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城戸朱理のブログ: 本

2017年03月23日

宮澤賢治と洋食など



森荘巳池『森荘巳池ノート』が、あまりに面白いので、3回も通読してしまった。

この本は、これまで紹介してきたように、著者と宮澤賢治、草野心平、横光利一らとの交遊を語るものなのだが、賢治が占める割合がもっとも多い。


賢治が花巻で教員生活を送っていたころ、天ぷら蕎麦にサイダーを好んだ話は有名だが、賢治にはベジタリアンのイメージがある。

たしかに菜食生活を送った時期はあるのだが、必ずしも、それを通したわけではなかった。


まだ旧制中学生だった森荘巳池は、賢治に盛岡の大洋軒という西洋料理店で洋食のフルコースを御馳走になったことを回想しているが、これを賢治は「洋食の一番立派なもの。おごりの頂上の定食」と語っていたそうだ。

賢治は、上京したおりに、「神田で労働者が一番好きな牛丼」や「本郷で大学生が一番好きなカレーライス」を食べたらしく、故郷に帰ってからも、盛岡の肉屋が兼業でやっている食堂で牛丼を食べたり、花巻の精養軒の支店でカレーライスを頼むことがあったという。

賢治の母親は、東京で賢治がきちんと食事をしているか心配したらしいが、それに対して、賢治は、東京には飯屋というものがあって、とりわけ労働者や苦学生が食べる丼物、天丼、親子丼、鰻丼が山盛りで美味しいものであることを伝えたというのだから面白い。

森荘巳池は、鰻丼と天丼が、賢治のもっとも好きな食べ物だったことを語っている。


宮澤家は、素封家だけに、賢治も食事で困るようなことはなかったのだろう。

そして、貧しい農民に比べて豊かな自分を恥じるところが賢治にはあったし、その贖罪の意識が、作品にも反映されているのは言うまでもない。


賢治の生活が一変するのは、祖父が建てた宮澤家の別宅を改装して、羅須地人協会を作り、無償で稲作の指導や肥料の設計を始めてからだろう。

ここでの暮らしは、形を変えた出家のような趣きさえある。


賢治は、杉林のなかにカマドを作り、3日分の米を炊いては、御飯をザルに入れ、井戸に吊るして「天然冷蔵庫」に保存した。

森荘巳池が羅須地人協会に泊ったときには、新巻き鮭の頭と骨をいれたあら汁を御馳走になったという。

このあら汁は、森荘巳池の自宅で作るように、酒粕や高菜を刻んだものが入っていなかったので、荘巳池は物足りなかったようだが、このころの賢治は、衣食に無頓着だったことが、さまざまな人の証言からも分かる。

賢治には、もっと大事なことがあったし、その眼には、イーハトーブの広やかな世界が映っていたに違いない。
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2017年03月21日

宮澤賢治の森のベッド

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ちくま文庫版の『宮澤賢治全集』は、いつでも開けるように書斎のデスク脇に置いてある。

賢治の著作で、生前に刊行されたのは、周知のように『春と修羅』、『注文の多い料理店』の2冊だけ。

ともに大正13年(1924)、賢治29歳のときに出版されたものだが、どちらも驚くような古書値がついており、手が届かない。

それで、もっぱら文庫版全集で賢治を読んでいるのだが、それでも、手が届くものと出会ったときは、つい購入してしまう。


童話集『グスコーブドリの傳記』(羽田書店、昭和16年初版)
『宮澤賢治歌集』(日本書院、昭和21年初版)
詩集『雨中謝辞』(創元社、昭和27年初版)などなのだが、
このうち最初の2冊は、盛岡の古書店で求めたものである。

『宮澤賢治歌集』は、原稿用紙を束ね黒いクロースの表紙をつけた歌稿を単行本化したもので、森荘巳池による校註。

『雨中謝辞』は、『春と修羅』第二〜四集のカード式詩稿と残されたノートの詩稿をまとめたもので、賢治の弟の宮澤清六さんの「後記」によると、なかには丹念に消しゴムで消された原稿を復元したものまであるという。

こうした先人の努力がなければ、賢治自身が自作の取捨選択に厳しい人だったから、その作品のかなりの部分が、散逸してしまったことだろう。



賢治の詩で、もっとも長いのは「小岩井農場」で825行。

では、もっとも短い詩はというと、次の作品である。



さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張って居ります



わずか、2行。

しかし、長短に関係なく、本当に素晴らしい。


こんな詩が、どうすれば書けるのか、考えても分かるものではないが、生前の賢治と親交があった森荘巳池の『森荘巳池ノート』を繰り返し読んでいると、さまざまな発見がある。


賢治は、よく歩く人だったらしい。

しかも、夜中に散歩することが多く、いつも10銭の黒い手帳を持ち歩き、闇のなかで詩想を書きとめていたそうだ。

なかでも、森荘巳池が賢治と一緒に、岩手山麓まで歩いたときの話が面白い。


小岩井農場を過ぎ、岩手山麓に近い姥屋敷を過ぎて、松林の高原に至ったときのこと。

突然、賢治が「ベッドをさがしましょう――」と言った。

驚く森荘巳池に、賢治は「高原特製の、すばらしいベッドですよ」と笑う。

そのベッドとは、羽布団のように、もくもくと枯葉が積もった落葉松の低木で、ふたりで枯葉に潜り込むと、賢治は「岩手山ろく、無料木賃ホテルですナ」と森荘巳池を笑わせたという。

5月とはいえ、月のない夜。

真の暗闇が、ふたりを覆っていたのは間違いないが、賢治には、それを恐れる様子もない。


それからのあれこれは省略するが、ふたりは朝を迎えると、岩手山麓の大きな泉で顔を洗い、賢治が盛岡からハトロン紙に包んで持ってきた一本の食パンを、湧水を手ですくって飲みながら、食べたのだという。

賢治の生き方自体が、まるで彼の童話のようだが、こんなふうに自然のなかで呼吸していた人にしか見えない世界があるのは納得できる。

たいしたものだという言葉は、こういう人のためにあるのだろう。
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2017年03月17日

森荘巳池『森荘巳池ノート』(もりおか文庫)

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光原社で森荘巳池の著作を見つけた。

朝日新聞岩手版に、昭和55年(1980)6月2日から、昭和60年(1985)9月23日まで、週一回で連載された250篇の随筆のうちから218篇を収録したものだった。


著者の森荘巳池氏(1907〜1999)は、昭和19年(1944)に第18回直木賞を受賞した作家であり、『山村食料記録』の詩人でもある。

旧制中学在学中に、宮澤賢治の訪問を受けてから、賢治との交流が始まり、最初の『宮澤賢治全集』編集のため、岩手日報学芸部長を辞した。

いわば、作家であり、詩人であるとともに、賢治の仕事を草野心平らとともに後世に伝えた方である。

「―新装再刊 ふれあいの人々 宮澤賢治―」という副題からも分かるように、宮澤賢治との交友のあれこれが綴られており、実に興味深く読んだ。

巻頭の「公刊本までの推敲の跡」は、宮澤賢治の死から始まる。



 昭和八(一九三三)年九月二十一日、宮沢賢治が亡くなった。人びとが賢治のまわりに集まっている座敷から、私は何となく裏庭に出た。
宮沢家で「遠裏(とおうら)」といっている畑の真ン中に、家を建てる土台が並んでいるのが見えた。そこに行ってみた。長期にわたっていた賢治の療養のために建てようとしたものだと思った。



そこで、森荘巳池が見たのは、賢治の病室から持ってきた三、四冊の『春と修羅』だったという。

そのうちの一冊を手に取って、森荘巳池は、次のように書いている。



 賢治が、熱心に改稿した書きこみがあり、斜線でサッと、抹殺の意志を現したページも多かった。ことに巻頭に多かったのを見た。
 死の前日まで推敲した跡だ。「日光消毒」にこうしてあるのだとすぐ気がついた。原稿を何べんも推敲しているということは、聞いていた。が、公刊本の『春と修羅』まで、熱心に推敲していたわけだ。
「いつまでたっても、作品は完成することなはない」と推敲していたことを目の前にして、驚かない人はないにちがいない。
「大変な人が生まれたものだ。そして、さっさと死んだものだ」と、私は、一冊の『春と修羅』を、ページをひらいたまま、むしろの上に置いて、座敷に帰った。



この宮沢家の「遠裏」の離れは、賢治の没後に完成し、東京から疎開してきた高村光太郎が住んだが、昭和20年(1945)8月10日、アメリカ軍の空襲によって焼失したという。


死の前日まで、詩集を推敲していた賢治の姿も鬼気迫るものがあるが、それよりも、私は森荘巳池の「大変な人が生まれたものだ。そして、さっさと死んだものだ」という感懐が、ひどく気に入った。


新装版の解説は、森荘巳池氏の娘さんで、詩人の森三紗さん。

宮澤賢治生誕120年の昨年に刊行されたものだが、東京や鎌倉では、気づけなかった本に出会えたのが嬉しい。
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2017年01月21日

『向田邦子の手料理』(講談社)

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脚本家としても活躍した直木賞作家、向田邦子は、文筆業のかたわらで、女性がひとりでも気楽に立ち寄れる店を作ろうと、妹の向田和子とともに、赤坂に「ままや」を開店したほど料理が得意だった。

本書は和子さんによる監修で、料理も和子さんによるもの。

初版は、1989年に刊行されたが、私が持っているのは、1994年刊の16刷だから、どれだけ人気があったか分かる。


この本は実に丁寧な編集で、向田邦子の著作から、食べ物に関する文章と和子さんの姉の思い出話をあちこちにちりばめ、生前の向田邦子という作家の姿が、ありありと浮かんでくるところがある。


料理が得意なだけに器好きでもあり、向田邦子が集めた器も紹介されているのだが、中国龍泉窯の青磁や古伊万里などの骨董から、北大路魯山人の爼板皿、醤油差しまで、実に多彩で、楽しい。


向田さんは「私は、ひとり暮らしのくせに、膳の上に品数が並ばないとさびしいと思うたちである」と語っており、これは酒好きならばうなずけるところだが、それだけに掲載されている料理の品数も多い。

家庭にまでフレンチやイタリアン、エスニック料理が入り込んだ今から見ると、どこか懐かしさを感じる昭和的なレシピが多いが、手間をかけずに美味しいものを作るという姿勢が貫かれているので、実用書としても役に立つ。

一見、ポタージュに見える「じゃが芋スープ」など、すり下ろしたジャガイモを煮るといった手の抜き方が、向田流。


サツマイモと栗のレモン煮やクレソン炒飯、白身魚のマヨネーズ焼きや鶏肉のレモン風味炒めなど、向田さんが考案したとおぼしきレシピも多く、よほどの料理好きだったのだろう。


向田邦子は、旅先の台湾で、飛行機事故のため、51歳で亡くなった。

第83回直木賞を受賞したのは、その前年のことだが、受賞作は、雑誌連載中の連作短編。

単行本化を待たずに候補になったこと自体、異例だが、選考会では、山口瞳が、向田邦子はもう51歳、いつまで生きてるか分からないと発言し、授賞がきまったそうだ。

本当は、そのとき向田さんは50歳だったのだが、51歳で亡くなるとは誰も想像できなかっただろう。
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2017年01月19日

辻清明/協『肴と器と』(講談社)

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先に辻協の料理本、『存分に恵みの食卓』を紹介したが、本書は辻清明と協夫妻による料理本で、器にも重心が置かれている。

というよりは、前者が実用的な料理本なのに対して、本書は、むしろ器の取り合わせを楽しむものになっている。

いや、たしかに料理本なのだが、ハモやウツボなど、入手が難しい食材が多いので、簡単には再現できないのだ。


たとえば、伊勢海老を何匹もぶちこんだ磯鍋。

これは伊豆大島の泉津漁協に頼んで入手した活きのいい伊勢海老、ぞうり海老、蟹、サザエ、とこぶしに海藻などを鉄鍋で煮て、味噌・酒・粗塩だけで調味したもの。

これを仲間と囲み、焼酎を酌み交わすというのだから、真似できない。


だが、器使いを見ているだけでも楽しい。

韓国風サラダを18世紀のオランダ、デルフトの色絵皿に盛り、狩野川の鮎のひと干し開きは、ツワブキの葉に。

李朝、信楽、備前、漆器もあればガラス器もある。

古器に、辻清明・協夫妻の自作が混じり、料理が実によく映える。


玉子の黄身の味噌漬けや蒸しアワビなら、私も作ることがあるが、本書は、むしろ、陶芸家の器使いを見る本だろう。
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2017年01月05日

2016年、最後に買った本〜正宗得三郎『鐵齋』(平凡社)

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去年、最後に求めた本は正宗得三郎『鐵齋』だった。


1961年、平凡社刊で、限定2000部のうちの1387番。

神田の美術書専門の古書店、源喜堂で見つけたのだが、一部、アートプレスによる図版を貼り込んだ贅沢な造りの本である。

正月は、酒を汲みながら、この本を開いて、あれこれ思いを巡らした。


著者の正宗得三郎は、渡仏してアンリ・マティスに学んだ洋画家だが、晩年、富岡鐵齋の研究に没頭した。

作家・正宗白鳥、歌人で国文学者・正宗敦夫は兄、植物学者・正宗厳敬は弟になる。


鐵齋は、小林秀雄の名随筆「真贋」で語られているように贋作が多い。

いや、それは、鐵齋に限った話ではなく、近代以前の日本の絵画全体に言えることで、斯会の権威による美術書でも、掲載されている図版の過半が贋作といった例まであるそうだ。

しかし、鐵齋の真筆もおびただしい数が遺されているのも事実だから、それで商売しようという人には悩ましい話だが、虚心に見るならば、鐵齋は鐵齋である。


鐵齋は自らを儒者と名乗り、画家と呼ばれることを嫌ったが、それだけに、自らの作を画賛から見ろと語っている。

鐵齋の書は、実に立派なものだが、この発言は、彼にとって、言葉が主であり、絵画は従であることを言うものであって、鐵齋の姿勢をよく現している。

儒者であるとは、故事に学ぶことであり、故事に語られている本質を自ら生きるということにほかならない。

そして、故事とは言葉によって伝えられるものである。

その意味では、鐵齋の絵とは、故事を視覚的に現前させたものと言っていい。

そこに描かれているのは空想などではなく、鐵齋にとって、動かしがたい現実なのであって、それが分からぬ人には、鐵齋という人は、理解できないものとなるだろう。


鐵齋が青年期に、歌人、太田垣蓮月尼の薫陶を受けて育ったことは知られているが、浦上玉堂を仰ぎ見るとともに、池大雅・与謝蕪村の「十便十宜帖」を臨模し、自分が見た青木木米の絵のすべてを縮写している。

その生涯は、画家と呼んでも不思議がないものなのに、本人が、それを嫌ったということに、私は、やはり驚きを禁じえない。

万巻の書を読み、万里の道を行くことを自らに課した鐵齋は、東アジア的な文人像を生きた最後の人であり、その詩・書・画、三絶の姿は、近代化のなかで私たちが失ったものを静かに教えている。
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2016年12月27日

辻協『存分に恵みの食卓』(文化出版局)

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古書店で値がつかないものと言えば、料理本である。

基本的には実用書だから当たり前だが、それも江戸時代の料理本となると貴重な食文化の歴史的資料になるわけだし、明治から昭和初期のものならば、今となっては分からない当時の食卓の様子を伝えるものとして、別の価値を持つことになる。

そうなると、もう古書たりうるわけだが、そうではないここ30年ほどの料理本は、格式の高い古書店では決して扱わないし、BOOK・OFFあたりに流れてしまうのが現実だろう。


しかし、そうした料理本のなかにも見逃しがたいものがあったりする。

私にとって、辻協『存分に恵みの食卓』は、そんな一冊だ。

辻清明といえば、信楽焼きの名工として名高い。

「別冊太陽」で特集が刊行されたほどの人気陶芸家で、酒を愛し、酒器を始めとする骨董の収集家としても知られた。

辻協さんは、辻清明夫人で、やはり陶芸家として料理が映える器を作り、人気があった方である。


この本のどこが面白いかというと、陶芸家の暮らしと眼差しが、あちこちに感じられることだろう。

辻夫妻が、奥多摩に登り窯を築いたのは、昭和30年(1955)のこと。

当時は、ガスも電気もなく、蝋燭を明かりに、料理は囲炉裏で。

近所の農家のおばさんに教えてもらって、芋や野菜を育て、多摩川で雑魚を獲る半陶半農の生活を営んだという。

そんな暮らしのなかで育まれた料理を紹介する本だから、よくある料理本とは一線を画する。


春ならば、摘んできた野草で、鮭と野草の柿の葉包み寿司、野草の天ぷら、かたくりのお浸し、山うどの酢味噌煮和え。

裏庭に出た筍で、筍御飯を炊き、竹皮包みの中華ちまきを作り、筍のおから詰めをあつらえる。

初夏の鰹は、丸ごと一尾を買って、酒煮、しょうが煮、焼き鰹のサラダと、中落ちやカマまで無駄にしない。

作った料理は、古器を交えた自作の器に盛り付けて、家族に来客に供する。

陶芸家の暮らしを垣間見るようで、それが、また、楽しい。


辻協さんの本は、20年ほど前にも別の料理本を持っていたのだが、仕事関係で貸し出したところ、紛失してしまった。

当時は、本を見て、蕎麦の実の雑炊や牡蠣の黒胡椒炒り、さらにはアップルパイなどを作ったが、素朴ながら滋味あふれる料理が手軽に作れるものだから、重宝したのを思い出す。

つまり、実用書としても役に立ったことになる。


『存分に恵みの食卓』は、先日、入手したものだが、手放しがたい一冊になりそうだ。
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2016年12月23日

古書店の均一棚からの掘り出し物

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古本屋の店頭にある均一台から、面白い本を掘り出しすのは、古書店巡りの楽しみのひとつだろう。

50年前、40年前であれば、均一台から、菱山修三の詩集や永田耕衣の句集が見つかることもあったそうだが、本来ならば高値を呼ぶ本が安く見つかるという意味での掘り出しではなく、先日、紹介した『戦後詩誌の系譜』のように、存在自体を知らなかった本と出会ったり、思いがけない本が見つかったりするのも、均一台ならではの掘り出しだと思う。


均一台と聞いて、私が思い浮かべるのは、まず、神田の田村書店、そして、荻窪のささま書店だが、神奈川県なら、藤沢の太虚堂書店の店頭ワゴンも面白い本が見つかることが多い。


ささま書店は、詩集も少なくないのが特徴だろうか。

一時期、毎日のようにささま書店を覗いていた田野倉康一くんによると、佐々木幹郎『死者の鞭』の限定著者本が、100円の均一ワゴンに並んでいたこともあるそうだ。


個人的には、田村書店の均一台で、吉田健一・平井正穂監修『エリオット選集』別巻(彌生書房)を見つけたときや、『現代フランス文学13人集』全四巻(新潮社)、『田村隆一 詩と詩論』全四巻、(思潮社)、単行本化されていないカフカ未完の長篇『アメリカ』を収録する『カフカ全集』第四巻(新潮社)を見つけたときは嬉しかったし、太虚堂書店で見つけた『一休 狂雲集』(徳間書店)などは座右の書になった。


しかし、均一台から掘り出した思い出深い「この一冊」となると、やはり、写真のブラム・ストーカー『魔人ドラキュラ』(創元社、1956)だろう。

これは荻窪に住んでいたころ、駅前の岩森書店のワゴンで見つけたもので、400円だった。

『魔人ドラキュラ』は、創元社が刊行していた世界大ロマン全集の第三巻で、平井呈一による本邦初訳。

このシリーズでは、H.G.ウェルズの『透明人間』も後日、求めたが、シェリー夫人による『フランケンシュタイン』と並ぶ西欧怪奇小説の古典『ドラキュラ』の原作は、想像していたのより、はるかに大向こうを唸らせるような俗っぽさに満ち満ちたゴシック・ホラーである。

余談だが、作者のブラム・ストーカーは、ダブリン大学トリニティカレッジ時代にオスカー・ワイルドとも交友があったという。


女性吸血鬼が登場するシェリダン・レ・ファニュの『カーミラ』(1872)、そして、その影響を受けながらも、吸血鬼の代名詞ともなったブラム・ストーカーの『ドラキュラ』(1897)。

19世紀のこうした作品から、その後、ヴァンパイアがホラーの普遍的なモチーフになっていったことを思うと、ブラム・ストーカーのイマジネーションは、今なお息づいていることになる。

それにしても、吸血鬼という発想は、やはり、狩猟民族で肉食文化の西欧ならではという感を強くするのだが。
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2016年12月21日

仮面ライダーとW.B.イェイツ詩集

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以前、厚生労働省の機関誌「労働時報」に2年間、エッセイを連載したことがある。

その連載で「仮面ライダー」のことを書いたのは、平成の仮面ライダー・シリーズの第1作「仮面ライダークウガ」(2000〜2001)、第2作「仮面ライダーアギト」(2002)に続く第3作「仮面ライダー龍騎」(2002〜2003)放映中のこと。

石ノ森章太郎の原作から離れて、一作ごとに新たな世界観を作っていく平成のライダー・シリーズの物語世界は、私にも刺激的だった。


平成の仮面ライダーは、「クウガ」のオダギリジョー、葛山信吾、「アギト」の賀集利樹、要潤と人気俳優を輩出したが、その後も「仮面ライダー555(ファイズ)」で脇役ながら好演した綾野剛、「仮面ライダー カブト」を演じた水嶋ヒロ、「仮面ライダー電王」の佐藤健、「仮面ライダーフォーゼ」の福士蒼太と、若手俳優の登竜門になった感がある。


それはともかく、私が見たのは「仮面ライダー龍騎」までだったので、Amazon VIDEOで、寝る前に、それ以降のシリーズを少しずつ覗いてみることにした。

驚いたのは、「仮面ライダー555」(2003〜2004)である。

かなり複雑な物語なのだが、要約すると、次のようになる。

人類の進化形たるオルフェノクが生まれ、彼らは、圧倒的に数が多い人類の殲滅を計画する。

その背後にあるのが、日本最大の企業、スマートブレイン。

スマートブレイン社は、すでにオルフェノクに支配されており、いずれ誕生するオルフェノクの王を守るため、555、カイザー、デルタ、三つのシステムを作り出す。

このベルト型のギアを身につけたものは仮面ライダーに変身できるのだが、劇中、「仮面ライダー」という言葉は一度も登場しない。

これは、「クウガ」や「アギト」を踏襲したのだろう。

必ずしも、すべての人間が変身できるわけではないのだが、555ギアを身につけたものは、仮面ライダー555に変身しうるわけで、主演=仮面ライダーという固有性があるわけではなく、あくまでもギアであるところが新機軸、
さらに、3本のベルトが、オルフェノクではなく人間の手に渡ったことによって、人類を守ろうとする3人の仮面ライダーとオルフェノクの闘いが繰り広げられる。

おまけに、オルフェノクのなかにも人間との共存をはかり、人類を守ろうとする者が現れたり、人間と思われていた主要登場人物までオルフェノクであることが判明するなど、回が進むにつれて物語は、ますます錯綜を深めていく。


ざっと、こんな話なのだが、劇中、ラッキー・クローバーと呼ばれ、オルフェノクのなかでも最強の4人が登場する。

そのうちのひとりが、いつも本を携えているのだが、エピソード14で、初めて画面に登場するその本が、なんと『海外詩文庫 イエイツ詩集』(思潮社)なのだ!?

さすがに翻訳では様にならないと思ったのか、物語が進むと、黒い表紙の英語版イエイツ詩集に変わるのだが、イエイツ詩集であることは、ずっと変わらない。

そして、イエイツ詩集で攻撃をかわしたりするのだから、唖然としてしまった。


仮面ライダーに、W.B. イエイツ詩集……

それにしても、なぜ、イエイツなのだろう?

脚本家の趣味だろうか、それとも監督が選んだのだろうか。


クリント・イーストウッド監督・主演の「マジソン郡の橋」では、イーストウッドがイエイツの詩を暗誦するシーンがあったし、
リチャード・ギアとジュリア・ロバーツが共演したゲイリー・マーシャル監督の「プリティブライド」でも、リチャード・ギアの自宅のデスクにイエイツ詩集が置かれていたりしたが、まさか、仮面ライダーにイエイツ詩集が登場する日が来るとは思ってもみなかった。

かくして、別の謎が深まっていく(?)。



写真は、私の手元にあるイエイツ詩集。


「ラスト・ロマンティック(最後のロマン主義者)」と呼ばれたイエイツが、私設秘書であった若き日のエズラ・パウンドの影響もあって、象徴主義の詩人へと変貌した後期の代表作、『塔』(1928)『螺旋階段その他の詩』(1933)、そして、『自伝』(1926)、いずれもマクミラン版初版である。


『自伝』には、21歳のときのイエイツの肖像のエッチングが扉に収録されているが、これはアイルランド・アカデミーの会員でもあった画家にして詩人の父、ジョン・バトラー・イエイツのドローイングによるもの。

『塔』と『螺旋階段その他の詩』は神田で求めたものだが、『自伝』は、今はなき京都のアスタルテ書房で出会ったもので、洋書といえばフランス語の本が中心の店だったから、予想外の安値だった。

アスタルテ書房がなくなってしまったので、京都で立ち寄る場所がひとつなくなってしまったのは、やはり淋しいものがある。
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2016年12月19日

ローライ同盟、公文堂書店に寄る

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ローライ同盟赤ちゃん撮影会のあと、由比ヶ浜通りの古書店、公文堂書店にみんなで立ち寄った。

公文堂書店は、いかにも鎌倉の古本屋で、都内の古書店より黒っぽい本が多い。

「黒っぽい本」とは古書業界の用語で、刊行から数十年の時間を経た本のこと。

それに対して、刊行から時間が経っていないものは「白っぽい本」と呼ぶ。

それだけに珍しい本が多く、全員、いささか興奮気味で、菊井崇史さんなど「面白いですね。ずっといられますね」と嬉しそうだった。


吉増剛造さんは、1985年に国立近代美術館で開催されたゴッホ展の図録を購入。

ゴッホの厚塗りのマチエールがよく再現された印刷で、忘年会の席上、回覧し、ひとしきりゴッホの話題となった。

井原靖章さんは、グラフィックデザイナーという仕事柄、印刷にも敏感で、やはり、昔の図録のほうが印刷がいいものが多いため、神田の源喜堂書店で、古い画集や図録をよく求めると語られていた。

私も、好きな画家のコロタイプ印刷の古い画集を見つけたら、求めるようにしている。

ガラス板を使用するため、玻璃版とも呼ばれるコロタイプ印刷は、小部数の印刷に向く版画の一種で、美術品の複製にもっとも適している。

源喜堂で、ヒエロニムス・ボッシュのコロタイプ印刷の図版を貼り込んだ画集を見つけたときは、嬉しかったな。


「もう十分に見たから、バンビに上げる」と吉増さんが言い出し、ゴッホの図録は、その場で、バンビことパンクな彼女のものに。

すかさず、バンビがサインをお願いしたら、吉増さんは「GOZO」の「G」と「Van Gogh」を並べて書いてから、黄色のダーマトグラフでドローイングを描いて下さった。

それを見て、羨ましいがった菊井さんには、吉増さんが長年、愛用していた細軸のモンブランをプレゼント。

しかし、吉増さんのジャケットの内ポケットには、いったい何本のペンが入っているのだろうか?


私が、公文堂書店で求めたのは、佐藤春夫『極楽から来た』(1961、講談社)と川端康成『骨拾い 掌の小説』(1975、ゆまにて)の2冊。

『極楽から来た』は、浄土宗の開祖、法然上人の伝記的小説で、芹澤けい介による装画と装幀が美しい本。

『骨拾い 掌の小説』は、文庫も持っているが、川端康成の幻想的な掌篇小説を集成したものである。

ともに職人の手仕事による貼り函入り。

貼り函は、1980年代から見かけなくなったが、書籍においても経済効率が優先されるようになって、手間のかかる貼り函も姿を消したのだろう。

私も1985年に、第一詩集『召喚』を出版したとき、中性紙に活版印刷、貼り函に和紙の題戔という指定をしたが、あのころが手仕事で本造りが出来た最後の時代だったかも知れない。


昔の本は、素晴らしい造本のものがある。

そんな本を手に、これから刊行する予定の自著の装幀をあれこれ考えてみたりするのも楽しい。


ちなみに、予約したビストロ・オランジェに到着したところ、開店まで20分ほど時間があったので、その時間に集合することにしたら、吉増さんは、「また、本屋に行ってくる」と言って、公文堂書店に戻ってしまった。
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2016年12月17日

志賀英夫『戦後詩誌の系譜』(詩画工房)

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田野倉康一くんが、朝吹亮二さんの第二詩集『封印せよ、その額に』を神田古書店街の田村書店の店頭ワゴンで掘り出した話は、先に紹介したが、
田村書店の店頭ワゴンは、古本エッセイでおなじみの岡崎武志さんが、その前にテントを張って暮らしたいと語ったほど、良書が多い。

とりわけ、土曜日は次々と本が追加されるため、土曜に神田古書店街を回っているときなどは、日に何度か覗いてみることになる。


近年、古書値が高騰している朝吹さんの初期詩集が見つかることは、さすがにないだろうが、今でも見逃せない本が少なくない。


私は『封印せよ、その額に』は、新刊で入手したが、高貝弘也、田野倉康一、広瀬大志と、古書店通いを欠かしたことがない詩友でさえ、いまだに朝吹さんの第一詩集『終焉と王国』は、誰ひとり見たことがないという。

こうなると、幻の詩集だが、いずれ、手にしてみたいものだ。


高貝、田野倉、広瀬くんと連詩を書き上げ、忘年会の前に、何軒か古本屋を覗いたのだが、田村書店のワゴンで、気になる本があった。

写真の志賀英夫『戦後詩誌の系譜』(詩画工房)である。

未見の本だったので、開いてみたのだが、驚いた。

これが、太平洋戦争の敗戦の昭和20年(1945)から、昭和64年(1989)までに、刊行された同人誌、約3000点の創刊号を表紙の書影とともに紹介するものだったのである。

データは、発行の都道府県、編集発行人、発行所、所蔵、執筆者とミニマルなものだが、書影が掲載されているというところに驚きを禁じえなかった。


北上の日本現代詩歌文学館では、同人誌も2部ずつ保存しているが、同館設立前は、同人誌を保存する公的機関は存在しなかった。

同人誌というものは、結局、その雑誌の執筆者以外の手元には残らないというのが、現実である。

もし、送られてくる同人誌を詩集とともに全て保存しようとしたら、20年ほどで、3〜4万冊に達することだろう。

これは、町の開架式図書館レベルのスペースが必要になる冊数であり、個人が自宅で保管できる数ではない。

つまり、同人誌というものは、発行部数の99%、あるいはそれ以上がが廃棄され、残らない運命にあると言っていい。

それだけに、『戦後詩誌の系譜』のような本が成り立つには、個人の献身的な努力が必要なことになる。

本書に収録されている同人誌の約半数は、北海道・美幌在住の井谷英世氏所蔵のもので、さらに中村不二夫氏の協力によって、本書は成立したらしい。


「あとがき」によると、本書に先立って『戦前の詩誌・半世紀の年譜』が、平成15年に刊行されているという。

これは、阪神淡路大震災で倒壊した芦屋の吉沢独陽氏の書庫にあった戦前の詩誌を寄贈された著者が、それをもとに編纂したもの。

ともに労作と言うしかないが、歴史のなかに埋もれかねない詩人たちの群像を記録に留めることで、時代の熱気を伝える本書のような仕事は貴重だと思う。
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2016年12月15日

古本屋で買った「思い出の一冊」

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ランチョンでの忘年会では、私の提案で、各自が古本屋で買った「思い出の一冊」を持ち寄ることにしたのだが、これがたいへん刺激的だった。


田野倉康一くんは、渋沢孝輔『不意の微風』。

一時期、大森に広瀬大志くんが住んでいたころ、よく大志くんのアパートに集ったのだが、かつては大森にあった詩書専門の古書店、若葉書店で購入したものだという。

たしかに、若葉書店には、連れ立って、よく立ち寄ったものだった。

私は、片桐ユズル・中山容訳『ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ詩集』(国文社)などを、若葉書店で見つけた記憶がある。



田野倉くんは、神田・田村書店の店頭ワゴンで掘り出した朝吹亮二『封印せよ、その額に』と、渋沢孝輔『漆あるいは水晶狂い』のオリジナル・ビニールケース入りも考えたそうだが、どこにあるのか、見つけられなかったそうだ。

蔵書が増えすぎると、どうしても本が見つからないことが増えるが、困ったものである。


そして、広瀬大志くんはというと――

西脇順三郎の没後、仲間うちで西脇さんの詩集を競って探した時期があったのだが、そのころに求めたという『えてるにたす』を取り出した。

西脇さんの戦後の詩集では、もっとも手に入りにくい詩集であり、『失われた時』と並ぶ傑作長篇詩である。

西脇さんの絵を表紙にあしらった装幀とともに、憧れの本だったことを思い出す。


私は、言い出した責任もあるし、話題提供のために5冊を持参した。

「洗濯船」同人で鎌倉に田村隆一さんを訪ねたときに、サインをいただいた『緑の思想』と、鎌倉の游古洞で買った『四千の日と夜』、
神田・田村書店で求め、渋谷のTOPで吉岡実さんからサインをいただいた『静かな家』と、吉岡さんの没後、形見として陽子夫人からいただいた『僧侶』、さらに、神田・玉英堂書店で出会った萩原朔太郎『猫町』初版である。


吉岡実『僧侶』を手にして、大志くんは興奮の極みに。

「今、いちばん欲しい本なんだ。
やっぱり、俺も買いに行こうかな!」


萩原朔太郎『猫町』は、抜群のコンディションで、川上澄夫によるモダンな装画と装幀に、藤井一乃さん、遠藤みどりさんが感嘆していた。


そして、真打ちは、やはりメンバーのなかでも際立った愛書家である高貝弘也くんである。

高貝くんが、梱包材のなかから慎重に取り出したのは、なんと、瀧口修造『不知抄』(限定2部!)ではないか!?

発行は、画餅荘。

雲母版板3枚と偏光版2枚、魚皮にシルクスクリーンでプリントした、野中ユリによる私家版である。

書物というより、もはや美術作品だが、常識的に考えて、一冊は瀧口さん、もう一冊は野中ユリさんの手元にあったものだろうから、そのどちらかが市場に流れたと考えるしかない。

それに高貝くんが出会ったわけだが、やはり、本というものは、本が人を選ぶということがあるらしい。

目の前に『不知抄』がある。

信じられないとは、このことか。


そして、興奮のさなか、今度は書物から始まる第二弾の連詩を始めることになったのだった。
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2016年11月29日

大魔神!!!

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ゴジラ・ブームのせいもあって、バンビことパンクな彼女が、Amazon videoのプライム会員になった。

定額で、映画やテレビドラマ、アニメが見放題というプランである。

どんな映画があるのかチェックしていたら、「大魔神」三部作を発見。

東宝が、ゴジラ、ラドン、モスラの三大怪獣を送り出したのに対抗して、大映(現KADOKAWA)は. ガメラをシリーズ化したが、大映といえば、大魔神も忘れがたい。


特撮時代劇である大魔神は、1966年に「大魔神」(安田公義監督)「大魔神怒る」(三隅研次監督)「大魔神逆襲」(森一生監督)の三作が制作された。

音楽は、初期ゴジラ・シリーズと同じく伊福部昭で、これがまた雰囲気を盛り上げる。


私は「大魔神」封切り時には7歳で、いずれもロードショーで観た記憶がある。

巨大な武人の埴輪が、憤怒の形相の大魔神に変身するシーンは怖かったが、興奮したものだった。


バンビと一緒に視聴したのだが、バンビも、大魔神が変身するシーンと、さらには、虐げられた村人の祈りによって覚醒した大魔神が、いざ目覚めると悪人も善人も見境なく踏み潰してしまうパンクぶりが気に入ったらしい。

パンクだから仕方がないが、困ったものである。


もっとシリーズ化して欲しかったが、当時にしては巨額の1億という制作費を投じ、大ヒットしたものの、一作目、二作目ともに興行収入も1億。

つまり、制作費がかかりすぎていることになるのだが、それだけに今、観ても実にリアルで、迫力がある。


ちなみに、『値段の風俗史』(朝日新聞社)によると、1966年の巡査の初任給が4万600円、タクシーの初乗りが130円、映画館入場料が700円だから、当時の1億円は、今ならば4〜5億円という感じだろうか。

しかし、三作目は、赤字となり、シナリオまで完成していた四作目の企画は没になった。

幻となった四作目のシナリオは、なんと筒井康隆によるもので、2001年に徳間書店から書籍化されている。

このシナリオ、さすが筒井康隆だけに、前三作を踏襲しつつも、江戸時代初期、慶長のころの因幡国・白石藩を舞台に、仇討ちや商人の不正なども盛り込み、より時代劇寄りの新機軸を打ち出している。

「シン・ゴジラ」のようなヒット作になる可能性もあるわけだから、KADOKAWAで映画化してくれないだろうか。
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2016年11月12日

『村上隆のスーパーフラット・コレクション』(カイカイキキ)

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横浜美術館で開催された「村上隆のスーパーフラット・コレクション――蕭白、魯山人からキーファーまで」展のカタログがようやく完成、手元に届いた。


欧米的な既成の美術観や価値観を転換すべく「スーパーフラット」という概念を打ち出した村上隆は、自らも美術品のコレクター、しかも尋常ならざるコレクターであり、北大路魯山人旧蔵の志野呼び継ぎ茶碗を入手したのが、蒐集にのめり込むきっかけであったという。

それにしても、常軌を逸した収集というしかない。

厳選したうえで、横浜美術館に展示された作品だけでも、1300余点を数えたのだから。

村上隆氏は、コレクション収蔵のために、東京近郊に倉庫を6つも借りているというのだから、その総数は、数万点を数えるのではないだろうか。


コレクションは、アンディ・ウォーホール、アンゼルム・キーファー、ジェフ・クーンズ、大竹伸郎、奈良美智ら現代美術から、一休宗純、豊臣秀吉、曽我蕭白、白隠慧鶴などの書画、縄文土器、弥生土器、六古窯の壺、桃山時代の茶碗から北大路魯山人の骨董、はては民具にまで及ぶ。


カタログもまた、450ページの大冊。

これでは、会期に間に合わないのも仕方がないが、カタログを開いているだけでも「スーパーフラット」の意味するところは見えてくる。


旧来のコンテクストからは切り離されて、村上隆というアーティストの脳内で共存し、美術館の空間を同じくする作品群、それは、新しい視覚とコンセプトによって選ばれるとともに、新しい視覚を要求するものなのだろう。
posted by 城戸朱理 at 09:32| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月28日

「星座」にローライ同盟の記事掲載

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尾崎左永子さんが主筆をされている歌誌「星座」のリレー連載「ことばのヨ・シ・ミ」に、われらがローライ同盟が紹介されている。


ローライ同盟は、吉増剛造さんが若いときから憧れていたドイツの二眼レフカメラ、ローライフレックスで写真を撮ろうという集団だから、「ことばのヨ・シ・ミ」ではなく、正しくは「カメラのヨ・シ・ミ」なのだが。


ローライ同盟結成までの経緯を執筆したのは、同盟幹事の小野田桂子。

写真を撮るといいながら、集まっては飲んでいるだけという気がしないでもな、それはそれでいいのである(?)。

ちなみに結成までの流れは、次のようになる。



2015年4月1日/京都祗園・梨吉にてローライ同盟発会(吉増・城戸・小野田・井上春生)
吉増さんと小野田が提唱、城戸が巻き込まれる。

2015年10月11日/鎌倉・つるやにてローライ同盟設立幹部会(吉増・井上・城戸・小野田)
吉増名誉会長、城戸会長、小野田幹事長、井上顧問を決定。幹事長以外、内実はほとんどない? 
小野田幹事長を編集長とする機関紙「ローライ同盟新聞」刊行を決める。

2015年11月29日/京都・ごだん宮ざわにて幹部会(吉増・城戸・小野田・井上)
活動内容打ち合わせのつもりが、発足目前だけに、祝杯を上げて終わった。

2015年12月6日/鎌倉・神奈川県立近代美術館にて、第一回撮影会。
その後、ビストロ・オランジェで発足パーティー。ゲストに文芸評論家・富岡幸一郎、写真家・今道子氏。
なぜか、話題はカメラではなく三島由紀夫と川端康成。楽しい飲み会だった(?)。


現在は、機関紙「ローライ同盟新聞」第1号を制作中で、第2回目の撮影会も予定している。

これからも飲んでばかりなのか、それとも写真展までたどりつくことが出来るのか、展開が楽しみだ。
posted by 城戸朱理 at 14:55| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月07日

書斎についての本

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私が若いころ、男性誌で「書斎」の特集をすれば、必ず売上が伸びると出版業界では言われていた。

いつかは書斎を持つという夢が、世の男性に共有されていたのだろうが、その傾向は、2000年ごろまでは続いていたような気がする。

雑誌の特集のみならず、知的生産を主題とする新書などでも、必ず、書斎の作り方に章がさかれていたものだった。


それがパソコンの普及、さらには電子書籍の登場によって、書斎という空間自体の必要性が薄れるとともに姿を消していき、近年では、まったくと言っていいほど見かけない。


ときおり、古本屋の棚に、そうした本を見かけると、懐かしさもあって手に取ってみるのだが、たしかに昔日の感がある。


エッセイスト、林望さんによる『書斎の造りかた』も、そんな一冊。

光文社のカッパ・ブックスで、初版は2000年2月29日の刊行。

3月30日には2刷が出ているので、それなりに売れたのだろう。


「知のための空間・時間・道具」という副題からも分かるように、まずは空間の確保、時間の使い方から始まって、書くノウハウや文章の技術などにまで及ぶ内容なのだが、
「パソコンの使いかた」という一章があり、「これからの書斎は、まずパソコンありき」と林望先生が宣言していることからして、パソコンの普及期であったことを改めて確認することになる。


林望先生の書斎観の特徴は、「書斎=男の城」という旧来の思考法を否定し、合理主義に徹しているところだろう。

その意味ではプロの書斎術を明かすものなのだが、思わず膝を打ったのは、「名著は捨て、稀少本だけとっておく」というくだりだった。

岩波文庫に入るような名著は、いつでも手に入るが、雑本や雑誌は残らないし、あとで探しても見つからないことが多い。

だから、片々たるものこそ取っておくべきだという主張なのだが、このあたりは古書の達人たちが指摘するところでもある。


菅原道真の『菅家三代集』に収められた菅公自身の詩文集『菅家文草』のなかに「書斎記」という文章がある。

京都、左京五条高辻の菅公の屋敷の西南、広さはわずか「一丈餘」、およそ四畳半ほどの小部屋が、菅原道真の書斎「山陰亭」だったのだとか。


要は、何をするか、何をなしたかであって、目的によって、書斎は自ずから形を成していくものなのだろう。
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2015年12月29日

贅沢な本

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鎌倉の小町通りの書店で新刊の文庫本をチェックし、3冊を購入した。

レジで支払いをしていたとき、目についたのが、レジ後方の棚の山田和『夢境 北大路魯山人の作品と軌跡』(淡行社)である。

今年の8月に京都国立近代美術館で「魯山人の美 和食の天才」展を見たとき、この本が刊行されることを知って楽しみにしていたのだが、1000点を超える図版とともに魯山人の作品が紹介されており、圧巻。

これまでも魯山人に関する本はかなりの数が出版されているが、生涯で18万点とも言われる作品を残した魯山人の作品を編年体で紹介する初めての本である。

しかも、決定版とも言うべき伝記『知られざる魯山人』の著者、山田和によるものだから、作品集としても、望みうる最良のものと言えそうだ。


その隣にあったのが、林屋晴三『名碗は語る』(世界文化社)。

茶の湯の文化の体系化に功績が大きい林屋晴三が、茶の湯の名碗に解説を寄せたもので、青磁の銘「馬蝗絆(ばこうはん)」、喜左衛門井戸、小井戸の銘「老僧」といった唐物や高麗茶碗の名品から長次郎の銘「無一物」「大黒(おおぐろ)」、光悦の銘「富士山」「毘沙門堂」あるいは志野の銘「卯花墻」、奥高麗の銘「深山路」「菖蒲刀」といった国焼きまで、名高い名碗が並ぶ。

戦前ならば名家に秘蔵され、見ることもかなわなかったような名碗が、写真とはいえ拝見できるのだから、時代の変化というものは、私たちが漠然と思っているよりも激しいのかも知れない。


どちらも図版がメインの大判の美術書だから、一般書より値は張るが、自分への御褒美に購入することにした。


年末年始にじっくりと読み、かつ眺めたいと思ったのだが、贅沢な時間を約束してくれそうな本だけに、重さまで心地よかった。
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2015年12月18日

コンビニで買った文庫本

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コンビニには、雑誌のほかに若干の文庫本も置かれている。

私が興味を引かれるようなものは滅多にないが、先日、なんと白洲正子『なんでもないもの』(角川ソフィア文庫)が平積みになっていた。

コンビニで白洲正子とは、さすがに驚かざるえない。

しかも、内容は青柳恵介篇による骨董エッセイ。

はたして、コンビニで売れるような本だろうかと思ったが、これは鎌倉ならではの選択なのだろうか?

内容的には、読んだことがあるエッセイがほとんどだったが、こうしてまとまってみると、また別の発見があるものだ。


ちなみに、白洲さんの隣にあったのは、木下半太『GPS:鎌倉市役所 消えた大仏』(PHP文芸文庫)。

こちらは、心霊現象をモチーフにしたエンターテイメントで、京都と鎌倉の市役所だけにある心霊相談課の職員が主人公。

もちろん、鎌倉市役所にそんな部署は存在しない。

心霊相談課は、幽霊が出るという噂で困っている不動産屋や心霊商法にひっかかった市民などの苦情相談を引き受ける部署という設定になっていて、いかにも幽霊が出そうな古都(?)ということで、京都と鎌倉が選ばれたのだろう。

京都と鎌倉は、たしかに幽霊話が多いのは事実だが――。


第一作の『GPS:京都市役所 魔性の花嫁』は、京都、太秦の東映撮影所をモデルにした映画撮影所が舞台。

第二作は舞台が鎌倉になったので、コンビニにまで並んだのだろうが、白洲正子との取り合わせが何とも珍妙で、面白かった。

白洲さんのエッセイとともに買ってきて読んだうえに、GPSシリーズの第一作も読んでみたのだが、コンビニのおかげで、不思議な読書をすることになった。
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2015年10月29日

『現代詩100周年』(TOLTA)、その2

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TOLTAによる『現代詩100周年』の特徴のひとつは寄稿者の人選にある。

寄稿者の顔ぶれは、谷川俊太郎、北川透といった大家から、長尾早苗、あるいは和合大地といった「現代詩手帖」投稿欄の常連的な書き手にまで及んでいる。

これは、商業出版のジャーナリズムには決してなしえない人選だろう。


つまり、『現代詩100周年』は、TOLTAのメンバー、河野聡子、山田亮太、佐次田哲、関口文子が、年齢やキャリアを考慮することなく、今日、アクチャリティを認めた詩人に依頼することによって成立しており、そこにこそ、現代性を映す稀有な衝突や交響が起こっているのではないだろうか。

もちろん、寄稿者は100人近いだけに、依頼を受けながら、何らかの事情で参加しなかった人もいることだろう。


だが、私自身に関して言えば、河野聡子さんから、山村暮鳥『聖三稜玻璃』を現代詩の起点として、その100年目に編むアンソロジーという依頼をいただいたときに、すぐに寄稿を決意した。

こうした「大きな」問題提起に、どうして応えずにいられるだろうか。


その意味では、『現代詩100周年』は、依頼に応えるかどうかが、すでにアクチャリティを問われるような出来事だったと言えるかも知れない。

こうした仕掛け自体も、TOLTAならではという気がする。


これだけの内容となると編集作業も大変だったろうが、2015年の現代詩と今日の言語のカタログとも言うべき労作である。


『現代詩100周年』は頒価2000円。

問い合わせは、下記、TOLTA(河野聡子)アドレスまで。


okokotosan@yahoo.co.jp
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2015年10月28日

『現代詩100周年』(TOLTA)

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先鋭な企画で詩の新たな地平を切り開くヴァーバル・アート・ユニット、TOLTA(河野聡子・山田亮太・佐次田哲・関口文子)が、驚くべきアンソロジーを刊行した。

題して『現代詩100周年』。

河野聡子は、その序文で次のように語っている。



「私たちTOLTAは、今年二0一五年を、現在書かれているような日本の無定形・口語の自由詩の成立から百年目であると宣言します」



ここでは、山村暮鳥『聖三稜玻璃』が刊行された1915年に、現代詩の起点が据えられているのだが、まず『聖三稜玻璃』という選択が斬新だ。

その2年後には口語自由詩の先駆とされる萩原朔太郎『月に吠える』が刊行されているわけで、現代詩100年という宣言も、たしかにうなずけるところがある。


河野聡子はさらに、次のようにも語っている。



「無定形の現代詩は、それぞれの詩人が自分だけの定型、自分だけのリズムをつくり、言葉を見い出すことをそのつどそのつど行います。そしてこれこそが、そもそも詩が〈現代〉を名のるゆえんだと言えるかもしれません。ここには本質的に歴史はありません」



かくして、逆説を孕みながら、百年前の『聖三稜玻璃』を自分たちが受け取ったように、次の百年後の誰かに向けて編まれたのが、本書なのだという。



このアンソロジーには、100人近い詩人が、いずれも書き下ろしの新作で参加しており、谷川俊太郎から始まって、北川透、瀬尾育生、和合亮一から三角みづ紀、小笠原鳥類ら「新しい詩人」の世代、さらには暁方ミセイ、文月悠光、そして和合大地と、執筆者は10代から80代まで及んでいる。


私にとっては、学生時代からの詩友である広瀬大志、高貝弘也といった詩人も参加しており、力作揃いの圧巻だ。

しかも、TOLTAのメンバーは編集に徹し、作品を発表しないという徹底ぶりには、思わず唸ってしまった。

本音を言うと、TOLTAのメンバーの作品も読んでみたかったが、自分の作品を発表するメディアとしてではなく、詩の状況じたいを創出しようとする姿勢は、きわめて重要だと思う。


画期的なアンソロジーの誕生を喜びたい。
posted by 城戸朱理 at 07:16| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする