サーチ:
キーワード:
Amazon.co.jp のロゴ
城戸朱理のブログ

2017年03月31日

鎌倉文学館の専門委員会へ

IMG_5876.jpgIMG_5670.jpg



3月29日(水)は、鎌倉文学館の専門委員会が招集された。


司会は秋林哲也さん。

専門委員は、山本道子、高橋源一郎、藤沢周氏に私で、小田島一弘副館長が事業報告、山田雅子学芸員が補足する形で進行。

遅れて、富岡幸一郎館長が到着した。


昨年は、開館日数が303日で、総観覧者数は、11万2066人と、天候に恵まれたせいもあって、過去最高を記録したという。


次の特別展は、生誕150周年を迎えた夏目漱石展。

漱石といえば手紙の名手として知られ、全集に収録されているだけでも2500通を超える。

そんな漱石の手紙を中心にした「漱石からの手紙 漱石への手紙」展(4月22日〜7月9日)。

これは、楽しみだ。


専門委員会が終わってから、藤沢さんと鎌倉駅まで歩く。

藤沢さんは、先月、北鎌倉の高野から鎌倉に引越したばかり。

長男の卓くんも、早稲田の政経学部の3年になり、生活をダウンサイジングすべく引越したそうだが、なんと荷物の4分の3を処分したそうだ。

見習いたいものである。


ただし、引越し前の準備に3週間、引越してから荷物を解いて片付けるのに3週間かかったというから、ひと月以上、落ち着かないわけで、やはり引越しは大変である。

とりわけ、物書きの場合は、本の量が尋常ではない。

「本って重いじゃない」と藤沢さん。

まったく。


鎌倉駅の駅ビルがリニューアル・オープンしたので、2階の風凛で藤沢さんとビールで乾杯する。

当ては、三崎のマグロ・ステーキと鎌倉野菜の天ぷらである。


風凛は、三崎の鮮魚と鎌倉野菜が売りの居酒屋だが、以前は、隣でカウンターだけの天丼の店もやっていた。

生牡蠣で白ワインを飲み、天丼で食事をするのは、バンビことパンクな彼女のお気に入りだったが、その天丼スペースが復活したのが嬉しい。


藤沢さんの剣道小説『武曲(むこく)』が、綾野剛主演で映画化、6月に公開されるが、藤沢さんは続篇も執筆中で、これも楽しみだ。


17時過ぎに、大阪の菊石朋さんと改札と待ち合わせていたので、1時間ほど、藤沢さんと語り合った。
posted by 城戸朱理 at 11:39| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月30日

地政学的な危機



英国の「ファイナンシャル・タイムズ」(3月9日)が、朝鮮半島の現状を「コリア・クライシス」と報じた。

アメリカのCNNなどのメディアも、同様のトーンで、朝鮮半島の危機的状況を報道しているそうで、日本のメディアより、強い危機感をにじませている。


それも当然だろう。

北朝鮮が、度重なる核実験、さらにはミサイル発射と軍事的挑発を強めるなか、
韓国は、朴槿恵(パク・クネ)大統領の弾劾、罷免によって政治的空白が生じたうえに、
THAAD(高高度ミサイル防衛システム)の配備をめぐって、韓国が米中2大国の衝突の場となり、中国の露骨な経済制裁が、ただでさえ不振だった韓国経済を圧迫している。

ちなみに、韓国は昨年のGDPが世界11位と、経済的には大国なのだが、その約80%を輸出に頼っているため、貿易依存度が異様に高く、もともと内需が弱い。

日本の貿易依存度が、15%ていどであることを思えば、韓国の貿易依存度が異常なまでに高いものであることが分かるだろう。

世界経済の減速による輸出の不振に加えて、もともと低かった韓国の内需を、不動産バブルで約130兆円まで膨れ上がった家計負債が圧迫し、消費者心理を冷え込ませている。

ちなみに、昨年の韓国の国民ひとりあたりの国民総所得(GNI)は、2万7561ドル。

国民総所得は、ある国の国民の生活水準を示す経済指標だが、韓国は、2006年に2万ドルを超えて以来、10年もの長きにわたって、先進国入りの指標となる3万ドルの壁を超えることができず、2万ドル代を推移していることになる。


韓国経済の失速は、若年層(15〜29歳)の12.3%という高い失業率を見ても明らかで、韓国メディアでも、これから韓国が日本のように「失われた20年」を迎えるのではないかという報道が、去年からずいぶん目につくようになった。


たしかに「漢江(はんがん)の奇跡」と呼ばれた韓国の経済成長は、目覚ましいものがあった。

日韓が国交回復した1965年の段階で、両国のGDPは約30倍の開きがあったが、近年だと、韓国のGDPは1兆3000億ドルと日本のGDP4兆9000億ドルの約26%、その差は4倍まで縮まっている。

だが、基幹産業が中国の猛追を受けており、技術革新では日本に遅れを取り、成長エンジンが見当たらない。

さらに、財閥中心の経済構造に国民の不満が募り、人口も減少に転じたため、今後は、これまでのような経済成長は見込めないというのが現実だろう。


しかも、次期大統領が確実視される文在寅(ムン・ジェイン)「ともに民主党」前代表は、かねてから親中、親北、反日、反米の左派として知られ、
文在寅大統領が誕生したら、北朝鮮と韓国の連邦制統一、最悪の場合には共産党独裁の赤化統一のシナリオを予想する識者さえいる。

もし、そうなったら、実質的には北朝鮮主導の半島統一となり、米軍は朝鮮半島から撤退、韓国は地上から消滅することになりかねない。

もっとも、文在寅候補が、実際に大統領として執権するようになれば、単純に反米を貫くとは思えないので、状況が、そこまで急変することはないのかも知れないが、可能性が捨てきれないのも事実だ。


かつては、中国(清)とロシア、日本という列強の、そして今は中国とアメリカという二大強大国の思惑が衝突する朝鮮半島の地政学的な困難さ。

そして、朝鮮半島と対峙する日本列島の位置を思えば、それは日本という国の困難さでもあることを忘れてはならないだろう。
posted by 城戸朱理 at 19:04| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月29日

宮澤賢治「雨ニモマケズ」手帳を使い始めて

IMG_5815.jpg



盛岡の光原社で求めた復刻版の宮澤賢治の手帳を使うことにした。

この手帳は、横罫なのだが、賢治は裏表紙から縦書きで使っているので、私も「雨ニモマケズ」が書かれたあとのページから、縦書きでメモを取り始める。

メモは、手書きに限る。

ハーバード大学の調査で、手書きとPCを比較した場合、手書きのほうが記憶として定着するという結果が出たが、手書きだと、記憶に残るだけではなく、次の思考が呼び起こされるところがある。

乱雑でも構わないし、気になったことを何でも書いておくと、新しい関係が立ち上がり、それまで気づけなかったことが、突然、見えてくることもあるのだ。

私は、ノートも用意して、気になったことを書きつけるようにしている。

ノートはテーマ別にも用意しているが、実際は、テーマを決めず何でも書き込むことにしている雑記帳から、何かを発想することが多いようだ。

つまり、考えを整理するのではなく、雑多な事項の「遠いものの連結」(西脇順三郎)によって、新しい考えが生まれるということだろうか。


「雨ニモマケズ手帳」に、ここしばらく詩について考えていたことをランダムに書いてみたら、私にとっても思いがけない詩の問題が見えてきて、自分でも驚いているところなのだが、それは、これから自分が書くべき詩を、その方位と地平を照らすものになるかも知れない。


それが、どんなことなのかは、詩集の形で問うことになるだろう。

人は、結論を求める。

しかし、大切なのは問い続けることだ。
posted by 城戸朱理 at 09:51| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月28日

吉増剛造さんのドキュメンタリー映画「幻を見るひと」完成間近!

IMG_5873.jpgIMG_0930.jpg



井上春生監督は、NHKの仕事で、ル・マン24時間耐久レースを8Kで撮影するため、渡欧したが、パリにたつ前に「幻を見るひと」のDVDを手配してくれた。

写真は、川端康成『古都』の舞台となった北山杉の産地、中川地区で、台杉を前にたたずむ吉増さんである。


編集をほぼ終え、英語字幕をつけたヴァージョンだが、あとは、英語字幕を確認、問題があれば修正して、完成となる。

吉増さんが「怪物君」制作中に流していた与謝野晶子本人の朗読による短歌と吉増さんの新作「惑星に水の樹が立つ」の翻訳は、遠藤朋之和光大准教授に、それ以外の字幕は専門の会社にお願いした。


4月中には、完成する予定だが、公開までは半年ほどある。

これからは、国内での試写や公開について考えていかなければならないが、この企画を立てた者としては、早く観てもらいたい気持ちのほうが強いので、もどかしい思いをしている。
posted by 城戸朱理 at 07:50| Edge | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月27日

愉快すぎる披露宴

IMG_5851.jpgIMG_5853.jpgIMG_5854.jpgIMG_5856.jpgIMG_5857.jpg



八雲神社での結婚式もつつがなく終わり、披露宴は、八雲神社隣の大町会館で15時半から。

大町会館は、昭和を感じさせるレトロなところだが、手作り感満載の披露宴も、まるで戦前の披露宴のようで、逆に新鮮だった。

久保田潤さんと山本理央さんの友人、50名ほどが集ったのだが、新郎新婦の交友の広さがうかがえる。


山本餃子関係の友人や、ヒグラシ文庫関係の友人といったように席が分けられ、まずは鏡割り。

乾杯の音頭は、私が取らせていただいた。


テーブルには理央ちゃんが長年、コレクションしてきたアフリカの布が敷かれ、久保田さんによる鶴の絵があしらわれたランチョンマット、友人によるフラワーアレンジメント、やはり友人の料理研究家によるお弁当と、すべてが手作り。


お弁当は、潮鮭、南瓜・ふき・高野豆腐の煮物、椎茸の詰めもの、菜の花のからし和え・人参と糸こんにゃくの胡麻和え・鶏胸肉の山椒焼き・豚ヒレ肉のさくら葉蒸し・ズッキーニのジョンに美しく染めた酢蓮といった、酒を呼ぶ取肴を吹き寄せにし、御飯はちらし寿司と春らしいしつらえで、料亭なみの美味しさ。

お酒は飲み放題で、バンビことパンクな彼女によると「みんなガンガン飲んでたよ!」という宴会だったが、理央ちゃんも日本酒をすいすい飲んでいたので、それでいいのである。


傑作だったのは、景品目当てのゲーム大会で、司会の矢崎敏美さんが抜群に面白い。

私など、笑いすぎて、涙が出てきたほどだった。


「横浜の吟遊詩人」スーマーさんがギターを抱えて、歌ってくれたが、最後は理央ちゃんのリクエストで「人生いきあたりばったり」。

人気のテレビドラマ「深夜食堂」のシーズン1・第2話「猫まんま」で使われた曲だが、スーマーさんのオリジナルである。


サプライズで仕込まれたのが、理央ちゃんのお母さんからの手紙。

理央ちゃんが涙ぐむのは分かるが、なぜか、ヒグラシ文庫の中原蒼二さんまで涙ぐんでいたものだから、会場は爆笑の渦。


久保田さん、理央ちゃんはやる気がなかったウェディング・ケーキも勝手に用意されていて、本人たちの意向を無視した、この勝手さ加減がまた、いい(笑)。


最後に久保田さんの挨拶があったのだが、久保田さんが「僕と理央は」と言うたびに、客席は異様に盛り上がり、「もう一回!」と騒ぎ出す。


あまりにも愉快な披露宴で、翌日まで笑いが止まらなかった。
posted by 城戸朱理 at 10:25| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

八雲神社で結婚式

IMG_5838.jpgIMG_5841.jpgIMG_5848.jpgIMG_5868.jpg



3月25日(土)は、久保田潤さんと山本理央さんの結婚式があった。

場所は、大町の八雲神社。

八雲神社は、平安時代後期、後三年の役を兄・八幡太郎源義家とともに戦った新羅三郎源義光の勧請と伝えられ、下って、戦国時代には小田原の北条氏直、さらには徳川家康の保護を受けた。

平安時代から続く神社ということになるが、神主さんは通いで、なんと結婚式をとり行うのは、今回が初めてなのだとか。

鎌倉の神社で挙式するのなら、鶴岡八幡宮を選ぶのが当たり前だから、それも納得できないこともない。

久保田さんと理央ちゃんらしい選択だと思った。


結婚式は親族のみだが、バンビことパンクな彼女が理央ちゃんから写真撮影を頼まれたので、様子を見ることが出来たのは、とても良かったと思う。


久保田さんは外資系の広告代理店でCMディレクターをされていたが、画業に専念するために退職、理央ちゃんは脱サラして山本餃子を開店、ふたりともサーフィンが趣味で、音楽が好きというところも共通している。

久保田さんも、理央ちゃんも和服が実に似合っていた。
posted by 城戸朱理 at 10:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月26日

忍者アイス!?

IMG_5826.jpgIMG_5828.jpg



クルベル・キャンのカウンターに座ったら、バーテンダーの馬場さんが、氷をナイフで削っていた。


1996年に「IBA 世界カクテルコンクール」で日本人初の世界チャンピオンとなり、その名を轟かせたバーテンダー、岸久(きし・ひさし)さんの創案になるダイアモンド・アイスである。

岸さんは、日本バーテンダー協会の会長をされており、お店は銀座の並木通りにある「スタア・バー」。

私は、旧友の数寄屋橋BIRD LAND店主、和田利弘さんに連れていってもらったことがある。


ダイアモンド・アイスは、ブリリアントカットのように面取りした氷で、お酒を注ぐと見えなくなるため、忍者アイスとも呼ばれる。

たいへんな手間がかかるので誰にでも出すわけではなく、客が選んだ酒と飲み方に合わせて使うらしい。


バンビことパンクな彼女が、シングルモルトを頼んだら、馬場さんがスペイサイドのシングルモルトを忍者アイスに注いでくれた。

しかも、固く凍っているので、少し室温になじませてからスコッチを注ぐという念の入れ方で、いきなり常温の酒を注ぐと氷が割れてしまうのだそうだ。


日本のバーテンダーの細心さや緻密さは、世界的に有名で、海外から修行に来る人も少なくないが、馬場さんを見ていても、それは納得できる。

バンビは、丁寧な仕事ぶりに「癒されるね!」と感嘆していたが、男前な仕事ぶりを見ているのは、実に気持ちがいい。
posted by 城戸朱理 at 15:01| 美味しい話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

クルベル・キャンで

IMG_5819.jpgIMG_5823.jpgIMG_5824.jpgIMG_5836.jpg



3月24日(金)。

バンビことパンクな彼女が、更新したパスポートを横浜に取りに行っている間に、髪を切ろうと思ったのだが、いつもカットをお願いしているユアーズは、予約が取れず、鎌倉駅西口のたらば書房を覗いて、気になる新刊3冊を購入。

明日は友人の結婚式と披露の宴がある。

やはり、散髪くらいしておこうと思って、東急ストア内のイレブン・カットでカットしてもらった。

ここは、QBハウスの美容室版。

理容師と美容師は、別の資格で、カットの基本も違えば、美容師は剃刀を当てることが出来ないといった違いもあるそうだ。

QBハウスは、10分で散髪してくれるが、イレブン・カットは、11分。

ユアーズで、いつものようにカットとヘッドスパを頼むと1時間半くらいかかるが、イレブン・カットなら、シャンプーを追加しても20分。

時間がないときは、やはり便利だ。


バンビとは、6時にクルベル・キャンで待ち合わせ、久しぶりに軽く飲むことにした。


頼んだのは、真鯛のカルパッチョにスタッフド・マッシュルームの石窯グリル。

マッシュルームには、叩いた黒オリーブとアンチョビが詰められている。

私は、ジントニック、バンビはジンリッキーから始めたが、続いてプロセッコをグラスでもらって、ミラノ風カツレツを。

カツレツは、私も作ることがあるが、中まで火が通らなくてもいいように、ステーキ用の牛肉を使うのがもっぱらで、それに赤ワインを煮詰めたソースを添える。

クルベル・キャンのミラノ風カツレツは、薄く叩いた鶏肉を使っており、ビールや白ワインと相性がいい。


最後はスコッチにかえて、パスタは、ホタルイカと春キャベツのスパゲッティを。

春キャベツの甘みをホタルイカの濃厚な旨みが包み、素敵な春の味覚で、バンビが大いに喜んでいた。


最近、藤沢周氏が顔を出さないそうだが、藤沢さんは、忙しいうえに、引越ししたばかりだから余裕がないのだろう。

そういう私も、久しぶりで、クルベル・キャンに寄ると、必ずのように誰かがいた頃が、今になると懐かしい。
posted by 城戸朱理 at 12:34| 美味しい話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月25日

つくしを摘んで

IMG_5818.jpgIMG_5816.jpg



鎌倉では、あちこちにつくしを見かけるようになった。

龍子さんによると、澁澤龍彦先生は、つくしを摘むのがお好きだったとか。

春に澁澤邸を訪ねると、龍子さんは必ずつくし料理を出して下さるが、生前の澁澤先生は、若い編集者が来ると、見たことがないだろうと、得意気につくし料理を振る舞ったそうだ。


つくしは、袴を取るのが大変で、指が黒くなるが、これは指に酢をつけながらやるといいらしい。

下処理が終わったら、胡麻油で炒めたり、梅肉と和えたり、玉子とじにしたりする。

春の味覚のひとつだが、それ以上に、つくしは、野原や土手に、ぬっと出ている感じが面白い。

漢字だと「土筆」になるが、たしかに地面に筆を立てたかのようでもある。


田鼠の穴からぬつと土筆かな(小林一茶)


土筆は春の季語。

古句には「つくづくし」とも詠まれている。
posted by 城戸朱理 at 11:53| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バンビ=鹿千代の悪だくみ???

ファイル0001.gif



あるときは、生きているこけし=生(なま)こけし。

そして、あるときは、子供剣士・鹿千代。

しかして、その実体は――

そう、バンビことパンクな彼女である。


「鹿千代にござりまする!」

また、鹿千代になってしまった――

「ちっちゃいのでござりまする」
・・・

困ったことに、鹿千代は、六つか七つの子供という設定なのだ。

「鹿千代は、お腹が空きましてござりまする」
・・・・・・

何か作ってくれという意味である。


仕方がないので、私が昼食の準備をすることにした。

考えてみると、ここ数年、多忙を極めていたせいもあるが、料理はバンビに任せっぱなしだったから、私が厨房に立てるというのは、余裕ができてきたということで、悪い話ではない。


ラードでタマネギのみじん切りと挽き肉を炒め、さらに人参、キャベツをさっと炒めて、鳥ガラスープで煮てから味噌を溶く。

生麺を茹で、茹で玉子をトッピングして、味噌ラーメンを作ったのだが、ちょうど出来上がったところで、バンビ=鹿千代がやってきた。

スープには仕上げに、おろしニンニクとショウガ、そして山椒を。

これで、味噌ラーメンの名店、さっぽろ純連風になる。


「美味しゅうござります」
・・・


そして、翌日。

夕方にバンビ=鹿千代からLINEで連絡が来た。

「鹿千代は、お肉を食べとうござりまする」
・・・

「京都の焼肉はつだ風にお願いいたします」
・・・・・・


焼肉はつだのタレが買ってあったので、バンビ=鹿千代が自分用に買ってあった牛肉を、はつだ風に焼いていたら、バンビが帰ってきた。


「ステーキも焼いてほしゅうござりまする」
・・・

冷蔵庫を覗いてみたら、綺麗にサシが入った和牛A5等級のステーキ肉が。

どうやら、自分用にステーキ肉も買ったらしい――

「にゃふ〜ん!」と喜びながら、ステーキ肉をカゴに入れるバンビが、目に浮かぶかのようだ。


かくして、私は焼魚、バンビはステーキと焼肉の夕食になったのだが、なにせ鹿千代は六つか七つの子供という設定だから、鹿千代になられると、料理も私がせざるをえない。

ひょっとして、それが、バンビの狙いだったのか!?


パンクだから仕方がないが、さらなる警戒が必要である。
posted by 城戸朱理 at 09:51| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月24日

盛岡土産の食材で

IMG_5792.jpgIMG_5789.jpg



休日の昼食は、横澤パンのトーストにクラムチャウダー、佐助豚のハムステーキに目玉焼きと、盛岡で買ってきたパンとハムを使ったものだった。

私が10代のころから、実家の朝食は横澤パンだったが、かつては、ホテルへの卸だけで小売りはしていなかったので、父親が車で製造所まで買いに行ったものだった。

まるで、バゲットが四角いイングリッシュ・ブレッドになったような食パンで、どっしりとした小麦の味わいがある。


午後は、あれこれ所用を済まし、入浴して、湯豆腐とイカ納豆で晩酌を始めたのだが、バンビことパンクな彼女が、昼食に続いて、盛岡の食材を使った料理を食卓に並べ始めた。


海宝漬・中村屋のアワビステーキ・グラタンと、佐助豚のベーコンとリンゴのソテー、ネギトロである。

このうち、アワビとベーコンが盛岡土産。

中村屋のアワビステーキ・グラタンは、三陸産の蝦夷アワビを使っており、バンビの大好物、
ベーコンにリンゴを合わせたのはバンビの独創で、リンゴには黒糖を、全体に黒胡椒を挽いてある。

先日、私がノルマンディーの郷土料理、豚肉とリンゴのクリーム煮を作ったので、リンゴを合わせてみようと思ったらしい。

ネギトロは、昨年末に招待してもらった四谷の茶懐石「木挽町 大野」風に、叩いたマグロにネギと海苔が添えられていた。

料理が和洋折衷なので、私は日本酒、バンビはシャンパンを。


「盛岡には、どうして美味しいものばかりあるのかな?」


バンビは、よくそう言うが、以前、盛岡に取材に行ったエッセイストの平松洋子さんも、同じことを言っていたっけ。


盛岡のみならず、日本は、どこに行っても、その土地ならではの特産や料理がある。

それも、旅の楽しみのひとつだろう。
posted by 城戸朱理 at 11:11| 美味しい話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月23日

宮澤賢治と洋食など



森荘巳池『森荘巳池ノート』が、あまりに面白いので、3回も通読してしまった。

この本は、これまで紹介してきたように、著者と宮澤賢治、草野心平、横光利一らとの交遊を語るものなのだが、賢治が占める割合がもっとも多い。


賢治が花巻で教員生活を送っていたころ、天ぷら蕎麦にサイダーを好んだ話は有名だが、賢治にはベジタリアンのイメージがある。

たしかに菜食生活を送った時期はあるのだが、必ずしも、それを通したわけではなかった。


まだ旧制中学生だった森荘巳池は、賢治に盛岡の大洋軒という西洋料理店で洋食のフルコースを御馳走になったことを回想しているが、これを賢治は「洋食の一番立派なもの。おごりの頂上の定食」と語っていたそうだ。

賢治は、上京したおりに、「神田で労働者が一番好きな牛丼」や「本郷で大学生が一番好きなカレーライス」を食べたらしく、故郷に帰ってからも、盛岡の肉屋が兼業でやっている食堂で牛丼を食べたり、花巻の精養軒の支店でカレーライスを頼むことがあったという。

賢治の母親は、東京で賢治がきちんと食事をしているか心配したらしいが、それに対して、賢治は、東京には飯屋というものがあって、とりわけ労働者や苦学生が食べる丼物、天丼、親子丼、鰻丼が山盛りで美味しいものであることを伝えたというのだから面白い。

森荘巳池は、鰻丼と天丼が、賢治のもっとも好きな食べ物だったことを語っている。


宮澤家は、素封家だけに、賢治も食事で困るようなことはなかったのだろう。

そして、貧しい農民に比べて豊かな自分を恥じるところが賢治にはあったし、その贖罪の意識が、作品にも反映されているのは言うまでもない。


賢治の生活が一変するのは、祖父が建てた宮澤家の別宅を改装して、羅須地人協会を作り、無償で稲作の指導や肥料の設計を始めてからだろう。

ここでの暮らしは、形を変えた出家のような趣きさえある。


賢治は、杉林のなかにカマドを作り、3日分の米を炊いては、御飯をザルに入れ、井戸に吊るして「天然冷蔵庫」に保存した。

森荘巳池が羅須地人協会に泊ったときには、新巻き鮭の頭と骨をいれたあら汁を御馳走になったという。

このあら汁は、森荘巳池の自宅で作るように、酒粕や高菜を刻んだものが入っていなかったので、荘巳池は物足りなかったようだが、このころの賢治は、衣食に無頓着だったことが、さまざまな人の証言からも分かる。

賢治には、もっと大事なことがあったし、その眼には、イーハトーブの広やかな世界が映っていたに違いない。
posted by 城戸朱理 at 13:25| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月22日

アート・ドキュメンタリー「H(アッシュ)」の現在



「Edge」公式ホームページのことを報告したが、2014年から、井上春生氏のハグマシーン制作によるアート・ドキュメンタリー「H(アッシュ)」も制作されている。


「H(アッシュ)」は、やはり私の企画・監修で、京都の真澄寺別院・流響院を舞台に、ほかにも京都各地でロケを重ねて制作されるコンテンツ。

これまで、作家・柳美里さんと宗教学者・山折哲雄先生の対談から始まって、
歌人・東直子さんによる春夏秋冬の4本、俳人・高柳克弘、神野紗希夫妻による四季の吟行風景が、今春で完成、
歌人・水原紫苑さんによる京都の桜を詠むコンテンツが、今春で3本目、
宮澤政人さんの「ごたん宮ざわ」で詩人・石田瑞穂・みゆ夫妻が、和食の四季を紹介する番組が、春と秋の2本を終えて、進行中である。


また、詩人・吉増剛造さんが、四季の京都を訪ねる4本の番組が完成、現在、映画化し、海外の映画祭に向けて、英語字幕を付けるとともに、英語のプレスリリースを準備中。

映画公開は、今秋になる。


「H(アッシュ)」の公式ホームページも、来年には準備したいと思っている。
posted by 城戸朱理 at 08:49| Edge | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月21日

宮澤賢治の森のベッド

IMG_5808.jpgIMG_5798.jpg

ちくま文庫版の『宮澤賢治全集』は、いつでも開けるように書斎のデスク脇に置いてある。

賢治の著作で、生前に刊行されたのは、周知のように『春と修羅』、『注文の多い料理店』の2冊だけ。

ともに大正13年(1924)、賢治29歳のときに出版されたものだが、どちらも驚くような古書値がついており、高嶺の花としか言いようがない。

それで、もっぱら文庫版全集で賢治を読んでいるのだが、それでも、手が届くものと出会ったときは、つい購入してしまう。


童話集『グスコーブドリの傳記』(羽田書店、昭和16年初版)
『宮澤賢治歌集』(日本書院、昭和21年初版)
詩集『雨中謝辞』(創元社、昭和27年初版)などなのだが、
このうち最初の2冊は、盛岡の古書店で求めたものである。

『宮澤賢治歌集』は、原稿用紙を束ね黒いクロースの表紙をつけた歌稿を単行本化したもので、森荘巳池による校註。

『雨中謝辞』は、『春と修羅』第二〜四集のカード式詩稿と残されたノートの詩稿をまとめたもので、賢治の弟の宮澤清六さんの「後記」によると、なかには丹念に消しゴムで消された原稿を復元したものまであるという。

こうした先人の努力がなければ、賢治自身が自作の取捨選択に厳しい人だったから、その作品のかなりの部分が、散逸してしまったことだろう。



賢治の詩で、もっとも長いのは「小岩井農場」で825行。

では、もっとも短い詩はというと、次の作品である。



さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張って居ります



わずか、2行。

しかし、長短に関係なく、本当に素晴らしい。


こんな詩が、どうすれば書けるのか、考えても分かるものではないが、生前の賢治と親交があった森荘巳池の『森荘巳池ノート』を繰り返し読んでいると、さまざまな発見がある。


賢治は、よく歩く人だったらしい。

しかも、夜中に散歩することが多く、いつも10銭の黒い手帳を持ち歩き、闇のなかで詩想を書きとめていたそうだ。

なかでも、森荘巳池が賢治と一緒に、岩手山麓まで歩いたときの話が面白い。


小岩井農場を過ぎ、岩手山麓に近い姥屋敷を過ぎて、松林の高原に至ったときのこと。

突然、賢治が「ベッドをさがしましょう――」と言った。

驚く森荘巳池に、賢治は「高原特製の、すばらしいベッドですよ」と笑う。

そのベッドとは、羽布団のように、もくもくと枯葉が積もった落葉松の低木で、ふたりで枯葉に潜り込むと、賢治は「岩手山ろく、無料木賃ホテルですナ」と森荘巳池を笑わせたという。

5月とはいえ、月のない夜。

真の暗闇が、ふたりを覆っていたのは間違いないが、賢治には、それを恐れる様子もない。


それからのあれこれは省略するが、ふたりは朝を迎えると、岩手山麓の大きな泉で顔を洗い、賢治が盛岡からハトロン紙に包んで持ってきた一本の食パンを、湧水を手ですくって飲みながら、食べたのだという。

賢治の生き方自体が、まるで彼の童話のようだが、こんなふうに自然のなかで呼吸していた人にしか見えない世界があるのは納得できる。

たいしたものだという言葉は、こういう人のためにあるのだろう。
posted by 城戸朱理 at 10:47| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月20日

アート・ドキュメンタリー「Edge」公式ホームページ準備中!



2001年から、私の企画・監修で始まったアート・ドキュメンタリー「Edge」は、テレコムスタッフ制作のポエトリー篇と宮岡秀行氏のスタジオ・マラパルテ制作のシネマトグラフ篇で構成され、公式ホームページも立ち上げたが、この何年かホームページが閉鎖されていた。


現在、テレコムスタッフの平田潤子ディレクターが中心になって、「Edge」公式ホームページを新たに準備中であり、これまで制作してきたコンテンツを紹介することが出来ると思う。

執筆陣も石田瑞穂、菊井崇史氏ら詩人から、プロのライター陣によるもので、批評的にも充実したものになりそうだ。


Edgeは、現在も制作が進んでおり、スタジオ・マラパルテによる「原民喜篇」が完成、「土方巽篇」が制作中、テレコムスタッフは、「暁方ミセイ篇」(平田ディレクター)、「カニエ・ナハ篇」(熊田草平ディレクター)に続く「杉本真維子篇」(伊藤憲ディレクター)が、編集に入っている。

また、来年度以降は、テレコムスタッフ、スタジオ・マラパルテ以外にも制作を依頼していくことになるかも知れない。


公式ホームページでは、部分的に映像を試聴出来るようにしたり、進行中の番組の様子を伝えるブログの開設も考えているが、充実したものになるよう平田ディレクターが奮闘中で、
私も執筆者未定のコンテンツを次々と押しつけらられ(?)、番組を見直しては原稿を書いているところだが、貴重なアーカイブになっていることを改めて確認した。


公式ホームページが開設したら、このブログでお知らせする予定。
posted by 城戸朱理 at 15:14| Edge | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月19日

洋野菜が珍しかったころ



母から聞いた戦前の話である。

新しいもの好きの母の兄、つまり私にとっての伯父が、見たことのない野菜の苗を植え、大きな青唐辛子のような実がなったそうだ。

茄子の味噌炒めを作っているとき、姉(伯母)に、あの大きな青唐辛子を入れてみようと言われ、伯母と母は、大きな青唐辛子のような実を「辛そうだね」と言い合いながら、刻んで、茄子の味噌炒めに入れたらしい。

さぞや辛いに違いないと、食べてみたら、これが、まったく辛くない。

この野菜が、ピーマンだったそうな。


今なら当たり前の洋野菜も、初めてのときは、こんなふうに珍妙かつ愉快な話になってしまうのが、面白い。


このピーマンを植えた伯父は、徴兵されて、戦後、シベリアに抑留されたが、奇跡的に生還し、長寿をまっとうした。


宮澤賢治と親交があった森荘巳池の『森荘巳池ノート』を読んでいたら、賢治は、ハイカラな人で、
「花畑、花園ですか、それを造ることは、詩を作ることよりも、ずっとおもしろいことは、おもしろいのですがねえ」と語り、
ドイツやイギリスから種を買って、花を育てていたという。

同様に、大正9年(1920)ごろからトマトやセロリ、パセリなどの洋野菜も栽培していたそうだが、家族には「西洋くさくて、食えない」と不評だったそうだ。

この「西洋くさい」という言い方が愉快だが、森荘巳池も賢治にトマトを勧められたとき、当時、トマトは人肉の味がするという俗説があったそうで、おっかなびっくり口にしたことを述懐している。

賢治はトマトの薄皮を剥き、塩をぱらぱらと振って、食べていたそうだ。

宮澤賢治とトマト、これも不思議な取り合わせである。


森荘巳池の実家は八百屋を営んでいたが、当時、普通に食べられていた野菜は、人参、大根、ゴボウにネギくらいのものだったという。
posted by 城戸朱理 at 14:03| 美味しい話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月18日

第三次こけしブーム???

__0146.jpg



戦前、そして高度成長期に続いて、現在は、第三次こけしブームなのだとか。

手作りの伝統工芸品なのに、数千円で入手できることから、若い女性を中心に人気が高まり、こけし女子、略して「こけ女」なる言葉まで生まれたほど。


不定期月刊(?)のこけしと温泉の専門誌「こけし時代」もひそかに人気らしいが、実は、この雑誌を編集しているのは、バンビことパンクな彼女の友人なのである!


ちなみに、こけしは、江戸時代から東北地方で作られてきたが、地方ごとに呼び名は違ったそうだ。

それが、昭和15年(1940)に宮城県の鳴子温泉で「全国こけし大会」が開催され、こけしという名称が定着することになったらしい。


第一次こけしブームは、昭和6年(1931)に刊行された『こけし這子(ほうこ)の話』がきっかけだったという。

著者は、児童文学者の天江富弥。

初めて、こけしを系統別に体系化した本なのだが、この影響でコレクターが急増。


第二次こけしブームは、昭和30年代後半から40年代前半にかけての高度成長期で、道路や交通機関の整備が進んだおかげで、賑わうようになった温泉地の土産物として、こけしが飛ぶように売れたのだとか。

第一次こけしブームが、民芸品や骨董の収集家や都市部のインテリ層によるものだったのに対して、第二次ブームの中心になったのは、サラリーマン。

それだけに、売れ行きも凄く、最近、骨董市を覗くと、異様にこけしが目につくが、この第二次ブームのときに買われたこけしが売りに出されているのだろう。


現在の第三次こけしブームは、女子が中心で、素朴なゆるキャラとして人気を博している。


そして、バンビは、こけしが静かなブームになる前から、こけし風の髪型にして、生きているこけし=生(なま)こけしになって遊んでいたわけだから、先見の明があったと言えなくもない。

いや、ちょっと待てよ。

こけしを飾って和むのと、自分がこけしになるのでは、かなり違うか。
posted by 城戸朱理 at 11:25| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

死者を見送って

IMG_5755.jpgIMG_5751.jpgIMG_5752.jpg



2010年の暮れに受け取った岩手日報学芸部長、一戸彦太郎さんの急逝の知らせは、ショックだったが、翌年3月には、東日本大震災が起こり、2万を超える方が犠牲となった。

南相馬で入院中だった父方の伯母は、ヘリコプターで搬送された病院で亡くなり、さらに原発事故で双葉町から福島市に避難した母方の伯父が亡くなった。

翌年には、友人の日本画家・瓜南直子さんが病で急逝、さらに父が倒れ、入退院を繰り返して亡くなった。

2年前には、母も逝き、去年は、母方のもうひとりの伯父も亡くなった。


何やら、死者を数える日々が続いているような気さえするが、両親が暮らした家を訪ねても、かなしい気持ちにしかならなかった。

鍵を持っていないので、中には入れなかったが、この家で、25歳の私は、第一詩集『召喚』のゲラに手を入れ、「三ツ石伝承」(『戦後詩を滅ぼすために』所収)を書いたのだった。

それから、30余年を経て、家も記憶のなかに沈みこんでいるかのようだ。
posted by 城戸朱理 at 11:23| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月17日

森荘巳池『森荘巳池ノート』(もりおか文庫)

IMG_5785.jpg



光原社で森荘巳池の著作を見つけた。

朝日新聞岩手版に、昭和55年(1980)6月2日から、昭和60年(1985)9月23日まで、週一回で連載された250篇の随筆のうちから218篇を収録したものだった。


著者の森荘巳池氏(1907〜1999)は、昭和19年(1944)に第18回直木賞を受賞した作家であり、『山村食料記録』の詩人でもある。

旧制中学在学中に、宮澤賢治の訪問を受けてから賢治との交流が始まり、最初の『宮澤賢治全集』編集のため、岩手日報学芸部長を辞した。

いわば、作家であり、詩人であるとともに、賢治の仕事を草野心平らとともに後世に伝えた方である。

「―新装再刊 ふれあいの人々 宮澤賢治―」という副題からも分かるように、宮澤賢治との交友のあれこれが綴られており、実に興味深く読んだ。

巻頭の「公刊本までの推敲の跡」は、宮澤賢治の死から始まる。



 昭和八(一九三三)年九月二十一日、宮沢賢治が亡くなった。人びとが賢治のまわりに集まっている座敷から、私は何となく裏庭に出た。
宮沢家で「遠裏(とおうら)」といっている畑の真ン中に、家を建てる土台が並んでいるのが見えた。そこに行ってみた。長期にわたっていた賢治の療養のために建てようとしたものだと思った。



そこで、森荘巳池が見たのは、賢治の病室から持ってきた三、四冊の『春と修羅』だったという。

そのうちの一冊を手に取って、森荘巳池は、次のように書いている。



 賢治が、熱心に改稿した書きこみがあり、斜線でサッと、抹殺の意志を現したページも多かった。ことに巻頭に多かったのを見た。
 死の前日まで推敲した跡だ。「日光消毒」にこうしてあるのだとすぐ気がついた。原稿を何べんも推敲しているということは、聞いていた。が、公刊本の『春と修羅』まで、熱心に推敲していたわけだ。
「いつまでたっても、作品は完成することなはない」と推敲していたことを目の前にして、驚かない人はないにちがいない。
「大変な人が生まれたものだ。そして、さっさと死んだものだ」と、私は、一冊の『春と修羅』を、ページをひらいたまま、むしろの上に置いて、座敷に帰った。



この宮沢家の「遠裏」の離れは、賢治の没後に完成し、東京から疎開してきた高村光太郎が住んだが、昭和20年(1945)8月10日、アメリカ軍の空襲によって焼失したという。


死の前日まで、詩集を推敲していた賢治の姿も鬼気迫るものがあるが、それよりも、私は森荘巳池の「大変な人が生まれたものだ。そして、さっさと死んだものだ」という感懐が、ひどく気に入った。


新装版の解説は、森荘巳池氏の娘さんで、詩人の森三紗さん。

宮澤賢治生誕120年の昨年に刊行されたものだが、東京や鎌倉では、気づけなかった本に出会えたのが嬉しい。
posted by 城戸朱理 at 14:33| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月16日

宮澤賢治の手帳

IMG_5778.jpgIMG_5779.jpg



賢治の詩のうちでも、もっとも広く知られているのは「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」だが、これは詩として発表されたものではなく、
賢治の没後に発見された手帳のメモであり、賢治自身が自ら、こうありたいという姿を綴ったものである。

「雨ニモマケズ」が記されているのは、賢治が、闘病中の1931年に使っていた黒い手帳の51ページから59ページにかけてで、11月3日の日付を持つ。

筆跡から見ても、一気に書き上げたのは間違いないが、賢治自身、この走り書きのメモが、後世、自分の代表作のひとつになるとは思っていなかっただろう。

また「雨ニモマケズ」の後には「南無無辺行菩薩/南無上行菩薩/南無多宝菩薩/南無妙法蓮華経/南無釈迦牟尼仏/南無浄行菩薩/南無安立行菩薩」と「法華経」を中心に諸仏を列記したページもあり、法華経に深く帰依した賢治の姿が浮かび上がってくる。


この手帳は、研究者に「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれているが、光原社で、その復刻が売られていたので、求めてみた。


鞄に入れておくと、ごく普通の手帳にしか見えないが、なかに記されている言葉を思うと、何の変哲もない手帳が、精神性を帯びるかのようで、心地よい緊張がある。

「雨ニモマケズ手帳」は、およそ三分の二が白紙のままなので、私も手帳として使うつもりだが、自分が、どんな言葉を書きつけることになるのかは、分からない。
posted by 城戸朱理 at 10:40| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする