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城戸朱理のブログ

2019年11月18日

民衆詩派について思うこと



去年あたりから、大正時代の民衆詩派について考えることがある。

きっかけは些細な疑問だった。

私の郷里である岩手県では、ここのところ、盛岡市在住の沼田真佑さん、遠野市出身の若竹千佐子さんの芥川賞受賞、さらには盛岡に御実家がある木村紅美さんが芥川賞候補になるなど、文学隆盛を謳っているが、なんと言っても、戦前の石川啄木、宮沢賢治の存在が大きい。

昭和もなかばまでは啄木の人気が高かったが、1990年代以降は賢治の評価がますます高まり、賢治にゆかりがあるものなら、なんであれ観光資源になってしまった感がある。


啄木と賢治は、私にとって高校の先輩に当たるため、若いときから意識はしていたが、戦前の岩手出身の詩人は啄木と賢治だけではない。

大正デモクラシーを背景に一時代を築いた富田砕花も盛岡出身なのだが、なぜか、語る人もいないし、ほとんど忘れられている。

富田砕花といえば、白鳥省吾や福田正夫とともに、大正期の民衆詩派を代表する詩人であり、歴史的な存在ではあるのだが、岩手に限らず、現代の詩人にも読まれている気配はないし、再評価の気運もない。

これは、なぜなのだろうか。


少なくとも、同時代においては重要視された民衆詩派は、北原白秋、日夏耿之介らの激しい批判もあって、昭和を迎えるとともに激しく失速していく。

平明な言葉で、労働者や農民の生活に寄り添う詩を目指したのが民衆詩派だが、その作品は弛緩して、あまりに散文的であると北原白秋に痛烈に批判され、芸術的な価値を否定された。

日夏耿之介の『明治大正詩史』における民衆詩派への評価は、さらに低い。


それで、逆に気になったのだが、このことをきちんと考えるためには、大正デモクラシーについて、あるいは富田砕花や白鳥省吾が翻訳を手がけたウォルト・ホイットマンの受容についての考察が必要となるだろう。


そして、もう一点、私が気になっているのは、今日、書かれている詩のうち、少なからぬ作品が、大正期の民衆詩派と似かよったものになっているのではないかということだ。

近年、にわかに平明な言葉で、生活者である自分を語る詩が目立つようになったが、そうした詩人たちは後世、平成・令和の民衆詩派と呼ばれることになるのだろうか。

いずれ、民衆詩派、とりわけ富田砕花の作品を、系統立てて読んでみる日が来るのかも知れない。

今や、後世などあるのか分からない時代に生きているだけに、それは、ある種の苦さを伴う経験になるような気がする。
posted by 城戸朱理 at 17:09| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ソウル、仁寺洞の骨董屋で

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8月24日、帰国前に久しぶりに仁寺洞(インサドン)を歩いてみた。

10年前までは伝統工芸品と骨董屋が並ぶ街だったが、今ではすっかり観光地化して、骨董屋もほとんど見当たらない。

裏通りに李朝の白磁の大壺が目立つ店があったが、仁寺洞通り(インサドンキル)に面した長生壺は健在だった。

以前、中沢けいさんと訪れたこともある。


日本では三島手と呼ばれる粉青沙器の徳利なども並んでいたが、どれも大きすぎて花入れにしか使えない。

何も買う必要はなかったのだが、バンビことパンクな彼女が「これがコロっとして可愛いよ」と言うので、李朝後期の白磁の小鉢を求めることにした。

古伊万里のコロ茶碗に似た形だが、小鉢なのか、薬湯を飲むための茶碗なのかは分からない。

ただ、普段使いできる頑健な作りで、手にも馴染む。


かつて東大門(トンデムン)市場の清渓川(チョンゲチョン)ぞいに建ち並んでいた骨董屋は、再開発のため、長安坪(チョンアンピン)に移転し、清渓川は、今やソウル市民の憩いの場となっているが、ソウルは、すべてが近代化され、綺麗になってしまった感がある。

朝鮮王朝時代に貴族階級の両班(ヤンパン)の住まいが軒を連ね、文化の街として知られていた仁寺洞も、例外ではないということか。
posted by 城戸朱理 at 01:07| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする