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城戸朱理のブログ: 日記

2017年03月04日

久保田潤個展「海や雲」へ

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鎌倉では古民家を改装したカフェやレストランが増えたが、江ノ電、稲村ヶ崎駅に近い骨董屋Rも、古民家をうまく使った店。

R No2は、線路ぞいにあるが、奥行きのない不思議な建物で、大工さんの作業場として作られたものなのだとか。


久保田潤さんの個展「海や雲」は、このR No2の二階で、3月1日から12日まで開催されている。

梯子のような階段を昇ると、そこは屋根裏部屋のようなスペース。

天井が低く、私などは立ち上がれないほどだが、低い椅子が何脚か置かれていて、ゆっくり鑑賞することができた。


ところどころが剥げた白いペンキの壁面に、久保田さんの水彩画はよく似合う。

作品は、タイトル通り、海と雲を描いたもので、稲村ヶ崎や江之島など、鎌倉の住人なら、すぐにそれと知れる景色もあった。


時が止まったような静かな空間に並ぶ静かな絵。

この感覚は、ギャラリーでは得られないものだろう。


旧友のライター、丸山あかねさんが、すでに到着しており、なんと3点を大人買いしていた。

私がいちばん気に入った作品も、丸山さんが選んでしまったので、私は見るだけ。


昨年は、原宿の表参道画廊で個展をしたので、久保田さんの鎌倉での個展は2年ぶりになる。

一昨年のドゥローイングギャラリーでの個展は、油彩だったが、R No2の空間には、やはり水彩画だろう。


稲村ヶ崎は、かつて田村隆一が暮らしたところだが、小町のあたりとは違って、時間までゆるやかに流れているようだった。
posted by 城戸朱理 at 10:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月03日

古唐津展@出光美術館へ行こう!

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『海賊と呼ばれた男』のモデルでもある出光佐三が収集した古唐津は、三百余点。

館蔵のコレクションで開催されている出光美術館の「古唐津――大いなるやきものの時代」は、13年ぶりの展覧会になる。

これだけの規模の古唐津展は、当分、観ることができないので、友人に声をかけ、2月25日(土)に、再び出光美術館に行くことにした。


集合したのは、石田瑞穂、遠藤朋之、久保田潤の三氏である。


まずは、入ってすぐの絵唐津柿文三耳壺(重要文化財)、ポスターや図録の表紙にも使われている名品だが、その予想外の小ささに久保田さんが驚く。

私も初めて見たときは、同じ感想を抱いたが、いい品というものは、写真だと実物より大きく感じるもののようだ。

ちなみに、図録の表紙には、絵唐津柿文三耳壺と、絵唐津松文大皿、奥高麗茶碗・銘「さざれ石」があしらわれている。


瑞穂くんとバンビことパンクな彼女が、奥高麗茶碗の前で、銘「曙」と銘「秋夜」の由来を検討しているかと思うと、遠藤くんは、展示コーナーごとの解説に感心しながら、見入っていたりする。


私は内覧会、講演会に続いて三度目だけに、小品を丁寧に見ていたのだが、斑唐津ぐい呑み・銘「残雪」などは実に面白かった。

「残雪」は筒状の、いわゆる「立ちぐい呑み」。

斑唐津は、失透性の藁灰釉薬をまとった器だが、古くは白唐津とも呼ばれたように、通常は器全体が白く、ときには、むらむらとした白雲のような上がりになる。

ところが、「残雪」は、窯中で焼き切られて、透明釉をかけたように胎土があらかた透けて見え、ところどころに、白い斑釉が残っている。

たしかに、銘をつけるなら「残雪」しか考えられないが、唐津の振り幅の大きさを示す作例だろう。


古唐津は、地味な焼き物だが、その奥深い魅力は、見る者を「壺中の天」に遊ばせるようでもある。


結局、閉館のアナウンスが流れるまで、古唐津の世界のなかにいた。
posted by 城戸朱理 at 10:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月26日

海蔵寺、十六ノ井

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海蔵寺の境内に入り、左手の道を行くと、民家が立ち並んでいるのだが、左手に木の扉を持つ「やぐら」のようなものがある。

これが、十六ノ井で、肉眼では、手前の岩床が丸く、くり貫かれた井戸しか見えないほど暗い。

ところが、写真に撮ってみると、内部の様子が分かるのだから、肉眼とレンズの違いを痛感した。


十六ノ井は、鎌倉時代から湧水をたたえていたそうだが、今でも綺麗な水が湧いている。

奥には、聖観音像と弘法大師が安置されていた。

海蔵寺は臨済宗だから、聖観音も弘法大師も祀らない。

十六ノ井は、真言宗の寺院の管轄に置かれた時代があったのかも知れない。


井戸と知らなければ、異様な気配さえ漂うところで、バンビことパンクな彼女は、熱心に写真を撮っていた。
posted by 城戸朱理 at 09:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月25日

海蔵寺門前の底脱ノ井

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海蔵寺の門前、右手には鎌倉十井のひとつ、底脱(そこぬけ)ノ井が水をたたえている。


二度にわたる元寇を退けた鎌倉幕府第八代執権、北条時宗を支え、幕府の重職を歴任した安達泰盛の娘、千代能が、水を汲んだとき、水桶の底が抜け、千代能が詠んだ一首が、その名の由来だそうだ。


千代能がいただく桶の底抜けて
水たまらねば月もやどらず


この一首は、事実を歌ったのではなく、解脱の心持ちを詠んだのだという解説があったが、「月もやどらず」という結びが素晴らしい。
posted by 城戸朱理 at 09:11| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海蔵寺へ

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壽福寺のあとは、扇ガ谷の谷戸の突き当たり、小高い山にかこまれた海蔵寺まで歩いた。


海蔵寺も臨済宗建長寺派、室町時代に鎌倉公方・足利氏満の命で、源翁禅師として知られる心昭空外が開山となり、応永元年(1394)に創建された。


源翁禅師といえば、謡曲「殺生石」を思い出す。

鳥羽天皇が那須で白狐を殺させたところ、白狐は石と化し、これに触れた者は、ことごとく死んでしまうため、殺生石として怖れられるようになった。

ところが、後代に源翁禅師が読経し、杖で石を叩いたところ、殺生石は砕け散り、白狐の霊も成仏したという。

金槌の別名「玄能」も、源翁禅師に由来するものである。


海蔵寺は、鎌倉公方の命で、上杉氏定が開基となった寺だけに、鎌倉時代には七堂伽藍を誇る大寺だったという。


鎌倉公方は、室町時代に、関東十か国、後には出羽・陸奥まで含めた東国を支配した鎌倉府の長官であり、足利尊氏の四男、足利基氏を初代とする。

将軍が任命したが、室町幕府から独立性を持ち、東国は、鎌倉公方によって支配されていたと言ってもいい。

その意味では、室町時代は、東国を鎌倉府が、西国を室町幕府が統治していたことになる。

鎌倉公方を補佐したのが、関東管領・上杉家で、後に戦国大名となった。

かの上杉謙信が、関東管領職を継いだのも、鎌倉は鶴岡八幡宮においてである。


海蔵寺は、鎌倉有数の花の寺としても知られており、紅白の梅が咲きこぼれていた。


本尊は、「啼(なき)薬師」の別名を持つ薬師如来。

尊像の胎内に、もうひとつの薬師さまの顔が納められた不思議な仏像である。


江戸時代に建てられた茅葺きの庫裡(くり)も堂々たるもので、素晴らしかった。
posted by 城戸朱理 at 09:10| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月24日

壽福寺の墓地

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壽福寺の裏手、裏山の裾野は墓地になっており、俳人、高浜虚子や作家、大佛次郎の墓がある。

墓以上に目立つのは、山裾の「やぐら」だろう。

「やぐら」は、中世の墳墓で、鎌倉では、至るところで見かける。

柳美里さんは南相馬に転居されたが、鎌倉の御宅の庭には、たしか「やぐら」がふたつあったっけ。


かつては、権力者が亡くなると法華堂を建立したわけだが、鎌倉は三方を山に囲まれた狭小の地、土地がなくなってしまうという理由で、鎌倉幕府は法華堂の建立を禁止した。

それで、有力者は岩肌をくりぬき墓所を作るようになったのが、「やぐら」である。

「やぐら」は壁を漆喰で塗り固め、なかには仏像や供養塔が安置されている。


壽福寺には、北条政子と源実朝の「やぐら」があるが、北条政子の墓じたいは、静岡の韮山に移されたそうだ。


源実朝の「やぐら」の前で、手を合わせながら、12歳で征夷大将軍となり、28歳という若さで暗殺された天才歌人、実朝のことを思った。
posted by 城戸朱理 at 09:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

壽福寺に散策

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先月から、急ぎの締切がない週末は、鎌倉散策の時間を取るようにしている。

バンビことパンクな彼女は、この散歩を楽しみにしているようだ。

「お散歩のあとは何を食べようか?」
・・・・・・

いや、バンビが楽しみにしているのは、正確には、散歩のあとの御飯なのだが。


しかし、バンビに道案内をさせると、野生児だけに険しい山道ばかりを選ぶ傾向があるので、とんでもないことになるのは、すでに経験済みである。

そこで、2月19日(日)は、車も走っている普通の道路を歩いて、まずは、壽福寺に立ち寄った。


壽福寺のある扇ガ谷のあたりは、かつて源頼朝の父、義朝の屋敷があったそうだ。

壽福寺は、臨済宗建長寺派で、鎌倉五山の第三位。

正治2年(1200)、北条政子が、臨済宗の開祖、栄西を招いて創建されただけに、寺宝として、栄西が、鎌倉幕府第三代将軍・源実朝に献上した『喫茶養生記』(国指定重要文化財)が残されている。

ふだんは拝観できないが、掃除が行き届いた境内には、清浄の気が漂う。

山門のかたわらの紅梅が、満開だった。


壽福寺は、中原中也が、その晩年を過ごした中也終焉の地でもある。

中也は、壽福寺の境内の借家に暮らし、そこで息を引き取った。
posted by 城戸朱理 at 09:50| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月23日

出光美術館での講演

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2月14日(火)は、翌日の出光美術館での講演のため、資料を読み、コピーを取り、準備に費やした。

この日は、バレンタインデー。

バンビことパンクな彼女=鹿千代が、モエ・エ・シャンドンを買ってきてくれたので、夜はシャンパンで乾杯する。


15日(水)は、いよいよ、出光美術館の水曜講演会である。

これは、出光美術館開館50周年記念「古唐津 大いなるやきものの時代」展に合わせたもので、私の演題は「古唐津と私」。


3時に会場入りして、再び展示をじっくり見てから、6時からの講演に臨んだ。

出光美術館は、皇居のお堀端という立地だけに、東京の夕景が、実に美しい。


出光美術館の水曜講演会は、会員限定だが、会場には百数十人もの聴衆の方々が。


担当学芸員の柏木真理さんの紹介のあと、講演は、魏志倭人伝に登場する唐津地方のことから話し始めた。


「また一海を度(わた)りて千余里、末盧国(まつらこく、佐賀県唐津市及び東松浦郡)にいたる。
四千余戸あり、山海に浜(そ)いて居す。
草木は茂りて盛ん、行くに前人を見ず、好く魚鰒(あわび)を捕り、水の深浅なく沈み没してこれをとる」


古代から史書に登場する唐津地方は、わが国にとって大陸から東南アジアへの玄関であり、6世紀には大友狭手彦による半島侵攻、11世紀には二度にわたる刀伊(女真族)の来襲、そして13世紀には、やはり二度にわたる元軍・高麗軍による元寇があった。

一方、日本側も松浦党を中心にした和寇が、半島から大陸を侵略、16世紀には嘉靖の大和寇時代を迎える。

そして、16世紀末には豊臣秀吉による文禄・慶長の役。

二度の戦役で、日本に連れてこられた朝鮮人は、20余万人。

当時は、織田信長から始まった茶の湯の隆盛期であったため、半島の陶工は優遇され、九州諸窯が開かれたので、文禄・慶長役は「焼き物戦争」とも呼ばれている。

古唐津もまた、そうした半島との関係から最盛期を迎えることになったのだった。


朝鮮王朝では、陶工は貧しく、妻帯もできなかったというが、日本では士分に取り立てられ、テクノクラートとして遇されたため、帰郷を望む人は、ほとんどいなかったらしい。

ちなみに、高取焼の祖、高取八山(朝鮮名、八山)は、黒田長政に七十人扶持で召し抱えられた。

池波正太郎の『鬼平犯科帳』でおなじみの長谷川平蔵宣以(のぶため)は、火付盗賊改方長官だが、この加役の役料が四十人扶持だから、陶工の優遇ぶりが分かるのではないだろうか。

ちなみに一人扶持は、1.8石なので、七十人扶持は126石。

江戸時代は、一石が一両、米価で換算すると一両は約10万、大工の手間賃で換算すると、現代の30万ほどになるという。

江戸時代には、物価が高い江戸でさえ、一両あれば四人家族が数カ月、余裕をもって暮らしていけたというから、実勢に近い大工の手間賃で換算すると、高取八山の年収は、今日の3780万円ほど、年収四千万弱になる。

もちろん、単純には比較できないが、最下級の武士の俸給が三両一人扶持――武士を罵るときのサンピンはここから来ている――だから、陶工が特別な扱いを受けたことが分かると思う。

ここまでが前振りで、そこから、私が考える古唐津の魅力を語っていったのだが、最大のポイントは、李氏朝鮮の陶工の作る焼き物が、一世代も経ずに、すぐさま和様化したのは、なぜだったのかということだろう。

もうひとつ、留意したのは器物と言葉の関係なのだが、この講演は出光美術館の館報に採録される予定である。


講演が終わってからは、学芸課長の笠嶋忠幸さん、柏木真理さんと会食。

出光美術館が入っている帝劇ビル地下に、神田の老舗鰻屋きくかわの支店があって、ビールで乾杯したあと、美味しい料理と鰻を御馳走になった。



翌日は、有栖川有栖『狩人の悪夢』の付箋を貼り込んだページを再読してから、「週刊 現代」のための書評を執筆する。

前日の講演で燃え尽きたためか、異様に時間がかかったが、夕方に、ようやく書き終えることができた。


数日ぶりにメールをチェックしたら、三井喬子さんから『現代詩文庫 三井喬子詩集』解説の執筆依頼が。

喜んでお引き受けすることにしたが、『現代詩文庫 和合亮一詩集』解説を書き終えたら、次は、三井さんの解説を書くことになる。
posted by 城戸朱理 at 00:13| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月22日

テレコムスタッフで試写のあとは

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外出が続いて、ブログの更新が滞ってしまった。

原稿の締切を連日、抱えているときでもブログは書けるが、打ち合わせや講演で外出が続くと、ろくに更新ができなくなるのは、疲れ方が違うからだろうか。


深川吟行の翌日、2月13日(月)は、青山のテレコムスタッフでCS放送番組2本の試写が4時からあった。

1本目は、「Edge カニエ・ナハ篇」で、これまで番組ADをつとめてくれた熊田草平氏の初ディレクター作品。

半年がかりの撮影となったが、前衛を生きる詩人の姿は、圧巻だった。


もう1本は、伊藤憲ディレクターによる「ノロとユタ 奄美の生き神様たち」。

これは、柳美里さんが青森のイタコを訪ねたコンテンツに続く「民衆の信仰 その祈りとかたち」の2作目になる。

いまだに生活のなかに息づく神事。

「ノロ」は、共同体の神事を司る、いわば神官的な役割の「生き神様」で、特別な家系の女性だけがなれる。

それに対して「ユタ」は、個人の悩みや苦しみを神の力で取り除く「生き神様」で、本人の意思とは関係なく、なってしまうシャーマン的存在。

奄美には、今でも数十人の「生き神様」がいるという。

その様子は、映像で見ているだけでも、自分のなかの「近代」が音を立てて崩れていくような衝撃だった。

奄美、そして琉球弧とは、なんと不思議な土地なのだろう。


試写のあとは、伊藤憲ディレクターと、進行中の「Edge 杉本真維子篇」の打ち合わせ、
さらに平田潤子ディレクターとEdgeのホームページの打ち合わせをしてから、近所の「田」で寺島高幸プロデューサーらと軽く飲む。


さらに、保土ヶ谷駅に隣接する千成寿司で、島村輝フェリス大教授と9時に待ち合わせていたので、新橋経由、横須賀線で保土ヶ谷へ。

島村先生は先に着いていたので、まずはビールで乾杯する。

千成寿司では、岩手放送に就職がきまったフェリスの4回生、佐藤桃花さんがバイトをしているので、ときどき佐藤さんを交えながら、歓談。

次に佐藤さんに会うとしたら、盛岡だろうか。


帰宅したのは0時前だった。
posted by 城戸朱理 at 12:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バレンタインも江戸時代???

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「鹿千代にござりまする!」

また、バンビことパンクな彼女が時代劇モードになってしまった――

「鹿千代は武士の子でござりますれば」


「南蛮渡来のものではなく、国元の菓子にしてみました」
!!!!!!

そういって、バンビ=鹿千代が出したのは、鎌倉は豊島屋のチョコレートだったのである!


豊島屋といえば、鳩サブレーが有名すぎて、和菓子や洋菓子、はてはパンまで扱っているのは、あまり知られていないが、どれもレベルが高い。

そこでバンビ=鹿千代は、今年のバレンタインのチョコレートを豊島屋で選ぶことにしたらしい。


たしかに、ゴディバのような「南蛮渡来」ではなく、「国元の菓子」だが、そもそもチョコレート自体が「南蛮渡来」である。

パンクなうえに、鹿千代は「六つか七つ」という子供の設定だから、仕方がない。

だいたい「鹿千代」も「しかちよ」ではなく、「シカッチホ」と発音している。

シカッチホ――

楽しげな響きではあるが、「武士の子」という感じではなく、ディズニーのキャラみたいだ。


ともあれ、小美人剣士・鹿千代物語は、当分、続くらしい。

パンクだから仕方がないが、さらなる注意が必要である。
posted by 城戸朱理 at 10:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

深川吟行

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2月12日(日)は、東京都現代美術館が開催している「MOT Satelite」の「吉増剛造プロジェクト」の一環として深川吟行があった。

松尾芭蕉ゆかりの土地を歩いて、みんなで俳句を書くわけだが、宗匠役は芭蕉研究でも知られる俳人の高柳克弘さん。

参加したのは、朝吹真理子(小説家)、花代(パフォーマー、写真家、現代美術家)、カニエ・ナハ(詩人)のみなさんに私である。

前日に、吉増さんから、帽子とレインコート着用の指示が。

これは「詩人は身を隠す――」ということらしい。

ところが。

世代によって「レインコート」のとらえ方が違うようで、朝吹さんは、ノースフェイスの完全防水の登山仕様、高柳さん、カニエさん、花代さんは、ビニールのいわゆる雨合羽と、現場は珍妙な雰囲気。

吉増さんから私の世代なら、レインコートと聞くと、バーバリーやアクアスキュータムに代表されるコットンギャバジンのロングコートを思い浮かべるが、若い世代は違うらしい。

案の定、吉増さんはコットンのステンカラーコートで現れた。


吉増さんの希望で、バンビことパンクな彼女がローライ同盟にも声をかけ、今道子さん(写真家)、遠藤朋之さん(アメリカ文学、和光大准教授)も同行するという贅沢な吟行になった。


とはいえ、高柳さん以外は、俳句初心者。

私は、正岡子規国際俳句賞、芝不器男俳句新人賞の選考委員をおおせつかったときに、松山で二回だけだが吟行に参加したことがあるので、初心の経験者(?)というところか。

吟行の様子は、鈴木余衣さんが句会の会場となる清澄庭園大正記念館にライヴ中継することになっていたのだが、機械の不調でうまくいかなかったらしい。


隅田川ぞい、松尾芭蕉像から始まって、芭蕉庵跡など、芭蕉ゆかりの地を歩き、高柳さんに季語を教えてもらいながら、吟行は続いたのだが、参加者は季語の生き字引のような高柳さんに舌を巻くことになった。


会場入りして、30分弱で三句提出が課題だったので、私は五句を書き、うち三句を選ぶ。

それを吉増さんが、短冊に清書して張り出し、高柳さんの司会で各自が三句を選んだ。

この時点では、作者の名は伏せられているのだが、写真の青いマジックが得点で、黒いマジックが作者である。

私が選んだのは次の三句。


女神の膝やはらかならむ椿落つ(克弘)

道明寺ここからは空、そして春(ナハ)

春浅しマダガスカルの蚕玉(真理子)


最高得票は三票でカニエさんの前掲句と吉増さんの次の一句。


たんぽぽに手をついてみる冥土かな(剛造)



私が提出したのは、次の三句である。


白梅や盛るものなければ夜を盛る

黒髪の蒼ざめるまで絵踏みかな

貧しさや朱引きの内なる蕗の薹


このうち、一句目は吉増さん、カニエさんの票を二句目はカニエさんの票をいただいた。

ちなみに三句目の「朱引き」とは、江戸時代の江戸府内を指す言葉、季語は「白梅」「絵踏み」「蕗の薹」になる。


吉増さんは、しきりに「俳句は土地への挨拶」と語られていたが、たしかに、吟行は挨拶句の要素が大きい。


句会は午後5時で終了。

会場には読売文学賞を受賞したばかりのジェフリー・アングルスさん、林浩平さんの姿も。

盛岡一高の後輩で、高校時代から活躍ぶりを耳にしていた早稲田大学の谷村行海(みきみ)さんが挨拶に来てくれたのも嬉しかった。

谷村さん、鎌倉にも遊びに来て下さい。


一同はカニエさんの先導で、深川らしい居酒屋へ。

去年、結婚したばかりの朝吹さんの御主人(活躍中のデザイナー!)や詩人の永方佑樹さんも参加され、賑やかな会になったが、ここでも、ひとしきり吉増さんが首からさげたローライフレックスが話題になる。

朝吹さんが、レンズで覗く世界の奥行きの深さに興味津々の様子だったが、ローライを覗く朝吹さんをバンビがさらに激写するというひとこまが、なんとも愉快だった。

その隣で、今道子さんが微笑んでいる。
posted by 城戸朱理 at 10:19| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月13日

寒波のなかの外出



寒波が襲来したが、所用で外出する日が続いている。


2月8日(水)は、代理人をお願いしている御成町法律事務所の二見宏史先生から連絡があったので、事務所へ。

係争中の調停について、進行予定を聞く。

こういった揉め事は、なかなか解決しないものだが、二見先生が丹念に調査を進めてくれているので、安心する。

打ち合わせが終わってから、バンビことパンクな彼女と待ち合わせて、クルベル・キャンで食事をした。


翌日(木)は、まず、「岩手日報」投稿欄の選評2回分を執筆して、メール。

それから、雪がちらつくなかを北鎌倉の侘助へ。

5時45分に井上春生監督が北鎌倉に到着した。

小津安二郎監督邸の台所の床材をテーブルにした、侘助の奥のスペースを借りて、ドキュメンタリー映画「幻をみるひと。A tounge of Water 詩人、吉増剛造」ラッシュを見る。

1時間46分と、ドキュメンタリー映画としては、長尺だが、井上監督が、何日も徹夜して繋いだだけあって、実に斬新な作品になった。

この映画に関しては、別にアップしたい。

試写のあとは、大船の石狩亭に席を移し、細部の打ち合わせをしながら、祝杯をあげる。

公開は、まだまだ先なのに、祝杯だけは何度でも、という困った人たちなのだった。


翌日は、岩手日報に入選作品を宅急便で手配してから、「週刊 現代」から書評を依頼された有栖川有栖『狩人の悪夢』(角川書店)を読み始めた。

臨床犯罪学者、火村英生を探偵役にするシリーズの最新作である。


午後3時にバンビことパンクな彼女と待ち合わせて、駅前のカフェでPCを広げ、フェリス女学院大学の来年度の講義のシラバスを入力する。

それから、横須賀線で東京へ。

目指すは、有楽町の出光美術館。

翌日から始まる「開館50周年記念 古唐津」展内覧会に招待していただいたので、見えない尻尾を振りながら(?)、有楽町に向かう。

出光の創業者、出光佐三は、桃山から江戸初期に焼かれた古唐津を愛し、300点超という日本でも最大規模のコレクションを作り上げた。

今回は、13年ぶりとなる古唐津展で、重要文化財2点を含む展示は、圧巻。

担当学芸員の柏木真理さんの解説も素晴らしく、素朴さと野趣と品格が同居する古唐津の魅力を堪能した。

出光美術館での私の講演は、15日。

会員限定なので、一般の方は聴講できないが、準備を進めている。
posted by 城戸朱理 at 12:38| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月06日

材木座から富士を望んで

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光明寺をあとにして、材木座海岸に出てみた。

日没を前にした海岸は、風が冷たい。


材木座も光明寺のあたりまで来ると、逗子マリーナも近い。

西を見ると、富士山のシルエットが浮かんでいた。
posted by 城戸朱理 at 11:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

九品寺から光明寺へ

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2月4日(土)は、先週に引き続き、鎌倉のお寺を訪ねて、散策することにした。


前回は山を超えて、北鎌倉に行ったので、今回は海のほう、材木座の光明寺に行くことにしたのだが――


「大丈夫だよ!
材木座だから、すぐだよ!」


バンビことパンクな彼女が、そう言うので、歩きやすいスニーカーを履いて、出発する。

あちこちに水仙が咲き乱れ、梅も満開。

風はまだ冷たいものの、立春の気配が、そこかしこに感じられる。


鎌倉駅を超え、戦時中、西脇順三郎が疎開していた大町へ。

まずは、九品寺に立ち寄った。

内裏山霊嶽院九品寺の開基は、鎌倉責めの総大将だった新田義貞。

鎌倉幕府が滅んだあと、新田義貞が敵方の北条氏を供養するために、建武士3年(1336)に建立したと伝えられる小さな寺である。


檀浦に平家を滅ぼし、源頼朝は鎌倉幕府を開いたわけだが、源氏は第三代将軍、源実朝で終わり、それ以降、執権として実権を握ったのは平家の流れを汲む北条氏だった。

鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞、室町幕府を開いた足利尊氏は源氏の嫡流であり、九品寺の小ぢんまりとした境内にたたずんでいると、「兵(つわもの)どもが夢の跡」という想いを禁じえない。

九品寺は浄土宗で、本尊は阿弥陀三尊。

山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」という額の文字は、新田義貞の筆を写したものだという。

境内の老梅が、満開だった。


さらに歩いて、海が見えるところまで来たら、光明寺も近い。


鎌倉幕府第四代執権、北条経時を開基とする天照山蓮華院光明寺は、寛文元年(1243)の創建。

浄土宗関東総本山だけに、広壮な伽藍を持つ。

光明寺は妙本寺と並んで、田村隆一が愛した鎌倉の寺だが、田村さんは、次のように書いている。



光明寺は十三世紀中庸葉以来の浄土宗の関東総本山で、一八四七年(弘化四年)に再建された壮大な山門がある。そのシンメトリーの美しさは、いつ見てもあきない。大晦日の夜は、鐘楼に老若男女が集って、除夜の鐘を一人に一つずつ、つかせてくれるのである」
(『鳥と人間と植物たち―詩人の日記』)



田村さんがエッセイで、何度か言及されている光明寺の山門は、鶴岡八幡宮から移築したものなのだとか。

神社で山門と聞くと、意外な感じがするかもしれないが、明治になって、神仏分離令が出されるまで、鶴岡八幡宮は、八幡宮と真言宗の寺院が一体となった「鶴岡八幡宮寺」で、五重塔がある写真も残されている。


光明寺は、後花園天皇から山門の「天照寺」の掲額を、御土御門天皇からは、勅願寺として「関東総本山」の称号を受けただけあって、その山門は、たしかに、男性的で潔いまでの美しさがある。


山門では猫が日向ぼっこをしていた。
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2017年02月02日

素敵な道案内???

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鎌倉に住んでいながら、この何年か、鎌倉を散策する余裕もなかった。

バンビことパンクな彼女が、「小鹿をお散歩に連れていって!」と騒ぎ出したのは、1月28日(土)のこと。


ちょうど、私が常楽寺の普賢菩薩像について書いた随筆が掲載された「かまくら春秋」が届いたばかりだったので、バンビの提案通り、大仏ハイキングコースを通って、北鎌倉に抜け、大船方向に歩いて、常楽寺まで散歩することにした。

どれくらいかかるんだろう?


「バンビくんにお任せだよ!
Googleさんに聞いてみたら、1時間ほどのコースだから、お散歩にちょうどいいんだよ!」


というわけで、バンビを連れて出かけたのだが、ハイキングコースは、険しい山道。

葛原岡神社に出るころには、ふたりとも汗だくに。

梶原では、眺望が開け、海が見えるスポットもあって、風に吹かれているのも心地よい。

しかし、そこから、北鎌倉に下り、浄智寺に出るころには、疲れはてていた。


ようやく、常楽寺に着いたのだが、所要時間は、なんと2時間40分。

またもや、バンビに騙されたのである!


鎌倉幕府第三代執権、北条泰時開基の常楽寺は、臨済宗建長寺派。

鎌倉三大名鐘に数えられる鎌倉最古の梵鐘は、国の重要文化財に指定されている。

本尊は阿弥陀如来で、仏殿には狩野雪信による龍の天井画が。

鎌倉後期の普賢菩薩は秘仏なので、ふだんは拝見できないのが残念。

禅寺だけに塵ひとつない境内で、しばし、静けさに浸った。
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2017年01月30日

講演会の打ち合わせ

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1月25日(水)。

出光美術館で開催される古唐津展で、講演をすることになり、打ち合わせのために学芸員の柏木麻里さんが鎌倉まで来てくれた。

柏木さんと言えば、私にとって、まず何よりも『音楽、日の、』『蜜の根のひびくかぎりに』の詩人であり、出光美術館の学芸員をされているのを知ったのは、最近のこと。

これまで「三代山田常山」展、「板谷波山の夢みたもの」展、「仁清・乾山と京の工芸」展などの展覧会を企画されてきたそうだ。

今回、担当されている「古唐津――大いなるやきものの時代」展(2月11日〜3月26日)は、出光美術館開館50周年の展覧会となる。


待ち合わせは、クルベル・キャン。

最初に古唐津展図録のカラーコピーを拝見しながら、展示品の説明をうかがい、古唐津の魅力について、語り合う。


専門家でもない私に、あえて講演を依頼されたのは、言葉と器物の関係を再考するためだろうか。


柏木さんは、ひとりでも多くの人に陶磁器を好きになってもらいたいという想いから、誰もが入りやすい「かわいい」という切り口で、『かわいいやきもの』(東京美術)という著書まである。

とにかく、焼き物に対する柏木さんの愛情が熱いくらいで、打ち合わせと言いながらも、楽しい時間だった。


私の講演は、一般向けではなく、出光美術館の会員のみ参加できる形式だが、後日、館報に内容が紹介される予定である。
posted by 城戸朱理 at 14:32| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月25日

吉増剛造さんと、かまくら春秋社へ

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1月22日は、10時から、かまくら春秋社で「詩とファンタジー」選考会だった。

刊行が年2回になったため、蜂飼耳さん、平岡淳子さんとお会いするのも半年ぶりである。

終了後は、鎌倉彫会館の倶利で昼食。

私は、飛び込みで美容室ユアーズに入り、カットとヘッドスパをしてもらって、元町ユニオンで買い物をして帰宅した。

それから詩作の時間。

夜は、バンビことパンクな彼女と山田洋次監督「たそがれ清兵衛」を見る。


23日は、吉増剛造さんが「かまくら春秋」誌の対談のため、鎌倉にいらっしゃったので、バンビと一緒に吉増さんを迎えに行った。

吉増さんは、若宮大路に建つ四階建てのかまくら春秋社ビルを見て、驚かれている。


伊藤玄二郎代表との対談は、4時から。

先日、私が原稿を渡したのは「新・鎌倉のみほとけ」だが、1974〜79年にかけて連載された「鎌倉のみほとけ」では、田村隆一さんも吉増さんも原稿を寄せている。

田村さんは吉増さんの仲人だし、酔っ払っては、かまくら春秋社のソファーで、よく寝ていただけに、伊藤代表も親しかったので、対談は田村さんの思い出話から始まった。


バンビは写真担当、私はオブザーバーで、山本太平編集長も同席したのだが、滅多に聞けない吉増さんの詩に対する、もっともラディカルな考えを、吉増さん自身の言葉で聞くことができる貴重な対談になった。

山本太平編集長も興奮気味だったが、掲載時には、思潮社や友人にも送らなければ。


終了後は、由比ヶ浜通りの鰻の「つるや」で御馳走になりつつ、歓談。

伊藤代表から思いがけない提案があって、今度は、吉増さんと私が、いささか興奮することになった。
posted by 城戸朱理 at 09:59| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月22日

新連詩、スタート!



高貝弘也・広瀬大志・田野倉康一・城戸朱理による連詩は、大志くん出題の「謎」に続いて、田野倉くん出題の「夷狄」が完成し、高貝くんが出題した「夢十二夜」が、始まった。


出来るだけ実際に見た夢を題材にするというのが、高貝くんからのリクエスト。

高貝くんの素晴らしい書き出しで始まった連詩を大志くんがどう受けるか期待していたら、こんな強烈な夢を見るのでは、寝ていても休まらないだろうという、恐い夢が繰り広げられた。

これは夢なのか、それとも夕張ファンタスティック映画祭なのか?

それにしても、見る夢までホラーとは、大志くんも徹底している――


はたして、自分はどんな夢を見て、十二夜で、どんな四人の夢が紡がれていくのか。


連詩は、さらに続いていく。
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2017年01月15日

及川俊哉氏の「詩と思想 新人賞」贈呈式へ

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及川俊哉氏による現代祝詞「水蛭子(ひるこ)の神に戦を防ぐ為に戻り出でますことを請ひ願ふ詞」の朗読は、会場の空気を一変させた。

憲法九条を含むこの詩は、まさに現在への祈念として響きわたったと言ってもいい。


それにしても、及川俊哉氏の第25回「詩と思想 新人賞」受賞の知らせには意表を突かれた。

この賞は、刊行詩集2冊までの新人を対象とするもので、公募制。

受賞者は、「詩と思想」の版元である土曜美術社出版販売から、3年以内に詩集を刊行してもらえるそうだ。


贈呈式は1月9日(月)の「詩と思想 新年会」の最初に行われた。

会場は、九段のホテル・グランドパレス。

私は初めて参加させていただいたが、一色真理さんの開会の言葉で新年会が始まり、来賓挨拶のあと「詩と思想 新人賞」贈呈式。

選考経過は実に面白く、最初、及川作品を押した選考委員は高良留美子さんひとりだけだったが、論議を重ねるにつれて評価が高まり、最終的に授賞作に選ばれたとのことだった。


及川さんが編集長をつとめる「ウルトラ」同人の渡辺めぐみさんが、受賞者紹介のスピーチをされたのだが、これが第一詩集『ハワイアン弁財天』から近作の現代祝詞まで、及川さんの作品世界を読み解く素晴らしいものだった。

そして、及川俊哉氏による朗読となったのだが、会場を圧する朗読と、そのあとの、あまりに控え目な受賞者挨拶のギャップに、腰がくだけそうになる。


及川さんの恩師である澤正宏福島大学名誉教授(写真2枚目)ともお会いできたが、澤先生は和合亮一氏の恩師でもある。

和合さんによると、澤先生の指導によって、西脇順三郎や吉岡実の詩と出会ったそうだが、澤先生によると、和合さんは、詩人になりたいと言って訪ねてきた初めての学生だったそうだ。

さらに、及川さんは、三島由紀夫を読んでいると寝食を忘れるような青年だったのだとか。

和合亮一氏も駆けつけ、「ウルトラ」の初代編集長と二代編集長が揃ったが、福島ならともかく、東京でふたりが並んでいるのは珍しいのではないだろうか。


バンビことパンクな彼女は、愛機オリンパスOM-Dで、記念撮影していたのだが、会場で「バンビさんですか?」と声をかけられたと言っていたっけ。


私が選者をしている「岩手日報」投稿欄の常連で、甲府からいらした佐々木貴子さんともお会いできた。


会場はなごやかな雰囲気だったが、福島第一原発事故以降、頻発している天災・人災と、世界的に揺らぎ始めた状勢を反映して、危機感をたたえたスピーチが多かったのが印象深い。

及川俊哉氏の受賞作もまた、そうした危機の時代に向けた詩だったと思う。

現代祝詞が、詩集になる日が待ち遠しい。
posted by 城戸朱理 at 13:05| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月12日

新年会とiPhone7



7日(土)も、鎌倉は人出が多かった。

日中は、アンケートの回答など郵便物を処理し、夕方、若宮大路のauショップでのiPhone7+ を購入。


マガジンハウスの「コロカル」編集長、及川卓也氏から、女子美大学院の受講生との新年会のお誘いがあったので、6時過ぎにクルベル・キャンへ。

及川さんも、女子美大学院とフェリス女学院大学に出講している。

去年は、仕事の出張が多く、鎌倉に寄る機会もなかったそうだ。

今になると、よく鎌倉で一緒に飲んでいたころが懐かしい。


修士の院生3人とも半年ぶりに再会、2年生は無事、就職も決まったという。


8日(日)は、バンビことパンクな彼女が、iPhone7+を使えるように、クラウドからデータをダウンロードしてくれたのだが、これが異様に時間がかかる。

しかも、バンビは、私のiPhone用ケースを、すでに用意していたのだが、またもやリラックマが付いているではないか――


この日は、出光美術館から講演の依頼があったのだが、詳細は、近いうちに報告したい。
posted by 城戸朱理 at 11:12| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする