィアを三大映画祭、これにロカルノを加えて四大映画祭と呼ぶことがある。

北米大陸なら、最大規模を誇るのが、やはりFIAPF公認のモントリオール世界映画祭、インディペンデント映画を対象とし、ロバート・レッドフォードが主宰するサンダンス映画祭などがあるが、ドキュメンタリー部門がない映画祭も多いので、現在、井上監督と検討中である。


公開は、今秋になる予定。

詳細は、追って、このブログでも紹介していくので、御注目あれ!
posted by 城戸朱理 at 09:05| Edge | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月26日

ビストロ・オランジェで、お手軽フレンチ

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壽福寺から海蔵寺を回った、この日の散歩は2時間。

これくらいだと、ちょうどいい。


バンビことパンクな彼女と相談し、夕食は、ローライ同盟の打ち上げでもおなじみ、御成通りのビストロ・オランジェで取ることにした。

以前は、ル・ポアン・ウェストという店名で、御成通りのもっと先で営業していたのだが、鎌倉駅の近くに移転してから店も広くなり、予約なしでも入れるのが嬉しい。

ル・ポアン・ウェスト時代には、柳美里さん一家と会食したこともあった。


入店してみたら、開店2周年のサービスで、なんとスパークリングワインが、1000円で1時間飲み放題。

さっそく、バンビとスパークリングワインを頼んで、メニューを読む。


この日は、まずプロヴァンス風烏賊のラタトゥイユとアンディーブ・アラ・フランドル(フランドル地方のジャガイモとアンディーブとブルーチーズのグラタン)から。

バゲットとバターも頼んだが、私はスパークリングワインを飲むのに専念(?)。


さらに、リ・ド・ヴォーのムニエルを。

リ・ド・ヴォーは、仔牛の胸腺で、成長するにつれて無くなるため、ホワイトヴィール(ミルクだけで育った仔牛)からしか取れない稀少部位で、フレンチには欠かせない食材である。

黒トリュフのソースでいただくのだが、バンビは、リ・ド・ヴォーのふわりと柔らかく、口のなかにさらりとした脂が広がる食感を喜んでいた。

たしかに、似たようなものが思いつかない食感である。


メインは、ブルターニュ風仔羊のローストを頼む。

スパークリングワインの飲み放題が時間切れになったので、赤ワインをグラスでもらったのだが、これが、まったりしたフルボディで、とても良かった。

銘柄を聞かなかったのが悔やまれる。


ビストロ・オランジェの会計は、チェーン店の居酒屋と変わらないので、気楽に立ち寄れるのがありがたい。
posted by 城戸朱理 at 11:03| 美味しい話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海蔵寺、十六ノ井

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海蔵寺の境内に入り、左手の道を行くと、民家が立ち並んでいるのだが、左手に木の扉を持つ「やぐら」のようなものがある。

これが、十六ノ井で、肉眼では、手前の岩床が丸く、くり貫かれた井戸しか見えないほど暗い。

ところが、写真に撮ってみると、内部の様子が分かるのだから、肉眼とレンズの違いを痛感した。


十六ノ井は、鎌倉時代から湧水をたたえていたそうだが、今でも綺麗な水が湧いている。

奥には、聖観音像と弘法大師が安置されていた。

海蔵寺は臨済宗だから、聖観音も弘法大師も祀らない。

十六ノ井は、真言宗の寺院の管轄に置かれた時代があったのかも知れない。


井戸と知らなければ、異様な気配さえ漂うところで、バンビことパンクな彼女は、熱心に写真を撮っていた。
posted by 城戸朱理 at 09:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月25日

海蔵寺門前の底脱ノ井

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海蔵寺の門前、右手には鎌倉十井のひとつ、底脱(そこぬけ)ノ井が水をたたえている。


二度にわたる元寇を退けた鎌倉幕府第八代執権、北条時宗を支え、幕府の重職を歴任した安達泰盛の娘、千代能が、水を汲んだとき、水桶の底が抜け、千代能が詠んだ一首が、その名の由来だそうだ。


千代能がいただく桶の底抜けて
水たまらねば月もやどらず


この一首は、事実を歌ったのではなく、解脱の心持ちを詠んだのだという解説があったが、「月もやどらず」という結びが素晴らしい。
posted by 城戸朱理 at 09:11| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

清水基吉の句碑

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海蔵寺の山門を入って、すぐの左手に清水基吉(もとよし)さんの句碑があった。



侘び住めば八方の蟲四方の露



鎌倉に住まっていると、「八方の蟲、四方の露」というのは、実感にほかならないのだが、いい句だと思う。


清水基吉は、石田波郷門下で、「火矢」を主宰した俳人である。

太平洋戦争のさなか、昭和20年(1945)に、「雁立」で芥川賞を受賞、この年から亡くなるまでを鎌倉で過ごした。


戦後は、俳句に専念、鎌倉文学館の設立にも関わり、館長もつとめられたが、バンビことパンクな彼女は、仕事で清水先生のお宅にうかがうたびに、お菓子や果物を御馳走になったそうだ。


海蔵寺のあたりは、鎌倉駅から歩いて20分ほどだが、山のなかのような気配で、「侘び住めば」という上五も、そのまま、うなずけるところがある。
posted by 城戸朱理 at 09:11| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海蔵寺へ

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壽福寺のあとは、扇ガ谷の谷戸の突き当たり、小高い山にかこまれた海蔵寺まで歩いた。


海蔵寺も臨済宗建長寺派、室町時代に鎌倉公方・足利氏満の命で、源翁禅師として知られる心昭空外が開山となり、応永元年(1394)に創建された。


源翁禅師といえば、謡曲「殺生石」を思い出す。

鳥羽天皇が那須で白狐を殺させたところ、白狐は石と化し、これに触れた者は、ことごとく死んでしまうため、殺生石として怖れられるようになった。

ところが、後代に源翁禅師が読経し、杖で石を叩いたところ、殺生石は砕け散り、白狐の霊も成仏したという。

金槌の別名「玄能」も、源翁禅師に由来するものである。


海蔵寺は、鎌倉公方の命で、上杉氏定が開基となった寺だけに、鎌倉時代には七堂伽藍を誇る大寺だったという。


鎌倉公方は、室町時代に、関東十か国、後には出羽・陸奥まで含めた東国を支配した鎌倉府の長官であり、足利尊氏の四男、足利基氏を初代とする。

将軍が任命したが、室町幕府から独立性を持ち、東国は、鎌倉公方によって支配されていたと言ってもいい。

その意味では、室町時代は、東国を鎌倉府が、西国を室町幕府が統治していたことになる。

鎌倉公方を補佐したのが、関東管領・上杉家で、後に戦国大名となった。

かの上杉謙信が、関東管領職を継いだのも、鎌倉は鶴岡八幡宮においてである。


海蔵寺は、鎌倉有数の花の寺としても知られており、紅白の梅が咲きこぼれていた。


本尊は、「啼(なき)薬師」の別名を持つ薬師如来。

尊像の胎内に、もうひとつの薬師さまの顔が納められた不思議な仏像である。


江戸時代に建てられた茅葺きの庫裡(くり)も堂々たるもので、素晴らしかった。
posted by 城戸朱理 at 09:10| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月24日

壽福寺の墓地

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壽福寺の裏手、裏山の裾野は墓地になっており、俳人、高浜虚子や作家、大佛次郎の墓がある。

墓以上に目立つのは、山裾の「やぐら」だろう。

「やぐら」は、中世の墳墓で、鎌倉では、至るところで見かける。

柳美里さんは南相馬に転居されたが、鎌倉の御宅の庭には、たしか「やぐら」がふたつあったっけ。


かつては、権力者が亡くなると法華堂を建立したわけだが、鎌倉は三方を山に囲まれた狭小の地、土地がなくなってしまうという理由で、鎌倉幕府は法華堂の建立を禁止した。

それで、有力者は岩肌をくりぬき墓所を作るようになったのが「やぐら」である。

「やぐら」は壁を漆喰で塗り固め、なかには仏像や供養塔が安置されている。


壽福寺には、北条政子と源実朝の「やぐら」があるが、北条政子の墓じたいは、静岡の韮山に移されたそうだ。


源実朝の「やぐら」の前で、手を合わせながら、12歳で征夷大将軍となり、28歳という若さで暗殺された天才歌人、実朝のことを思った。
posted by 城戸朱理 at 09:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

壽福寺に散策

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先月から、急ぎの締切がない週末は、鎌倉散策の時間を取るようにしている。

バンビことパンクな彼女は、この散歩を楽しみにしているようだ。

「お散歩のあとは何を食べようか?」
・・・・・・

いや、バンビが楽しみにしているのは、正確には、散歩のあとの御飯なのだが。


しかし、バンビに道案内をさせると、野生児だけに険しい山道ばかりを選ぶ傾向があるので、とんでもないことになるのは、すでに経験済みである。

そこで、2月19日(日)は、車も走っている普通の道路を歩いて、まずは、壽福寺に立ち寄った。


壽福寺のある扇ガ谷のあたりは、かつて源頼朝の父、義朝の屋敷があったそうだ。

壽福寺は、臨済宗建長寺派で、鎌倉五山の第三位。

正治2年(1200)、北条政子が、臨済宗の開祖、栄西を招いて創建されただけに、寺宝として、栄西が、鎌倉幕府第三代将軍・源実朝に献上した『喫茶養生記』(国指定重要文化財)が残されている。

ふだんは拝観できないが、掃除が行き届いた境内には、清浄の気が漂う。

山門のかたわらの紅梅が、満開だった。


壽福寺は、中原中也が、その晩年を過ごした中也終焉の地でもある。

中也は、壽福寺の境内の借家に暮らし、そこで息を引き取った。
posted by 城戸朱理 at 09:50| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月23日

出光美術館での講演

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2月14日(火)は、翌日の出光美術館での講演のため、資料を読み、コピーを取り、準備に費やした。

この日は、バレンタインデー。

バンビことパンクな彼女=鹿千代が、モエ・エ・シャンドンを買ってきてくれたので、夜はシャンパンで乾杯する。


15日(水)は、いよいよ、出光美術館の水曜講演会である。

これは、出光美術館開館50周年記念「古唐津 大いなるやきものの時代」展に合わせたもので、私の演題は「古唐津と私」。


3時に会場入りして、再び展示をじっくり見てから、6時からの講演に臨んだ。

出光美術館は、皇居のお堀端という立地だけに、東京の夕景が、実に美しい。


出光美術館の水曜講演会は、会員限定だが、会場には百数十人もの聴衆の方々が。


担当学芸員の柏木真理さんの紹介のあと、講演は、魏志倭人伝に登場する唐津地方のことから話し始めた。


「また一海を度(わた)りて千余里、末盧国(まつらこく、佐賀県唐津市及び東松浦郡)にいたる。
四千余戸あり、山海に浜(そ)いて居す。
草木は茂りて盛ん、行くに前人を見ず、好く魚鰒(あわび)を捕り、水の深浅なく沈み没してこれをとる」


古代から史書に登場する唐津地方は、わが国にとって大陸から東南アジアへの玄関であり、6世紀には大友狭手彦による半島侵攻、11世紀には二度にわたる刀伊(女真族)の来襲、そして13世紀には、やはり二度にわたる元軍・高麗軍による元寇があった。

一方、日本側も松浦党を中心にした和寇が、半島から大陸を侵略、16世紀には嘉靖の大和寇時代を迎える。

そして、16世紀末には豊臣秀吉による文禄・慶長の役。

二度の戦役で、日本に連れてこられた朝鮮人は、20余万人。

当時は、織田信長から始まった茶の湯の隆盛期であったため、半島の陶工は優遇され、九州諸窯が開かれたので、文禄・慶長役は「焼き物戦争」とも呼ばれている。

古唐津もまた、そうした半島との関係から最盛期を迎えることになったのだった。


朝鮮王朝では、陶工は貧しく、妻帯もできなかったというが、日本では士分に取り立てられ、テクノクラートとして遇されたため、帰郷を望む人は、ほとんどいなかったらしい。

ちなみに、高取焼の祖、高取八山(朝鮮名、八山)は、黒田長政に七十人扶持で召し抱えられた。

池波正太郎の『鬼平犯科帳』でおなじみの長谷川平蔵宣以(のぶため)は、火付盗賊改方長官だが、この加役の役料が四十人扶持だから、陶工の優遇ぶりが分かるのではないだろうか。

ちなみに一人扶持は、1.8石なので、七十人扶持は126石。

江戸時代は、一石が一両、米価で換算すると一両は約10万、大工の手間賃で換算すると、現代の30万ほどになるという。

江戸時代には、物価が高い江戸でさえ、一両あれば四人家族が数カ月、余裕をもって暮らしていけたというから、実勢に近い大工の手間賃で換算すると、高取八山の年収は、今日の3780万円ほど、年収四千万弱になる。

もちろん、単純には比較できないが、最下級の武士の俸給が三両一人扶持――武士を罵るときのサンピンはここから来ている――だから、陶工が特別な扱いを受けたことが分かると思う。

ここまでが前振りで、そこから、私が考える古唐津の魅力を語っていったのだが、最大のポイントは、李氏朝鮮の陶工の作る焼き物が、一世代も経ずに、すぐさま和様化したのは、なぜだったのかということだろう。

もうひとつ、留意したのは器物と言葉の関係なのだが、この講演は出光美術館の館報に採録される予定である。


講演が終わってからは、学芸課長の笠嶋忠幸さん、柏木真理さんと会食。

出光美術館が入っている帝劇ビル地下に、神田の老舗鰻屋きくかわの支店があって、ビールで乾杯したあと、美味しい料理と鰻を御馳走になった。



翌日は、有栖川有栖『狩人の悪夢』の付箋を貼り込んだページを再読してから、「週刊現代」のための書評を執筆する。

前日の講演で燃え尽きたためか、異様に時間がかかったが、夕方に、ようやく書き終えることができた。


数日ぶりにメールをチェックしたら、三井喬子さんから『現代詩文庫 三井喬子詩集』解説の執筆依頼が。

喜んでお引き受けすることにしたが、『現代詩文庫 和合亮一詩集』解説を書き終えたら、次は、三井さんの解説を書くことになる。
posted by 城戸朱理 at 00:13| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月22日

テレコムスタッフで試写のあとは

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外出が続いて、ブログの更新が滞ってしまった。

原稿の締切が続くときでも、ブログは書けるが、打ち合わせや講演で外出が続くと、ろくに更新ができなくなるのは、疲れ方が違うからだろうか。


深川吟行の翌日、2月13日(月)は、青山のテレコムスタッフでCS放送番組2本の試写が4時からあった。

1本目は「Edge カニエ・ナハ篇」で、これまで番組ADをつとめてくれた熊田草平氏の初ディレクター作品。

半年がかりの撮影となったが、前衛を生きる詩人の姿は、圧巻だった。


もう1本は、伊藤憲ディレクターによる「ノロとユタ 奄美の生き神様たち」。

これは、柳美里さんが青森のイタコを訪ねたコンテンツに続く「民衆の信仰 その祈りとかたち」の2作目になる。

いまだに生活のなかに息づく神事。

「ノロ」は共同体の神事を司る、いわば神官的な役割の「生き神様」で、特別な家系の女性だけがなれる。

それに対して「ユタ」は、個人の悩みや苦しみを神の力で取り除く「生き神様」で、本人の意思とは関係なく、なってしまうシャーマン的存在。

奄美には、今でも数十人の「生き神様」がいるという。

その様子は、映像で見ているだけでも、自分のなかの「近代」が音を立てて崩れていくような衝撃だった。

奄美、そして琉球弧とは、なんと不思議な土地なのだろう。


試写のあとは、伊藤憲ディレクターと進行中の「Edge 杉本真維子篇」の打ち合わせ、
さらに平田潤子ディレクターとEdgeのホームページの打ち合わせをしてから、近所の「田」で寺島高幸プロデューサーらと軽く飲む。


さらに、保土ヶ谷駅に隣接する千成寿司で島村輝フェリス大教授と9時に待ち合わせていたので、新橋経由、横須賀線で保土ヶ谷へ。

島村先生は先に着いていたので、まずはビールで乾杯する。

千成寿司では、岩手放送に就職がきまったフェリスの4回生、佐藤桃花さんがバイトをしているので、ときどき佐藤さんを交えながら、歓談。

次に佐藤さんに会うとしたら、盛岡だろうか。


帰宅したのは0時前だった。
posted by 城戸朱理 at 12:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バレンタインも江戸時代???

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「鹿千代にござりまする!」

また、バンビことパンクな彼女が時代劇モードになってしまった――

「鹿千代は武士の子でござりますれば」


「南蛮渡来のものではなく、国元の菓子にしてみました」
!!!!!!

そういって、バンビ=鹿千代が出したのは、鎌倉は豊島屋のチョコレートだったのである!


豊島屋といえば、鳩サブレーが有名すぎて、和菓子や洋菓子、はてはパンまで扱っているのは、あまり知られていないが、どれもレベルが高い。

そこでバンビ=鹿千代は、今年のバレンタインのチョコレートを豊島屋で選ぶことにしたらしい。


たしかに、ゴディバのような「南蛮渡来」ではなく、「国元の菓子」だが、そもそもチョコレート自体が「南蛮渡来」である。

パンクなうえに、鹿千代は「六つか七つ」という子供の設定だから、仕方がない。

だいたい「鹿千代」も「しかちよ」ではなく、「シカッチホ」と発音している。

シカッチホ――

楽しげな響きではあるが、「武士の子」という感じではなく、ディズニーのキャラみたいだ。


ともあれ、小美人剣士・鹿千代物語は、当分、続くらしい。

パンクだから仕方がないが、さらなる注意が必要である。
posted by 城戸朱理 at 10:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

深川吟行

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2月12日(日)は、東京都現代美術館が開催している「MOT Satelite」の「吉増剛造プロジェクト」の一環として深川吟行があった。

松尾芭蕉ゆかりの土地を歩いて、みんなで俳句を書くわけだが、宗匠役は芭蕉研究でも知られる俳人の高柳克弘さん。

参加したのは、朝吹真理子(小説家)、花代(パフォーマー、写真家、現代美術家)、カニエ・ナハ(詩人)のみなさんに私である。

前日に、吉増さんから、帽子とレインコート着用の指示が。

これは「詩人は身を隠す――」ということらしい。

ところが。

世代によって「レインコート」のとらえ方が違うようで、朝吹さんは、ノースフェイスの完全防水の登山仕様、高柳さん、カニエさん、花代さんは、ビニールのいわゆる雨合羽と、現場は珍妙な雰囲気。

吉増さんから私の世代なら、レインコートと聞くと、バーバリーやアクアスキュータムに代表されるコットンギャバジンのロングコートを思い浮かべるが、若い世代は違うらしい。

案の定、吉増さんはコットンのステンカラーコートで現れた。


吉増さんの希望で、バンビことパンクな彼女がローライ同盟にも声をかけ、今道子さん(写真家)、遠藤朋之さん(アメリカ文学、和光大准教授)も同行するという贅沢な吟行になった。


とはいえ、高柳さん以外は、俳句初心者。

私は、正岡子規国際俳句賞、芝不器男俳句新人賞の選考委員をおおせつかったときに、松山で二回だけだが吟行に参加したことがあるので、初心の経験者(?)というところか。

吟行の様子は、鈴木余衣さんが句会の会場となる清澄庭園大正記念館にライヴ中継することになっていたのだが、機械の不調でうまくいかなかったらしい。


隅田川ぞい、松尾芭蕉像から始まって、芭蕉庵跡など、芭蕉ゆかりの地を歩き、高柳さんに季語を教えてもらいながら、吟行は続いたのだが、参加者は季語の生き字引のような高柳さんに舌を巻くことになった。


会場入りして、30分弱で三句提出が課題だったので、私は五句を書き、うち三句を選ぶ。

それを吉増さんが、短冊に清書して張り出し、高柳さんの司会で各自が三句を選んだ。

この時点では、作者の名は伏せられているのだが、写真の青いマジックが得点で、黒いマジックが作者である。

私が選んだのは次の三句。


女神の膝やはらかならむ椿落つ(克弘)

道明寺ここからは空、そして春(ナハ)

春浅しマダガスカルの蚕玉(真理子)


最高得票は三票でカニエさんの前掲句と吉増さんの次の一句。


たんぽぽに手をついてみる冥土かな(剛造)



私が提出したのは、次の三句である。


白梅や盛るものなければ夜を盛る

黒髪の蒼ざめるまで絵踏みかな

貧しさや朱引きの内なる蕗の薹


このうち、一句目は吉増さん、カニエさんの票を二句目はカニエさんの票をいただいた。

ちなみに三句目の「朱引き」とは、江戸時代の江戸府内を指す言葉、季語は「白梅」「絵踏み」「蕗の薹」になる。


吉増さんは、しきりに「俳句は土地への挨拶」と語られていたが、たしかに、吟行は挨拶句の要素が大きい。


句会は午後5時で終了。

会場には読売文学賞を受賞したばかりのジェフリー・アングルスさん、林浩平さんの姿も。

盛岡一高の後輩で、高校時代から活躍ぶりを耳にしていた早稲田大学の谷村行海(ゆきみ)さんが挨拶に来てくれたのも嬉しかった。

谷村さん、鎌倉にも遊びに来て下さい。


一同はカニエさんの先導で、深川らしい居酒屋へ。

去年、結婚したばかりの朝吹さんの御主人(活躍中のデザイナー!)や詩人の永方佑樹さんも参加され、賑やかな会になったが、ここでも、ひとしきり吉増さんが首からさげたローライフレックスが話題になる。

朝吹さんが、レンズで覗く世界の奥行きの深さに興味津々の様子だったが、ローライを覗く朝吹さんをバンビがさらに激写するというひとこまが、なんとも愉快だった。

その隣で、今道子さんが微笑んでいる。
posted by 城戸朱理 at 10:19| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月13日

夕食は、クルベル・キャンで

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御成町法律事務所で打ち合わせを終えたあと、実に久しぶりに、立ち呑みヒグラシ文庫に立ち寄り、鯖の燻製を頼んで、モルツの生を飲んだ。

この何年か、鎌倉で飲む機会も、外食する機会も激減しているので、ようやく普通の暮らしが戻ってきたような気分になる。

こうしてみると、小林秀雄の、自分の生活なんて誰かにやらされているようなものだという発言も、真実のように思えてくる。

自分の意思だけで何とかなることの、なんと少ないことか。


夕食は、バンビことパンクな彼女のリクエストで、クルベル・キャンへ。


ジントニックを飲みながら、バンビの到着を待って、ジャガイモのフリット、生牡蠣に真鯛のカルパッチョを頼む。

アンチョビが香るフリットは、ビールにもワインにも合うし、姫路産の生牡蠣は、バンビが目を丸くするほどクリーミィで美味しい。

バンビは、プロセッコを頼んだが、生牡蠣とスパークリングワインの相性の良さは言うまでもないので、私もプロセッコを貰うことにした。


真鯛は、2日ほど寝かせたものだろうか、旨みが凝縮した感じで、つい、これで鯛茶漬けをしたら美味いだろうなと思ってしまう。


肉料理は、やはりバンビのリクエストで、ミラノ風カツレツを。

叩いて薄くのばした鶏肉のカツレツで、クルベル・キャンの定番だが、スナック感覚だから、飲みながらつまむのにうってつけである。


パスタは、岩海苔と芝海老のクリームスパゲッティにした。

和風の食材をクリーム仕立てにするのだから意外だが、これが実によく合う。


バンビによると、滝沢シェフの料理は、最近、ますます美味しくなっているとのことだが、私もそう思う。

最後は、シングルモルト。


鎌倉に住み、鎌倉で飲むという、当たり前の日々が、今年は、帰ってくるのではないだろうか。
posted by 城戸朱理 at 12:40| 美味しい話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

寒波のなかの外出



寒波が襲来したが、所用で外出する日が続いている。


2月8日(水)は、代理人をお願いしている御成町法律事務所の二見宏史先生から連絡があったので、事務所へ。

係争中の調停について、進行予定を聞く。

こういった揉め事は、なかなか解決しないものだが、二見先生が丹念に調査を進めてくれているので、安心する。

打ち合わせが終わってから、バンビことパンクな彼女と待ち合わせて、クルベル・キャンで食事をした。


翌日(木)は、まず、「岩手日報」投稿欄の選評2回分を執筆して、メール。

それから、雪がちらつくなかを北鎌倉の侘助へ。

5時45分に井上春生監督が北鎌倉に到着した。

小津安二郎監督邸の台所の床材をテーブルにした、侘助の奥のスペースを借りて、ドキュメンタリー映画「幻を見るひと」ラッシュを見る。

1時間46分と、ドキュメンタリー映画としては長尺だが、井上監督が、何日も徹夜して繋いだだけあって、実に斬新な作品になった。

この映画に関しては、別にアップしたい。

試写のあとは、大船の石狩亭に席を移し、細部の打ち合わせをしながら、祝杯をあげる。

公開は、まだまだ先なのに、祝杯だけは何度でも、という困った人たちなのだった。


翌日は岩手日報に入選作品を宅急便で手配してから、「週刊現代」から書評を依頼された有栖川有栖『狩人の悪夢』(角川書店)を読み始めた。

臨床犯罪学者、火村英生を探偵役にするシリーズの最新作である。


午後3時にバンビことパンクな彼女と待ち合わせて、駅前のカフェでPCを広げ、フェリス女学院大学の来年度の講義のシラバスを入力する。

それから、横須賀線で東京へ。

目指すは、有楽町の出光美術館。

翌日から始まる「開館50周年記念 古唐津」展内覧会に招待していただいたので、見えない尻尾を振りながら(?)、有楽町に向かう。

出光の創業者、出光佐三は、桃山から江戸初期に焼かれた古唐津を愛し、300点超という日本でも最大規模のコレクションを作り上げた。

今回は、13年ぶりとなる古唐津展で、重要文化財2点を含む展示は、圧巻。

担当学芸員の柏木真理さんの解説も素晴らしく、素朴さと野趣と品格が同居する古唐津の魅力を堪能した。

出光美術館での私の講演は、15日。

会員限定なので、一般の方は聴講できないが、準備を進めている。
posted by 城戸朱理 at 12:38| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小津安二郎邸の名残り

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北鎌倉の侘助。

店主の菅村睦郎さんは、私の高校の先輩だが、壁には和紙、天井には革が貼られ、時間の経過をたたえた古色が店内の空気を鈍色に染めているかのようだ。

睦郎さんは、去年、裏手に庭を作り、それに合わせて、物置になっていた店奥の一画を個室風に作り変えたのだが、そこに置かれているテーブルが、実は、今は取り壊されてしまった小津安二郎邸の台所の床材を使ったもの。

小津邸取り壊しのとき、侘助の常連の植木屋さんが手伝ったのだが、廃材として捨てられた木材から譲り受けた一枚板の台所の床材にスチールの脚を付けたのだという。


生涯、独身だった小津安二郎は、北鎌倉の家に母親と暮らしていた。

「無」という一文字が刻まれたお墓は円覚寺にあるが、いまだに小津監督の命日、12月12日には、日本中から墓参りに来る若いファンが絶えない。
posted by 城戸朱理 at 08:48| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月12日

連詩「句/オマージュ」



高貝弘也・広瀬大志・田野倉康一・城戸朱理による連詩は、九篇目。

今回は、広瀬大志くんから、各連の書き出しを担当する人が、俳句を一句選び、そのオマージュを展開するという魅力的な出題がなされた。


大志くんが選んだ一句は、「満月光 液体は呼吸する」富澤赤黄男。

第二連は、高貝くんで赤尾兜子が来るかと思ったら、意表を突いて東鷹女の「なめくぢのことが頭を離れぬなり」だった。

私が高貝くんを受けたのだが、三番目の大志くんでホラー化し、最後の田野倉くんで「なめくじの自殺」という爆笑の展開に。

やはり、危険な句だったとしか言いようがない。


第三連は、田野倉くんが選んだ永田耕衣の「天心にして脇見せり春の雁」。

これだと、ホラーにはなりようがないはずなので、ひと安心。


私も危険を避けて、西東三鬼の「広島や卵食ふとき口ひらく」を選んだのだが、はたして、どこに着地するのか。


四人による連詩は、異様な熱気のまま、続いている。

どこまで行くのかは、誰にも分からないし、発表予定もない。
posted by 城戸朱理 at 22:43| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月11日

ぬか漬けを作ると

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急逝した日本画家の瓜南直子さんは、ぬか漬けを作っていたので、飲み屋で会ったときに、よく分けてくれたものだった。

キュウリや茄子はもちろん、セロリやゆで卵が絶品で、ゆで卵のぬか漬けが酒の当てになるのを教えてもらったっけ。

すると、ある日のこと。

バンビことパンクな彼女が、ぬか床を作って、ぬか漬けを作り始めたのである!


「鹿千代にござりまする」
・・・

また、鹿千代になっている。

「ぬか床を作って、ぬか漬けを漬けてみました」

自家製のぬか漬けが食べられるとは、ありがたい。

だが、今の季節はともかく、夏にぬか床をキープするのは大変である。

一日一回は、手でかき混ぜなければならないし、出張のときはどうするのだろう?


「糠之丞は、旅にも連れて参ります」

糠之丞(ぬかのじょう)???

「ぬか床の名前でござりまする」
・・・・・・


北村一輝主演で人気を博し、映画化までされたTVドラマ「猫侍」に登場する白猫の名前が、「玉之丞」。

どうやら、そこから取ったらしい。

普通、ぬか床に名前などつけないが、そういえば、瓜南さんもぬか床に「春駒」という名前を付けていたような。


まあ、名前があろうがなかろうが、自家製のぬか漬けがいつもあるのは悪くないので、今回はよしとしよう。

ところで、井上春生監督に試写の時間は伝えたのだろうか。


「酉の刻暮れ六つ前と伝えましてござりまする」
・・・・・・


時刻まで江戸時代の太陰暦になってしまった――

パンクだから仕方ないが、いいのだろうか、これで?
posted by 城戸朱理 at 10:43| 美味しい話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月10日

いかれバンビと時代劇???

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井上春生監督が、この20年でいちばん好きな時代劇と語っていたのが、山田洋次監督「たそがれ清兵衛」だった。

原作は、藤沢周平。

藤沢周平の読者なら、おなじみの海坂藩(うなさかはん)七万石を舞台とする物語である。

東北の小藩、海坂藩は架空の藩だが、実在しなかったがゆえに史実にとらわれることなく、物語を紡ぐことができる。

「平成のベストセラー作家」佐伯泰英の累計2000万部超の人気シリーズ、「居眠り磐音江戸草紙」も、主人公の坂崎磐音(いわね)の故郷を架空の豊後関前藩としているが、これも藤沢周平の海坂藩にならったものだろう。


映画の「たそがれ清兵衛」は、アカデミー賞外国語映画部門の候補になっただけあって、リアリティも、主演の真田広之も素晴らしい。

そのせいで、バンビことパンクな彼女は時代劇にハマり、藤沢周平原作の映画を続けて観ることになった。

「隠し剣 鬼の爪」(山田洋次監督)と「必死剣 鳥刺し」(平山秀幸監督)である。


そして、バンビは興奮し、すっかり江戸時代の剣客モードになってしまったのである。


「隠し剣、バンビの爪!」
・・・

「あれ、バンビは爪じゃなくて蹄かな?」
・・・・・・

「バンビ剣、鳥刺し!」
・・・

そして、エアー素振りを始めてしまったのである。

「隠し剣、バンビ刺し!」
・・・・・・

今度は、映画2本が混ざっている――


その翌日、私が夕飯の支度を終えたころ、バンビがバイクで帰ってきた。

ドアを開けたら、


「鹿千代にござりまする。
ただいま、戻りました」
!!!

「鹿千代は、着物も帯もいらないのでございます。
ただ、お父さんやお母さんの、仇を討ってやりたいのでございます」
!!!!!!

何なんだ、鹿千代って?

「小美人剣士、鹿千代物語だよ!」
・・・・・・

「小鹿千代」では様にならないので、「小」と「鹿」を分割したらしい。

しかし、鹿千代では、武家ではなく芸者のような名前である。


とにかく、お風呂に入るように言ったら、


「鹿千代は、お風呂をいただきます」
・・・・・・


夕食を終えると――


「鹿千代は、勉強しとうございまする」
・・・・・・


困ったことに、鹿千代になったバンビが「勉強」というのは、Amazon Videoで時代劇を観ることなのである。


そこで、小林正樹監督「切腹」(1962)を観ることにした。

切腹という武家の作法を通して、武士の体面と虚飾をスタティックな画面で描き、カンヌ国際映画祭でも審査員特別賞を受賞した時代劇の傑作である。

三池崇史監督、市川海老蔵主演でリメイクされたのが「一命」だが、海老蔵の熱演にもかかわらず、やはり、「切腹」には及ばない。


「鹿千代は、切腹はイヤでございまする。
走って逃げまする」
・・・・・・


鹿千代になっても、やはりパンクなのである。

それにしても、鹿千代はやけに子供っぽい。

いったい、何歳という設定なのだろう?


「ちっちゃいよ」
!!!

「六つか、七つ」
!!!!!!

まだ、子供じゃないか!?

「鹿千代にござりまする!」
・・・・・・


どうやら、当分は子供の鹿千代になって、時代劇モードで遊ぶつもりらしい。

パンクだから仕方がないが、厳重な警戒が必要である。
posted by 城戸朱理 at 00:12| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月09日

田村隆一が日参した酒屋

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材木座海岸、光明寺のそばに、昭和のたたずまいを残す酒屋、萬屋がある。

なんとも懐かしい雰囲気で、店内には角打ちのスペースがあり、常連が、飲んでいる様子が、外からも見えるものだから、つい誘われてしまう。

今は、テーブルと椅子になったが、以前は、靴を脱いで上がり框に上がるようになっていた。


実は、この店、田村隆一が、一時期、日参していた店。

田村さんは、萬屋さんのことを『鳥と人間と植物たち―詩人の日記』(主婦の友社)で、二度、言及している。

店名が出てくるほうの一節を紹介しておこう。



昭和四十五年の秋、ぼくは東京から逃げ出して、鎌倉の材木座海岸の借家に移った。昔の漁師町の名残りのせいか、この町内の朝はいたって早い。
豆腐屋さんの朝の早いのはわけがわかるが、軒をつらねている明治中期創業の酒屋さんも床屋さん(バーバー・ショップでは断じてない)も、朝七時から店をあける。おかげでぼくは、酒屋さんの朝の常連となった。
冬だと、古風な上り框のそばに、石油ストーブがあかあかと燃えていて、店に入っていくと、お内儀がだまって座布団をおいてくれる。それから、朝の挨拶をして、ビールを一本おねがいする。朝刊ももってきてくださるので、ビールをゆっくり飲みながら、新聞を読む。
毎朝通うと、アル中と思われるから、二週間ぐらい、朝のビールを断つときもある。二日酔いの迎え酒には、この店で、ビールを二、三本飲み、すっかりご機嫌になると、ウイスキーと「かに」のカンヅメをもらって、近くの友人の家におしかけて、夜まで酒がつづくということも、まま、ある。(中略)
そのうちに、このお店の常連と仲良くなった。五十がらみの実直な人で、横浜の工場の警備員をやっているという話である。夜から朝までの仕事をおえて、自宅に帰る途中、萬屋さん(お酒屋の屋号)によって、日本酒を冷やで二杯飲むのが、きまりとなっているらしい。
夜は、町内の人たちでにぎあう。植木屋、大工、鳶、漁師、菊造り、市営バスの運転手(非番の日は、引越の運送のアルバイトをしている)といった陽気な人たちで、みんな小学校の同窓らしいから、はたで見ていて、気持ちがいい。
それに、この人たちは、みんなハンサムである。新聞、牛乳を配達する青年たちも、いたってハンサムなのだ。しずかで、おちついていて、実があって、しかも快活なのだから、云うところはない。
この町には、東京の下町にもあった「町内」が、じつにこのましい形で、そっくり残っていて、この小さなコミュニティの活力になっている。
中世の鎌倉文化の血が、ぼくの眼に見えない部分で、しずかに呼吸しているのかも知れない。(「家の中の死者」)



というわけで、私も散歩の途中で、萬屋さんの角打ちに混ぜてもらうことにした。

冷蔵庫から氷を出して、焼酎の水割りを作る常連、持参した崎陽軒の焼売を開き、振る舞う常連と、昭和と変わらぬ風景が、いまだにある。

エビスビールを飲みながら、常連のやり取りを聞くともなく聞いていたのだが、この雰囲気は、北鎌倉の侘助に通じるものがあるなと思った。

侘助も、藤沢周氏のような芥川賞作家や美術家、鳶職や植木屋に元会社重役や編集者と、さまざまな仕事の人が集う「町内」が息づいている。

田村さんがこよなく愛した下町的な共同体が、鎌倉には、まだ残っているのだろう。

田村さんは、先に引用した「家の中の死者」で、次のように書いている。



ぼくも、こういう土地で生れて、そして死にたかった。



その言葉通り、鎌倉で生まれはしなかったが、田村隆一は鎌倉の妙本寺に眠っている。


田村さんの材木座海岸の借家時代は、1970年9月から、翌年の11月までで、同月に田村さんは稲村ヶ崎の「持ち家」に転居している。

稲村ヶ崎の引越しには、萬屋の常連が手助けしてくれたことを、田村さんが書いていた。

、『退屈夢想庵』(新潮社)、巻頭の一節である。



三年半まえ、材木座の借家から、稲村ヶ崎の谷戸の奥に引越してきたとき、材木座の明治中期創業の酒屋さんの常連のお世話になった。(中略)
なかでも植木屋のイタさん(イタリア人に似ているので、こういうニックネームがついている。別に板前さんではない)と、その仲間には、わが小庭づくりのお世話になった。



田村さんは、イタさんを始めとする常連に手伝ってもらって、二十坪ほど小庭に、花水木や夏柑、金モクセイや柚子の木を植えたらしい。



角打ちならば、鎌倉駅から近い御成通りの酒屋、高崎屋も、店頭で酒が飲める。

正しくは、店頭ではなく、店の奥右手の立ち呑みスペースなのだが、是枝裕和監督の「海街diary」で、長澤まさみが立ち呑みしていたところが、まさに高崎屋だった。


私が、鎌倉に転居した13年前は、高崎屋の向かいに滝の湯という銭湯があった。

原稿を書き終えた日には、まだ明るいうちに一番湯に浸かり、それから向かいの高崎屋さんで、初夏ならヒューガルデン、それ以外の季節は、エーデルピルスを飲んでから、飲み屋に繰り出したものだった。

滝の湯は、薬草を浸した中将湯で、お湯は茶褐色。

一番湯ともなると、痺れるほど熱く、備え付けの板で、お湯をよく揉まないと入れないほどだった。

端午の節句に、菖蒲湯に気持ちよく浸かっていたら、アメリカ人が四人、どやどやと入ってきて、菖蒲を怪訝そうに摘まんでいたので、由来を英語で説明したこともあった。

けれども、滝の湯で冬至の柚子湯に入った記憶はない。

銭湯で、柚子湯に入ったのは京都、錦小路の錦湯だったっけ。


滝の湯は廃業してしまったが、戦前の木造建築で、なんとも言えない風情があった。
posted by 城戸朱理 at 08:38| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする