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城戸朱理のブログ: 新作コレオグラフ「桃」〜舞踏への切線

2017年07月17日

新作コレオグラフ「桃」〜舞踏への切線

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鯨井謙太郎(正しくは良扁に邑)による新作コレオグラフ「桃」は、全公演完売、立ち見まで出る盛況だったが、それ以上に、鯨井氏が未踏の地平に立ったことを感じさせるものとなった。


なんと、土方巽による舞踏創草期から、舞踏評論を担ってきた大御所、97歳の合田成男さんも来場されたが、何か予感されるものがあったのだろう。

合田さんは、これが自分が会場に足を運んで見る最後の公演になるだろうとおっしゃったそうだが、鯨井氏の踊りに、土方巽的身体と舞踏を感得されたそうだ。

それはオイリュトミーによって形成された鯨井氏の肉体が、舞踏への回帰を意識したことを言うものなのだろうか。


今回、鯨井氏とユニット「CORVUS」を組む定方まこと氏は、踊りだけではなく、ピアノも担当したが、テーマを尋ねられた鯨井氏は「舞踏」と答えたそうだ。

ただし、その「舞踏」とは、かつてあったものではなく、いまだ見たことのない領域に開かれようとしているのだろうし、また、そうでなければ意味がない。


「桃」は、大倉摩矢子(舞踏家)、四戸由香(ダンサー)、桃澤ソノコ(オイリュトミスト)、定方まこと(オイリュトミスト・ダンサー)が、無造作に歩き、すれ違い、たたずむところから始まる。


大倉摩矢子の幽明境に歩み入るかのような動き。

四戸由香のグランギニョルな、壊れた人間=機械仕掛けのマネキンの踊りも圧巻なら、ナイフを持った定方まことの狂気と正気の狭間のような姿も目に焼きつく。

そして、ときにイザナミと化す桃澤ソノコの圧倒的な存在感。


そこを不具の乞食に身をやつした鯨井謙太郎が横切っていく。

その姿は、たしかに土方巽を想起させるところがあるが、そのように了解してしまうのであれば、この公演は、たやすい納得で終わってしまうのではないか。

むしろ、私は鯨井氏が舞踏家とダンサー、それにオイリュトミストと、異なるコンテクストの身体と踊りを異質なまま、ひとつの舞台に投げ込み、自らはオイリュトミーで作られた肉体で、舞踏を踊ろうとしたことに注目すべきだと思う。


また、この公演を、たとえば、無関係のまますれ違い、ときに衝突する現代人と、現代社会を襲うテロルを、乞食という低い地平すれすれの視点と、鳥の俯瞰的な視点の境に出現させたものと読み解くことも出来るかも知れない。

だが、そうした演劇的なドラマトゥルギーによって、解釈されるべきものではない気がする。


吉岡実の詩篇の朗読が流れるパートもあり、鯨井氏が吉岡実『薬玉』の詩句を呟く場面もあったが、日本神話におけるイザナミや昔話の桃太郎を重層化させながら、
踊りが言語による解釈を導くのでもなければ、物語性が肉体を動かすわけでもなく、あたかも肉体がそのまま言語であり、言語がそのまま肉体である世界を、鯨井氏は開示しようとしたのではないだろうか。

その言葉と肉体のはざまを、一個の桃が転がっていく。


乞食として横切るだけではなく、いざ踊り出すと天地をしたがえるようなダイナミズムを現前させる鯨井謙太郎も健在だったが、観客として座っているだけでも、何かと対決させられているような踊りを見たとしか言いようがない。

未踏の舞踏へ、肉体=言語の新たな地平へ。

何かが起こり、さらにそこから新たな何かが、立ち上がりつつある。



(撮影=小野田桂子)
posted by 城戸朱理 at 17:04| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする