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城戸朱理のブログ: 骨董・工芸

2017年06月14日

メイド・イン・オキュパイド・ジャパン

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第二次世界大戦後、1945年から1952年まで、日本はアメリカの占領下にあったわけだが、1947年から52年までの5年間、日本からの輸出品には「Made in Occupied Japan」(占領下の日本製)と入れることが義務付けられていた。

ほとんどがアメリカ向けの輸出品だったが、この「オキュパイド・ジャパン」ものは、製造期間が5年間だけだったこともあって、アメリカではコレクティブ・アイテムとなっており、日本でもコレクターが少なくない。


私が、このオキュパイド・ジャパンの存在を知ったのは、1980年代のことで、下北沢や西荻窪あたりのアンティークショップでは、よく見かけたものだった。


私はコレクターではないので、オキュパイド・ジャパンものを集めようとは思わなかったが、当時、買ったものが、いくつかが手元にある。


最初のカップは、西荻窪のアンティークショップで3客あったものを求め、後に骨董市で見つけて、6客組みにしたもの。

デミタスカップのサイズで、ぐい呑みにも使えるが、本来の用途は分からない。

エッグスタンドかと思ったのだが、玉子を入れると安定しないので、やはりカップなのだろう。

絵付けは雑で手早く、戦後の混乱期を偲ばせる。


次の6枚組みの皿のほうは、精巧な出来で、ケーキ皿に適寸。

やはり、西荻窪で求めたものだが、これはバンビことパンクな彼女のお気に入りである。


最後の直径30cm近い大皿は、阿佐ヶ谷のアンティークショップで山積みになっていたもの。

銅版転写による印判手だが、ムラがあり、一枚ずつ確認して、発色のいいものを2枚選んだのを思い出す。

2羽の鳥と柳を配したパターンは、中国の悲恋物語に由来するもので、「ブルー・ウィロー」と呼ばれる。

18世紀なかばにイギリスで生まれ、19世紀の西欧におけるシノアズリーの流行によって、世界に広まった。

イラストレーターの安西水丸さんは、「ブルー・ウィロー」のコレクターとしても有名だったが、コレクターも少なくない。

今でも、食器の定番としてイギリスのバーレイ社などが製造しているが、たしかに魅力的な図柄だし、料理の和洋を問わないところがいい。

仕切りがあるので、朝食用のプレートとして、しばらく愛用したものだった。


日本が貧しかった時代に作られたオキュパイド・ジャパンものは、一生懸命、西洋的なものを作ろうとしているところがあって、切なくも、いとおしい。


ただ、わが家では、もう使うことがないので、気に入ってくれる友人がいたら、プレゼントしようと思っている。
posted by 城戸朱理 at 11:26| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月08日

岡晋吾の天平窯〜使い勝手がよすぎて困るもの?

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佐賀県の唐津で、初期伊万里と見紛う器を焼いている陶芸家が、天平窯の岡晋吾。

私は、2015年に鹿児島で開催された国民文化祭に出演したあと、天平窯を訪ねてみたが、京都は「ごだん宮ざわ」の宮澤政人さんも、窯に行ったことがあるそうだ。

それだけ、器好きに注目されているということなのだろうが、ここのところ、東京のデパートやギャラリーでも個展が、たびたび開催されている。


最初の写真は、銀座のギャラリーおかりやで6月14日〜19日に開催される「岡晋吾陶展 日本のかたちを求め」の案内状。

染付に白磁、李朝の鶏龍山を模した片口と、いずれも魅力的で、使ってみたくなる。

さらに、天平窯は酒器もいい。


実際、天平窯を訪ねたときに求めた色絵の小皿や染付皿、生がけの釉だまりが美しい白磁皿は、和洋を問わず料理が映えるし、サイズもいいものだから、食卓に並ばぬ日がないほどだ。

民芸運動を代表する陶芸家、河井寛次郎は、物を買う基準を娘に問われ、「誠実、簡素、健全、自由」と答えたそうだが、岡晋吾さんの器も、そうした条件を満たしているのだと思う。

ほかにも器はたくさんあるのに、使い勝手がいいものだから、バンビことパンクな彼女も、つい天平窯の皿に手が伸びてしまうらしい。


「でも、ほかにもいい器がたくさんあるんだから、岡晋吾さんのお皿ばかりじゃなくて、ほかのも使わないとね!」とバンビが言い始めた。


まったく、その通りである。

食卓に変化をつけるべく、北大路魯山人の絵志野皿や木の葉皿、織部の向付けなど、数点を桐箱から出して食器棚に移し、ふだん使いできるようにしたのだが、それでも天平窯の皿の出番は多い。


今度の個展も、時間があったら行きたいと思っているが、新作を求めたら、また、そればかり使うようになってしまうのだろうか?
posted by 城戸朱理 at 11:00| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月04日

季節と酒器

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先に織部梅文六角盃のことを書いたが、梅が咲くころに使う盃が、ほかにもある。

李朝染付梅文盃と瀬戸染付梅文盃である。


そして、こうした酒器は、この時季以外に取り出すことはない。

桜文の器なら春に、薄(すすき)が描かれた器なら秋に。

器まで季節とともにあるのは、日本ならではの感覚だろう。


李朝染付梅文盃は、やはり李朝の白磁徳利と合わせる。

この徳利は、李朝中期の官窯だった金沙里窯の産。


幕末の瀬戸梅文盃は、骨董市で見つけたものだが、改めて眺めてみると、手早くも見事な絵付けだと思う。

もっとも、この盃を見つけたとき、ちょうど梅の季節だからと購入を決めたので、夏や秋なら買わなかったかも知れない。


それほどまでに、季節感というものが、身体化していることの不思議さは、骨董を買うようになってから痛感したが、逆に、だからこそ、松尾芭蕉が語ったように「夏炉冬扇」が風雅の道となるのではないだろうか。
posted by 城戸朱理 at 09:14| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月02日

食卓の古唐津

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出光美術館の開館50周年記念「古唐津――大いなるやきものの時代」展を見ているときのこと。

バンビことパンクな彼女が、出展目録に何かをせっせと書き込んでいた。

いったい何を書いているんだろう?


「これが欲しいというものをチェックしていたんだよ!」
・・・・・・

出光コレクションの古唐津は、重要文化財2点を含む優品揃い、類品を見つけても、おいそれと買えるようなものではないのだが――


「あとね、どんな料理を盛りつけてみたいかを書いてみたよ!」
!!!!!!


それは面白い。

私も会場を歩きながら、奥高麗茶碗に茶が点てられた様や、朝鮮唐津の花入れに生けられた牡丹を幻視していたが、唐津は水と親和性が高い器だけに、美術館で名品を見ても、自分なら、どう使うかを考えてしまうところがある。


そして気づいたら、わが家の食卓にもささやかな変化が起こっていた。

私が持っている茶碗や酒器を始めとする古唐津は、桐箱に納めてあるが、折にふれて求めた小皿や馬盥の小鉢などは、かなりの数が食器棚に積んである。

バンビは、展覧会を見てから、実際に古唐津を使ってみたくなったらしく、気づくと、絵唐津の小皿に桜海老を、黄唐津の馬盥小鉢に鮭の麹漬けを、縁なぶりの斑唐津の小鉢に菜の花をといったように、何かしら古唐津の器を取り出して使うようになった。


いずれも出来損ないを廃棄した物原(ものはら)から掘り出された掘りの手で大したものではないが、それでも古唐津ならではの味わいは変わらない。

使うほどに、色合いは深まり、奥行きが増して、さまざまな景色が現れてくる。


小林秀雄は「骨董はいじるものである、美術は鑑賞するものである」(「骨董」)と語ったが、焼き物好きは、長年の使用によって変わっていく器物の潜在性まで含めて器に接しているわけで、これは、日本ならではの姿だと思う。
posted by 城戸朱理 at 15:46| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月28日

梅の花が咲くころの酒器

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鎌倉は、梅の季節。

家の近所にも見事な紅白の老梅がある。


そして、この時季になると、酒器にも梅の気配が欲しくなる。

今月になってから、私が使っていたのは、写真のぐい呑みと徳利。

織部梅文六角盃と志野柳文徳利である。


織部梅文六角盃は、もともと小向付として作られたもの。

茶の湯で、小向付を盃に転用したのが「ぐい呑み」だから、その意味では、まさにぐい呑みらしいぐい呑みということになるが、伝世品であることは間違いないものの、これが桃山から江戸初期の本歌なのか、それとも時代が下るのかは分からない。

ただ、仕服は、黒柿の箱、古更紗の風呂敷と、由緒正しいしつらえで、長く愛玩されてきたことは分かる。

この盃は、京都の割烹に持参したとき、新羅の徳利と古染付の枡盃を持ち込んで飲んでいた骨董屋さんに乞われてお見せしたところ、「桃山だね」と言われたが、私には、やはり分からぬままで、分からぬまま、ただ卓上で梅の香を聴くように使っている。

緑釉も鮮やかで、新緑を思わせるあたりが、すがすがしい。


徳利は、北陸の名家に伝来したもので、桃山とのことだったが、これは桃山だろうか。

志野は、日本で初めて焼かれた白い器だが、灯りといえば灯明くらいしかなかった当時の暮らしのなかでは、志野は光をまとうように見えたことだろう。


志野も織部も、もっぱら茶の湯のために美濃で焼かれたものだが、フォルムが不定形で、肌ばかりがあるような日本ならではの陶器だと思う。


こと酒器に関しては、古備前の徳利と古唐津の筒盃が酒徒垂唾の取り合わせとされ、私も備前と唐津さえあれば何もいらないとまで思い詰めたことがあった。

しかし、いざ古備前と古唐津を手にしても、すぐに新しい酒器を探し始めるのだから、どうしようもない。


志野や織部といった美濃物は、備前や唐津のような手強い感じはなく、柔らかい。

それだけに、お盆も、いつものような木地盆ではなく、春慶塗りに。

美濃物の柔らかさが、春の気配を感じるようになった時季にふさわしいと思えるようになった。
posted by 城戸朱理 at 09:54| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月17日

新春の酒器

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新春の酒器は、秋に京都の「ごだん宮ざわ」に持参した北大路魯山人の赤呉須銀彩徳利と小山冨士男の宋赤絵風花字盃を使った。


魯山人の赤呉須は、雅味があり、実に美しい。

金彩や銀彩は、華やかにすぎるが、それを問われた魯山人は、数十年すれば分かると応えたという。

たしかに、経年によって、銀彩は酸化して黒ずみ、落ち着きを見せている。

花字盃は、見込みに酒が染み、とろりとした肌になってきた。

お正月にふさわしい花のある取り合わせだが、写真は撮らなかったので、ごだん宮ざわで撮影したものを流用した。


魯山人も、古山子と号した小山冨士男も鎌倉在住だったから、鎌倉の骨董屋では、ふたりの作品を見かけることがある。

あるときなど、若宮大路の骨董屋に小山さんの盃が五点も並んでいたことがあった。

魯山人は、さすがに見かけなくなったが、由比ヶ浜通りの瀧屋美術で、よく扱っていたのを思い出す。


小山冨士男は、文部省の技官だったときに、魯山人を二度、人間国宝に推したが、魯山人はこれを断った。

しかし、ふたりの交流は損なわれることなく、魯山人が亡くなったとき、真っ先に駆けつけたのは、小山冨士男だったという。


宮澤政人さんによると、京都の骨董屋が扱う魯山人作品は、本人による共箱がほとんどらしい。

魯山人没後、公式鑑定人は、銀座の黒田陶苑か、鎌倉の魯山人館の竹腰長生になっているが、東京の骨董屋で、いちばん見かけるのは、黒田箱だろう。

それ以外だと、魯山人の星岡窯の主任をつとめ、のちに人間国宝となった荒川豊蔵や小山冨士男の箱書きを見たことがある。

私の手元にある魯山人作品は、黒田箱がいちばん多いが、朝鮮唐津茶碗は、小山冨士男の箱書きだった。



北鎌倉在住の70代の方から聞いたのだが、妹さんが、魯山人の娘さんと小学校で同級で、山崎の星岡窯に遊びに行ったとき、魯山人その人から器をもらったことがあるそうだ。

魯山人には、傲岸不遜、唯我独尊のイメージがつきまとっているが、気前がいい人だったのも間違いない。

そのあたりのことは白洲正子さんも書いている。


また、魯山人の生前には、鎌倉の雪の下に魯山人作品の販売店「かまくらや」があったので、鎌倉のあちこちに、魯山人作品が、まだ眠っているかも知れない。
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2017年01月11日

念持仏〜大日如来

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数年前に、鎌倉は由比ヶ浜通りの骨董屋で小さな小さな仏さまを見かけた。

像高2センチほどで、厨子に入っている。

念持仏のなかでも、旅に携帯する守本尊で、智拳印を結んだ大日如来である。


ふだんなら、そのまま戻すところだが、東日本大震災のあと、父と友人を見送ったばかりだったので、しばし見入ってしまった。

小さいが、仏師の手になるもので民間仏ではない。

江戸時代のものだろうが、お顔は凛々しく、時代はかなり上がるのではないだろうか。


高くもなければ安くもない、江戸時代の念持仏の値で譲ってもらって居間のテーブルに仮安置したのだが、気づくとバンビことパンクな彼女が、よく手に取ってじっと見つめている。


「このカーブがぴったり合っているんだから、凄い細工だよ!」
・・・・・・


なんと、バンビは仏さまではなく、厨子を見て感心していたのである!

しかし、これだけ毎日、眺めているのだから、もはやバンビの念持仏と言ってもいいだろう。

とはいえバンビは京都の弘法市で見つけた1cmほどの黄水晶の観音さまを旅の守本尊にしているから、そちらが持仏ということになるのだろうか。


もっともパンクだから、何をお祈りしているかは分かったものではない。

なんと、京都の下鴨神社にお詣りしたときは、「お手々にたっぷりお小遣いがのせてもらえますように」と声に出してお願いしていたくらいなのだから。


それでも、小さな仏さまを傍らに置くのは、悪くないと思う。
posted by 城戸朱理 at 09:09| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月03日

念持仏〜不動明王

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書斎のデスク右側、ジャスパー・ジョーンズのマルチプルの奥は、私の念持仏の座である。

