また巨大地震が来たら、何を持って逃げるかを話し合ったことがある。
「書きかけの原稿は?」
「そんなのいいよ」と藤沢さん。
たしかに、原稿は生きてさえいれば、また書ける。
決して同じものにはならないとはいえ。
ただし、未発表の詩集原稿が手元にあったら・・・
やはり、持って逃げるかも知れない。
「城戸さん、骨董は?」
「無理だよ」と私。
骨董の世界では、これだけは持って逃げるという言い方をよくするのだが、
これは無人島に、もし何かひとつだけ持っていくとしたら、という問いと同じで、
ぐい呑みひとつを持っても徳利をどうするか悩む結果にしかならない。
ふと、脳裏に古唐津の奥高麗茶碗が浮かんだが、
茶碗ひとつ持って逃げても、どうしようもないだろう。
おまけに骨董を持ち出すのなら、絵画や版画などの美術作品は、
あるいは、西脇順三郎や瀧口修造、吉岡実、イェイツやパウンド、ジョイスの初版本は、と、
鼎の軽重を問うことにしかならない気がする。
結局、藤沢さんと私の結論は、とにかく身体ひとつで避難するというものだった。
本来、無一物。
たしかに、生活するうえで、必要なものはあれこれあるが、
あの地震と津波のあとでは、価値観が変わってしまったのも事実だ。
また、地震が来るまでは、出来るだけ平常心で、
これまでと変わらないように暮らそうと思っても、
やはり、骨董などの割れ物を買おうという気には、なかなかなれないし、
そもそも、物を増やす気にもなれない。
増えるのは、避難用品という名目の登山用品ばかり。
本だけは、相変わらず買っているが、これは私の場合、資料でもある。
本当に必要なものは、さして多くない。
それだけが、真理なのかも知れない。
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