舞台は、アメリカ東海岸、大西洋に面したニュージャージー州の都市、パターソン。主人公の名前も、パターソン。
静かな映画だ。パターソン(アダム・ドライバー)は、パターソン市のバス運転手。愛する妻のローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)、そして、ブルドッグのマーヴィン(ネリー)と暮らしている。
パターソンの一日は、いつも変わらない。シリアルの朝食を取ると、ローラの作ってくれたサンドイッチが入ったランチボックスを持って、市場通りの車庫まで歩いていく。乗務が始まると、乗客のさまざまな会話が聞こえてくる。
パターソンが昼食を取るのは、パセイック川のグレートフォールズ(大滝)と向かい合うベンチ。ここで、彼はノートを広げて、詩を書く。
彼が愛するのは、二十世紀のアメリカ詩の方向性を決定したモダニズムの大詩人、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ。ウィリアムズはパターソン市に近いラザフォードで医師として働きながら、詩を書いていたが、その作品と存在は、この映画のライトモティーフとなっている。
仕事を終えるとパターソンは帰宅して、ローラと夕食を取り、愛犬マーヴィンと夜の散歩に出かける。そして、行きつけのシェープス・バーに立ち寄って、ビールを一杯だけ飲んで帰宅する。
バーのカウンターには、パターソン市出身の名士を称える「殿堂の壁」があり、そこには第二次世界大戦後のビート・ジェネレーションを代表する『吠える』の詩人、アレン・ギンズバーグの記事が貼られていることにも注意しておこう。
パターソンは、ビールのうっすらとした匂いをまといながら、ローラの隣で眠りにつく。ローラは、その匂いが好きだった。
特別なことは何も起こらない。映画は、寄り添って眠るパターソンとローラの俯瞰から毎日始まり、ビール・ジョッキから暗転して終わる一日を淡々と写していく。月曜日からの一週間を。
だが、この映画が当たり前の日常を描いていると考えるのは間違いだろう。それは、アメリカという国、ひいては欧米社会の常識に関わっている。アメリカでは、バスの運転手のような労働者階級(ワーキング・クラス)の人間が詩を書くというのは、きわめて特殊なことと見なされる。実際、私の知るアメリカの詩人は、父親から、ワーキング・クラスの人間が詩なんか書くんじゃないと厳しくたしなめられ悩んでいる詩人がいることを語ってくれたことがあった。
劇中、木曜日に、パターソンが詩を書く少女
と出会う場面がある。パターソンは、少女の詩に感銘を受けるのだが、十九世紀のアメリカの詩人、エミリー・ディキンソンのことを尋ねられ、「好きな詩人のひとりだ」と応えるパターソンに、「クールね。ディキンソンが好きな運転手さん」と少女が言う、そのセリフの重さは、そうした社会的背景を意識すると、より鮮やかなものになるだろう。 ジャームッシュが描く、ワーキング・クラスでありながらアーティストであるというパターソンは、その意味では、特異な存在なわけであって、だからこそ、彼は日々の出来事のなかから、豊かな詩を汲み上げていく。つまり、パターソンという詩人にとって、一見、当たり前に見える日常は、事件に満ちたものなのだ。
さらに、全編のライト・モティーフになっているウィリアムズのことについても語っておこう。
ウィリアムズは、事物や事象を直接的に表す、言葉によるスナップショットのような短詩を書く詩人としてスタートした。土曜日にローラが好きだというウィリアムズの詩をパターソンが朗読する場面があるが、そ
こで選ばれた詩「言っておくね」は、初期のウィリアムズの代表作である。 また、水曜日にマーヴィンを連れて、夜の散歩に出かけたパターソンが、コインランドリーで、ラップ調に詩作をしているメソッド・マン(クリフ・スミス)と出会うが、そこでメソッド・マンが歌う「No ideas, but in things(観念は事物のな
かにしかない)」というフレーズは、ウィリアムズが生涯をかけた長篇詩『パターソン』のなかの一節であり、ウィリアムズの詩的命題として知られている。 いや、もっと象徴的なのは、月曜日にバスに乗り込んできた黒人の子供ふたりの会話かも知れない。
「ハリケーン・カーターは有名なボクサーだ。パターソンに住んでいた」
「デンゼル・ワシントンに似てた」。
何気ない会話だが、殺人の冤罪で投獄され、19年を獄中で過ごしたボクサー、ルービン・ハリケーン・カーターの半生は、「ザ・ハリケーン」(一九九九、ノーマン・ジェイソン監督)として映画化され、話題を呼んだが、主演をつとめたのがデンゼル・ワシントンで、この演技によって彼は、アカデミー主演男優賞を獲得している。
その劇中、流れる印象的なテーマ曲が、ボブ・ディランの「ハリケーン」だった。
アルバム「欲望」(一九七六)に収録されているディランの「ハリケーン」は、まさに、ルービン・カーター事件の冤罪を訴えるプロテスト・ソングだが、このアルバムは、ディランのなかでも特筆すべきもので、ライナーノーツを、詩人、アレン・ギンズバーグが書いている。そして、ギンズバーグは、そのなかで、ウィリアムズについて、次のように語っている。
この近くで、死ぬ前に、医師にして詩人、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズは言った。
「新しい世界とは、新しい精神にほかならない」と。
そして、彼が生涯を生粋のニュージャージー語を取り戻すことに賭けたおかげで、
後続の詩人たちは、「タフな鋼鉄」のような語りのリズムで歌えるようになった。(拙訳)
ここでギンズバーグが語っていることは、きわめて重要である。アメリカの詩は、当然のことながらイギリスの影響下にあったわけだが、ウィリアムズの生涯を賭けた詩的実験によって、アメリカの詩は、英国的な英語、ブリティッシュ・イ
ングリッシュの規範から逃れ、初めて、アメリカ語たるアメリカン・イディオムによる、口語的な語りのリズムの詩が実現したわけであり、黒人の子供の会話は、ウィリアムズからギンズバーグ、そして、ボブ・ディランという二十世紀アメリカ詩の潮流を示すものとなっている。 それは、ジャームッシュが考える詩史なのだろうし、パターソンが書く詩も、タフで鋼鉄のような口語の語りのリズムを持っている。
ちなみに、ギンズバーグの『吠える』に「ご婦人がた、ドレスの裾をからげなさい。これから地獄を通るのだ」というセンテンスで終わる名高い序文を寄せたのが、ウィリアムズだった。(つづく)