念持仏とは、寺ではなく自宅に祀る仏のことで、略して持仏とも呼ぶ。


仏教における尊格は、如来・菩薩・明王・天部の諸神に分かれるが、このうち明王は密教だけに固有の尊格である。

つまり、不動明王を始めとする明王は、真言宗か天台宗の寺院にしかない。

生まれ年の干支によって、守護仏は決まっているが、どの尊格を持仏にするかは、各人の好みもあれば、出会いもある。


私の持仏は、円空作と伝えられる不動明王。

像高は、約47cm。

円空の場合、宝剣を眼前に掲げた不動明王の作例はほかにもあるものの、きわめて珍しい。

珍しいなどということは、どうでもいいことだが、円空は、用材にこだわることなく、むしろ、材木ごとに、そこに潜む仏の姿を彫り出していった人だから、こうした像容になるべき木があったということなのだろうし、それを思うと興趣が尽きない。


密教において、不動明王とは、度しがたい衆生を救済するために、大日如来が憤怒の姿を取った教令輪身(きょうりょうりんじん)とされるが、この不動尊は怒りまで静かで、相対していると、心は鎮まっていくものの、何か逸っていく力を感じるのだ。
posted by 城戸朱理 at 10:32| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月07日

京都で買ったもの

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石田瑞穂・みう夫妻と京都で骨董屋巡りをしたのだが、新門前通りを歩いていると、やはり京都という街の奥行きの深さを感じるところがある。

ある店のウィンドウにあった尾形乾山の銹絵菖蒲文角皿を見た瑞穂くんが、「あるんですね、乾山が」ともらしていたが、応仁の乱以降、戦災を経験していない京都は、やはり遺品が数多く残されているのだろう。

ちなみに、この乾山の角皿、書は乾山だが、絵付けは乾山の工房の絵付け師だった渡辺素信によるものだった。


別の店で見た李朝の堅手徳利も素晴らしかった。

粉引とみまごうほど味わい深く、フォルムも秀逸。

60万という値は、決して高いとは思わなかったが、かといって即決できる値段でもない。

悩ましいところだが、もっと手軽に楽しめるものもあるのが、骨董の面白いところで、瑞穂くんは、天平堂で、時代はないが、釉薬が暴れまくった李朝の個性的な徳利を購入していた。

これは、いずれ本人のブログで紹介されるかも知れない。


高価な古美術ばかりではなく、生活骨董と言われるジャンルもある。

これは、実際に暮らしのなかで使える江戸後期から昭和初期の器で、物によっては、新作よりも値が安い。

観山堂は、そうした生活骨董を扱う店で、私は写真の千鳥型白磁皿と桃型の小皿三客を求めた。

千鳥型の小皿は、昭和初期のものだが、目を描き、呉須をほどこしたものが、菊池信義さんの『わがまま骨董』で紹介されており、私も同手の五客組を購入したあと、離れの一客を見つけ、計六客を使っている。

白磁のものは初見だが、やはり、形が愛らしい。


桃型の小皿も昭和初期のものだろうが、以前、観山堂で二客求めたので、三客追加して五客組になった。

これは手塩皿に使うと、食卓のアクセントになる。


石田夫妻は、御飯茶碗を選び、さらに、私の勧めで、みうさんが桃型小皿二客を購入。


財布の負担にならないうえに、普段使いできるこんな買い物も、気楽で楽しい。
posted by 城戸朱理 at 10:27| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

初期伊万里の白磁鎬盃

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ごだん宮ざわの宮澤政人さんは、京都に修行に来たばかりのころ、先輩に連れられて新門前通りの南明堂を訪れ、初めて骨董という世界に触れることになったそうだ。

初めての買い物は、20歳のころで、南宋の白磁碗。

ごだん宮ざわに置いてあったので、見せてもらったが、「紙より薄し」と讃えられた北宋の定窯なみの薄作で、見込みに経年の染みが生じ、鑑賞陶器ではなく、凛としながらも茶味のある魅力的な碗だった。


それ以来、南明堂を始めとして、京都のみならず、東京なら日本橋の骨董屋にも出入りするようになったそうだが、気に入った器を前にしたときの宮澤さんの高揚ぶりは、器と恋に落ちたかのようで、見ているほうが赤面するほどだった。

だからこそ、あれだけの器が揃ったのだろう。

南明堂の御主人が宮澤さん好みの器を十ほど用意してくれていたのだが、宮澤さんの目の色が変わったのは、明末清初の古染付、絵替わり羅漢図五客組の皿を出されたときである。

この古染付、碁笥底(ごけぞこ)なのに薄作という稀品で、それだけに一枚20万ほど。

五客組となると、100万を超える。

宮澤さんは、今にも買いそうな勢いだったが、はたして、どうなるのだろうか。


一方、石田瑞穂くんが手に取ったのは、初期伊万里の鎬盃と青木木米作のめでた盃。

江戸時代後期の青木木米は、野々村仁清、尾形乾山と並んで「日本三大陶工」と呼ばれる名工であり、
自ら「識字陶工」を名乗ったが、頼山陽、田能村竹田ら同時代の文人と親交があって、陶芸のみならず、南画もよくした。

鯛の絵を見込みにあしらった「めでた盃」は、木米が加賀の大聖寺藩に招かれたとき、春日山窯の開窯を記念して五百個焼いたもので、かつては「ぐい呑みの群れにはなくてはならぬもの」(小山冨士夫)とされた名高い酒盃である。


木米のめでた盃は、すでに持っているので、私は、初期伊万里の鎬盃が気になった。

17世紀初頭、わが国の磁器創草期に焼かれた初期伊万里は、古伊万里とは違って、器胎を素焼きせず、日干しした器胎に釉薬をかけて焼く生掛けのため、磁器ながら、とろりと柔らかみのある肌になる。

それだけに、酒によくなじむのだが、いかんせん、伝世品はめったになく、市場に流通しているのは発掘品がほとんどだから、歪んだり、傷気の多いものばかりで、完品はめったにない。

これまで、初期伊万里の徳利は、納得できるものと出会えたが、盃は発掘品ばかりで、いずれは、完品に近いものに出会えたらと思っていた。

実は、今年、京都きっての骨董屋で、完器の初期伊万里を見かけ、手に取らせてもらったことがある。

珍しい絵付けがあり、しかも伝世品。

決して安くはないだろうが、初期伊万里だから手が出ない値ではないだろうと思って、尋ねてみたら、これが私の予想の5倍以上、170万を超えるものだった。

ここまで、予想とかけ離れると、手も足も出ない。


初期伊万里の鎬盃は、小振りのものが多いが、南明堂にあったのは、大きめで、ぐい呑みに適寸、肌もよければ、傷気もない。

口縁も窯傷はあるが、欠けはなく、ほぼ完器と言っていい。

宮澤さんではないが、これも出会いと思って尋ねたら、私の考えていた値とほぼ一緒だったので、その場で購入を決めた。


いったんホテルに戻ってから、ごたん宮ざわに持参したら、


「あとで行って買おうと思ってたんです。
やっぱり、その場で決めないと駄目ですね」と宮澤さん。


宮澤さんも欲しいと思っていたらしい。

瑞穂くんも、気になっていたらしいが、私が買わなくても誰かが買っていたかも知れないと思うと、それはそれで愉快である。
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2016年12月06日

徳利と盃

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ごだん宮ざわを訪れるときは、酒器を持参することが多いのだが、今回は趣向を変えて、作家物にした。

北大路魯山人作、呉州赤絵銀刷毛目徳利と小山冨士夫作、宋赤絵風花字盃である。

戦時中、銃弾が飛び交うなか、北宋定窯の窯跡を発見し、世界的な陶磁学者として名を馳せた小山冨士夫は、古山子と号し、晩年は作陶にいそしんだ。

本人が酒豪だっただけに、とりわけ酒器は評価が高いが、この盃は、古山子が、花の木窯を開窯したとき焼いたものである。


北大路魯山人と小山冨士夫、ふたりの共通点といえば、鎌倉に住まいしていたということ。

西脇順三郎も、太平洋戦争のさなか、鎌倉に疎開し、2年間を大町で暮らしたことがあるが、よく小山冨士夫を訪ねたらしい。

魯山人と小山冨士夫も交流があったが、小山さんの自宅に、突然、魯山人が現れ、大量のショウガをすり下ろして、手ずからジンジャーエールを作ったというエピソードもある。


徳利の銀彩もほどよく枯れ、盃には酒が染み、華やかだが、ごだん宮ざわのカウンターに、よく似合った。


そして、奇しくも、翌日の撮影で、宮澤政人さんが使ったのが魯山人の器の数々。

波長が合うとは、こういうことだろうか?


この徳利と盃の取り合わせは、正月にもいいかも知れない。
posted by 城戸朱理 at 09:05| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月08日

寺町の骨董屋

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石田瑞穂、未祐夫妻と最後に立ち寄ったのは寺町の骨董屋、大吉だった。


3日前に覗いたときは定休日だったのだが、ウィンドウにあった唐津の片口と筒盃が気になったのだ。

大吉は喫茶店も兼ねているので、コーヒーを頼み、みんなで骨董を見る。


ウィンドウの片口は、桃山〜江戸初期の無地唐津で、無傷の伝世品。

茶碗に取り上げるには、ひとまわり大きく、徳利がわりの酒器に使うとしても、やや大きい。

そうなると、片口として使うしかないが、古唐津の伝世品としては、手が届く値段で、いささか迷った。


筒盃は、唐津ではなく美濃、江戸初期に登窯で焼かれた志野織部。

無地の志野織部の筒盃は初見だが、発掘品ながら釉は枯れておらず、魅力がある。

これまた迷うところだが、迷ったときには買わないのが、私のやり方なので、結局、見送った。


それにしても、大吉は、いつも気になる酒器があるので、見逃せない。

瑞穂くんは、帰宅してから思い立って、別の盃を予約したそうだが、これは、いずれ彼のブログで紹介してくれることだろう。
posted by 城戸朱理 at 14:44| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月02日

新門前の骨董屋

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開花状況を井上春生監督に連絡してからは、散策の時間。

新門前通り界隈の骨董屋を覗く。


鉄斎堂の看板は、武者小路実篤、柳孝の看板は、川端康成で、文人との関わりがうかがえて面白い。


柳孝は、川端康成のほかにも、小林秀雄や白洲正子が通ったが、選りすぐりの一流品のみを扱う店として知られている。

今回は、桃山時代の無地唐津の筒盃や初期伊万里の盃を見せてもらったが、どちらも傷ひとつない伝世品で、隣には尾形乾山の絵替わり土器皿五客が並んでいた。
posted by 城戸朱理 at 10:54| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月30日

第64回京都大アンティークフェアーへ

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西日本最大級の骨董祭、京都大アンティークフェアーが、ちょうど開催されていたので、午前中に覗いてみることにした。

会場は、伏見の京都府総合見本市会場・パルスプラザの大展示場。

400もの業者が出店するので、駆け足で回っても3時間はかかる。

店舗を構える業者の出店がほとんどで、そこは露店の骨董市とは異なるところだろう。

何となく見覚えがある品揃えのブースがあったので、店名を確認してみたら、東京は青山の有名店だったりするのが面白い。


茶道具から仏像、着物から西洋アンティークまで、信じられないほどの量の古物が並ぶ様は、圧巻だ。


私は、一度だけ行ったことがあるので、今回は2回目。

前回は、ちょうどいいサイズで伝世品の初期伊万里盃に惹かれながらも逸したので、今回は状態のいい初期伊万里の盃を見つけたいと思っていたのだが、見当たらなかった。

桃山の美濃や桃山から江戸初期の唐津の酒器となると、物によっては数百万の高値を呼ぶが、時代は、それほど違わないのに、初期伊万里となると、手が出ないわけではない。

狙いはいいのだが、10点ほど見かけた初期伊万里盃は、いずれも発掘品を呼び継ぎしたものばかりで、状態のいいものはなかった。


室町の懸仏を何点も並べている店もあれば、発掘品を金継ぎした古唐津を数十点も並べている店から、北大路魯山人や加藤唐九郎など作家物を扱う店もある。


歩き回って、普段使いできる手軽なものを選んだ。


ホテルに戻ると、さっそく洗い浄め、使っていたのだが、最初に手にしたのが、瀬戸の吹墨の、ごくごく小さい小鉢である。

吹墨の本歌は中国の古染付で、初期伊万里にもあるが、明治の瀬戸の吹墨は、コバルトのブルーの発色が軽やかで、およそ骨董という重みがなく、モダンな印象がある。

カフェオレカップを掌サイズにした軟白磁の小ボウルは、フランスのジアン製で、1940年代の品。

こうした小器は、使い勝手がよく、食卓で重宝する。


伊万里の色絵唐子草花文徳利は、取っ手付きのところが面白い。

江戸後期のものだが、伊万里で独酌に使える徳利は、めったにない。

色絵は華やかすぎて独酌には向かないが、御主人に勉強しますよと声をかけられ、話し込んでいるうちに、祝い事がある日には、こんな徳利も楽しいかも知れないと思って買うことにした。

ホテルの無機的な部屋だと、こんなふうに花のある徳利が好ましかったりもする。


今回、いちばん嬉しかった買い物は、最後のスリップウェアの鉢である。

18世紀終わりか19世紀初頭の英国製で、実に頑健な出で立ち。

スリップウェアは、スリップ(エンゴーベ)と呼ばれる泥漿状の化粧土で装飾した陶器で、紀元前から世界各地で焼かれてきた。

日本では、バーナード・リーチと浜田庄司によるイギリスでの収集に始まって、柳宗悦の民芸運動にも大きな影響を与えたことが知られている。


オーブンにも使えるし、直火にもかけられる頑丈な器なので、日々の暮らしこなかで、どう生かすかが楽しみだ。
posted by 城戸朱理 at 09:50| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月26日

絵瀬戸の徳利

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江戸時代の瀬戸は、造型が型にはまったものばかりで、野趣に乏しく、独酌には向かないが、珍しくも絵瀬戸の徳利を買った。


瀬戸の鉄絵は、余白が多いのが普通だが、この徳利は器胎全体に鉄絵がほどこされ、しかも絵が暴れまくっているところがいい。

唐草文を簡略化したものだろうか。

たっぷりとした胴も好ましい。


どこかで見たことがあるような気がして調べてみたら、駒場の日本民藝館の収蔵品に同手のものがあった。

柳宗悦の目に止まったものということになるが、民藝館の収蔵品は江戸時代中期、この徳利は時代が下り、江戸時代後期のものである。


さっそく、晩酌に使おうとして盃を選んでいたら、バンビことパンクな彼女が、「この徳利には小さい盃のほうがいいよ」と主張するので、とりあえず初期伊万里染付蘭文盃を合わせてみることにした。

わが国の磁器草創期、江戸時代初めに焼かれた初期伊万里は、窯跡からの発掘品がほとんどで、この盃も直しがあるが、肌はすがすがしい。


「こんなにグルグル描くなんて、変態的な徳利だね!」とバンビ。

そこがいいのだが。

「銘は芳一がいいんじゃないかな」
・・・・・・


小泉八雲『怪談』でおなじみの「耳なし芳一」からの連想である。

たしかに耳もないし(当たり前か)、気持ちは分からないでもない。

だが、もう少しひねって、耳なし芳一の舞台から、「銘 阿弥陀寺」とでもしたいところだが、よくよく考えると「銘 芳一」のほうが似合っているような気がしないでもない。

もっとも、江戸の瀬戸徳利に、わざわざ銘をつける必要はないかと気を取り直したが、桐箱はあつらえることにした。
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2016年03月21日

梅の花が散るまでは

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先月のこと。

装幀家の菊池信義さんは、『わがまま骨董』『ひんなり骨董』といった著書があるほど古物好きだが、大和プロムナードで開催される骨董市をよく覗かれるらしい。


それをネットで知った、バンビことパンクな彼女が、「久しぶりに、お散歩がてら、大和の骨董市に行ってみるのはどうかな?」と言い出した。


ちょうど、鎌倉は梅が満開。

梅を見ながら、藤沢に出て、小田急線で、大和へ。


毎週、第3土曜日に開催される大和の骨董市は、日本最大級の規模で、200を超える業者が出店する。

10年ほど前なら、骨董市でも江戸時代のものが散見したが、久しぶりの市は、すっかり様変わりしていて、いちばん目につくのは、昭和もなかば、昭和40年代のものになっていた。

なぜか、不二家のペコちゃんグッズが、やたらと目についた。


バンビのお目当ては、古い葉書や写真。

私は、とくに探しているものはなかったのだが、ふと目についたのが、梅花文の染付盃だった。

伊万里ではなく、瀬戸の産で、山呉須を使った幕末の品。

業者は「絵付けがいいでしょう」と言っていたが、梅の花の季節だけに、なんとなく惹かれて求めることにした。

戦前の小振りな剣先グラスもあったので、一緒に購入することにして、さらに別の露店で形の綺麗なガラスの醤油差しを買ったのだが、これも昭和初期ものだろう。

剣先グラスは、戦前の焼酎用のコップだが、以前より見かけなくなった。


骨董市で酒器が見つかることは滅多にないので、気分がよい。


昼すぎまで、さんざん歩き回っていたのだが、バンビの万歩計によると、なんと1万歩を超えていた。

骨董市は、はからずもウォーキングにもなるようだ。


帰宅して、夜はさっそく瀬戸梅花文染付筒盃で晩酌したのだが、磁器なのに酒に馴染む。

結局、梅が散るまで、北大路魯山人の黄瀬戸徳利を合わせて、この盃を使っていた。
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2016年02月12日

ヘンな骨董、その8〜とりわけヘンなもの

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決して集めているわけではない。

探しているわけでもないのに、なぜか増える。

それが、ヘンな骨董だ。

考えてみれば、ヘンだからこそ手が伸びるのだろうし、どれもが小さく、掌に乗るサイズなので場所を取らない。

これが、不二家のペコちゃんとかケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダースのように大きかったら、やはり躊躇することだろう。


ヘンな骨董は、いずれも、何かのついでに求めたものだから、気楽なものだが、居間のサイドボードの一画を占めるようになると、笑いを誘う。

なんとも愉快な代物である。

以前、紹介した「ヘンな骨董」のうちでも、とくに面白いものを再掲しておこう。


まずは、英国製のスコッチテリア型の栓抜き。

真鍮製で、アールデコの雰囲気を残す1940年代の品である。

いいデザインだが、小さいので、実際は使いづらい(笑)。


木彫りのウサギは、江戸時代のもの。

商品として作られたものではなく、余った木材で、職人が自分の子供のために作ったものではないだろうか。

これだけは、高さ14cm、全長28cmと、やや大きいので、居間ではなく、書斎に鎮座している。


そして、極めけは、やはり中国は磁州窯の犬である。

磁州窯は唐末から続く華北最大の窯業地で、宋時代のものに名品が多い。

これは副葬品の明器だが、年長の友人に譲られたもの。

和洋を問わず骨董とアンティークを生かしたお宅の棚に、この犬を見つけ、そのあまりにとぼけた顔に大受けしていたら、「持っていけば」のひと言で、わが家の犬となった。

犬というよりは、人のようでもあり、見る者を脱力させる魔力を秘めている(?)。


ちなみに、バンビことパンクな彼女が、いちばん気に入っている骨董は、唐津でも備前でもなければ、乾山でも魯山人でもなく、この磁州窯の犬だったりするのだが。
posted by 城戸朱理 at 10:51| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月08日

ヘンな骨董、その7〜鹿の染付皿

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鹿児島は霧島の露天風呂に入っていたとき、鹿が近くを歩いていたことがあった。

野生の鹿を見ることなんて滅多にないので驚いたが、江戸時代ならば当たり前の眺めだったのかも知れない。

与謝蕪村が松尾芭蕉を偲んで再興した京都、金福寺の芭蕉庵で詠んだ句を見れば、洛北でさえ、鹿が身近だったことが分かる。


三度啼きて聞こえずなりぬ鹿の聲

鹿ながら山影門(さんえいもん)に入(いる)日哉


これは日本だけではなく、中国や朝鮮半島でも同じだったようで、中国でも李氏朝鮮でも、日本の伊万里でも、鹿の染付の器をときおり目にする。


最初の写真の小皿は、明末清初に中国の景徳鎮で焼かれた古染付。

中国には「陶によって政を見る」という言葉があって、陶磁器の出来が世相を写すものになる。

明末清初、戦乱が続く混乱期には、陶磁器も造作も粗くなり、古染付は、絵付も粗にして雑なら、口縁に釉切れが生じ、中国では「景徳鎮の恥」とまで言われた。

ところが、日本の茶人は、逆にその粗さに雅味を見出だし、釉切れまで「虫喰い」と呼んで鑑賞したのだから、美意識の違いというものは面白い。


この小皿は先月、鎌倉で見つけたものだが、絵付けが闊達で、生き生きとしている。


次の鹿図染付小皿は、古伊万里で、これも鎌倉の骨董屋で買ったもの。

紅葉に鹿と花札を思わせる絵付だが、ちなみに花札の紅葉に鹿は、十点。

しかも鹿がそっぽを向いているため、無視することを「鹿十(しかと)する」と言うようになったのだとか。


最後の染付け皿は、李朝で、直径30cmほどの大皿である。

これは、京都で求めたものだが、大皿だけに持ち帰るのに苦労した。

李朝の染付けは、古伊万里に比べると稚拙なものが多いが、李朝では呉須の産出が少なかったので、陶工が手慣れるほどの経験を積むことが出来なかったのかも知れない。


古染付と古伊万里の小皿は、直径10〜12cmほどで取り皿によく使っているが、李朝の大皿は手巻き寿司のときなどに登場する。


別に「ヘンな骨董」というわけではないのだが、バンビことパンクな彼女が「鹿。にゃふふふふ」と喜ぶので、わが家では、ヘンな骨董に分類されている。
posted by 城戸朱理 at 10:04| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月07日

ヘンな骨董、その6〜犬の根付

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円山応挙が描いたような愛らしい仔犬は、根付けである。

根付けは、和装のとき、巾着や印籠、煙草入れなどの提げ物に結んで、帯にひっかけて留めるための道具で、江戸時代に発達し、次第に細密な彫刻がほどこされるようになった。

最盛期は文化文政から幕末にかけてで、明治になると実用品としては廃れたが、海外での評価が高まり、その多くが海外に流出するとともに、輸出用にも作られるよになった。

コレクターは欧米人が多いが、彼らは、根付けを実用を兼ねた装飾品ではなく、小さな細密彫刻として見ていることになる。


根付けは、江戸時代から明治までのものを古根付け、昭和から平成のものを現代根付けと分けるが、写真の仔犬の根付けは、江戸時代の古根付けで、しかも象牙製、
その意味では、ヘンな骨董ではなく、立派な骨董品と言えるのだが、犬の表情がなんともかわいいし、器のように使えるわけではないので、わが家では「ヘンな骨董」に分類されている(?)。
posted by 城戸朱理 at 09:05| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

骨董、その5〜正体不明の水滴

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これを初めて見たときには、思いっきり脱力してしまった。


墨を磨るときに使う水滴なのだが、この間抜けな顔はどうだろう。

しかも犬のようでもあり、タヌキのようでもあり、正体がよく分からない。


瀬戸の産かと思ったら、胎土はもぐさ土。

そうなると美濃産の志野ということになるが、時代は、江戸と言われれば江戸のように見えるし、明治と言われれば、そんなものかと思うだけで、結局は、よく分からない。


こんな水滴で墨を磨っても、まともな字は書けそうもないが、楽しいことは楽しい。

まさにヘンな骨董の真骨頂である(?)。
posted by 城戸朱理 at 09:04| 骨董・工芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする