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城戸朱理のブログ: 本

2014年10月30日

「ゴング」復刊!

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あのプロレス誌「ゴング」が、なんと7年半ぶり復活、徳間書店から刊行されることになった。

プロレスファンならば、感涙にむせぶこと間違いない(?)。


東京ドームで興行が打てるほど人気が加熱している新日本プロレス、あるいはアイドル化するレスラーが目立つ女子プロなど、
近年のプロレス・ブームを背景にするものだろうが、まずは表紙の中邑真輔の狂気を孕んだ表情に圧倒される。


巻頭は、新日本プロレスの人気を牽引するオカダカズチカ、中邑真輔、棚橋弘至、そしてIWGP王者・AJスタイルズらのインタビュー。

この写真が以前の「ゴング」とは違って、妙にお洒落だったりする。


金沢克彦編集長は、大胆にも「編集戦略」を公表、たとえば「ゴングの経営戦略」その1は――


「近年、増加傾向にある女性ファンを編集部のバイトとしてプロレス業界にひきずり込みます」
???

「金沢編集長に親切丁寧に、仕事のノウハウを伝授していただき、美人女性記者を育成します」
!?

「プロレスラー達がゴングの取材を受けたくて仕方ないという状況を作り出します」
・・・

「もちろん、男性編集スタッフのモチベーションも高まります」
・・・・・・


といった具合で、大丈夫なのか、これで? と思わざるをえないものなのだが、うまくいって欲しいものである。

個人的には各プロレス団体の月間興行の予定を付けてもらえると、嬉しいのだが。


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2014年10月23日

八王子古本まつりで買った本

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10月11日に、今回の東京行きの目的だった会議に出席し、翌日、八王子古本まつりで買い込んだ本をトランクに詰めて宅急便で送り出して、鎌倉に帰った。

今回の会議は、新設の博物館に関するもので、私はオブザーバーとして出席したのだが、詳細は書くことができない。

こうした場に立ち会ってみると、世の中の重要な案件や情報は、本当はネット上にはなく、個別に話し合われているのだという想いを強くする。


それにしても、八王子古本まつりに行けたのは、ありがたかった。


打ち合わせや会議の前に会場を歩き回り、結局、購入したのは以下の16冊。


青木正美『古本探偵追跡簿』(マルジュ社)


古書市場で仕入れた無名の少年の日記に登場する破天荒な詩人、ドン・ザッキー。

著者は、大正期に戦闘的なダダイストとして芸術革命運動を展開したドン・ザッキーについて調べるうちに、それが、高松堂書店を経営していた同業者、都崎友雄であったことを知る。

ひとりの先鋭な詩人は、なぜ、筆を折って古本屋になったのか。

私小説的な記述もあって、ミステリーを読むような面白さがある。

これが第一話【ある「詩人古本屋」伝】。


なお、同じ著者で『ある「詩人古本屋」伝 風雲児ドン・ザッキーを探せ』(築摩書房)も刊行されている。


ほかに中公文庫が3冊。

金子民雄『ヘディン伝 偉大なシルクロードの探検者』
佐藤健『マンダラ探検 チベット仏教踏査』
萩原葉子『父・萩原朔太郎』



そして、出口和明『実録 出口王仁三郎伝 大地の母』全12巻(あいぜん出版)。


高橋和巳『邪宗門』が先ごろ、河出文庫で刊行されたが、そのモデルになったのが、戦前2度の国家による弾圧を受けた教派神道の新宗教「大本」だった。

出口なおを開祖とする大本は、戦前、日本有数の教団だったが、王仁三郎は、開祖の養子であり、教団では「聖師」と呼ばれる。

王仁三郎の焼いた茶碗や書画は、古美術の世界で高く評価されているが、膨大な量の短歌も残しており、近代の巨人と言っていい。


私が出口王仁三郎を意識したのは、四方田犬彦『叙事詩の権能』で論じられているのを読んでからだが、大本の聖典たる王仁三郎の『霊界物語』を叙事詩として読むという着想に驚いたものだった。

宗教者にして芸術家、そして、ある意味では国家が怖れた男。

個人的には、出口王仁三郎とは、教義持たない日本の神道に、初めて教義を作ろうとした宗教者ではなかったかと思っている。

著者は、王仁三郎の孫に当たる。


以上、16冊で7200円。

値崩れを起こしているだけに、古書は本当に安い。


さらにBOOK・OFFに寄って、百円均一の文庫の棚から、北方謙三『悪党の裔』上下(中公文庫)と『黒龍の柩』上下(幻冬社文庫)の計4冊を選ぶ。

前者は南北朝、後者は幕末が舞台の歴史小説。

北方謙三の『水滸伝』『楊令伝』『岳飛伝』から成る水滸三部作は、わが国の大衆小説の傑作だが、著者が最初に書いた歴史小説は、南北朝を舞台とする『武王の門』だった。

北方謙三の歴史小説は、過去を俯瞰する視点ではなく、まず場所が設定され、事件が起こるという現在進行形の展開が切迫感を生み、ほかに類を見ない歴史小説になっている。

北方謙三の4冊は、すぐに読んでしまったが、いずれ別の形で紹介することにしたい。
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2014年09月29日

神田古書店街で岡崎武志さんと遭遇!

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9月は、12日がホテル泊まり、うち9日が東京だった。

かなり無理をしているのが分かっているので、まっすぐ帰宅することが多かったのだが、3泊してチェックアウトした22日だけは、神田古書店街に立ち寄った。

もっと余裕をもって古本屋回りをしたりしたいものだと思いながら、それでも、久しぶりの古書店街だから浮き立つような気分で歩いていたら、なんと、古本エッセイ・ブームの立役者、岡崎武志さんに遭遇。


なんとも似つかわしい街で、似つかわしい人と出会ったものである。

岡崎さんの誘いで、神田ぶらじるでコーヒーを飲みながら、歓談のひとときを過ごすことができたのも何よりで、古書店巡りは、こうでなくてはと思わせる午後に。


岡崎さんは、書庫にうってつけの21畳の地下室があるお住まいに暮らしているが、増殖する本は、ダンボールに入れて本棚の前に積み上げられているそうで、今や、本棚の本を取り出そうとしたら、シジフォスのようにダンボールを延々と移動させなければならないそうだ。

岡崎さんの著書『蔵書の苦しみ』が思い浮かぶ。

中沢けいさんも、本がが部屋中にあふれて、もう、どうしようもないと言っていたっけ。


話題は、当然、本のことばかり。

最近の古書の値崩れがは凄いが、「そうなると、買ってしまうんですよ」と岡崎さん。

気持ちは分かる。

痛いほど分かる。

若いときには手が出なかった本が、手が届くところにあるのだから、買うしかないではないか。

最近、私もその傾向が強い。


私などより、はるかに古書事情にくわしい岡崎師匠の話は、切実で、なんとも楽しかった。

岡崎さんは、9月30日から、毎週火曜日の夜7時に放送されるニッポン放送の新番組「大人のパラダイス」にレギュラーでコーナーを持たれるそうだから、久しぶりにラジオを聞いてみよう。


別れ際に、『昭和三十年代の匂い』(ちくま文庫)をいただいた。

「あの頃はまだ戦後だった」「科学の未来が明るかった時代」「お誕生日は不二家のお子様ランチ」と、
私の年代ならば、懐かしさにむせび泣くような本で(?)、帰りの横須賀線の車中で読みふけっていたのだが、今、思うと、サインしてもらえばよかったな。
posted by 城戸朱理 at 15:59| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月09日

竜田一人『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記(1)』(講談社)

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竜田一人(たつた・かずと)という漫画家の名前は、これまで聞いたことがなかった。

それもそのはず、著者は大学卒業後、さまざまな職を転々としながら、売れない漫画を書いていたのだという。

そして、事故後の福島第一原発で年間被曝限度量に達するまで半年間働き、自分の目で見た原発の現実を描いて注目を浴びることになった。

それが本書なのだが、実体験に即した漫画による福島第一原発のルポルタージュと言えるだろう。


これが、読んでみると意外なほどドラマチックなことが起こらない。

むしろ、なごやかな原発作業員の日常が淡々と描かれている。

作業員も元公務員、元自衛官とさまざまで、話題はギャンブルに下ネタと、実に当たり前。


発注元の東京電力から6次下請けで日給8000円は、危険な仕事なのに安すぎるのではないかと思うが、
読んでいくと特殊な職場でありながらも、原発には原発ならではの日常というものがあることが分かってくる。

そう、ここで描かれているのは、非日常の日常なのだ。


さたざまな情報が錯綜するなか、現場の現実を伝える漫画が登場したのは貴重なことだと思う。
posted by 城戸朱理 at 08:05| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月28日

神田古書店街で買った本

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文筆を仕事にしていると、本はまず何よりも資料であって、どの版であっても読めればいいという姿勢になってくる。

実際、日々、増え続ける本を整理するのさえ苦労するようになるので、初版本や稀覯本に手を出す気はなくなるが、そんなふうに実務のなかに沈み込んでしまうのも味気ない。


磯田光一は、『萩原朔太郎』を書くとき、『月に吠える』無削除版から始まって、朔太郎の著作を初版で揃えたというが、
巻末の広告を始めとして、オリジナルだからこそ見えてくる時代の空気を肌で感じることが、批評に血を通わせるといったことがあるのだろう。

『月に吠える』無削除版となると、当時でも300万円はしたのではないかと思うが、採算など考えたら詩人も文士もやっていられない。

磯田さんの姿勢には、学ぶところがあると思っている。


私は、気になるものに関しては、初版本を求めることがいまだにあるが、今回の短い神田滞在では、思い切って何冊かの本を求めた。

まずは、萩原朔太郎『猫町』(昭和10年、版画荘)、そして朔太郎最後の詩集となった『氷島』(昭和9年)である。


「散文詩風な小説(ロマン)」という副題を持つ『猫町』は、好きな作品だが、川上澄夫の装幀も素晴らしい。

これは玉英堂書店で見つけたが、コンディションがきわめてよい美本だったので、思い切って求めることにした。

朔太郎が漢語調に回帰した『氷島』は、朔太郎自身による自装。

伊藤信吉によると、医師だった朔太郎の父の蔵書の医学書の装幀をモデルにしたものらしい。

『氷島』の再版は、シュルレアリスムの画家、阿部金剛による装幀にかわる。

朔太郎自身は、再版の装幀のほうを好んでいたそうだが、初版の著者自装のほうが内容に合っているように思う。

『氷島』は、ボヘミアンズ・ギルドで求めたが、20年前なら10数万はした本が、今だと半値以下で入手できる。


田村書店で見つけたのはA.M.BUTTERWORTH『WILLIAM BLAKE, MYSTIC A STUDY』(1921年、LIVERPOOL BOOKSELLERS. CO. LTD)。

ウィリアム・ブレイクに関する初期の研究書で、巻頭にブレイク作品のエッチングが収められている。

これは、かなり安く求めることができたのだが、おかげで次の2冊に目が行った。


『BLAKE'S POETRY&PROSE』(1927年、NONESUCH)、
そしてLAURENCE BINYONによる『THE DRAWINGS ENGRAVINGS OF WILLIAM BLAKE 』(1922年、THE STUDIO MAGAZINE』で、これは崇文荘で見つけた。

前者のノンサッチ版ブレイク作品集は、GEOFFREY KEYNESによる編纂。

私は、ブレイクの作品を、おもに1904年のオックスフォード大学版で読んでいたが、これだとテクスト・クリチックは厳密ではなので、ノンサッチ版を入手できたのは嬉しい。

緋色のヴェラム革装による美しい本である。


ブレイクのドローイングと版画を収めた大判の画集は、背革装で、コロタイプ印刷によるカラー図版を貼り込んだページもある。

コロタイプはアートプレスとも呼ばれ、今日ならば、版画作品の扱いになる。

コロタイプによる古い画集を探すのは、古本の楽しみのひとつだ。


田村書店でブレイクの研究書に出会ったものだから、ブレイクの作品集と画集を買うことになったが、古本は、こんなふうに最初に買った一冊が、次の本を呼びよせることがあるようだ。
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2014年04月25日

神田古書店街での3日間



3泊4日の神田滞在は、起床して、まずはシャワーを浴び、朝食を取ってから小憩、そして、古書店が開店する時間になると出かけるという毎日だった。

神田古書店街は、店によって開店時間が違うが、早いところだと10時なので、10時前には出かけることになる。


ひたすら歩き回って、昼食は1時すぎ。


午後も古本屋を見て歩き、夕方、部屋に戻って、打ち合わせに備える。


初日は、新世代の俳人たちと打ち合わせだったが、翌日は、歌人の東直子さん、井上春生監督と京都で撮影した番組のナレーション原稿の打ち合わせ、
さらに3日目は、何も予定は入れていなかったのだが、井上監督から電話があり、急遽、今後の撮影スケジュールの確認が必要となってしまった。


神田古書店街では、海外からも研究者が訪れる近代文学専門の西秋書店から回り初めたのだが、田村書店の均一台は、午前と午後に必ずチェックしたりと、次第にペースが出来てくる。

どんな本を買ったのかは、いずれエッセイに書くつもりなので、ここでは触れないが、仕事がらみとは言え、足取りも軽く過ごした3日間だった。

とは言え、一日中、歩き回っているものだから、それなりに疲れはしたが。


それにしても、神田古書店街は、やはり違う。

夏目漱石の初版本から江戸川乱歩の自筆原稿、西脇順三郎の色紙や瀧口修造のデカルコマニー、ミロやサム・フランシスのリトグラフなど、思いがけないものが次々に現れるのだから。

玉英堂やボヘミアンズ・ギルドなど、美術館か博物館のようだが、見ているだけで、異界への扉が、開いていくかのようだった。

そして、こうした場所に身を置いて初めて見えてくるものがあることを改めて確認することになった。
posted by 城戸朱理 at 20:08| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月21日

古書店の現状、その2



全国的に古書店は減少傾向にあるが、電子書籍が紙の本に取ってかわったというようなことが進行したわけではなく、
単純に読書人口が減少したうえ、住まいに本を置くスペースがないといった現実の制約などが、古本屋から客足を遠のかせているのではないだろうか。


求める人がいなくなれば値下がりするのは市場原理というものだが、この5年ほどの古書の値崩れは驚くべきものがある。

かつては、それなりに高値を呼んだ全集は、10年ほど前から、ごく一部を除いて値崩れが激しかったが、
従来の高値古書も半額ていどまで値下がりしており、私が物心ついて古本屋を覗くようになってから、間違いなく、古書は今がいちばん安い。


具体的に例を挙げると、かつては40万以上した昭和2年刊の川端康成『伊豆の踊子』(金星堂)初版が、今では20万円前後。

安くなったと言っても、やはり高値古書、すぐに手が出せるようなものではないが、半額になったのは事実である。

同様に、かつては7〜8万した古書が今では2〜3万、2〜3万の古書は1万円を切る値付けになっている。


こんな調子だから、以前、数千円だった本は、千円以下で入手できることも少なくない。


その意味では、逆説的だが、読書人と愛書家にとっては、いい時代である。


読みたい本はいくらでもあるが、お金はろくにない二十代のころ、古本屋は、欲しい本を、できるだけ安く入手するための場所でもあった。

1983年に安藤元雄先生によるボードレール『悪の華』の新訳が集英社から出たとき、その現代的で柔軟な訳語に魅了されたものの貼り函入りで3500円という定価だったものだから、簡単には手が出せない。

大卒初任給が10万そこそこの時代だから、今ならば6000円以上の感じだろうか。


どうしても手元に置いて読みたかったので、数ヶ月後に古書店に並び始めるのを待って、早稲田古書店街を歩き回り、見つけるたびに値段を確認して、いちばん安い店で入手したときの嬉しさは忘れられない。

たしか、2300円だったと思う。

そんな思い出がある本は少なくないが、今では古本屋で手にする本は、たいてい予想より安いから、悩む必要がない。

そう考えると、今ほど古本屋を回って報われた気分になる時代はなかったような気がする。


私は、BOOK・OFFで雑本や絶版になった文庫や新書を探すのも嫌いではないが、それ以上に、今は古本屋が面白い。

こと古本に関しては、売ろうとしたら安値だが、買うにはいい時代になったと言えるのではないだろうか。
posted by 城戸朱理 at 11:38| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月17日

古書店の現状、その1



日本古書通信社編『古本屋名簿 古本手帖2011』を見ていると、無店舗の古書店が実に増えている。

つまり、店を構えず、ネットだけで販売する業者が圧倒的に多くなったということなのだが、
最近は店舗を持っても、よほど立地がよくないと、家賃分の売り上げも期待できないというのが現実らしい。



鎌倉の游古堂で、永井荷風『墨東綺譚』初版を購入したとき、女性の御主人と、あれこれ最近の古書店事情について話し合ったのだが、やはりネット販売に移行した業者が多いそうだ。


あるアンケートによると、今の学生のうち40%は、まったく本を読まないそうだから、活字離れも深刻だが、本をめぐる状況もまったく変化したのは事実で、私も仕事の資料はネットで購入するようになっている。

アメリカに洋書を注文して数日後に届いたときには驚いたが、国内ならば翌日には届くし、いながらにして必要な本を入手できるのは、流通の革命と言っていいだろう。

リアル古書店が減っていくのも当然だが、必要な本ならば、それで済むものの、逆に、ネットでは自分が探していない本と出会うことはできない。


私は、今でも時間があるときは、よく古本屋を覗くが、それは、自分が存在さえ知らなかった本、今のところ必要とはしていないが、
いつかは自分にとって大きな意味を持つかも知れない本との出会いを期待するからであって、その意味では、探していない本を見つけるためと言ってもいい。



日本全国の新刊書店は、この10年で半減した。

古書店も減り続けているが、一方、BOOK・OFFのようなリサイクル型の新古本屋は増加し、本の流通じたいも変化したのは間違いない。

現在、組合に加盟している古書店は、全国で約二千五百。

それに対して、BOOK・OFF型の新古本屋は、全国で約二千九百軒に達する。

しかし、新刊書店が減り、新刊の流通量が減るにつれて、新古本屋に流れる供給量も減っていくわけだから、
そうなったときには新古本屋も減少傾向を余儀なくされるわけだから、変化は、まだまだ続くことだろう。


はたして、20年後、30年後には、どうなっているのか。

予断を許さぬが、個人的には、古本屋を回る楽しみがある時代に巡り合わせたことは、幸いだったと思っている。

そして、次の時代には、次の時代なりの知的探求の方法があるのだろうし、それは、その時代を生きるひとりひとりが見つけていくものなのだろう。
posted by 城戸朱理 at 08:42| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月12日

松田広子『最後のイタコ』(扶桑社)

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私が恐山を訪れたのは子供のころで、10歳かそこらだったが、強烈な印象を残した。

私は、第一詩集となる『召喚』を24歳から25歳にかけての半年で書き下ろしたが、
そこにも、小学生のときに訪れた恐山の記憶が反映されたパートがあるほどである。


恐山といえば、イタコが思い浮かぶ。

幼少期からイタコに憧れ、19歳でイタコとなってから20余年。

本書は、現役のイタコのうち、最年少のため、「最後のイタコ」と呼ばれる松田広子による半生記。

イタコといえば、死者の口寄せばかりが語られるが、その仕事はお祓いから家庭内のさまざまな相談事に及ぶ。

その意味では、イタコとは、特定の宗派に属さない巫女であるとともに、地域社会のカウンセラーでもあったというべきなのだろう。

貴重な証言であるとともに、東北北部にいまなお息づく習俗を伝える本である。
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2013年11月04日

盛田隆二さんの新刊

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葉山での瓜南直子画集編集会議には、盛田隆二さんが、
日本経済新聞に連載された新刊『いつの日も泉は湧いている』の見本を持って来られた。

この小説の主人公は、瓜南直子さんをモデルにしており、恋愛小説の名手が、どんな瓜南直子像を造型したのか、期待が高まる。


2枚目の写真は、仏前に捧げられた盛田さんのサイン本。

タイトルの『いつの日も泉は湧いている』、そして扉の識語「枯れることなく湧きつづける」は、ともに瓜南さんの絵のタイトルである。


すでに発売になったので、注文はAmazonへ!
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2013年03月06日

最近の古書事情



年間8万点。1日200点超。

これが、現在、出版されている新刊の数で、このハイパーインフレーション状態が、十五年ほど続いている。

当然、供給過剰なわけで、売れないから出版点数を増やすという悪循環の結果としての出版不況が言われるようになって久しい。

さらに、古書業界にも影響は及び、古書の値崩れが起こっている。


今や、小説の単行本は、純文学でも値がつかず、文庫化されたとたん、初版でも店頭の均一ワゴン行き。

人文関係で、かつては値を呼んだ本も下落傾向にあり、戦後詩は吉岡実など少数の例外を除いて、やはり均一ワゴン。

かつては、6万5千〜8万5千円の高値を呼んだ田村隆一『四千の日と夜』のようなモニュメンタルな詩集でさえ、神田で3万を切るまで下がっていた。

もちろん、それでも高値古書の部類だが、6〜7割安くなったのだから、以前の値を知る者には割安感がある。


そんなおり、ある大手出版社を辞め、古本屋を始めた旧友と、偶然、鎌倉のヒグラシ文庫で再会した。

彼が言うには、「今は、古本は買うにはいいが、売るのは駄目な時代」とのこと。


神田の裏通りや下北沢、西荻窪あたりのニューウェーブと呼ばれる新世代の古本屋は、独自の価値観で個性的な棚を作り、勢いがあるように見受けられるが、古書業界ぜんたいで見ると、仕入れても売れず、さらに値崩れしているというのが現実らしい。

つまり、今は古書もデフレ傾向のなかにあり、買うには恵まれた時代ということになる。



私自身、本は置き場に悩まされており、年にダンボールで10〜15箱を処分しているが、それでも増えるスピードのほうがはるかに早い。

そうなると買い控えるようになりそうなものだが、現実は逆である。

今ほど、古本を気軽に買うことができる時代は、私が生きてきたなかではなかった。

れだけに、古本屋を見る頻度も、買う冊数も増えている。

見方を変えるなら、今、古本屋ほど面白いところはないような気がする。
posted by 城戸朱理 at 20:05| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月26日

盛岡の古本屋を回って

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盛岡では、東光書店、浅沼書店、キリン書房、3軒の古本屋を回ることができた。

購入したのは、雑誌や文庫も入れて、計19冊。


雑誌は、「歴程」1969年1月号、村上昭夫追悼特集号。

村野四郎や高橋昭八郎らが追悼文を執筆している。

「昔、岩波、今、中公」といって、東京の古書店だと、品切れ・絶版の中公文庫は定価以上の値を呼ぶが、盛岡では、いずれも定価以下、古本文庫の値付けだったので、主に歴史関係の中公文庫を5冊。


鎌倉文士、永井龍男の随筆集が、3冊。

限定1000部の吉田健一『東西文学論』(垂水書房、初版)も含めて、全19冊のうち15冊が1000円以下。

つくづく、古本は安いと思う。


ちなみに、1000円以上の本は、以下の3冊。


庄司浅水『書物の文化史』(雪華社、初版)1500円

永井龍男『夕ごころ』(講談社、初版)1200円


ジョン・エルスナー他編『蒐集』(研究社、初版)、3000円


『蒐集』だけが、やや高いが、これは4600円と定価が高く、新本同様だから当然だろう。


発見だったのは、無名の詩人、加賀谷宏の遺稿詩集『詩片』。

この詩人のことは、別に紹介したい。


そして、キリン書房の御主人と剛力彩芽主演の「ビブリオ古書堂の事件手帖」の話をしながら、会計をしているとき、
目についたのが、ガラスケースのなかに鎮座する宮澤賢治『グスコーブドリの伝記』(羽田書店)、昭和16年刊の初版だった。

戦前の本なのに褪色も少なく、神田ならば15万円前後の高値を呼ぶ本である。

しかし、キリン書房の値付けは良心的で、その半値も行かない。

それでも、一冊の本としては、かなり高価だが、郷里とはいえ、旅先での出会いと思って、購入を決めた。


鎌倉に帰ってからは、『グスコーブドリの伝記』を書斎のデスクに置いて、毎日、開いている。
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2013年01月09日

『東北のテマヒマ』(マガジンハウス)

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「貴方がたはとくと考えられたことがあるでしょうか、
今も日本が素晴らしい手仕事の国であるということを」。

柳宗悦『手仕事の日本』(岩波文庫)の美しい書き出しである。


この本は戦時中に執筆されたもので、昭和15年ごろの日本の手仕事の状況を伝えるものなのだが、
『東北のテマヒマ』を開くなら、実はいまだに、日本には優れた手仕事が残っていることを確認できるだろう。


本書は、東北の人々の精神とものづくりの力を見つめ直すために開催された二つの展覧会、
「東北の底力、心と光。『衣』」(三宅一生ディレクション)、「テマヒマ展〈東北の食と住〉」(佐藤卓・深澤直人ディレクション)の記録として編まれたもの。


会期中、5万人もの観客が訪れたそうだが、東日本大震災を受けて、短い準備期間で開催された展覧会だったため、公式カタログが刊行されず、記録を求める声が多かった。


時間をかけた手仕事の造型とデザイン性に光を当てることを主眼とする展覧会だっただけに、写真も素晴らしい。


及川卓也「コロカル」編集長が手がけた本だが、貴重な記録が、書籍化されたのは、実に喜ばしいことだと思う。
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2012年12月20日

呪いの時代に、その2



内田樹は、呪いの言葉が蔓延する背景に、対象の記号化があることを指摘している。

つまり、「近頃の若者はダメだ」とか「アイツは〜だ」というように、対象にレッテルを張り、そうした決めつけの記号化を疑わない姿勢のことである。


内田樹は、「呪いの言葉」の対極に、対象をできるかぎり丁寧に描写していくことを置く。

ひとりの人間でさえ、万言を費やしても、語り尽くすことはできない。

だから、かなうかぎり対象を丁寧に語っていくことが必要とされるわけであり、氏は、これを「祝福の言葉」と呼ぶ。


詩に関する批評も同じだろう。

対象となる詩集の具体的なテクストに言及することなく、ネガティブに何かを決めつけるのは、批評の名を借りた誹謗中傷にすぎない。

呪いの言葉を吐き散らして、自滅への道を歩むのは勝手だが、最後には自分の生涯の空しさを思い知るだけだろう。


呪いの言葉と祝福の言葉。

どちらを選ぶか問われているのは、余人ではない。
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2012年12月19日

呪いの時代に、その1



内田樹による『呪いの時代』(新潮社)は、今日の荒廃した言論の状況を、鮮やかに指摘する本だ。


ネットには、他者への誹謗中傷が渦巻いている。

たとえ、無名かつ無力な人間であっても、ネットならば、どんな有名人でも誹謗中傷することができる。

それは、誹謗する者に万能感を覚えさせるが、より強い刺激とより強い万能感を得るために、誹謗中傷は、さらにエスカレートしていくことになる。

それは呪いの言葉であり、必然的に呪いを発した者も傷つけずにはおかない。

そして、疑似的な万能感を得ようとも、誹謗する者が、無名で無力であることは何ら変わりはないのだ。


著者の指摘は、明晰かつ的を得たものだと思う。

作家でロッカーの中原昌也は、ネットの罪悪は、クズのような連中に発言の場を与えたことだと発言したことがあるが、それも内田樹が指摘したような手合いを言うものなのだろう。


こと、現代詩の世界に限っても、事態は同じで、目立つ存在を批判という名を借りた、たんなる誹謗中傷で貶め、自分が何者かになったつもりになっている自称詩人を見かけることがある。

ネットであろうと、雑誌であろうと、それも、また呪いの言葉であり、批判の対象となっている人間は、自分の仕事を重ねていくのに対して、
誹謗中傷する側は、最後には自分を傷つけるだけの呪いを重ねていくことになる。


和合亮一の『詩の礫』をめぐって起こったのも、まさにそうした出来事だったと言ってよい。

最終的に、どうなるのかは自明だろう。

誹謗中傷をもっぱらとする者は、結局、何者にもなることがない。(つづく)
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2012年08月30日

吉田太一『遺品整理屋は見た!』(扶桑社)

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瓜南直子さんの遺品整理を手伝いしていて、ふだんは忘れている当たり前のことに気づかざるをえなかった。

人間は身体ひとつで生まれてくるが、生きていくうえでは、さまざまな道具や物が必要となる。

そして、ひとりの人間が亡くなると、それらの物は、突然、「遺品」になってしまうのだということを。


そうしたことに思いを巡らしていたとき、ふと、以前、BOOK・OFFで見つけた本のことを思い出した。


著者は、運送業をしているとき、引越しに際して大量の不要品が出るのに注目し、日本初の引越し屋のリサイクルショップを開業、
さらに独居老人が増加し、孤独死が社会問題になるとともに、
遺品整理に困っている遺族が多いことに着目して、これまた日本初の遺品整理専門会社を立ち上げたという起業家だというから、着眼点が鋭い。

その実体験を綴ったのが、『遺品整理屋は見た!』なのだが、これは食事中には決して開いてはならない本である。

遺族が遺品整理を依頼するのは、孤独死のとき。
当然、そこには死後、数日から数週間を経た遺体もあるからだ。


なかには、床はもちろん、天井から壁まで血だらけという殺人現場も。

しかも、遺品処理を依頼した夫は、妻が殺されたというのに、冗談と無駄話ばかり。

それから一週間ほどして、その夫が殺人犯として逮捕されたという小説のような話もある。


あるいは、家財道具や両親の遺骨を置き去りにして、夜逃げした44歳のニート男性。

ゴミ屋敷と化した賃貸マンションは、アニメとフィギュア、そしてアイドルのポスターが。

両親が亡くなって、ニート男性は家賃が払えなくなり夜逃げしたわけだが、結局、ホームレスになるしかないのではないだろうか。

今後、増えそうなケースだが、親がかりのニートは、親が死ぬと生活の術を失うことになる。

ニートのホームレス化は、今後の社会問題になると思う。


著者によると、孤独死する人の3割はクーラーがなく、1割は置き電話も携帯電話も所持していないそうだ。

社会との関わりを絶たれたときの、人間の孤独がどのようなものなのかを、遺品が語っているようにも思えてくる。


また、遺族が遺品として取っておくのは、約1割だという。

つまり、荷物の9割はゴミとなるわけだが、ふと身の回りを見渡してしまった。


人間は、いつかは分からないが、誰もが必ず死のときを迎える。

そのとき、すべての物は、遺品となってしまうのだ。

私たちは、そのことに気づかないふりをして、日々を生きているのかも知れない。
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2011年12月30日

柳美里『ピョンヤンの夏休み』(講談社)

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北朝鮮では金正日が死去、世界に緊張が走った。

金正恩体制も軍事優先を明らかにしているものの、政権が安定するまで、軍事行動には出ないだろうとする有識者が多い。

テレビでも北朝鮮の様子が報道されたが、日本人は、テレビによる独裁政権の報道以外、北朝鮮のことを、ほとんど知らないとというのが現実だろう。


テレビに映らない普通の北朝鮮の人たちは、何を思い、どんな生活を送っているのか。


柳美里さんの新刊『ピョンヤンの夏休み』は、今まで語られたことのない北朝鮮の人々の姿を浮き彫りにするノンフィクション。

今こそ、読みたい一冊と言っていい。


鎌倉駅北口のたらば書房には、著者サイン本も平積みになっている。

鎌倉に初詣のおりには、鎌倉土産に、冬だからこそ(?)『ピョンヤンの夏休み』を。


映画のタイトルにしたいような書名だが、柳美里さんと丈陽くんの表紙の写真も素敵だ。
posted by 城戸朱理 at 14:56| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月26日

静岡の古書店で

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ホテルにチェックインして、トランクの荷物をほどいてから、とりあえず、散歩に出かけた。


静岡は3度目だが、土地勘は、まったくない。

知らない土地は、まず自分の足で歩き回るに限る。


静岡駅から、駿府公園に向かい、さらに静岡浅間神社へ。


骨董屋を見かけては立ち寄ったりしていたのだが、以前、山内功一郎氏の結婚式で静岡を訪れたときに、野村喜和夫氏と行った古本屋は、閉めてしまったようだ。


あのときは、野村さんが金子光晴関係の資料をまとめ買いし、私は永田耕衣『肉体』など、なかなか、いい本を見つけた記憶があるのだが。


今回は、ブックスランドという古本屋を見つけ、あれこれ物色したあげく、平川祐弘『中世の四季』(河出書房新社)と上田三四二『西行・実朝・良寛』(角川書店)の2冊を購入した。
posted by 城戸朱理 at 18:24| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月01日

キャンディーズ写真集(徳間書店)!?

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宅急便の封をとくと、そこから出てきたのは
・・・目に痛いほど、色鮮やかな写真集ではないか!

しかも、キャンディーズ???

書名は『マルベル堂90周年記念企画 キャンディーズ プロマイドから微笑がえし 464カットすべて掲載』と異様に長い。


ブロマイドのマルベル堂90周年記念企画として、
マルベル堂から発売されたキャンディーズのプロマイド464カットをすべて収録、
しかも超特大プロマイドポスター付きの永久保存版である。


マルベル堂社長のインタビューによると、「ブロマイド」ではなく、正しくは「プロマイド」。

歌謡曲の全盛期だった1970〜80年代が黄金期で、
キャンディーズは、そうした時代の立役者だったのだそうだ。


ファン代表12人の熱烈メッセージも収録されている。

顔ぶれは江口寿史、小松政夫、佐野史郎、フィンガー5のAKIRA、
ピンク・レディーのmie、平尾昌晃、なぜか経済アナリストの森永卓郎と多彩なものなのだが、
なぜか、そのなかに私の名前が・・・


そうだった。

徳間書店書籍編集部の加々見正史編集長の求めで、コメントを書いたのだった。

私の名前があると「意外性」があるという理由だけで依頼されたような気がするが、
いざ応えると、いつの間にか「ファン代表」のひとりにされているではないか。

キャンディーズのことは、もちろん覚えているが、
世代的には私より少し上が熱心なファン層になる。

本気のファンに申し訳ない気持でいっぱいになったが、
これだから、優秀な編集者は怖い。


ところで内容は、はちきれそうに健康なラン、スー、ミキが満載で、
衣装にも、ポーズにも昭和の香りが立ち込めている。


プロマイドというジャンルの面白さを改めて確認できる写真集と言えそうだ。
posted by 城戸朱理 at 10:42| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月13日

吉田健一『酒肴酒』(番町書房)

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吉田健一の本は、その人気にもかかわらず、古書値がつくものが、ほとんどない。

それだけに、気楽に求めることが出来るが、だいぶ前に『続 酒肴酒』を古本屋で購入し、続編があるのなら、当然、正編もあるわけだから、いずれ見つけたいものだと思っていたら、思いがけないところにあった。


鎌倉の立ち飲み、ヒグラシ文庫である。

この店、飲み屋なのだが、一画で古本を扱っており、なかなか癖のある選書。

そのなかに紛れていたのだ。


ほかにも『荒川洋治詩集』『続・荒川洋治詩集』『城戸朱理詩集』と、思潮社の現代詩文庫が3冊あったのだが、私のは売れたようで、今は荒川さんの2冊が残っている。

いったい、誰が買ったのだろうか?


『酒肴酒』は、考えつくかぎり、最高の書名で、タイトルを見ているだけでも、酒杯を傾ける合間に、肴をつまみ、また飲む様子が伝わってくる。

ちなみに、魚を「さかな」と読むようになったのは近世のこと。

それ以前は「うお」と読んでいたらしい。

だから、酒菜を肴というのは、魚が、とりわけ酒に合うからなのだろう。


吉田健一『酒肴酒』は、番町書房の「ユーモアエッセイ集」シリーズの一冊で、著者の顔のイラストが表紙。

このシリーズ、吉田健一は、3冊あるようだが、私の購入価格とともに列記すると、以下のようになる。



『酒肴酒』(昭和49年)、600円

『続 酒肴酒』(昭和49年)、200円

『酒に呑まれた頭』(昭和50年)、500円



いずれも新刊の文庫本より安いくらいだが、その楽しさは極上で、なにせ、酒と肴の話しか出てこない。

ユーモアもあるのだが、それだけではなく、確固たる思想がある。

思想というものはイデオロギーとは違うと、吉田健一が『日本に就いて』(ちくま学芸文庫)で書いているが、そういう意味での思想である。
posted by 城戸朱理 at 08:50| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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