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城戸朱理のブログ: 「物憑き」の果てに

2020年01月19日

「物憑き」の果てに



かつて大西時夫氏が発行していた詩誌「ミルノミナ」に「物憑き抄」という随筆を連載していたことがある。


瀧口修造の言葉に導かれ、私にとって「物」とは何なのかを考えてみるためのエッセイだったのだが、年齢を重ねた今、再び、「物」について考察してみたい気持ちが強まってきた。



人類の歴史は、道具とともにある。

縄文時代なら、狩猟と漁労、そして保存のための土器が作られ、弥生時代には稲作のための道具や煮炊きするための土器が作られ、次第に生存のための道具から、余剰としての「物」が生産されるようになっていく。


近代の日本、とりわけ戦後の昭和という時代は、家庭に物が増え続け、やがては溢れるまでの時間だったと言ってもよい。



それが、2007年にiPhoneが発売されてから、劇的なまでに変化した。

とりわけ、書物や音楽、映画などは、旧来の書籍、CD、DVDという「物」から、形のない情報を買ったり、レンタルするといったスタイルに変わっていったが、こうした変化は不可逆的なものであり、私たちの生活を一変させるものとなったのは間違いない。


昭和を象徴する家電でもあったテレビは、一家に一台からひとりに一台まで普及したが、今では若者の部屋にはテレビがないのが当たり前になりつつあるという。

こうした変化のなかで、私たちにとっての「物」も大きな変容を被らざるをえないのではないだろうか。


身の回りを見渡してみると、必要だと思って入手したはずなのに、物という物がうとましく思えることがある。

「物憑き」と「物疲れ」。

昔の人は、百年を経た器物は生命を得て「付喪神」という妖怪になると考えたが、「物」には何らかの用途があるという道具としての側面ばかりではなく、限りなく情緒的な正面があるということなのかも知れない。

そうした「正面」に向かい合ったのがシュルレアリスムにおける「オブジェ」という概念であったわけだが、それは、柳宗悦が民芸運動で唱えた「用の美」とは真逆の「無用の用」であった。


瀧口修造は自らの書斎を「影どもが住む部屋」と呼んで、次のように語っている。



〈物の遍歴。物への遍歴。私の一生は「持たざるもの」の物憑きとして終わったとしたらどうだろう。怖ろしいようなものだ。〉



この怖ろしさに向き合うところから、私も新しい仕事を始めてみたい。
posted by 城戸朱理 at 14:00| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする