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城戸朱理のブログ: 田村隆一が日参した酒屋

2017年02月09日

田村隆一が日参した酒屋

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材木座海岸、光明寺のそばに、昭和のたたずまいを残す酒屋、萬屋がある。

なんとも懐かしい雰囲気で、店内には角打ちのスペースがあり、常連が、飲んでいる様子が、外からも見えるものだから、つい誘われてしまう。

今は、テーブルと椅子になったが、以前は、靴を脱いで上がり框に上がるようになっていた。


実は、この店、田村隆一が、一時期、日参していた店。

田村さんは、萬屋さんのことを『鳥と人間と植物たち―詩人の日記』(主婦の友社)で、二度、言及している。

店名が出てくるほうの一節を紹介しておこう。



昭和四十五年の秋、ぼくは東京から逃げ出して、鎌倉の材木座海岸の借家に移った。昔の漁師町の名残りのせいか、この町内の朝はいたって早い。
豆腐屋さんの朝の早いのはわけがわかるが、軒をつらねている明治中期創業の酒屋さんも床屋さん(バーバー・ショップでは断じてない)も、朝七時から店をあける。おかげでぼくは、酒屋さんの朝の常連となった。
冬だと、古風な上り框のそばに、石油ストーブがあかあかと燃えていて、店に入っていくと、お内儀がだまって座布団をおいてくれる。それから、朝の挨拶をして、ビールを一本おねがいする。朝刊ももってきてくださるので、ビールをゆっくり飲みながら、新聞を読む。
毎朝通うと、アル中と思われるから、二週間ぐらい、朝のビールを断つときもある。二日酔いの迎え酒には、この店で、ビールを二、三本飲み、すっかりご機嫌になると、ウイスキーと「かに」のカンヅメをもらって、近くの友人の家におしかけて、夜まで酒がつづくということも、まま、ある。(中略)
そのうちに、このお店の常連と仲良くなった。五十がらみの実直な人で、横浜の工場の警備員をやっているという話である。夜から朝までの仕事をおえて、自宅に帰る途中、萬屋さん(お酒屋の屋号)によって、日本酒を冷やで二杯飲むのが、きまりとなっているらしい。
夜は、町内の人たちでにぎあう。植木屋、大工、鳶、漁師、菊造り、市営バスの運転手(非番の日は、引越の運送のアルバイトをしている)といった陽気な人たちで、みんな小学校の同窓らしいから、はたで見ていて、気持ちがいい。
それに、この人たちは、みんなハンサムである。新聞、牛乳を配達する青年たちも、いたってハンサムなのだ。しずかで、おちついていて、実があって、しかも快活なのだから、云うところはない。
この町には、東京の下町にもあった「町内」が、じつにこのましい形で、そっくり残っていて、この小さなコミュニティの活力になっている。
中世の鎌倉文化の血が、ぼくの眼に見えない部分で、しずかに呼吸しているのかも知れない。(「家の中の死者」)



というわけで、私も散歩の途中で、萬屋さんの角打ちに混ぜてもらうことにした。

冷蔵庫から氷を出して、焼酎の水割りを作る常連、持参した崎陽軒の焼売を開き、振る舞う常連と、昭和と変わらぬ風景が、いまだにある。

エビスビールを飲みながら、常連のやり取りを聞くともなく聞いていたのだが、この雰囲気は、北鎌倉の侘助に通じるものがあるなと思った。

侘助も、藤沢周氏のような芥川賞作家や美術家、鳶職や植木屋に元会社重役や編集者と、さまざまな仕事の人が集う「町内」が息づいている。

田村さんがこよなく愛した下町的な共同体が、鎌倉には、まだ残っているのだろう。

田村さんは、先に引用した「家の中の死者」で、次のように書いている。



ぼくも、こういう土地で生れて、そして死にたかった。



その言葉通り、鎌倉で生まれはしなかったが、田村隆一は鎌倉の妙本寺に眠っている。


田村さんの材木座海岸の借家時代は、1970年9月から、翌年の11月までで、同月に田村さんは稲村ヶ崎の「持ち家」に転居している。

稲村ヶ崎の引越しには、萬屋の常連が手助けしてくれたことを、田村さんが書いていた。

、『退屈夢想庵』(新潮社)、巻頭の一節である。



三年半まえ、材木座の借家から、稲村ヶ崎の谷戸の奥に引越してきたとき、材木座の明治中期創業の酒屋さんの常連のお世話になった。(中略)
なかでも植木屋のイタさん(イタリア人に似ているので、こういうニックネームがついている。別に板前さんではない)と、その仲間には、わが小庭づくりのお世話になった。



田村さんは、イタさんを始めとする常連に手伝ってもらって、二十坪ほど小庭に、花水木や夏柑、金モクセイや柚子の木を植えたらしい。



角打ちならば、鎌倉駅から近い御成通りの酒屋、高崎屋も、店頭で酒が飲める。

正しくは、店頭ではなく、店の奥右手の立ち呑みスペースなのだが、是枝裕和監督の「海街diary」で、長澤まさみが立ち呑みしていたところが、まさに高崎屋だった。


私が、鎌倉に転居した13年前は、高崎屋の向かいに滝の湯という銭湯があった。

原稿を書き終えた日には、まだ明るいうちに一番湯に浸かり、それから向かいの高崎屋さんで、初夏ならヒューガルデン、それ以外の季節は、エーデルピルスを飲んでから、飲み屋に繰り出したものだった。

滝の湯は、薬草を浸した中将湯で、お湯は茶褐色。

一番湯ともなると、痺れるほど熱く、備え付けの板で、お湯をよく揉まないと入れないほどだった。

端午の節句に、菖蒲湯に気持ちよく浸かっていたら、アメリカ人が四人、どやどやと入ってきて、菖蒲を怪訝そうに摘まんでいたので、由来を英語で説明したこともあった。

けれども、滝の湯で冬至の柚子湯に入った記憶はない。

銭湯で、柚子湯に入ったのは京都、錦小路の錦湯だったっけ。


滝の湯は廃業してしまったが、戦前の木造建築で、なんとも言えない風情があった。
posted by 城戸朱理 at 08:38| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする