サーチ:
キーワード:
Amazon.co.jp のロゴ
城戸朱理のブログ: 日記

2017年03月15日

伊藤元之さんとバンビ

IMG_5746.jpg



今回の盛岡行きで、バンビことパンクな彼女は、ひとり、北上に行って伊藤元之さんとお会いする計画を立てていたのだが、元之さんが盛岡のイベントに来て下さることになったので、イベント前にお会いすることになった。

盛岡で戦前から続く洋食屋、公会堂多賀で、バンビは元之さんにランチを御馳走になり、いろいろお話をうかがったらしい。

公会堂多賀は、新渡戸稲造も通った盛岡最古の洋食屋で、私も子供のころから、両親によく連れていってもらったっけ。


北園克衛が率いた「VOU」グループの後期を担った視覚詩人である伊藤元之さんを、バンビは、ひそかに「師匠」と仰いでおり、お手紙のやり取りをしては、元之さんの手紙を「my世界遺産」コーナーに収蔵している。


バンビは、元之さんからうかがった話をノートにまとめているようだから、わが国のヴィジュアル・ポエトリーの資料になるかも知れない。
posted by 城戸朱理 at 10:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「3・11いわて文化復興支援フォーラム」のディスカッション「震災と詩歌」へ

IMG_5762.jpgIMG_5760.jpgIMG_5758.jpg



3月11日(土)。

東日本大震災から6年。

この日は、NPOによる復興支援事業、「3・11いわて文化復興支援フォーラム」のディスカッション「震災と詩歌」に出席した。


会場は古い町屋が残る鉈屋町の盛岡町屋物語館。

もともとは、岩手川酒造だった建物である。


このイベントに先立って、いわてアートサポートセンターでは、詩を公募し、優秀作・入選作、20篇を詩集「いわて震災詩歌2017」としてまとめた。

イベントの第一部は、この詩集をもとに構成した詩劇。

ジャズピアニスト、鈴木牧子さんの演奏で、5人の出演者が朗読したのだが、これが異様なまでに劇的だったのは、やはり大震災の体験の重みがあるからだろう。


第二部のディスカッションは、いわてアートサポートセンター理事長の坂田裕一氏の司会で、作家・ジャーナリストの外岡秀俊氏と私のディスカッション「震災と詩歌」。


外岡さんは東大在学中の1976年に、今なお評価が高い石川啄木をテーマにした小説「北帰行」で、文藝賞を受賞されたが、朝日新聞社に入社してからは、小説を書くことはなく、朝日新聞の論説委員、ヨーロッパ総局長を経て、東京本社編集局長を歴任された方である。

2011年に早期退職されてからは再び、小説の筆を取られているが、阪神大震災のときは1年半にわたって被災地を取材、『地震と社会「阪神大震災記」』(みすず書房)をまとめられており、東日本大震災の発生時も、すぐに被災地入りされている。

そのとき、お守りのように宮澤賢治の全集を持っていかれたそうだ。


外岡さんとの対話は、私にとっても大変、刺激的だった。

東日本大震災が起こってから、被災地では霊の目撃談が増え、東北学院大の金菱清教授による『霊性の震災学』(新曜社)といった研究や、講談社ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞作家、奥野修司の『魂でもいいから、そばにいて 3・11後の霊体験を聞く』(新潮社)といった著作も発表されている。

阪神大震災のあとでは、こうしたことはなかったように記憶していたので、外岡さんにお尋ねしたところ、やはり、神戸では、とくになかったらしい。

外岡さんは、阪神大震災は早朝に起こったため、家族がそろって家にいた人がほとんどだったが、
東日本大震災は、平日の午後に発生したので、子供たちは学校に、父親は仕事に、母親は自宅にと、家族がバラバラであったこと、
いまだに遺体が発見されていない行方不明者が二千六百余人もいることが、その理由ではないかと語られていたが、うなずける話だった。

さらに、死者と共存するかのような東北の風土も、その背景にはあるのだろう。


坂田さんから、もし、啄木と賢治が生きていたら、東日本大震災を経験して、どんな作品を書いただろうかという問いかけがあったが、外岡さんの、啄木も賢治もすでに書いているという回答には、まったくその通りだと思った。


沿岸部の被災地では、3・11は、犠牲になられた方々を悼む日であり、文化的なイベントなどは催すべきではないが、逆に被害がなかった盛岡のようなところでは、東日本大震災の惨禍を忘れないために、こうした催しが、これからも企画されるべきだろう。


会場には、伊藤元之さんの姿も。


終了後は、中の橋のベアレンで、打ち上げ。

私にとっては、高校の先輩である岩手詩人クラブ会長の東野正さんとも、久しぶりにお話できた。
posted by 城戸朱理 at 09:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月14日

光原社へ

IMG_5736.jpgIMG_5734.jpgIMG_5732.jpgIMG_5730.jpgIMG_5727.jpg



昼食のあとは、久しぶりに材木町の光原社に行った。

柳宗悦の民芸運動の拠点のひとつであり、命名は宮澤賢治。

賢治の『注文の多い料理店』を刊行したのも光原社なので、中庭には記念碑があり、漆喰の白壁には賢治の詩が書かれている。

中庭の突き当たりは、北上川。


私の実家の什器は、両親が光原社で求めたものが多かったから、子供のころから、よく両親と行った店だけに、私にとっては懐かしいところだ。


お店をひと通り見てから、中庭を散策し、可否館でコーヒーを飲んだ。
posted by 城戸朱理 at 07:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月13日

バンビは喜び、庭駆けまわり???

IMG_5697.jpg



3時すぎに盛岡に到着し、タクシーでグランドホテル・アネックスにチェックインした。

盛岡行きの前に、バンビは天気予報をチェックして、大騒ぎするという一幕が。


「たいへんだよ!
盛岡は最高気温が零度以下、雪も降るみたいだよ!」

北国では、真夏日の逆で、最高気温が氷点下という真冬日がある。

バンビも私も厚手のウールコート、足元も雪に備え、バンビはドクター・マーチンの編み上げブーツ、私はレッドウィングの乗馬用ブーツで武装した。

「雪ん子の写真を撮らなくちゃ!」

バンビは、雪景色を期待していたのだが、街中には、雪は積もっていなかった。


道端に除雪して積み上げられた雪を見つけたバンビは、さっそく撮影を始めたのだが――

スマホで、反対側を撮っていると思ったら、雪を背景に自撮りしていたのである!


このていどの雪でも喜んでいるのだから、雪景色の時期に盛岡に来たら、バンビは喜びのあまり、雪のなかを駆け回りかねない。


パンクだから仕方がないが、さらなる警戒が必要である。
posted by 城戸朱理 at 16:37| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月11日

6年前の今日から



東日本大震災から6年がたった。

午後2時46分。

鎌倉も激しい揺れに襲われ、とりあえず家から出たが、あのときは、いつかは来ると言われていた首都圏直下型地震か、東海地震が、ついに来たのかと思った。

揺れは収まらず、激しさを増していく。

立っていることさえ不安で、中腰になりながら、自宅の倒壊も覚悟したが、その前に、地震はおさまった。

体感では、異様に長く感じたが、実際は数分だったのだろう。

鎌倉は停電し、情報はいっさいない。

震源がどこかさえ、しばらく分からなかった。


ツイッターだけが生きていたので、阪神淡路大震災を経験した方の「水が出る人は、お風呂に水をため、御飯が炊ける人は御飯を炊いて下さい」というツイートに従って、まず、お風呂に水をためた。

寸胴やケトルにも水を満たし、停電しているので、ガスで御飯を炊いた。

鎌倉はプロパンガスなので、まだガスが使えたが、都市ガスなら、御飯も炊けなかったかも知れない。


余震が続くなか、日が暮れるとともに暗闇がやって来る。

日没前に身体が暖まるように、チゲ鍋を作り、家内と早めに食事をした。


停電しているので、暖房も機能しない。

暗闇のなか、布団にくるまって、ラジオやツイッターで情報を集めていたら、午後10時ごろ、突然、電気がついた。

そして、テレビをつけたところ、信じられないような津波の映像を目にした。


東日本大震災の衝撃は、むしろ、それからが本番だったような気がする。


両親や親戚や友人の安否も分からない。

大地が揺れるように、心も揺れ続けているようだった。

それから、余震のたびに避難用のバックパックを抱えて、飛び出る生活が、しばらく続いた。


さらに福島第一原発の事故の報道が追い討ちをかける。


大震災の翌々日には、スーパーの棚から食料品が消えていた。


それから、6年がたった。

しかし、東日本大震災は、被災された方々にとって、いまだに進行中なのだと思う。

そして、日本列島で暮らすかぎり、巨大地震は、どこでも起こりうる。

東日本大震災の姿は、明日のわが身にほかならないことを知れば、生きることの意味も変わる。

そして、死者を想うことが、生者の仕事にほかならないことも。


東日本大震災以来、父と母、母方の伯父たちや父方の伯母、そして友人を見送り、黙祷する日が増えた。

こうして、死者に満たされていくのが、生きているということなのだろうか。
posted by 城戸朱理 at 08:41| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月08日

「はまちと一緒」の季節???



今年も確定申告の時期がやって来てしまった。

私のように文筆業の人間は、必要経費を計上し、控除額を出さなければ確定申告ができない。

つまり、支払い時に天引きされている所得税から、還付金が戻ってくるのだが、事務的なことは苦手だから、毎年、憂鬱になってしまう。


国税庁のHPだと、文筆業の原稿料や音楽家の作曲料は、はまちの養殖や若布の養殖と同じ扱いだから、わが家では確定申告を「はまちと一緒」と呼んでいる。


ともあれ、領収書の束を、資料代、交通費、通信費などに分類し、ひたすら電卓を叩いて、経費の計算をしていたのだが、丸一日かかってしまった。

最後は頭痛に悩まされ、いざ終わったら、放心するほど疲れたが、同時に、3・11を前にすると、こんな苦手なことさえありがたく思えてくるのも事実だ。

東日本大震災で、突然、日常を奪われた方々のことを思うと、雑事に悩まされようが、日々を生きていることだけでも、奇跡のようなことではないだろうか。
posted by 城戸朱理 at 19:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月04日

久保田潤個展「海や雲」へ

IMG_5650.jpgIMG_5653.jpgIMG_5652.jpgIMG_5654.jpg



鎌倉では古民家を改装したカフェやレストランが増えたが、江ノ電、稲村ヶ崎駅に近い骨董屋Rも、古民家をうまく使った店。

R No2は、線路ぞいにあるが、奥行きのない不思議な建物で、大工さんの作業場として作られたものなのだとか。


久保田潤さんの個展「海や雲」は、このR No2の二階で、3月1日から12日まで開催されている。

梯子のような階段を昇ると、そこは屋根裏部屋のようなスペース。

天井が低く、私などは立ち上がれないほどだが、低い椅子が何脚か置かれていて、ゆっくり鑑賞することができた。


ところどころが剥げた白いペンキの壁面に、久保田さんの水彩画はよく似合う。

作品は、タイトル通り、海と雲を描いたもので、稲村ヶ崎や江之島など、鎌倉の住人なら、すぐにそれと知れる景色もあった。


時が止まったような静かな空間に並ぶ静かな絵。

この感覚は、ギャラリーでは得られないものだろう。


旧友のライター、丸山あかねさんが、すでに到着しており、なんと3点を大人買いしていた。

私がいちばん気に入った作品も、丸山さんが選んでしまったので、私は見るだけ。


昨年は、原宿の表参道画廊で個展をしたので、久保田さんの鎌倉での個展は2年ぶりになる。

一昨年のドゥローイングギャラリーでの個展は、油彩だったが、R No2の空間には、やはり水彩画だろう。


稲村ヶ崎は、かつて田村隆一が暮らしたところだが、小町のあたりとは違って、時間までゆるやかに流れているようだった。
posted by 城戸朱理 at 10:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月03日

古唐津展@出光美術館へ行こう!

IMG_5676.jpg



『海賊と呼ばれた男』のモデルでもある出光佐三が収集した古唐津は、三百余点。

館蔵のコレクションで開催されている出光美術館の「古唐津――大いなるやきものの時代」は、13年ぶりの展覧会になる。

これだけの規模の古唐津展は、当分、観ることができないので、友人に声をかけ、2月25日(土)に、再び出光美術館に行くことにした。


集合したのは、石田瑞穂、遠藤朋之、久保田潤の三氏である。


まずは、入ってすぐの絵唐津柿文三耳壺(重要文化財)、ポスターや図録の表紙にも使われている名品だが、その予想外の小ささに久保田さんが驚く。

私も初めて見たときは、同じ感想を抱いたが、いい品というものは、写真だと実物より大きく感じるもののようだ。

ちなみに、図録の表紙には、絵唐津柿文三耳壺と、絵唐津松文大皿、奥高麗茶碗・銘「さざれ石」があしらわれている。


瑞穂くんとバンビことパンクな彼女が、奥高麗茶碗の前で、銘「曙」と銘「秋夜」の由来を検討しているかと思うと、遠藤くんは、展示コーナーごとの解説に感心しながら、見入っていたりする。


私は内覧会、講演会に続いて三度目だけに、小品を丁寧に見ていたのだが、斑唐津ぐい呑み・銘「残雪」などは実に面白かった。

「残雪」は筒状の、いわゆる「立ちぐい呑み」。

斑唐津は、失透性の藁灰釉薬をまとった器だが、古くは白唐津とも呼ばれたように、通常は器全体が白く、ときには、むらむらとした白雲のような上がりになる。

ところが、「残雪」は、窯中で焼き切られて、透明釉をかけたように胎土があらかた透けて見え、ところどころに、白い斑釉が残っている。

たしかに、銘をつけるなら「残雪」しか考えられないが、唐津の振り幅の大きさを示す作例だろう。


古唐津は、地味な焼き物だが、その奥深い魅力は、見る者を「壺中の天」に遊ばせるようでもある。


結局、閉館のアナウンスが流れるまで、古唐津の世界のなかにいた。
posted by 城戸朱理 at 10:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月26日

海蔵寺、十六ノ井

IMG_5583.jpgIMG_5585.jpgIMG_5588.jpgIMG_5589.jpg



海蔵寺の境内に入り、左手の道を行くと、民家が立ち並んでいるのだが、左手に木の扉を持つ「やぐら」のようなものがある。

これが、十六ノ井で、肉眼では、手前の岩床が丸く、くり貫かれた井戸しか見えないほど暗い。

ところが、写真に撮ってみると、内部の様子が分かるのだから、肉眼とレンズの違いを痛感した。


十六ノ井は、鎌倉時代から湧水をたたえていたそうだが、今でも綺麗な水が湧いている。

奥には、聖観音像と弘法大師が安置されていた。

海蔵寺は臨済宗だから、聖観音も弘法大師も祀らない。

十六ノ井は、真言宗の寺院の管轄に置かれた時代があったのかも知れない。


井戸と知らなければ、異様な気配さえ漂うところで、バンビことパンクな彼女は、熱心に写真を撮っていた。
posted by 城戸朱理 at 09:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月25日

海蔵寺門前の底脱ノ井

IMG_5577.jpg



海蔵寺の門前、右手には鎌倉十井のひとつ、底脱(そこぬけ)ノ井が水をたたえている。


二度にわたる元寇を退けた鎌倉幕府第八代執権、北条時宗を支え、幕府の重職を歴任した安達泰盛の娘、千代能が、水を汲んだとき、水桶の底が抜け、千代能が詠んだ一首が、その名の由来だそうだ。


千代能がいただく桶の底抜けて
水たまらねば月もやどらず


この一首は、事実を歌ったのではなく、解脱の心持ちを詠んだのだという解説があったが、「月もやどらず」という結びが素晴らしい。
posted by 城戸朱理 at 09:11| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海蔵寺へ

IMG_5576.jpgIMG_5595.jpgIMG_5592.jpgIMG_5591.jpg



壽福寺のあとは、扇ガ谷の谷戸の突き当たり、小高い山にかこまれた海蔵寺まで歩いた。


海蔵寺も臨済宗建長寺派、室町時代に鎌倉公方・足利氏満の命で、源翁禅師として知られる心昭空外が開山となり、応永元年(1394)に創建された。


源翁禅師といえば、謡曲「殺生石」を思い出す。

鳥羽天皇が那須で白狐を殺させたところ、白狐は石と化し、これに触れた者は、ことごとく死んでしまうため、殺生石として怖れられるようになった。

ところが、後代に源翁禅師が読経し、杖で石を叩いたところ、殺生石は砕け散り、白狐の霊も成仏したという。

金槌の別名「玄能」も、源翁禅師に由来するものである。


海蔵寺は、鎌倉公方の命で、上杉氏定が開基となった寺だけに、鎌倉時代には七堂伽藍を誇る大寺だったという。


鎌倉公方は、室町時代に、関東十か国、後には出羽・陸奥まで含めた東国を支配した鎌倉府の長官であり、足利尊氏の四男、足利基氏を初代とする。

将軍が任命したが、室町幕府から独立性を持ち、東国は、鎌倉公方によって支配されていたと言ってもいい。

その意味では、室町時代は、東国を鎌倉府が、西国を室町幕府が統治していたことになる。

鎌倉公方を補佐したのが、関東管領・上杉家で、後に戦国大名となった。

かの上杉謙信が、関東管領職を継いだのも、鎌倉は鶴岡八幡宮においてである。


海蔵寺は、鎌倉有数の花の寺としても知られており、紅白の梅が咲きこぼれていた。


本尊は、「啼(なき)薬師」の別名を持つ薬師如来。

尊像の胎内に、もうひとつの薬師さまの顔が納められた不思議な仏像である。


江戸時代に建てられた茅葺きの庫裡(くり)も堂々たるもので、素晴らしかった。
posted by 城戸朱理 at 09:10| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月24日

壽福寺の墓地

IMG_5572.jpgIMG_5567.jpgIMG_5568.jpg



壽福寺の裏手、裏山の裾野は墓地になっており、俳人、高浜虚子や作家、大佛次郎の墓がある。

墓以上に目立つのは、山裾の「やぐら」だろう。

「やぐら」は、中世の墳墓で、鎌倉では、至るところで見かける。

柳美里さんは南相馬に転居されたが、鎌倉の御宅の庭には、たしか「やぐら」がふたつあったっけ。


かつては、権力者が亡くなると法華堂を建立したわけだが、鎌倉は三方を山に囲まれた狭小の地、土地がなくなってしまうという理由で、鎌倉幕府は法華堂の建立を禁止した。

それで、有力者は岩肌をくりぬき墓所を作るようになったのが、「やぐら」である。

「やぐら」は壁を漆喰で塗り固め、なかには仏像や供養塔が安置されている。


壽福寺には、北条政子と源実朝の「やぐら」があるが、北条政子の墓じたいは、静岡の韮山に移されたそうだ。


源実朝の「やぐら」の前で、手を合わせながら、12歳で征夷大将軍となり、28歳という若さで暗殺された天才歌人、実朝のことを思った。
posted by 城戸朱理 at 09:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

壽福寺に散策

IMG_5560.jpgIMG_5561.jpgIMG_5563.jpgIMG_5565.jpg



先月から、急ぎの締切がない週末は、鎌倉散策の時間を取るようにしている。

バンビことパンクな彼女は、この散歩を楽しみにしているようだ。

「お散歩のあとは何を食べようか?」
・・・・・・

いや、バンビが楽しみにしているのは、正確には、散歩のあとの御飯なのだが。


しかし、バンビに道案内をさせると、野生児だけに険しい山道ばかりを選ぶ傾向があるので、とんでもないことになるのは、すでに経験済みである。

そこで、2月19日(日)は、車も走っている普通の道路を歩いて、まずは、壽福寺に立ち寄った。


壽福寺のある扇ガ谷のあたりは、かつて源頼朝の父、義朝の屋敷があったそうだ。

壽福寺は、臨済宗建長寺派で、鎌倉五山の第三位。

正治2年(1200)、北条政子が、臨済宗の開祖、栄西を招いて創建されただけに、寺宝として、栄西が、鎌倉幕府第三代将軍・源実朝に献上した『喫茶養生記』(国指定重要文化財)が残されている。

ふだんは拝観できないが、掃除が行き届いた境内には、清浄の気が漂う。

山門のかたわらの紅梅が、満開だった。


壽福寺は、中原中也が、その晩年を過ごした中也終焉の地でもある。

中也は、壽福寺の境内の借家に暮らし、そこで息を引き取った。
posted by 城戸朱理 at 09:50| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月23日

出光美術館での講演

IMG_5546.jpg



2月14日(火)は、翌日の出光美術館での講演のため、資料を読み、コピーを取り、準備に費やした。

この日は、バレンタインデー。

バンビことパンクな彼女=鹿千代が、モエ・エ・シャンドンを買ってきてくれたので、夜はシャンパンで乾杯する。


15日(水)は、いよいよ、出光美術館の水曜講演会である。

これは、出光美術館開館50周年記念「古唐津 大いなるやきものの時代」展に合わせたもので、私の演題は「古唐津と私」。


3時に会場入りして、再び展示をじっくり見てから、6時からの講演に臨んだ。

出光美術館は、皇居のお堀端という立地だけに、東京の夕景が、実に美しい。


出光美術館の水曜講演会は、会員限定だが、会場には百数十人もの聴衆の方々が。


担当学芸員の柏木真理さんの紹介のあと、講演は、魏志倭人伝に登場する唐津地方のことから話し始めた。


「また一海を度(わた)りて千余里、末盧国(まつらこく、佐賀県唐津市及び東松浦郡)にいたる。
四千余戸あり、山海に浜(そ)いて居す。
草木は茂りて盛ん、行くに前人を見ず、好く魚鰒(あわび)を捕り、水の深浅なく沈み没してこれをとる」


古代から史書に登場する唐津地方は、わが国にとって大陸から東南アジアへの玄関であり、6世紀には大友狭手彦による半島侵攻、11世紀には二度にわたる刀伊(女真族)の来襲、そして13世紀には、やはり二度にわたる元軍・高麗軍による元寇があった。

一方、日本側も松浦党を中心にした和寇が、半島から大陸を侵略、16世紀には嘉靖の大和寇時代を迎える。

そして、16世紀末には豊臣秀吉による文禄・慶長の役。

二度の戦役で、日本に連れてこられた朝鮮人は、20余万人。

当時は、織田信長から始まった茶の湯の隆盛期であったため、半島の陶工は優遇され、九州諸窯が開かれたので、文禄・慶長役は「焼き物戦争」とも呼ばれている。

古唐津もまた、そうした半島との関係から最盛期を迎えることになったのだった。


朝鮮王朝では、陶工は貧しく、妻帯もできなかったというが、日本では士分に取り立てられ、テクノクラートとして遇されたため、帰郷を望む人は、ほとんどいなかったらしい。

ちなみに、高取焼の祖、高取八山(朝鮮名、八山)は、黒田長政に七十人扶持で召し抱えられた。

池波正太郎の『鬼平犯科帳』でおなじみの長谷川平蔵宣以(のぶため)は、火付盗賊改方長官だが、この加役の役料が四十人扶持だから、陶工の優遇ぶりが分かるのではないだろうか。

ちなみに一人扶持は、1.8石なので、七十人扶持は126石。

江戸時代は、一石が一両、米価で換算すると一両は約10万、大工の手間賃で換算すると、現代の30万ほどになるという。

江戸時代には、物価が高い江戸でさえ、一両あれば四人家族が数カ月、余裕をもって暮らしていけたというから、実勢に近い大工の手間賃で換算すると、高取八山の年収は、今日の3780万円ほど、年収四千万弱になる。

もちろん、単純には比較できないが、最下級の武士の俸給が三両一人扶持――武士を罵るときのサンピンはここから来ている――だから、陶工が特別な扱いを受けたことが分かると思う。

ここまでが前振りで、そこから、私が考える古唐津の魅力を語っていったのだが、最大のポイントは、李氏朝鮮の陶工の作る焼き物が、一世代も経ずに、すぐさま和様化したのは、なぜだったのかということだろう。

もうひとつ、留意したのは器物と言葉の関係なのだが、この講演は出光美術館の館報に採録される予定である。


講演が終わってからは、学芸課長の笠嶋忠幸さん、柏木真理さんと会食。

出光美術館が入っている帝劇ビル地下に、神田の老舗鰻屋きくかわの支店があって、ビールで乾杯したあと、美味しい料理と鰻を御馳走になった。



翌日は、有栖川有栖『狩人の悪夢』の付箋を貼り込んだページを再読してから、「週刊 現代」のための書評を執筆する。

前日の講演で燃え尽きたためか、異様に時間がかかったが、夕方に、ようやく書き終えることができた。


数日ぶりにメールをチェックしたら、三井喬子さんから『現代詩文庫 三井喬子詩集』解説の執筆依頼が。

喜んでお引き受けすることにしたが、『現代詩文庫 和合亮一詩集』解説を書き終えたら、次は、三井さんの解説を書くことになる。
posted by 城戸朱理 at 00:13| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月22日

テレコムスタッフで試写のあとは

IMG_5543.jpgIMG_5540.jpgIMG_5544.jpg



外出が続いて、ブログの更新が滞ってしまった。

原稿の締切を連日、抱えているときでもブログは書けるが、打ち合わせや講演で外出が続くと、ろくに更新ができなくなるのは、疲れ方が違うからだろうか。


深川吟行の翌日、2月13日(月)は、青山のテレコムスタッフでCS放送番組2本の試写が4時からあった。

1本目は、「Edge カニエ・ナハ篇」で、これまで番組ADをつとめてくれた熊田草平氏の初ディレクター作品。

半年がかりの撮影となったが、前衛を生きる詩人の姿は、圧巻だった。


もう1本は、伊藤憲ディレクターによる「ノロとユタ 奄美の生き神様たち」。

これは、柳美里さんが青森のイタコを訪ねたコンテンツに続く「民衆の信仰 その祈りとかたち」の2作目になる。

いまだに生活のなかに息づく神事。

「ノロ」は、共同体の神事を司る、いわば神官的な役割の「生き神様」で、特別な家系の女性だけがなれる。

それに対して「ユタ」は、個人の悩みや苦しみを神の力で取り除く「生き神様」で、本人の意思とは関係なく、なってしまうシャーマン的存在。

奄美には、今でも数十人の「生き神様」がいるという。

その様子は、映像で見ているだけでも、自分のなかの「近代」が音を立てて崩れていくような衝撃だった。

奄美、そして琉球弧とは、なんと不思議な土地なのだろう。


試写のあとは、伊藤憲ディレクターと、進行中の「Edge 杉本真維子篇」の打ち合わせ、
さらに平田潤子ディレクターとEdgeのホームページの打ち合わせをしてから、近所の「田」で寺島高幸プロデューサーらと軽く飲む。


さらに、保土ヶ谷駅に隣接する千成寿司で、島村輝フェリス大教授と9時に待ち合わせていたので、新橋経由、横須賀線で保土ヶ谷へ。

島村先生は先に着いていたので、まずはビールで乾杯する。

千成寿司では、岩手放送に就職がきまったフェリスの4回生、佐藤桃花さんがバイトをしているので、ときどき佐藤さんを交えながら、歓談。

次に佐藤さんに会うとしたら、盛岡だろうか。


帰宅したのは0時前だった。
posted by 城戸朱理 at 12:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バレンタインも江戸時代???

ファイル0001.gifIMG_5550.jpg



「鹿千代にござりまする!」

また、バンビことパンクな彼女が時代劇モードになってしまった――

「鹿千代は武士の子でござりますれば」


「南蛮渡来のものではなく、国元の菓子にしてみました」
!!!!!!

そういって、バンビ=鹿千代が出したのは、鎌倉は豊島屋のチョコレートだったのである!


豊島屋といえば、鳩サブレーが有名すぎて、和菓子や洋菓子、はてはパンまで扱っているのは、あまり知られていないが、どれもレベルが高い。

そこでバンビ=鹿千代は、今年のバレンタインのチョコレートを豊島屋で選ぶことにしたらしい。


たしかに、ゴディバのような「南蛮渡来」ではなく、「国元の菓子」だが、そもそもチョコレート自体が「南蛮渡来」である。

パンクなうえに、鹿千代は「六つか七つ」という子供の設定だから、仕方がない。

だいたい「鹿千代」も「しかちよ」ではなく、「シカッチホ」と発音している。

シカッチホ――

楽しげな響きではあるが、「武士の子」という感じではなく、ディズニーのキャラみたいだ。


ともあれ、小美人剣士・鹿千代物語は、当分、続くらしい。

パンクだから仕方がないが、さらなる注意が必要である。
posted by 城戸朱理 at 10:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

深川吟行

IMG_5519.jpgIMG_5529.jpgIMG_5527.jpgIMG_5531.jpg



2月12日(日)は、東京都現代美術館が開催している「MOT Satelite」の「吉増剛造プロジェクト」の一環として深川吟行があった。

松尾芭蕉ゆかりの土地を歩いて、みんなで俳句を書くわけだが、宗匠役は芭蕉研究でも知られる俳人の高柳克弘さん。

参加したのは、朝吹真理子(小説家)、花代(パフォーマー、写真家、現代美術家)、カニエ・ナハ(詩人)のみなさんに私である。

前日に、吉増さんから、帽子とレインコート着用の指示が。

これは「詩人は身を隠す――」ということらしい。

ところが。

世代によって「レインコート」のとらえ方が違うようで、朝吹さんは、ノースフェイスの完全防水の登山仕様、高柳さん、カニエさん、花代さんは、ビニールのいわゆる雨合羽と、現場は珍妙な雰囲気。

吉増さんから私の世代なら、レインコートと聞くと、バーバリーやアクアスキュータムに代表されるコットンギャバジンのロングコートを思い浮かべるが、若い世代は違うらしい。

案の定、吉増さんはコットンのステンカラーコートで現れた。


吉増さんの希望で、バンビことパンクな彼女がローライ同盟にも声をかけ、今道子さん(写真家)、遠藤朋之さん(アメリカ文学、和光大准教授)も同行するという贅沢な吟行になった。


とはいえ、高柳さん以外は、俳句初心者。

私は、正岡子規国際俳句賞、芝不器男俳句新人賞の選考委員をおおせつかったときに、松山で二回だけだが吟行に参加したことがあるので、初心の経験者(?)というところか。

吟行の様子は、鈴木余衣さんが句会の会場となる清澄庭園大正記念館にライヴ中継することになっていたのだが、機械の不調でうまくいかなかったらしい。


隅田川ぞい、松尾芭蕉像から始まって、芭蕉庵跡など、芭蕉ゆかりの地を歩き、高柳さんに季語を教えてもらいながら、吟行は続いたのだが、参加者は季語の生き字引のような高柳さんに舌を巻くことになった。


会場入りして、30分弱で三句提出が課題だったので、私は五句を書き、うち三句を選ぶ。

それを吉増さんが、短冊に清書して張り出し、高柳さんの司会で各自が三句を選んだ。

この時点では、作者の名は伏せられているのだが、写真の青いマジックが得点で、黒いマジックが作者である。

私が選んだのは次の三句。


女神の膝やはらかならむ椿落つ(克弘)

道明寺ここからは空、そして春(ナハ)

春浅しマダガスカルの蚕玉(真理子)


最高得票は三票でカニエさんの前掲句と吉増さんの次の一句。


たんぽぽに手をついてみる冥土かな(剛造)



私が提出したのは、次の三句である。


白梅や盛るものなければ夜を盛る

黒髪の蒼ざめるまで絵踏みかな

貧しさや朱引きの内なる蕗の薹


このうち、一句目は吉増さん、カニエさんの票を二句目はカニエさんの票をいただいた。

ちなみに三句目の「朱引き」とは、江戸時代の江戸府内を指す言葉、季語は「白梅」「絵踏み」「蕗の薹」になる。


吉増さんは、しきりに「俳句は土地への挨拶」と語られていたが、たしかに、吟行は挨拶句の要素が大きい。


句会は午後5時で終了。

会場には読売文学賞を受賞したばかりのジェフリー・アングルスさん、林浩平さんの姿も。

盛岡一高の後輩で、高校時代から活躍ぶりを耳にしていた早稲田大学の谷村行海(みきみ)さんが挨拶に来てくれたのも嬉しかった。

谷村さん、鎌倉にも遊びに来て下さい。


一同はカニエさんの先導で、深川らしい居酒屋へ。

去年、結婚したばかりの朝吹さんの御主人(活躍中のデザイナー!)や詩人の永方佑樹さんも参加され、賑やかな会になったが、ここでも、ひとしきり吉増さんが首からさげたローライフレックスが話題になる。

朝吹さんが、レンズで覗く世界の奥行きの深さに興味津々の様子だったが、ローライを覗く朝吹さんをバンビがさらに激写するというひとこまが、なんとも愉快だった。

その隣で、今道子さんが微笑んでいる。
posted by 城戸朱理 at 10:19| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月13日

寒波のなかの外出



寒波が襲来したが、所用で外出する日が続いている。


2月8日(水)は、代理人をお願いしている御成町法律事務所の二見宏史先生から連絡があったので、事務所へ。

係争中の調停について、進行予定を聞く。

こういった揉め事は、なかなか解決しないものだが、二見先生が丹念に調査を進めてくれているので、安心する。

打ち合わせが終わってから、バンビことパンクな彼女と待ち合わせて、クルベル・キャンで食事をした。


翌日(木)は、まず、「岩手日報」投稿欄の選評2回分を執筆して、メール。

それから、雪がちらつくなかを北鎌倉の侘助へ。

5時45分に井上春生監督が北鎌倉に到着した。

小津安二郎監督邸の台所の床材をテーブルにした、侘助の奥のスペースを借りて、ドキュメンタリー映画「幻をみるひと。A tounge of Water 詩人、吉増剛造」ラッシュを見る。

1時間46分と、ドキュメンタリー映画としては、長尺だが、井上監督が、何日も徹夜して繋いだだけあって、実に斬新な作品になった。

この映画に関しては、別にアップしたい。

試写のあとは、大船の石狩亭に席を移し、細部の打ち合わせをしながら、祝杯をあげる。

公開は、まだまだ先なのに、祝杯だけは何度でも、という困った人たちなのだった。


翌日は、岩手日報に入選作品を宅急便で手配してから、「週刊 現代」から書評を依頼された有栖川有栖『狩人の悪夢』(角川書店)を読み始めた。

臨床犯罪学者、火村英生を探偵役にするシリーズの最新作である。


午後3時にバンビことパンクな彼女と待ち合わせて、駅前のカフェでPCを広げ、フェリス女学院大学の来年度の講義のシラバスを入力する。

それから、横須賀線で東京へ。

目指すは、有楽町の出光美術館。

翌日から始まる「開館50周年記念 古唐津」展内覧会に招待していただいたので、見えない尻尾を振りながら(?)、有楽町に向かう。

出光の創業者、出光佐三は、桃山から江戸初期に焼かれた古唐津を愛し、300点超という日本でも最大規模のコレクションを作り上げた。

今回は、13年ぶりとなる古唐津展で、重要文化財2点を含む展示は、圧巻。

担当学芸員の柏木真理さんの解説も素晴らしく、素朴さと野趣と品格が同居する古唐津の魅力を堪能した。

出光美術館での私の講演は、15日。

会員限定なので、一般の方は聴講できないが、準備を進めている。
posted by 城戸朱理 at 12:38| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月06日

材木座から富士を望んで

IMG_5460.jpgIMG_5463.jpg



光明寺をあとにして、材木座海岸に出てみた。

日没を前にした海岸は、風が冷たい。


材木座も光明寺のあたりまで来ると、逗子マリーナも近い。

西を見ると、富士山のシルエットが浮かんでいた。
posted by 城戸朱理 at 11:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

九品寺から光明寺へ

IMG_5437.jpgIMG_5442.jpgIMG_5446.jpgIMG_5455.jpgIMG_5452.jpg



2月4日(土)は、先週に引き続き、鎌倉のお寺を訪ねて、散策することにした。


前回は山を超えて、北鎌倉に行ったので、今回は海のほう、材木座の光明寺に行くことにしたのだが――


「大丈夫だよ!
材木座だから、すぐだよ!」


バンビことパンクな彼女が、そう言うので、歩きやすいスニーカーを履いて、出発する。

あちこちに水仙が咲き乱れ、梅も満開。

風はまだ冷たいものの、立春の気配が、そこかしこに感じられる。


鎌倉駅を超え、戦時中、西脇順三郎が疎開していた大町へ。

まずは、九品寺に立ち寄った。

内裏山霊嶽院九品寺の開基は、鎌倉責めの総大将だった新田義貞。

鎌倉幕府が滅んだあと、新田義貞が敵方の北条氏を供養するために、建武士3年(1336)に建立したと伝えられる小さな寺である。


檀浦に平家を滅ぼし、源頼朝は鎌倉幕府を開いたわけだが、源氏は第三代将軍、源実朝で終わり、それ以降、執権として実権を握ったのは平家の流れを汲む北条氏だった。

鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞、室町幕府を開いた足利尊氏は源氏の嫡流であり、九品寺の小ぢんまりとした境内にたたずんでいると、「兵(つわもの)どもが夢の跡」という想いを禁じえない。

九品寺は浄土宗で、本尊は阿弥陀三尊。

山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」という額の文字は、新田義貞の筆を写したものだという。

境内の老梅が、満開だった。


さらに歩いて、海が見えるところまで来たら、光明寺も近い。


鎌倉幕府第四代執権、北条経時を開基とする天照山蓮華院光明寺は、寛文元年(1243)の創建。

浄土宗関東総本山だけに、広壮な伽藍を持つ。

光明寺は妙本寺と並んで、田村隆一が愛した鎌倉の寺だが、田村さんは、次のように書いている。



光明寺は十三世紀中庸葉以来の浄土宗の関東総本山で、一八四七年(弘化四年)に再建された壮大な山門がある。そのシンメトリーの美しさは、いつ見てもあきない。大晦日の夜は、鐘楼に老若男女が集って、除夜の鐘を一人に一つずつ、つかせてくれるのである」
(『鳥と人間と植物たち―詩人の日記』)



田村さんがエッセイで、何度か言及されている光明寺の山門は、鶴岡八幡宮から移築したものなのだとか。

神社で山門と聞くと、意外な感じがするかもしれないが、明治になって、神仏分離令が出されるまで、鶴岡八幡宮は、八幡宮と真言宗の寺院が一体となった「鶴岡八幡宮寺」で、五重塔がある写真も残されている。


光明寺は、後花園天皇から山門の「天照寺」の掲額を、御土御門天皇からは、勅願寺として「関東総本山」の称号を受けただけあって、その山門は、たしかに、男性的で潔いまでの美しさがある。


山門では猫が日向ぼっこをしていた。
posted by 城戸朱理 at 11:01| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする