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城戸朱理のブログ: 骨董・工芸

2017年12月01日

陶器を焼かなかった陶芸家

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京焼きには、野々村仁清以来の色絵陶器の伝統がある。


唐津や備前、そして信楽に魅せられた者からすると京焼きは華美にすぎて、逆に惹かれるものではないのだが、京料理をいただく機会が増えるにつれ、器と料理の取り合わせのためには、欠かすことが出来ないのが分かるようになってきた。


李朝では皿の遺品が少ない。

なぜなのか、不思議に思っていたのだが、韓国に行ってみると汁物の料理が多いので、器は鉢が主体となるのが納得できるし、皿があまりないのも当然だと思えるようになる。


京焼きもそれと同じで、経験してみないと分からないことがあるということなのだろう。ただし、これは必要の問題であって、焼き物の美醜の問題ではない。




京焼きの雅陶といえば、永楽家を忘れることは出来ない。


代々、善五郎を名乗り、土風炉師の家系だった西村家の十一代保全は、金襴手など写しものの美陶で、その名をとどろかせた江戸時代後期の陶工だったが、
紀州徳川家に招かれ、「永楽」の銀印と「河濱支流」の金印を賜わったため、永楽を雅号として用いるようになり、幕末から明治を生きたその子、和全も名工として知られている。



しかし、激動の時代だった明治には、茶の湯も茶陶も顧みられなくなり、三代得全が明治42年に亡くなったあと、家業を継いだのは得全の未亡人、悠だった。


これが永楽四代の妙全になるが、古刀・古陶磁の研究家だった常石英明によると、妙全は自分で焼いたわけではなく、甥の正全が作陶を一手に受け持ったのだという。


得全、妙全を支えた正全は、後に永楽五代に数えられるようになるが、妙全の永楽印が押され、善五郎と悠が箱書きした四代妙全作は、すべて正全が作ったものということになる。


妙全は、箱書きするとき、善五郎と記したうえで「悠」という朱印を押しているが、これは「お悠さんの朱印」と呼ばれ、茶人に珍重される。


よくよく考えれば、奇妙なことだが、それは、女手ひとつで永楽家を支えた「お悠さん」への愛惜がなせる業なのだろうか。



表千家、裏千家、武者小路千家、三千家出入りの塗師、指物師など、十の職家である千家十職(せんけじっそく)に数えられ、茶碗師・楽家とともに土風炉師・焼物師の名家として知られる永楽家だが、私は、ほとんど求めたことはない。


やはり、綺麗すぎるからだが、わずかに保全や和全の小鉢や急須などを求めたことがある。


妙全の作は、刷毛目の盃がひとつあるだけだが、これも「お悠さんの朱印」を箱に見かけて興味を持ち、手にしたものだった。


筆勢のいい刷毛目だが、妙全の時代には、まだ「ぐい呑み」は一般的ではなかったらしく、きわめて小さい。


料理屋の「さかづき」のサイズで、常用するものではないが、熱燗を注ぐと生き生きとした表情を見せる。




いっさい、焼き物を焼くことのなかった陶芸家、永楽妙全。


その人はたしかに存在したわけだし、その人の作とされる美陶も存在するのだが、それは、決してとらえることの出来ない陽炎のようでもあり、幻のようでもある。
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2017年11月19日

京都で買ったもの〜一澤信三郎帆布のリュック

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京都土産として不動の地位を占める一澤帆布だが、創業は明治38年(1905)で、職人用に帆布製の鞄を作るようになったのは大正時代のこと。


戦後になって、リュックやテントなど登山用品も手がけるようになり、名を馳せたが、私の父も一澤帆布のリュックを愛用していた。


それが、タウンユースのバッグとして注目されるようになったのは、1980年代のことだった。

私も当時、購入したトートバッグやエプロンをいまだに愛用している。



海岸で漂流物を探して、写真を撮るときには両手が空いていたほうがいいので、リュックを探していたのだが、バンビことパンクな彼女の提案で、知恩院前の一澤信三郎帆布を見てみることにした。



写真を撮るときは、デジタルでもフィルムでも、細々とした備品があるので、ポケットが多いものが望ましい。



すると、あったのだ、まさにこれというバッグが。


ポケットは、内側にふたつ、外側は四つ、さらに背中に当たる部分にもひとつと、全部で七つも付いている。

サイドのポケットは、ペットボトルが入れられるし、フラップ付きのポケットには予備のフィルムを収納できる。

一澤帆布ならではの防水仕様だし、理想的なリュックである。


カラーは四色あったが、黒い服に映えそうなレンガ色を選んだ。



このリュックに機材を詰めて、海岸を歩いては漂流物を撮影したり、画材を持って、スケッチに出かけたりしよう。
posted by 城戸朱理 at 00:30| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月18日

京都で買ったもの〜有次の雪平鍋

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久しぶりに鍋を買うことにした。


それというのも、傷みが目につく鍋が増えたからである。



処分したのは、ホウロウの鍋が多い。

ハワイで買ったふたつのホウロウ鍋はアンティークだから、もともと小傷があったのだが、ほかにも、焦げ付きが取れない鍋がある。


結局、鍋4個を処分することにしたので、バンビことパンクな彼女と相談して、とりあえず、有次で雪平鍋2つを購入し、様子を見ることにした。



有次は、創業1560年の老舗で、職人がひとつひとつ手作りしているだけに、鍋も美しい。



バンビの希望で、名前を入れてもらったが、雪平鍋は、下ろす前に米のとぎ汁やくず野菜を煮て、酸化皮膜を作ると、黒ずみを防ぐことが出来る。



それにしても、錦市場の有次の混雑ぶりは凄かった。

しかも、包丁を選んでいる欧米からの観光客が多かったが、今や、有次は海外でも知られるようになったのだろうか。
posted by 城戸朱理 at 12:47| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月17日

寺町の道具屋で見つけたコップ

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昨年の2月に、寺町四条を下った「CRAFT CANDY JOY」で見つけたガラスの徳利は、
力を入れたらパリンと澄んだ音を立てて割れてしまうのではないかと思えるほど薄く、
頼りないほど軽く、そのくせ、冷酒を満たすと、すずやかな存在感があって、夏の徳利に愛用した。


今回、出会ったのは、やはりガラス、一見したところ、何の変哲もないコップである。

だが、徳利と違って、こちらは厚手。


照明が暗い店内では気づかなかったが、ガラスは、かすかに緑がかっており、しかも底部は分厚い。

口縁部は乳白色が入っているように見えるが、これは擦れた跡で、水を注ぐと消える。


戦前、昭和初期のものだが、グラスは安定感があるほうがいいし、これでビールを飲んでみたいと思って求めてみた。


以前、鎌倉宮の骨董市で、同じように底が分厚いコップを見つけて、ビール用に愛用していたのだが、割ってしまったので、これは二代目ということになる。

戦前のコップなら、いまだに数千円で求められるので、ビールによさそうなものがあると、つい手が出てしまう。


新たに入手したコップにビールを注いでみると、コップによって、光のさしかたが違うのが面白い。


酒徒のささやかな楽しみである。
posted by 城戸朱理 at 08:47| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月16日

猿投古窯の盃

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ごだん宮ざわでは、ビールをバカラのクリスタル・グラスで出してくれるが、ビールが実に美味しそうに見えるし、実際に美味い。

脚付きのグラスは割りやすいので、自宅では避けるきらいがあるが、これもお店ならではのもてなしであるとともに、器で酒の味が変わるという実例でもあるのだろう。



ごだん宮ざわには酒盃を持参することが多いが、今回は平盃を選んだ。

桐箱から取り出したら、「猿投(さなげ)ですか?」と宮澤政人さん。


愛知県名古屋市東部から大阪市北部に集中する猿投古窯で焼かれた盃である。


猿投古窯は、古墳時代から鎌倉時代初期まで700年にわたって続いたが、発見されたのは1950年代のこと。

それまで、わが国の灰釉による施釉陶器は中世の瀬戸窯、美濃窯が始まりとされていたが、
猿投古窯の発見によって、平安時代には灰釉陶器が焼かれていたことが明らかになった。


轆轤は厳しく、端正なフォルムを持つ。



私が持参した盃は平安後期のものだが、見込みの灰釉が剥楽し日の丸のようになっている。

酒を注ぐと、残った灰釉のガラス質が緑色に輝き、美しい。


宮澤さんは燗酒を古染付けと見紛う加藤静允作、瓢箪徳利で出してくれたが、いかにも土物といった猿投盃と石物の徳利の取り合わせは、いいものだった。
posted by 城戸朱理 at 16:04| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

京都の小さなアンティーク屋さんで

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同志社大学でのイベント前は、バンビことパンクな彼女と、歩き疲れるまで京都の街を散策していた。

寺町を上って、骨董屋の大吉を覗き、アスタルテ書房を訪ね、そぞろ歩きしているだけでも楽しい。



偶然、見つけたアンティークのお店、belleに入ってみたのだが、和洋を問わない新しい感覚の品揃えで、いくつか買い物をした。


ふだんの暮らしで使える生活骨董を扱う店だから、値付けも優しい。



バンビは100年ほど前のヨーロッパのポストカードを漁って選んでいたが、これはいつものこと。



私は、実際に使えるものを選んだ。




小さなガラス玉は、こけしの顔をしている。

「ビー玉じゃないでしょうか」と店員さん。

バンビがまた、こけし頭にならないように、これを食卓に置いておくことにしよう。

電線の器具を台座に置いてみたのだが、実に可愛い顔をしている。

ところで、これのどこが、実際に使えるんだ?



ガラスのコップは、同じグラヴィエールの輪線模様のふたまわりほど大きいタンブラー6客を持っているので、購入を決めた。

昭和初期のものだが、極めて薄作りで、ビールに合うだろう。


同じ模様の小さなショットグラスも一脚あるが、こんなふうに
百年ほど前に作られた同文のグラスが、サイズ違いで、次第に集まってくるのも、楽しい。



明治の印判の小皿は、芭蕉文のデザインが斬新。

この小皿は500円だった。

さっそく、ホテルの部屋でバンビが使っていたが、ホテルに連泊するときは、小皿があると重宝する。



青白に上がった白磁小鉢は、李朝後期、19世紀の作で、口径12cm。

ゆったりとした轆轤がおおらかだし、肌も美しい。

しかも、食卓で取り鉢に使うのに適寸である。



秀逸なのは、錫のお銚子だろうか。

戦前のものだが、口には蓋が付き、丁寧に模様が彫られている。

錫は、熱伝導率が高く、雑味を除いて、酒を美味くすると言われているが、徳利は十分持っているので、いったんは見送った。


ところが店を出てから、バンビが「あのお銚子は造りも素敵だし、冬の大沢温泉に持っていって、お燗をつけるといいんじゃない?」と言うではないか。


冬の大沢温泉。

雪を見ながら露天風呂に浸かり、部屋で燗をつける。

それは――素晴らしい。

結局、バンビの提案をいれ、お店に戻って包んでもらうことにした。

このお銚子が、3000円。


父も30代のころには、錫の酒器を使っていたが、新作で買うと高価なものなだけに、骨董屋での、ささやかな掘り出し物と言えるかも知れない。


今回の買い物で、いちばん高かったのが、李朝の白磁小鉢だが、それでも1万円を超えるものではない。



少しだけ暮らしの色を変えてくれる、こんな品々は、本歌の骨董とは違った、いとおしさがある。
posted by 城戸朱理 at 01:24| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月14日

京都で東急ハンズ???

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バンビことパンクな彼女が、友人に「京都に行ったら、どこに行くの?」と尋ねられ、「東急ハンズ!」と答えて笑われたそうだ。


たしかに、わざわざ京都で東急ハンズに行く必要はないが、烏丸四条にあるので、ホテルから移動するときの通り道なものだから、京都に行ったときは、東急ハンズを覗くのが、バンビと私が動くときのパターンになっている。


おまけに、糸屋ホテルの隣にはタケダ事務機という大きな文房具屋があって、ここが万年筆やインクから、さまざまな事務用品まで、実に充実しているものだから、
文房具好きのバンビは、京都に行ったら、タケダ事務機と東急ハンズに立ち寄るのを楽しみにしているのだ。


今回は、タケダ事務機を覗いてから、京都国立博物館で「国宝」展を見て四条に戻り、東急ハンズを覗いた。



バンビは細々とした文具を買っていたが、私が惹かれたのは、タケダ事務機で見た万年筆である。



プラチナの新製品、#3776《センチュリー》。


創業1919年、100年の歴史を持つプラチナが、33年ぶりに#3776をリニューアルしたモデルで、♯3776は富士山の標高から取られたフラッグシップモデルである。


ひと目みて、その深いブルーの色調に惹かれたが、これは濃色のスケルトンモデル「シャルトル・ブルー」。



軸の太さを確認するため、いつもペンケースに入れて携帯しているモンブラン・マイスターシュテュック149と146を出してみたら、146とほぼ同じ太さだったので、長時間の執筆にも耐えられるだろう。


ペン先は、大型の14金で、書き味も申し分ない。


葉書を書くときに使おうと思って、購入することにした。



#3776《センチュリー》の特徴は、なんといってもスリップシール機構だろう。

万年筆は長い間使わないまま放置しておくと、インクが乾いて固まり書けなくなってしまうが、スリップシール機構によって、その心配がなくなるというのだから画期的である。


万年筆好きのバンビも深みのある赤の「ブルゴーニュ」というモデルに惹かれたようだが、今回は見送ったようだ。


モンブランを始めとするヨーロッパの名だたる万年筆は、ユーロ高の影響もあって、軒並み、10万近い高値になってしまったのが、プラチナ#3776は、機能的にも、価格的にも、安心して勧められる万年筆である。
posted by 城戸朱理 at 13:41| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月26日

盛岡で買ったもの〜舞良雅子のストール

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着物を着る女性ならば、南部紫根染めを知っている人は多いと思う。

平安時代から続く南部紫根染めは、京紫、江戸紫と並んで三大紫と称されたが、たしかに匂うがごとき気品がある。


それに対して、盛岡で良質なホームスパンが織られていることを知っている人は、少ないかも知れない。

私の父も若いときに手織りのホームスパンでオーダーしたオーバーコートを愛用していたが、これが頑丈で、父のあとは兄が学生時代に、さらに私まで着ていたことがあるほどだ。

グレーのヘリンボーンのコートだったが、ずっしりと重く、いかにも防寒着としてのオーバーコートという風情だったのを思い出す。


今回は、県産品を扱うCUBEで、実に美しいシルク・ウールのホームスパンのストールを見つけて購入した。


舞良雅子(もうりょう・まさこ)さんの作品である。

舞良さんは学生時代に染織と出会い、盛岡のホームスパン工房で修行してから、絹を中心にした染織に取り組んでいる作家で、日本のみならず、フランスやドイツ、スウェーデンなど、海外でも作品が紹介されているという。


作品は、素朴さと品格が同居する不思議な柔らかさがあり、なんとも魅力的だ。

どの色にするか迷ったが、黒のスーツやジャケットと相性が良さそうな紫を選んだ。


こうした作品を手にすると、柳宗悦が「手仕事の国」と呼んだ日本の手仕事が、いまだに脈々と生きていることを実感する。
posted by 城戸朱理 at 09:27| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月14日

メイド・イン・オキュパイド・ジャパン

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第二次世界大戦後、1945年から1952年まで、日本はアメリカの占領下にあったわけだが、1947年から52年までの5年間、日本からの輸出品には「Made in Occupied Japan」(占領下の日本製)と入れることが義務付けられていた。

ほとんどがアメリカ向けの輸出品だったが、この「オキュパイド・ジャパン」ものは、製造期間が5年間だけだったこともあって、アメリカではコレクティブ・アイテムとなっており、日本でもコレクターが少なくない。


私が、このオキュパイド・ジャパンの存在を知ったのは、1980年代のことで、下北沢や西荻窪あたりのアンティークショップでは、よく見かけたものだった。


私はコレクターではないので、オキュパイド・ジャパンものを集めようとは思わなかったが、当時、買ったものが、いくつかが手元にある。


最初のカップは、西荻窪のアンティークショップで3客あったものを求め、後に骨董市で見つけて、6客組みにしたもの。

デミタスカップのサイズで、ぐい呑みにも使えるが、本来の用途は分からない。

エッグスタンドかと思ったのだが、玉子を入れると安定しないので、やはりカップなのだろう。

絵付けは雑で手早く、戦後の混乱期を偲ばせる。


次の6枚組みの皿のほうは、精巧な出来で、ケーキ皿に適寸。

やはり、西荻窪で求めたものだが、これはバンビことパンクな彼女のお気に入りである。


最後の直径30cm近い大皿は、阿佐ヶ谷のアンティークショップで山積みになっていたもの。

銅版転写による印判手だが、ムラがあり、一枚ずつ確認して、発色のいいものを2枚選んだのを思い出す。

2羽の鳥と柳を配したパターンは、中国の悲恋物語に由来するもので、「ブルー・ウィロー」と呼ばれる。

18世紀なかばにイギリスで生まれ、19世紀の西欧におけるシノアズリーの流行によって、世界に広まった。

イラストレーターの安西水丸さんは、「ブルー・ウィロー」のコレクターとしても有名だったが、コレクターも少なくない。

今でも、食器の定番としてイギリスのバーレイ社などが製造しているが、たしかに魅力的な図柄だし、料理の和洋を問わないところがいい。

仕切りがあるので、朝食用のプレートとして、しばらく愛用したものだった。


日本が貧しかった時代に作られたオキュパイド・ジャパンものは、一生懸命、西洋的なものを作ろうとしているところがあって、切なくも、いとおしい。


ただ、わが家では、もう使うことがないので、気に入ってくれる友人がいたら、プレゼントしようと思っている。
posted by 城戸朱理 at 11:26| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月08日

岡晋吾の天平窯〜使い勝手がよすぎて困るもの?

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佐賀県の唐津で、初期伊万里と見紛う器を焼いている陶芸家が、天平窯の岡晋吾。

私は、2015年に鹿児島で開催された国民文化祭に出演したあと、天平窯を訪ねてみたが、京都は「ごだん宮ざわ」の宮澤政人さんも、窯に行ったことがあるそうだ。

それだけ、器好きに注目されているということなのだろうが、ここのところ、東京のデパートやギャラリーでも個展が、たびたび開催されている。


最初の写真は、銀座のギャラリーおかりやで6月14日〜19日に開催される「岡晋吾陶展 日本のかたちを求め」の案内状。

染付に白磁、李朝の鶏龍山を模した片口と、いずれも魅力的で、使ってみたくなる。

さらに、天平窯は酒器もいい。


実際、天平窯を訪ねたときに求めた色絵の小皿や染付皿、生がけの釉だまりが美しい白磁皿は、和洋を問わず料理が映えるし、サイズもいいものだから、食卓に並ばぬ日がないほどだ。

民芸運動を代表する陶芸家、河井寛次郎は、物を買う基準を娘に問われ、「誠実、簡素、健全、自由」と答えたそうだが、岡晋吾さんの器も、そうした条件を満たしているのだと思う。

ほかにも器はたくさんあるのに、使い勝手がいいものだから、バンビことパンクな彼女も、つい天平窯の皿に手が伸びてしまうらしい。


「でも、ほかにもいい器がたくさんあるんだから、岡晋吾さんのお皿ばかりじゃなくて、ほかのも使わないとね!」とバンビが言い始めた。


まったく、その通りである。

食卓に変化をつけるべく、北大路魯山人の絵志野皿や木の葉皿、織部の向付けなど、数点を桐箱から出して食器棚に移し、ふだん使いできるようにしたのだが、それでも天平窯の皿の出番は多い。


今度の個展も、時間があったら行きたいと思っているが、新作を求めたら、また、そればかり使うようになってしまうのだろうか?
posted by 城戸朱理 at 11:00| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月26日

澁澤龍彦さんと同じもの

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わが家の居間のテーブルには、不思議な木製の球が置かれている。

古色を帯びた、この球の正体は、打ち上げ花火の芯で、マガジンハウスの編集者だった加藤恭一さんから、私の芸術選奨と現代詩花椿賞受賞のお祝いに贈られたもの。

加藤さんは、澁澤龍彦先生と親交があり、澁澤さんが、ふたりのお子さんの名付け親になっているほどだが、澁澤さんにも、泉鏡花賞受賞のお祝いに花火の芯玉を贈られたので、澁澤邸にも、わが家にも同じような芯玉がある。

ちなみに、澁澤邸では居間のテーブルにいつも置かれているので、澁澤さんも気に入られていたのだろう。


龍子さんに招かれ、澁澤邸には何度もお邪魔しているが、もうひとつ、私が持っているものと同じものがあった。

それが、写真のアイロン台である。

アメリカのGRISWORD TRIVET社製で、1920〜30年代のもの。

鉄だけに、ずっしりと重い。

私は鍋敷きに使おうと思ったのだが、澁澤さんは、おそらく、その鉄味を鑑賞されていたのではないだろうか。


花火の芯玉も鉄のアイロン台も、必需品ではない。

そして、どこにでもあるというようなものでもない。


それだけに、澁澤龍彦邸にお邪魔するたびに不思議な気分になるが、吉岡実さんも、毎年、恒例だった澁澤邸での新年会のたびに目にされていただろうと思うと、感慨深いものがある。
posted by 城戸朱理 at 10:25| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月24日

ここまで片付けたら

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写真は、「暮らしの手帖」2014年10-11月号で、取材を受けたときのわが家の居間。

これくらい、すっきりしているといいのだが。


テーブルは、20世紀初頭の英国製で、グラス類を収納しているサイドボードがわりの棚は、戦前、大正から昭和初期のもの。


このときの撮影時にはサルバドーレ・ダリのリトグラフ2点が飾られていたが、現在はヨーゼフ・ボイスのサイン入りマルチプルとアレン・ギンズバーグのリトグラフが出してある。


だが、本が増えすぎて雑然としているので、片付けと整理は、まだ、しばらく続きそうだ。
posted by 城戸朱理 at 13:33| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月14日

光原社へ

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昼食のあとは、久しぶりに材木町の光原社に行った。

柳宗悦の民芸運動の拠点のひとつであり、命名は宮澤賢治。

賢治の『注文の多い料理店』を刊行したのも光原社なので、中庭には記念碑があり、漆喰の白壁には賢治の詩が書かれている。

中庭の突き当たりは、北上川。


私の実家の什器は、両親が光原社で求めたものが多かったから、子供のころから、よく両親と行った店だけに、私にとっては懐かしいところだ。


お店をひと通り見てから、中庭を散策し、可否館でコーヒーを飲んだ。
posted by 城戸朱理 at 07:42| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月12日

食卓の古唐津、その2

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「鹿千代にござりまする」

また、バンビことパンクな彼女が、時代劇モードで、子供剣士・鹿千代になってしまった。

「糠之丞(ぬかのじょう)が、活躍しているのでござりまする」
・・・

糠之丞とは、バンビ=鹿千代のぬか床の名前である。

たしかに、毎日、食卓に並ぶぬか漬けの味が、よくなっている。


ぬか漬けは、夏なら半日、冬なら一日で食べられるが、二日、三日と置くにつれ、古漬けに近づき、味わいが深まる。

浅漬けのみずみずしさも捨てがたいが、古漬けをミョウガやショウガと一緒に刻んだものもいいものだ。


バンビ=鹿千代が、キュウリのぬか漬けを盛ったのは、例によって古唐津。


松浦古唐津の市之瀬高麗神窯で焼かれた馬盥の小鉢で、灰釉の無地唐津だが、酸化炎で焼かれて黄褐色に発色している。

これを黄唐津とも呼ぶが、古唐津のなかでも、もっとも経年変化が出やすい手なので、使うにつれて味わい深くなっていくことだろう。


十三代中里太郎右衛門(中里蓬庵)の研究によると、市ノ瀬高麗神窯は、慶長3年(1598)に、肥前佐賀藩の藩祖・鍋島直茂が、慶長の役の朝鮮出兵の帰りに連れ帰った李朝の陶工によって開かれた窯という伝承があるそうだから、江戸初期の所産ということになる。

ただし、陶磁学では、かねてから古唐津や織部などの美濃ものは、江戸初期の所産であっても、すべて桃山と表記するのが通例となっているようだ。

井伏鱒二の『珍品堂主人』のモデルになった秦秀雄などは、明らかに江戸時代に入ってからの織部を、桃山とするのに異議を唱えていたが、
実は10年単位で区分できるにも関わらず、陶磁学上は、桃山の様式のものを一括して、桃山時代としているわけで、これは、日本陶磁史上での、桃山という時代の重要性を示すものだろう。


ともあれ、古唐津の小器のどれかが食卓に並ぶのは、わが家の習慣になりそうだ。
posted by 城戸朱理 at 08:42| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月04日

季節と酒器

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先に織部梅文六角盃のことを書いたが、梅が咲くころに使う盃が、ほかにもある。

李朝染付梅文盃と瀬戸染付梅文盃である。


そして、こうした酒器は、この時季以外に取り出すことはない。

桜文の器なら春に、薄(すすき)が描かれた器なら秋に。

器まで季節とともにあるのは、日本ならではの感覚だろう。


李朝染付梅文盃は、やはり李朝の白磁徳利と合わせる。

この徳利は、李朝中期の官窯だった金沙里窯の産。


幕末の瀬戸梅文盃は、骨董市で見つけたものだが、改めて眺めてみると、手早くも見事な絵付けだと思う。

もっとも、この盃を見つけたとき、ちょうど梅の季節だからと購入を決めたので、夏や秋なら買わなかったかも知れない。


それほどまでに、季節感というものが、身体化していることの不思議さは、骨董を買うようになってから痛感したが、逆に、だからこそ、松尾芭蕉が語ったように「夏炉冬扇」が風雅の道となるのではないだろうか。
posted by 城戸朱理 at 09:14| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月03日

古唐津展@出光美術館へ行こう!

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『海賊と呼ばれた男』のモデルでもある出光佐三が収集した古唐津は、三百余点。

館蔵のコレクションで開催されている出光美術館の「古唐津――大いなるやきものの時代」は、13年ぶりの展覧会になる。

これだけの規模の古唐津展は、当分、観ることができないので、友人に声をかけ、2月25日(土)に、再び出光美術館に行くことにした。


集合したのは、石田瑞穂、遠藤朋之、久保田潤の三氏である。


まずは、入ってすぐの絵唐津柿文三耳壺(重要文化財)、ポスターや図録の表紙にも使われている名品だが、その予想外の小ささに久保田さんが驚く。

私も初めて見たときは、同じ感想を抱いたが、いい品というものは、写真だと実物より大きく感じるもののようだ。

ちなみに、図録の表紙には、絵唐津柿文三耳壺と、絵唐津松文大皿、奥高麗茶碗・銘「さざれ石」があしらわれている。


瑞穂くんとバンビことパンクな彼女が、奥高麗茶碗の前で、銘「曙」と銘「秋夜」の由来を検討しているかと思うと、遠藤くんは、展示コーナーごとの解説に感心しながら、見入っていたりする。


私は内覧会、講演会に続いて三度目だけに、小品を丁寧に見ていたのだが、斑唐津ぐい呑み・銘「残雪」などは実に面白かった。

「残雪」は筒状の、いわゆる「立ちぐい呑み」。

斑唐津は、失透性の藁灰釉薬をまとった器だが、古くは白唐津とも呼ばれたように、通常は器全体が白く、ときには、むらむらとした白雲のような上がりになる。

ところが、「残雪」は、窯中で焼き切られて、透明釉をかけたように胎土があらかた透けて見え、ところどころに、白い斑釉が残っている。

たしかに、銘をつけるなら「残雪」しか考えられないが、唐津の振り幅の大きさを示す作例だろう。


古唐津は、地味な焼き物だが、その奥深い魅力は、見る者を「壺中の天」に遊ばせるようでもある。


結局、閉館のアナウンスが流れるまで、古唐津の世界のなかにいた。
posted by 城戸朱理 at 10:31| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月02日

食卓の古唐津

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出光美術館の開館50周年記念「古唐津――大いなるやきものの時代」展を見ているときのこと。

バンビことパンクな彼女が、出展目録に何かをせっせと書き込んでいた。

いったい何を書いているんだろう?


「これが欲しいというものをチェックしていたんだよ!」
・・・・・・

出光コレクションの古唐津は、重要文化財2点を含む優品揃い、類品を見つけても、おいそれと買えるようなものではないのだが――


「あとね、どんな料理を盛りつけてみたいかを書いてみたよ!」
!!!!!!


それは面白い。

私も会場を歩きながら、奥高麗茶碗に茶が点てられた様や、朝鮮唐津の花入れに生けられた牡丹を幻視していたが、唐津は水と親和性が高い器だけに、美術館で名品を見ても、自分なら、どう使うかを考えてしまうところがある。


そして気づいたら、わが家の食卓にもささやかな変化が起こっていた。

私が持っている茶碗や酒器を始めとする古唐津は、桐箱に納めてあるが、折にふれて求めた小皿や馬盥の小鉢などは、かなりの数が食器棚に積んである。

バンビは、展覧会を見てから、実際に古唐津を使ってみたくなったらしく、気づくと、絵唐津の小皿に桜海老を、黄唐津の馬盥小鉢に鮭の麹漬けを、縁なぶりの斑唐津の小鉢に菜の花をといったように、何かしら古唐津の器を取り出して使うようになった。


いずれも出来損ないを廃棄した物原(ものはら)から掘り出された掘りの手で大したものではないが、それでも古唐津ならではの味わいは変わらない。

使うほどに、色合いは深まり、奥行きが増して、さまざまな景色が現れてくる。


小林秀雄は「骨董はいじるものである、美術は鑑賞するものである」(「骨董」)と語ったが、焼き物好きは、長年の使用によって変わっていく器物の潜在性まで含めて器に接しているわけで、これは、日本ならではの姿だと思う。
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2017年02月28日

梅の花が咲くころの酒器

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鎌倉は、梅の季節。

家の近所にも見事な紅白の老梅がある。


そして、この時季になると、酒器にも梅の気配が欲しくなる。

今月になってから、私が使っていたのは、写真のぐい呑みと徳利。

織部梅文六角盃と志野柳文徳利である。


織部梅文六角盃は、もともと小向付として作られたもの。

茶の湯で、小向付を盃に転用したのが「ぐい呑み」だから、その意味では、まさにぐい呑みらしいぐい呑みということになるが、伝世品であることは間違いないものの、これが桃山から江戸初期の本歌なのか、それとも時代が下るのかは分からない。

ただ、仕服は、黒柿の箱、古更紗の風呂敷と、由緒正しいしつらえで、長く愛玩されてきたことは分かる。

この盃は、京都の割烹に持参したとき、新羅の徳利と古染付の枡盃を持ち込んで飲んでいた骨董屋さんに乞われてお見せしたところ、「桃山だね」と言われたが、私には、やはり分からぬままで、分からぬまま、ただ卓上で梅の香を聴くように使っている。

緑釉も鮮やかで、新緑を思わせるあたりが、すがすがしい。


徳利は、北陸の名家に伝来したもので、桃山とのことだったが、これは桃山だろうか。

志野は、日本で初めて焼かれた白い器だが、灯りといえば灯明くらいしかなかった当時の暮らしのなかでは、志野は光をまとうように見えたことだろう。


志野も織部も、もっぱら茶の湯のために美濃で焼かれたものだが、フォルムが不定形で、肌ばかりがあるような日本ならではの陶器だと思う。


こと酒器に関しては、古備前の徳利と古唐津の筒盃が酒徒垂唾の取り合わせとされ、私も備前と唐津さえあれば何もいらないとまで思い詰めたことがあった。

しかし、いざ古備前と古唐津を手にしても、すぐに新しい酒器を探し始めるのだから、どうしようもない。


志野や織部といった美濃物は、備前や唐津のような手強い感じはなく、柔らかい。

それだけに、お盆も、いつものような木地盆ではなく、春慶塗りに。

美濃物の柔らかさが、春の気配を感じるようになった時季にふさわしいと思えるようになった。
posted by 城戸朱理 at 09:54| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月23日

出光美術館での講演

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2月14日(火)は、翌日の出光美術館での講演のため、資料を読み、コピーを取り、準備に費やした。

この日は、バレンタインデー。

バンビことパンクな彼女=鹿千代が、モエ・エ・シャンドンを買ってきてくれたので、夜はシャンパンで乾杯する。


15日(水)は、いよいよ、出光美術館の水曜講演会である。

これは、出光美術館開館50周年記念「古唐津 大いなるやきものの時代」展に合わせたもので、私の演題は「古唐津と私」。


3時に会場入りして、再び展示をじっくり見てから、6時からの講演に臨んだ。

出光美術館は、皇居のお堀端という立地だけに、東京の夕景が、実に美しい。


出光美術館の水曜講演会は、会員限定だが、会場には百数十人もの聴衆の方々が。


担当学芸員の柏木真理さんの紹介のあと、講演は、魏志倭人伝に登場する唐津地方のことから話し始めた。


「また一海を度(わた)りて千余里、末盧国(まつらこく、佐賀県唐津市及び東松浦郡)にいたる。
四千余戸あり、山海に浜(そ)いて居す。
草木は茂りて盛ん、行くに前人を見ず、好く魚鰒(あわび)を捕り、水の深浅なく沈み没してこれをとる」


古代から史書に登場する唐津地方は、わが国にとって大陸から東南アジアへの玄関であり、6世紀には大友狭手彦による半島侵攻、11世紀には二度にわたる刀伊(女真族)の来襲、そして13世紀には、やはり二度にわたる元軍・高麗軍による元寇があった。

一方、日本側も松浦党を中心にした和寇が、半島から大陸を侵略、16世紀には嘉靖の大和寇時代を迎える。

そして、16世紀末には豊臣秀吉による文禄・慶長の役。

二度の戦役で、日本に連れてこられた朝鮮人は、20余万人。

当時は、織田信長から始まった茶の湯の隆盛期であったため、半島の陶工は優遇され、九州諸窯が開かれたので、文禄・慶長役は「焼き物戦争」とも呼ばれている。

古唐津もまた、そうした半島との関係から最盛期を迎えることになったのだった。


朝鮮王朝では、陶工は貧しく、妻帯もできなかったというが、日本では士分に取り立てられ、テクノクラートとして遇されたため、帰郷を望む人は、ほとんどいなかったらしい。

ちなみに、高取焼の祖、高取八山(朝鮮名、八山)は、黒田長政に七十人扶持で召し抱えられた。

池波正太郎の『鬼平犯科帳』でおなじみの長谷川平蔵宣以(のぶため)は、火付盗賊改方長官だが、この加役の役料が四十人扶持だから、陶工の優遇ぶりが分かるのではないだろうか。

ちなみに一人扶持は、1.8石なので、七十人扶持は126石。

江戸時代は、一石が一両、米価で換算すると一両は約10万、大工の手間賃で換算すると、現代の30万ほどになるという。

江戸時代には、物価が高い江戸でさえ、一両あれば四人家族が数カ月、余裕をもって暮らしていけたというから、実勢に近い大工の手間賃で換算すると、高取八山の年収は、今日の3780万円ほど、年収四千万弱になる。

もちろん、単純には比較できないが、最下級の武士の俸給が三両一人扶持――武士を罵るときのサンピンはここから来ている――だから、陶工が特別な扱いを受けたことが分かると思う。

ここまでが前振りで、そこから、私が考える古唐津の魅力を語っていったのだが、最大のポイントは、李氏朝鮮の陶工の作る焼き物が、一世代も経ずに、すぐさま和様化したのは、なぜだったのかということだろう。

もうひとつ、留意したのは器物と言葉の関係なのだが、この講演は出光美術館の館報に採録される予定である。


講演が終わってからは、学芸課長の笠嶋忠幸さん、柏木真理さんと会食。

出光美術館が入っている帝劇ビル地下に、神田の老舗鰻屋きくかわの支店があって、ビールで乾杯したあと、美味しい料理と鰻を御馳走になった。



翌日は、有栖川有栖『狩人の悪夢』の付箋を貼り込んだページを再読してから、「週刊現代」のための書評を執筆する。

前日の講演で燃え尽きたためか、異様に時間がかかったが、夕方に、ようやく書き終えることができた。


数日ぶりにメールをチェックしたら、三井喬子さんから『現代詩文庫 三井喬子詩集』解説の執筆依頼が。

喜んでお引き受けすることにしたが、『現代詩文庫 和合亮一詩集』解説を書き終えたら、次は、三井さんの解説を書くことになる。
posted by 城戸朱理 at 00:13| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月17日

新春の酒器

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新春の酒器は、秋に京都の「ごだん宮ざわ」に持参した北大路魯山人の赤呉須銀彩徳利と小山冨士男の宋赤絵風花字盃を使った。


魯山人の赤呉須は雅味があり、実に美しい。

金彩や銀彩は華やかにすぎるが、それを問われた魯山人は、数十年すれば分かると応えたという。

たしかに、経年によって銀彩は酸化して黒ずみ、落ち着きを見せている。

花字盃は見込みに酒が染み、とろりとした肌になってきた。

お正月にふさわしい花のある取り合わせだが、写真は撮らなかったので、ごだん宮ざわで撮影したものを流用した。


魯山人も、古山子と号した小山冨士男も鎌倉在住だったから、鎌倉の骨董屋では、ふたりの作品を見かけることがある。

あるときなど、若宮大路の骨董屋に小山さんの盃が五点も並んでいたことがあった。

魯山人は、さすがに見かけなくなったが、由比ヶ浜通りの瀧屋美術で、よく扱っていたのを思い出す。


小山冨士男は文部省の技官だったときに、魯山人を二度、人間国宝に推したが、魯山人はこれを断った。

しかし、ふたりの交流は損なわれることなく、魯山人が亡くなったとき、真っ先に駆けつけたのは小山冨士男だったという。


宮澤政人さんによると、京都の骨董屋が扱う魯山人作品は、本人による共箱がほとんどらしい。

魯山人没後、公式鑑定人は銀座の黒田陶苑か、鎌倉の魯山人館の竹腰長生になっているが、東京の骨董屋で、いちばん見かけるのは黒田箱だろう。

それ以外だと、魯山人の星岡窯の主任をつとめ、のちに人間国宝となった荒川豊蔵や小山冨士男の箱書きを見たことがある。

私の手元にある魯山人作品は黒田箱がいちばん多いが、朝鮮唐津茶碗は小山冨士男の箱書きだった。



北鎌倉在住の70代の方から聞いたのだが、妹さんが魯山人の娘さんと小学校で同級で、山崎の星岡窯に遊びに行ったとき、魯山人その人から器をもらったことがあるそうだ。

魯山人には、傲岸不遜、唯我独尊のイメージがつきまとっているが、気前がいい人だったのも間違いない。

そのあたりのことは白洲正子さんも書いている。


また、魯山人の生前には、鎌倉の雪の下に魯山人作品の販売店「かまくらや」があったので、鎌倉のあちこちに、魯山人作品が、まだ眠っているかも知れない。
posted by 城戸朱理 at 09:16| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする