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城戸朱理のブログ

2017年07月31日

Edge吉増剛造篇、山形国際ドキュメンタリー映画祭へ



今や世界三大ドキュメンタリー映画祭に数えらるまでになった山形国際ドキュメンタリー映画祭。


同映画祭が主催する「3・11ドキュメンタリーフィルム・アーカイブ」の金曜上映会では、昨年、8月19日に「3・11アーカイブ選・平田潤子監督特集」が組まれ、Edge Specialとして制作された「語りえぬ福島の声を届けるために―詩人・及川俊哉 現代祝詞をよむ―」が上映されたが、
今年は、千数百本もの応募作品のなかから、Edge Specialとして制作された「怪物君 詩人・吉増剛造と3.11」(伊藤憲監督)が、東日本大震災を受けて新設された「ともにある Cinema with us」部門に選出され、上映されることになった。


また、今年の第20回ゆふいん文化・記録映画祭でも、Edge高橋昭八郎篇「言葉を超え、境界を超える詩」(細田英之監督)が、上映されたが、こうした形で、Edgeというアーカイブが開かれていくのは、企画・監修として、制作に関わってきた者には嬉しいかぎりである。


上記作品は、いずれも公式ホームページで、一部が視聴できるので、ぜひアクセスしてもらいたい。


http://edgeofart.jp/


posted by 城戸朱理 at 10:58| Edge | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

音羽山清水寺

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音羽山清水寺も、征夷大将軍、坂上田村麻呂の草創とされ、京都、播磨と並んで日本三清水として知られる古刹である。

同じく田村麻呂に由来するとはいえ、清水寺は陽、多岐神社は陰と言えるだろうか。


本尊は田村麻呂が祀ったとされる十一面観音。

門前の市は、古くから賑わい、遠く三陸海岸や仙台からも参拝客が訪れたという。


宮澤賢治も、その宵祭の賑わいを「田園浅草」ん名づけ、教え子を連れて、幾度となく訪れたらしい。


また、賢治の詩「境内」(『詩稿補遺』)は、清水寺を舞台にするものと考えられている。
posted by 城戸朱理 at 10:52| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

多岐神社〜アラハバキ神を封じたところ?

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次に訪れたのは、多岐神社。

正一位、多岐大明神を祀る社だが、神社の由来は実に興味深いものだった。


桓武天皇の御代、蝦夷征伐を命じられた征夷大将軍、坂上田村麻呂は、陸奥の鬼神・悪路王、高丸らを退治するために下向した。

ところが、田村麻呂の軍勢は、三光岳に潜み、悪路王に組する鬼神・岩盤石に苦戦、道に迷い、渇きに苦しむことになった。

そのとき、翁が現れ、泉の場所を教えたために、田村麻呂の軍勢は息を吹き返し、岩盤石を破ることができたのだとか。

この翁が、万病を癒すとされた東光水という滝の化身で、多岐大明神として祀られることになる。


この由来には、二重性がある。

まず、悪路王とは、大和に対する東国だった日高見国(ひたかみのくに)の蝦夷の首長、大墓公(おおつかのきみ)阿弖流爲(アテルイ)の時代が下ってからの呼び名であり、鬼神とされる岩盤石も、大和朝廷の侵攻に対抗した蝦夷の指導者のひとりであったのだろう。

田村麻呂は大軍を率いながらも、阿弖流爲の蝦夷軍に勝つことができなかったというのが史実であり、和議を結んで、京都まで田村麻呂に同行した阿弖流爲は、田村麻呂の嘆願にもかかわらず、貴族たちに斬首されてしまう。


時代が下って、武士が台頭し、田村麻呂が武門の象徴としてもてはやされるようになると、蝦夷はことごとく悪鬼とされ、阿弖流爲は悪路王に書きかえられていく。

それを考慮するならば、今日に伝えられる多岐神社の由来の成立は、室町期ということになるだろうか。


また、蝦夷が信仰していたアラハバキ神は、石を御神体とするのがもっぱらなので、岩盤石とは、アラハバキ神を言うものであり、すなわち、それは東光水の滝にほかならなかったのではないか。


多岐神社の奥には、滝が流れる巨石がある。

この巨石が、上代にはアラハバキ神として祀られていたと考えられているが、多岐神社とは、蝦夷のアラハバキ神を封じ、大和の神に変化(へんげ)せしめるための霊的装置だったように思われる。


多岐神社もまた、東北の古層をうかがわせるひとつの例と言えそうだ。
posted by 城戸朱理 at 10:49| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ひじり塚

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日本現代詩歌文学館の展示を見たあと、豊泉さんが連れていってくれたのは、「ひじり塚」。

かねてから、貴人が葬られたところと伝えられてきたが、近年に至って、時宗の開祖、一遍上人の事跡を描いた「一遍聖絵」(国宝)に描かれていることが分かり、一遍上人の祖父に当たる鎌倉時代の武将、河野道信の墓であることが分かった。


河野道信は、伊予の名族の出身で、平家を滅亡させた檀浦の合戦で活躍し、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻、政子の妹を妻とした有力者だったが、後鳥羽上皇が幕府に反旗を翻した承久の乱(1221)で上皇側につき、岩手の江刺郡に流罪となった。


道信は、江刺の極楽寺に庵を結び、余生を送ったという。


ひじり塚は、四角の段に円く盛土をし、堀を巡らした貴人にふさわしい墓所だが、一遍上人は、それと知って祖父の墓参りをしたわけである。


まわりには畑しかなく、訪れる人もなかった。
posted by 城戸朱理 at 10:38| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする