「現代詩手帖」7月号に、戦後60年の企画として、
出席者10人の座談会「歴史のなかの現在形」が掲載されている。
この座談会には、私も司会として出席したが、
活字になってみると、
よみがえってくる現場での徒労感とともに、
語っておくべきことがあるように感じられた。
そのことを書いておきたい。
それは、詩の「停滞」をめぐる発言に関してである。
座談会で荒川洋治氏が、詩はこの10年、停滞しているのではないかと発言、
それを受けて佐々木幹郎氏が、20年は詩が停滞しているように思えると語っている。
もちろん、どちらも無根拠な感想、もしくは漠然とした印象でしかないため、
その理由は語られていない。
それだけに、反論される心配のない安全な発言であり、
まったく意味がない代物だが、しかし、だからといって、このまま済ませるわけにはいかないだろう。
数年前、大岡信氏は、詩の世界はこの2、30年、何も新しいことが起こってはいないのではないかという主旨の発言をしたことがある。
だとすると、荒川洋治氏の発言だと1995年から10年間、
佐々木幹郎氏の発言だと1885年から20年間、
大岡信氏の発言だと「停滞」という言葉は避けられていたように記憶しているが、
1970年から、30年以上、詩は停滞していることになる。
では、それ以前は活況を呈していたのかというと、決してそうではない。
1960年代にも、詩が停滞しているという指摘があったらしい。
次に引用するのは、堀川正美による「感受性の階級性・その他」と題された文章の一節で、1962年に発表されたものである。
詩人はくたびれている、とかあるいは現代詩の停滞(詩に前進や発展があると思うやつが考えた言い方かな? 政治状況の形容をそのまま持ってきたものと思う)とかいうことも、感受性の貧困と無関係ではないだろう。
このように60年代にも、詩は停滞していたらしいのだから、もはや茶番である。
つまり、詩は60年代から半世紀に渡って、停滞していたことになるのか。
いや、さまざまな発言を確認していくならば、おそらくは、戦後まもなくから、
あるいは戦前から同様の発言や指摘があったに違いない。
しかし、詩の歴史を考えるとき、そうした発言が嘘でしかないことは明らかだろう。
つまり、厳密に語るならば、現実とは無縁に、詩の停滞を語る人間はつねに、どの時代でもいるというだけのことになる。
そもそも、詩が停滞するなどということがありうるのだろうか?
詩が停滞するのなら、当然、詩が前進したり、横転することだってあるのだろう。
私は冗談を言っているのではない。
まず、「詩が停滞する」という言い方自体が欺瞞でしかないことを指摘したいだけだ。
詩が停滞する?
まさか。「詩」という言葉が、集合的かつ抽象的な概念を語るものであれ、
ジャンルを語るものであれ、論理的には、それが主体となって、前進したり停滞したりすることはありえないのは言うまでもない。
起こりうるのは、ある詩人が停滞することだけだろう。
そうした結果として、詩の世界が不活性化するというのなら、まだ理解できるが。
結局は、詩が停滞しているのではなく、停滞している詩人がいるだけである。
座談会では、荒川発言、佐々木発言に対して、
野村喜和夫氏が異論を唱えている。
次のようなものである。
いま自分は動いていて、動いている自分からの世界というのは分かりますが、
どこかに起源を設定してそこから定点観測するような立場はとれないんですね。
まあ相対性理論みたいなものかも知れませんが、
観測者の視点と動いている者の視点では
時間の流れかたもちがってくると思うんです。
ここでアインシュタインの相対性理論(野村氏が語っているのは、より正確には特殊相対性理論のことである)を
引き合いに出して、指摘されているのも、
定点に止まっている観測者的な詩人と活動を続けている詩人では、
世界がどう見えるかは違うということであって、
そのように考えるのであれば、立ち止まってしまった詩人だけが、詩的状況の停滞を口にすることになる。
つまり、「詩の停滞」を口にする詩人は、自らがすでに動くことなく観測者的な定点に止まってしまった詩人、
すなわち停滞した詩人であることになるわけで、
だとすれば、詩の停滞を口にした荒川洋治氏が10年ほど停滞のうちにあり、
佐々木幹郎氏自身が20年ほどの停滞のうちにあるということになりはしないか。
整理しておこう。
「詩」が停滞するなどということはありえない。
停滞している詩人がいるだけである。
そして、自らが積極的に活動している詩人が、停滞を意識しえないのに対して、
詩的状況の停滞を語る詩人は、必ずや自分自身が停滞のうちにある。
詩の停滞を語ること、それは逆説的に語った人間の停滞を物語ることになるわけである。
だから、私たちは「詩の停滞」を語る人間がいたら、
これから徹底的に問い詰めていかなければならないだろう。
停滞しているのは、あなたなのではないのか、と。
(この項つづく)


