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城戸朱理のブログ: 本

2010年01月25日

南陀楼綾繁『一箱古本市の歩き方』(光文社新書)

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著者の南陀楼綾繁(なんだろう・あやしげ)氏は、
本好きのライターであると同時に、
「一箱古本市」の発案者でもある。


一箱古本市とは、店舗の店頭を借りて、
ひとりが一箱分の古本を販売するという、
誰でも参加できるイベント。
旧来の古書市がプロによるものだったのに対して、
本好きならば、素人でも参加できるというのがポイントだろう。


この一箱古本市、2005年に
「谷根千」と呼ばれる東京の谷中・根津・千駄木エリアで、
「不忍ブックストリートの一箱古本市」が
南陀楼綾繁氏とその友人たちによって開催されて以来、
全国的な広がりを見せているのだとか。


一箱古本市の楽しさは、プロもアマチュアも入り乱れて、
わずか、一箱のなかに古本によって、
各自の個性を発揮するところで、
70〜80年代のロック本ばかりを集めては、
一箱古本市に出店している知り合いがいるが、
ひと箱のなかに、出店者の
ミクロコスモスが展開されているところが、
本業の古本屋さんとは違う面白さだと言えるだろうか。


詳しくは、本書を読んでいただきたいが、
本文中でも紹介されている早稲田・目白・雑司ヶ谷の
本に関わる本好きのグループ、「わめぞ」や、
荻窪・西荻窪・吉祥寺の古書店と本好きの
イベント集団、「おに吉」など、
電子書籍だ出版不況だと、
何かと騒がしい業界とは無縁に、
本当の本好きによるムーヴメントが起こりつつあるのは、
何よりも愉しいし、心強いことだと思う。

ここには、電子書籍では起こりえない、
書物ならではの楽しみと、
本を仲介にした人間の交流の様子が語られており、
書物をめぐる関係性のひとつの可能性が示されている。
posted by 城戸朱理 at 09:19| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月13日

紙の本がなくなるとき、その5

音楽をダウンロードして買う場合、
パソコンや端末があれば、
楽曲のデジタル・データだけを購入することになるわけで、
そこには、ヴァイナルと呼ばれるアナログ・レコードや
CDのように物のとしての形は存在しない。

今、あえてCDを買うのは、
特定のミュージシャンが好きで、
ジャケットまでを含めた形ある物として
CDを自分が所有したいと思っている人に
限らることになってしまったのかも知れない。

電子書籍の発達も同じ道をたどることになるのだろうが、
主流は、形あるメディアではなく、
キンドルのように、ネット上の電子書籍書店から、
端末にダウンロードする形になるのは間違いない。

音楽と同じように、テキストのデータだけを
購入することになるわけで、
そこには、紙の本のような物質性は存在しないことになる。


これは、ある意味ではすがすがしい。

古典作品は手元に置かなくても、
いつでも購入して確認できるわけだし、
書斎のスペースもかなり節約できるのは間違いない。

端末さえあれば、本もCDも手元に置く必要がない生活、
なるほど、それは何十年か前にSFが夢見た世界が、
現実になったようなもののようにさえ思われる。


大手ネット書店、アマゾンが
電子書籍リーダーのキンドルを発売したことへの危機感から、
日本の出版社も、ついに電子書籍化に向けて、
本格的に動き始めた。

講談社、小学館、新潮社など、
大手21社が「日本電子書籍出版社協会」(仮)を設立、
電子書籍に本格的に向かうことになったらしい。

日本の出版社は一説に2千を超えると言われているが、
実際に活動しているのは1万ていど、
デスクとパソコンに電話さえあれば、
ひとりでも始められるのが、出版社である。

しかし、実際は大手20社ほどで、
コミックをのぞけば、売上の9割を占めている。

その大手21社が協定を結んで、
電子書籍を手がけようというのだから、
おそらく、10年以内に
紙の本と電子書籍の売上は逆転することだろう。


出版も今やコンテンツ産業にシフトしようとしているわけだが、
このことがもたらす結果は、
想像する必要もないほど単純なものになるに違いない。(つづく)
posted by 城戸朱理 at 12:24| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月12日

紙の本がなくなるとき、その4

ブルーレイ、DVDVHS、そしてフィルム。
映像メディアの耐用年数は、
意外なことに生まれが古いものほど長い。

フィルムは約100年、VHSが30〜40年、
そして、DVD、ブルーレイが20〜30年。


そして、文字を記録するとしたら、
和紙に墨で書かれたものは、
1000年を超える耐久性を持っているが、
ふつうの紙の本でも数百年は残り続ける。

電子書籍と紙の本の関係も
映像メディアと同じようなものになるのかも知れない。


電子書籍が次第に一般化すれば、
紙の本は特殊なものになっていくわけで、
ある種の贅沢品となる可能性もある。

また、紙の本のほうが耐用年数が長いものになるとしたら、
電子書籍の刊行と同時に限定版として、
紙の本が刊行されるというようなケースも
生まれるのかも知れない。


前回、語ったように電子書籍は、
耐用年数が紙の本より短いため、
もし、保存しようとしたら定期的に再発されるか、
個人的にコピーを取るしかない。
その意味では、紙の本よりも
メディアじたいが自然に淘汰される要素を
持っていることになるので、
残るものだけが残るということになるのだろう。


一方、紙の本は次第に減ってはいくのだろうが、
こちらも完全になくなることはないような気がする。


詩歌を始めとする文学や美術書など、
特別なジャンルのみかも知れないが、
紙の本は残っていくのではないだろうか。

紙の質感と、それをめくるという身体性を好む人は、
いまだに少なくないし、
そもそも、本という形態じたいを
愛するビブリオフィルも存在する。

しかし、そうした嗜好や趣味的な
理由をいっさい考慮しなくても、
保存という点で、人類はいまだに
紙以上のものを発明できてはいないのだから。


ネットの発達と普及はコミュニケーションの可能性を
飛躍的に拡大したが、それだけに、
実際に会うということの重みが増したように、
電子書籍の普及は、紙の本のリアリティを
改めて確認させることになるかも知れない。


詩に関していうならば、
全詩集的な本は、研究や批評のためには
電子書籍が便利だとは思うが、
一冊、一冊の詩集は、やはり紙の本で読みたいと思う。

それは個人的な嗜好というよりは、
詩というものが、音楽と同じように時間芸術であって、
その時間の持続を、ページをめくるという身体性が
自ずと確認させてくれるからにほかならない。
posted by 城戸朱理 at 09:53| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月11日

紙の本がなくなるとき、その3

趨勢として、紙の本から電子書籍への移行は必然であり、
こうした変化は、つねに不可逆的なものに思われる。


たとえば、音楽に関しても、
この20年ほどで、レコードからCDへ、
さらにはiPodの普及を背景とする
ダウンロードへという変化があったわけだし、
今やネットからのダウンロードと
CDの売上は逆転している。

しかし、音楽に関しては、
人間の可聴音域以外の低音域と高音域をカットした
デジタル録音よりも、可聴音域以外も記録された
アナログのレコードのほうが音がいいのも事実で、
すでにCDの時代であった90年代初頭に、
アナログ・レコードを利用してハウスという新しい音楽が生まれたりもしたし、
いまだに、CDとともに
アナログ盤をリリースするアーティストも存在する。

つまり、一部の好事家にとっては、
いまだにアナログ・レコードは生き続けているわけである。


あるいは、紙の本がたどるのも、
同じような道なのかも知れない。


これは、ふだん私たちがあまり意識しないことだが、
DVDやCD・Rといったメディアの耐用年数は30年ほどで、
紙の本よりはるかに短い。


ただし、紙の本も戦後1945年から
80年代初頭にかけて出版されたものは、
本文紙が酸性紙で、漂白のために使われた薬剤が、
空気中の水分と反応して劣化していくため、
保存する場所によっては数十年でぼろぼろになってしまう。

古書店主にして直木賞作家の出久根達郎氏は、
古本の買い取りに行ったとき、
物置に置かれていた本を持ち上げようとしたとたん、
下の何冊かが埃になって飛び散ったことを
エッセイで書いていたが、
それが酸性紙の本がたどる運命ということになる。


電子書籍も同じように、数十年で、
読み取ることができなくなるのだろうし、
それはそれですがすがしいような
気がしないでもない。(つづく)
posted by 城戸朱理 at 10:45| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月10日

紙の本がなくなるとき、その2

雑誌の休刊・廃刊が相次ぎ、
出版不況が深刻さを増している。

昨年の出版市場の売上は2兆円を切り、
1989年の水準まで落ち込むことに。

出版業界のピークは1996年だが、
それ以降、ひたすら売上が
落ち込み続けてきたことになる。


だが、バブル期の89年と同じ水準ならば、
騒ぐ必要もないはずだし、
それ以降の売上増もマンガとゲーム攻略本の
売上増によるものだったことを思えば、
本質的な問題は、版元と流通にあるのも間違いない。


日本の書籍刊行点数は、年間6万冊を超えている。
1日に200点もの新刊が刊行されているわけで、
これは出版社が、売上減を
刊行点数を増やすことで補おうとした結果、
業界が陥ったハイパー・インフレーションにほかならない。

しかも、ごくひと握りの意識が高い書店を除くと、
ほとんどの書店は取次からの
配本を機械的に店頭に並べているだけだから、
日本中の書店が画一化し、
売れ線の本ばかりが並ぶようになってしまった。


いわば、良書もユニークな出版物も、
すべて本の洪水に飲みこまれてしまうような
状況になってしまったわけである。


そうしたなかでの、ベストセラーというと、
ビジネス本やノウハウ本がほとんどなので、
読者は、それが電子書籍であろうが、
紙の本であろうが、気にすることはないだろう。

実際、新聞はいっさい取らず、ニュースは
すべてネットで確認しているという勝間和代の著作が、
紙の本である必要はない。

こう考えると、いわゆる売れ線の本から、
まず電子書籍化が進んでいくのではないだろうか。(つづく)
posted by 城戸朱理 at 11:32| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月09日

紙の本がなくなるとき、その1

アメリカでは昨年、電子書籍リーダーが600万台売れ、
クリスマス商戦では、電子書籍の売上が
紙の本を上回ったという。

日本でも昨年末に刊行された
前田塁『紙の本が亡びるとき?』(青土社)が話題を読んだが、
今や、電子書籍は紙の本の質感まで
再現するようになっており、
そこにないのは、紙の質感だけと言ってもいい。


はたして、紙の本はなくなるのか?

実は、このことは昨年、12月に
松浦寿輝さんとも話し合った。

結論からいえば、紙の本は、
次第になくなっていくのではないかと
私は思っている。(つづく)
posted by 城戸朱理 at 12:13| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月15日

鎌倉のお土産に著者サイン入り『オンエア』を

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鎌倉に暮らす文学者はいまだに少なくないが、
散歩中の井上ひさしさんを見かけたり、
飲み屋で養老孟司先生とばったり出会うことはあっても、
鎌倉の書店で、鎌倉在住の著者のサイン本が
置いてあることはめったにない。

不思議といえば不思議だが、
最近では、藤沢周『キルリアン』(新潮社)の
サイン本が若宮大路の島森書店にあったし、
今ならば、鎌倉のどの書店にも、
柳美里『オンエア』(講談社)のサイン本が。


上巻は「今から今へ」、
下巻は「私は今 遠くへ行く」と識語も違うし、
黒の見返しに、上巻は金のマーカーで、
下巻は銀のマーカーで、識語と署名が書かれている。

これは秘密だが(?)、すでに3刷りまで増刷されているのに、
丹念に探すと、まだ初版が見つかったりすることも。

写真は、鎌倉駅西口のたらば書房で、
先日、求めたものだが、これも初版だった。


鎌倉散策のお土産は豊島屋の鳩サブレーとは限らない。

鳩サブレーと井上蒲鉾の梅花はんぺんと
著者サイン入りの『オンエア』がお勧めだ。
posted by 城戸朱理 at 09:30| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月18日

中川淳一郎『ウェブはバカと暇人のもの 現場からのネット敗北宣言』(光文社新書)

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ネットで流通している言葉に
「リア充」というものがある。

これは、「リアル・ライフ、
つまり現実の生活が充実していること、
もしくは充実している人」という意味で使われているのだが、
こうした言葉が生まれること自体、
ネット空間が現実ではないことを、
ネットの住民が、気づいている証拠だと言えるだろう。


ウェブといえば「進歩」と
「可能性」ばかりが語られてきたが、
いつまでも可能性ばかりが語られるのは、何故なのか?


この答えは簡単である。

例外的なシンデレラ・ストーリーはあるものの、
それは、あくまでも例外であって、
いまだに、可能性以上の何かが実現されてはいないからだ。


要するに、そこにはすべてがあるように見えながら、
「現実」だけが、ないのである。


では、本当にウェブは、これからも進化し続けるのか、
そして、新たな可能性があるのか?

そうした問題を真っ向から語る本が登場した。


広告代理店勤務、雑誌編集者を経て、
ニュースサイトの編集者になり、
ネット漬けの生活を送っている著者だけに、
経験に即した分析は、これまでネットに関して
語られてきた通説を覆すものと言っていい。


詳しくは、本書を読んでもらいたいが、
「ネットは発言にもっとも自由度がない場所」、
「ネットで流行っているネタは一般社会ではマイナー」、
「重要な情報を持っている人は、
その情報をわざわざネットには書かない」、
「ネットによって人々の嗜好・生き方が
細分化されたというのは嘘で、
実は均一化されただけ」など、
通説とは反対のネットの現実が次々と指摘されていく。


著者が体験したネットの現実とは、
要約するならば、頭のいい人は、
ネットを短時間、利用して、
リアルなビジネスにするが、
ネット漬けのヘビー・ユーザーは、
せっせと情報をアップして、
頭のいい人に利用されているだけで、
実はバカか暇人ばかりだというもの。

そして、結論。


「結局は、リアルな世界で活躍している人が、
多額の報酬を得たり、スポットライトを浴びるのである」、
「もう、ネットに過度の幻想を持つのはやめよう」
「なぜなら、ネットはもう進化しないし、
ネットはあなたの人生を変えないから」ということになる。


たしかに、実際の人生は「リアル」なことの
積み重ねで出来ている。
ネットには、その「リアル」だけがない。
そして、ネットは、もう充分に進化したし、
これ以上、進化することも、
今以上に可能性を持つこともないというのが、
本書の主旨なのだが、
この意見に共感するか、
反発するかは、人それぞれだとしても、
ネットの進歩と可能性ばかりを称揚する
職業的ITジャーナリストには書き得ない、
ネット社会の現実がえぐり出されているのは間違いない。



となると、ブログのみならず、
ツィッターまで始めた私も、
バカか暇人ということになるのだが、
どちらかというと、暇人がいいな。
posted by 城戸朱理 at 08:59| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月07日

料理本

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古本屋で、まず値がつかないものに、料理本がある。

例外は北大路魯山人くらいだろうか。
ただ、魯山人は全3巻の著作集が手元にあるので、
とくに欲しいとは思わない。


いずれにせよ、定価と関わりなく、
料理本は、がいして安いが、
これは、あくまでも実用書だからだろう。


そして、料理本というもの、
その大半が役に立たない。


和食だろうが、洋食だろうが、
セオリーというものがあって、
それを覚えてしまうと、応用が効くものだが、
基本は教えず、応用ばかりを披露するものが多いからだ。

とくに、料理研究家と称する人に、この傾向が強い。


しかし、なかには面白いものがないわけではない。


私が探しているのは、陶芸家、辻協の料理本。

辻協の夫君は、信楽焼きで有名な辻清明で、
「太陽別冊 辻清明」は、平凡社の「太陽別冊」のうち、
古本屋でもっとも見つかりにくい一冊。

それも人気のほどを示すものだろうが、
辻清明は、骨董の収集家としても知られ、
作陶は茶器や酒器が中心で、高値を呼ぶ。

それに対して辻協は、手ごろな価格の食器を焼いており、
こちらも愛陶家に人気が高い。


辻協の料理本は、本人が作った器に料理を盛って見せるもので、
そのバランスが見事だった。

しかも夫婦で陶芸家だけに、人の出入りが多い。
勢い、料理もダイナミックで、思いがけないものが。


この本は、貸したところ紛失してしまったが、
見つけたら、また手元に置きたい一冊である。


先日、求めた太田潤『アウトドアクッキング大事典』(成美堂出版)も秀逸。


セオリーよりも、まず火ありきの豪快な料理が並ぶ。

アウトドアだけに細かいことは言っていられない。

手抜きのわりには、出来上がりは豪華だったりして、
家庭で再現しても面白そうな料理が目白押しである。


こうした本を見つけては、
実際に試してみるのが面白いのだが、
その意味では、やはり、料理本は、
実用書ということになるのだろう。
posted by 城戸朱理 at 10:46| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月04日

せどり師

古書業界の用語で「せどり」というものがある。

古本屋で、転売目的で本を買うことで、
「背取り」から来ているのだろうが、
文芸書の初版価格が高騰した1970年代には、
「せどり」を本業とする人もいて、
これを「せどり師」と呼んだ。


そんなことで商売になるのかと思う人もいるだろうが、
当時は、「せどり」で、
若者の年収ていどをひと月で稼ぐ猛者もいたらしい。


梶山季之に、せどり師を主人公にした
「せどり男爵」の連作がある。


70年代には文庫の棚を占有していた人気作家の梶山季之も
今、手に入るのは『せどり男爵〜』のみ。
結局、本好きは、本がらみの本が好きということだろうか。


「せどり」で利益を出すには、
地方と中央で価格差がなければならない。

東京郊外で数百円で売っていた本が、
神田で数千円で売れると、
その差額から交通費を引いた額が利益になるわけで、
パソコンが普及し、情報が日本中に行き渡るようになった今では、
せどり師じたいが存在しえないのではないかと
思っていたら、さにあらず。


私が会ったのは、脱サラでネット古書店をやっている人だったが、
彼はブックオフあたりで数百円で仕入れた本を
ネットで数千円で売り、ひと月の売上が、
多いときだと40万円ほどになると言っていた。

ただし、仕入れ代や交通費など
経費に25万円ていどはかかるそうだから、
40万円の売上のうち、利益は15万円。


決して、儲かる商売とはいえないし、
何よりも本を知っていないと出来ない仕事だが、
本業ではなく、サイドビジネスとしてならば、
十分に成り立つのかも知れない。


ただし、素人がコンスタントに
仕入れをするのは至難の技で、
一日中、歩き回っても、
めぼしい本が見つからないこともあるのは言うまでもない。


ちなみに、ネット古書店の彼は、
ブックオフが新たにオープンするときは、
初日に出かけ、めぼしい本を抜いてくるのだと言っていた。


ブックオフでは、稀に掘り出し物があるのは事実だが、
これは、本当にごくごく稀なこと。

商売にしようと思ったら大変だが、
せどり師という言葉には、
なにか怪しくも、惹かれるものがある。
posted by 城戸朱理 at 09:25| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月22日

柳美里『オンエア』上下巻、読了!

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一気に読み終えてしまった。

「柳美里初のエンターテイメント巨編」という
コピーに嘘はなかったというのが、実感。


それにしても、なんとタイムリーな刊行だろう。

フジテレビの看板報道番組「ニュースJAPAN」の
キャスター、滝川クリステルの降板が
話題になったのは記憶に新しい。

もともと、滝川クリステルは、
共同テレビからの出向で、
現在はフォニックスの所属。

キャスターは特定企業のCMには
出演できない契約だったが、
降板直後から、資生堂「TSUBAKI」のCMに
滝川クリステルの姿が。

何が起こったのか、さまざまな憶測が飛び交った。


しかも、酒井法子と押尾学の薬物汚染の初公判は週明けから。


柳美里の『オンエア』は、主人公が3人の女子アナ、
読む楽しみが半減するので、
ストーリーは、あえて語らないが、
スキャンダル、不倫、薬物などか絡み、
思いがけない展開を見せる。


女子アナは芸能人と同じように扱われることが少なくないが、
実はテレビ局の社員であり、
高給取りではあるが、あくまでもサラリーマンである。

しかも、華やかに見えながら、
その仕事は、その場で消費され、
消え去っていくものでしかない。


物語の前半は、そうした女子アナの虚業としての
ネガティブな面がクローズアップされ、
主人公はさまざまな挫折を経験するのだが、
これから、どうなるのだろうと緊張していると、
最後には、思いがけない再生の物語が展開される。


エピローグの死者のモノローグには、
誰もが、解放を感じずにはいられないだろう。


柳美里さんのブログを見ると分かるが、
鎌倉の書店では、著者サイン入りの本が並んでいる。

鎌倉の書店で、ぜひ『オンエア』を。
posted by 城戸朱理 at 18:16| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月21日

柳美里『オンエア』上・下(講談社)

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柳美里の新作『オンエア』が、いよいよ刊行された。

帯に躍る〈山本モナ絶賛!〉とか、
〈「本格「女子アナ」小説〉といった
コピーにまず度肝を抜かれたが、
読み始めると、いきなり、3人の女子アナの
濃密なセックスの描写から物語が始まる。

これは・・・テレビドラマになりそうな小説である。


まだ上巻の途中なので、
詳しくは読み終えてからアップするが、
登場人物の誰も幸せにならなさそうな予感が。


とにかく読み始めると、
先が気になって仕方がない。
ということは、極上のミステリーのような
面白さもあるということなわけだが、
柳美里の作品となると、それだけで終わるはずがない。


すぐに書店に走ろう。
posted by 城戸朱理 at 12:06| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月20日

高橋順子『緑の石と猫』(文藝春秋)

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高橋順子さんのファンタジー10篇を収録するのが、本書。


詩人とファンタジーといえば、
エドガー・アラン・ポー以来、縁が深いし、
高橋順子さんのゆるやかなファンタジーの世界は、
心身ともに疲れた人に、慰めの鐘のように
響いてくることだろう。


さらに、表紙の装画は、このブログでもおなじみの
日本画家、瓜南直子(かなん・なおこ)氏によるもの。


私も昨年、瓜南さんに注文して描いてもらった画を
居間に飾っているが、
その世界は、神話的で、
柔らかな静謐さが、
あたりを満たしていくかのようでもある。

しかも、その静謐さは、不思議な充足感とともにある。

まるで、その静けさのなかに
生命そのものが胚胎されているかのように。


この装画は高橋順子さんの指名で描いたものだというが、
やはり、瓜南さんならではの魅力的な世界が、
高橋順子さんのファンタジーと響き合って、
美しいたたずまいの本になっていると思う。
posted by 城戸朱理 at 14:36| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月05日

藤沢周『キルリアン』(新潮社)

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「風のなかの蝶の重力、かと思っっていた」。


開巻の一行目からして、
いきなり、特異にして独自の世界が開示される。


この小説を書き上げて、
まだ「新潮」誌に掲載される前のこと、
藤沢さんは、執筆に集中し、
誰とも口をきかない時間を
過ごしていたたものだから、
リハビリのように鎌倉を飲み歩いていたのだが、
そのときのことである。


ふつう、新作を脱稿したあとは、
そのあらすじを話してくれるのだが、
「ストーリーがないんだ」と藤沢さん。


どういうことかと思ったが、
たしかに、この小説には「物語」が、まったくない。

作者と同年齢、知命を迎えた作家が、
鎌倉の寺や飲み屋を行き来し、
その内心を独白していくといった内容である。


では、物語なしに、200枚もの小説を
成立させているものは何なのか?


それこそが、この小説の主題にほかならないのだが、
それをここで語るような無粋な真似は避けよう。


ただ、酔いを深めていった藤沢さんが、
「もう、読者も編集者もどうでもいい」と
晴れやかな顔で語ったのが、忘れられない。


もちろん、それは、読者がいらないとか、
編集者が必要ないという意味ではない。

その言葉は、読者や編集者に
期待されるものを書くのではなく、
内発的な欲求だけに従って、
自分の書きたいものを書き上げた自負を言うものであり、
そのとき、私は、長年の親友を
本当に羨ましく思ったのだった。


『キルリアン』、そこに描かれているのは、
生の明滅にほかならない。
posted by 城戸朱理 at 10:49| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月01日

蒲原有明『夢は呼び交わす』(岩波文庫)

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岩波文庫の復刊が、最近、面白い。


田山花袋『温泉めぐり』の復刊も意外だったが、
蒲原有明『夢は呼び交わす』の復刊には、さらに驚いた。


花袋も有明も、すでに文学史上の人物だが、
花袋はテーマが温泉だけに、まだ分かる。

しかし、有明のほうは自伝的短篇小説集。

象徴詩の大成者と目されながらも、
つづく口語自由詩の隆盛のなかで、
むしろ批判の対象となり、
忘れ去られた詩人の
自伝的小説を読みたいと思う人が、
今、どれだけいるだろうか?


そして、たしかに有明の小説には、
自分が置かれた立場の
苦さのようなものが、立ちこめているように思う。


私には、たいへん興味深い復刊だったが、
やはり、意外な感は否めない。
posted by 城戸朱理 at 09:09| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月16日

柳美里さんからもらった本

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ランニングから帰ってきた彼女が、
「これ、柳さんが城戸さんにって、
買ってくれたんだよ」と言って、
文庫本を差し出した。

何かと思ったら、細木数子先生の
六星占術による『木星人の運命』ではないか!


知らなかったが、私は、
六星占術だと「木星人」になるらしい。



なんでも、柳さんや千恵子コーチと、
細木数子先生の本を見て盛り上がり、
柳さんが買ってくれたのだとか。

しかも、3人とも水星人なのだというから面白い。



木星人は、大器晩成型で、控えめでもの静か、
つきあい下手、恋愛下手・・・。


「骨董品は木星人に幸運をもたらす」という記述があって、
柳さんに受けていたそうだが、
骨董はかなり所持しているものの、
幸運とは無縁なのは何でだろう?



当たっているところもあれば、
外れているところもあるような気もするが、
大器晩成型ということは、
要するに、これからだということか。



六星占術では、運命星のほかに、
干支によって、陽(+)と陰(−)に別れるが、
私は木星人(−)になるらしい。


木星人(−)の有名人は、アントニオ猪木(やった!)、
矢沢永吉(やった!)、
宮崎駿、福山雅治に織田裕二、
女性だと、天海祐希、宇多田ヒカルにしょこたんこと中川翔子などなど。


結構、嬉しいが、来年から大殺界に入るというのだから、
喜んではいられない。



日本人の占い好きは有名だが、
私も占いは嫌いではない。

若いころは、占星術に凝ったこともあり、
ホロスコープも書ける。

占星術だと、私は双子座で、
詩人だと、ダンテやホイットマン、
W.B.イエイツ、アレン・ギンズバーグと同じ。

日本だと、稲川方人、ねじめ正一氏らが双子座である。


ところが、双子座の12年に一度という幸運期の年、
私は離婚はするは、PTSDで苦しんだあげくに、
吐血して生死の境をさまようはと
生き地獄のような日々を送り、
幸運期でさえ、こうなのだから、
自分は幸運とか順境とは縁がないのだと悟って以来、
占いという占いは、目にしないようになった。


久しぶりに見たら、来年から大殺界とは、
やはり、よほど運がないのだろう。


ただし、もう騒ぐ気もない。

良寛が語ったような、災難に遭うときは、
災難に遭うのが災難を避けるコツというものである。



すると、彼女が、


「柳さんは来年、大殺界を抜けるんだけど、
千恵子コーチと私は大殺界だし、
珍念さんも中殺界だから、
3人でザ・サッカイズを結成することにしたんだよ。

城戸さんもザ・サッカイズに入る?」
・・・


なんなんだ、ザ・サッカイズって?

ただし、マイナスの運気のときに、
マイナスなことをすると、
マイナス×マイナスでプラスに転じると
細木数子先生も言っているので、
意外と名案なのかも知れないが・・・
posted by 城戸朱理 at 06:45| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月14日

ノンフィクション誌「g2」(講談社)創刊!

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小説が、現実よりもリアルな虚構(フィクション)を描き、
逆に現実を照らし出すものであるのに対して、
ノンフィクションとは、
あくまでも現実と向かい合うことで、
現実そのものを解析しようとするものであるわけだが、
現実とは決して単純なものではないし、
誰にとっても等しく、その姿を見せるものでもない。


立場や視点が違うと、ある出来事は、
まるで違うものに見えることも珍しくないわけで、
その意味では、私たちが漠然と現実だと思っていることは、
それぞれの視座からの、
およそフィクショナルなものであると言ってもいい。


だからこそ、現実のリアリティを追求するメディアとして、
ノンフィクションがあるわけだし、
現在のように社会が混迷を極める過渡期には、
その役割は、さらに重要なものになっている。


ところが、出版不況のあおりを受けて、
ノンフィクションを掲載する総合誌・オピニオン誌は、
「正論」「諸君!」と休刊が相次いでいる。


むしろ、今こそ、ノンフィクションというジャンルが、
注目され、読まれるべきだと思っていただけに、
こうした状況を残念に思っていたら、
「月刊現代」の後継メディアとして、
総合誌以上にノンフィクションに
特化した「g2」が創刊された。


この一冊、下手な単行本より、読み応えがある。

ぜひ一読をお勧めしたい。
posted by 城戸朱理 at 10:17| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月02日

「おに吉」と荻窪の古本屋

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この10年、ブックオフ的な
「新古本屋は」増えたものの、
旧来の古本屋さんは、全国的に減少傾向にある。


そうしたなかで、神田とともに、
特徴ある古本屋が増加しているエリアとして
注目されているのが、西荻窪だ。

ちなみに地元の人は「にしおぎくぼ」ではなく、
「にしおぎ」と呼ぶ。


そこで、古本エッセイで名高い岡崎武志氏を編集長に
西荻窪を中心とするミニコミ誌
「おに吉 古本案内」が刊行され、
イベントも催されているのは、
ネットで知ってはいたが、
今回は荻窪のささま書店で
念願の「おに吉」をもらうことが出来た。


「荻窪」の「お」、「西荻窪」の「に」、
それに「吉祥寺」の「吉」を取って「おに吉」。


このミニコミ誌、古本屋の地図ももちろん載っているが、
エッセイ、マンガと盛り沢山の内容で、
とりわけ表紙裏の「おに吉」のテーマ曲(?)、
「ほんの屋根 本屋の屋根」には爆笑してしまった。

作詞・作曲は加藤千晶さん。

歌詞は次のようなものである。



「黄ばんだ頁にぽつぽつ虫喰い穴♪
星降る ほんの屋根 いっぱい ほしい
古本の屋根♪
星降る 本屋の屋根 古本屋の屋根♪」



本好きの家族に本好きなし。

家族は呆れるか、嫌がりそうな歌だが、
本好きならば、喜ばずにはいられない歌だろう(?)


いずれは「おに吉」を片手に、
西荻窪と吉祥寺の古本屋も回ってみたいが、
今回は荻窪だけを回ってみた。


いすれも荻窪で暮らしているときは、
週に何度も覗いていたお店だが、
私が荻窪を離れてから、もう10年以上になるだけに、
かなりの変化も見られる。


線路添いの竹陽書房は、西荻窪から移転してきた店だが、
「おに吉」に「探し出すよろこびがあります」と
広告を出しているだけに、
狭い店には、昔よりも本があふれかえっている。

しかも、あえて分類・整理していないのか、
かなり雑多な印象で、たしかに探さないと、
何があるかさえ分からない。
これも戦略だろうか?


竹中書店は「明治37年創業、現在三代目」。

ここは昔となにひとつ変わらず、
黒っぽい良書が、きちんと整理されて並んでいる。


駅前の岩森書店は、私には、いちばんなじみ深い。

荻窪に住んでいたころは、
不用になった本は年に2、3回は、
岩森書店に来てもらって処分していたし、
ここで求めた本も多い。

久しぶりに覗いたが、さすがの品揃えである。


いちばん変化したのは、ささま書店。

「広くて楽しい古本屋」がキャッチフレーズだが、
昔は、在庫は多いものの、
アダルトやアイドル写真集なども並ぶ雑多な古本屋だった。

ところが、今や、アダルト・アイドル本はなくなり、
分類・整理も行き届いている。

しかも、思いがけない本があれこれ見つかるし、
詩集が充実しているのも嬉しい。


結局、今回はささま書店で3冊を購入した。


笠井叡『神々の黄昏』(現代思潮社、1979年・初版)

舞踏家、笠井叡のエッセイ集。

めったに見かけない本である。

舞踏家の言葉は詩的だが、
その理由を澁澤龍彦の帯文が見事に語っている。


「肉体を酷使している舞踏家が、
その肉体から抽象言語をしぼり出しているのを
見る時くらい、感動的なものはない。
肉は言葉をなぞり、言葉は肉のかたちをとるだろう。
笠井叡は、現代日本のもっとも
真摯な魂の一つであると私は信じている。
真摯であればこそ、
彼はパラドックスを少しも恐れないのである」


この文章には、吉岡実が舞踏に深く関わった理由が、
語られているような気がしないでもない。


あと2冊は、ともにマックス・エルンストの
大判の美術書である。

『慈善週間 または七大元素(小説)』
(巖谷國士訳、河出書房新社、1977年・初版)


言わずと知れた20世紀の奇書。

シュルレアリスムは、文学においては、
自動記述と夢の記述を特徴としているが、
美術においては、それに呼応するのは、
フロッタージュとコラージュであり、
それらは、シュルレアリスム運動と関わる前に、
エルンストが独自に創案したものだった。

コラージュによる「ロマン(小説)」の試みが、
『百頭女』、『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』、
それに『慈善週間』であり、
いずれも河出書房新社の
「眼は未開の状態にある叢書」として刊行されている。

この叢書名がアンドレ・ブルトンの
『シュルレアリスムと絵画』開巻の一行、
しかも瀧口修造訳のそれであることは、言うまでもあるまい。


『美しき女庭師の帰還』
(田部淑子訳、河出書房新社、1977年・初版)

これはエルンスト展記念出版として刊行されたもので、
図版はドイツのデュモン社による印刷で、限定2000部。

1960〜70年代の美術書は、
グラビア印刷ではなく、
より手間がかかったコロタイプ印刷によるものが多く、
素晴らしいものが見つかることがある。

コロタイプは別名アートプレスと言われるように、
版画作品としても扱われることがあるほどで、
コロタイプによる画集を見つけるのは、
私にとっては、古書店回りの楽しみのひとつだ。


今回の買い物は、しめて1万3千円。

神田よりは明らかに安いが、
そもそも、その内容を考えるならば、
本ほど安いものはない。
posted by 城戸朱理 at 08:53| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月05日

宇多喜代子・大石悦子・茨木和生『旬の菜時記』(朝日新書)

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「歳時記」ならぬ「菜時記」。

季語の食材を詠みこんだ俳句と、
3人の俳人によるエッセイ、
さらに、その食材を使った料理を
カラーで紹介する好企画である。


たとえば、杉田久女の
「笹づとを解くや生き鮎真一文字」という一句を掲げ、
この句の鑑賞と鮎をめぐるエッセイが。



久女の句は、到来の鮎を詠ったもの。
獲れたばかりの、瑞々しい笹の葉にくるまれた見事な鮎に、声を上げている様子が想像されます。(中略)

吉野の宮滝辺りで獲れる天然遡上の鮎は、
桜鮎という美しい名前で呼ばれ、味も姿も格別です。
河原で火を焚き、桜鮎を焼いて楽しんだ後、
残りを鮎雑炊にするという贅沢をしたことがあります。

〈生鮎に塩打ち振って焼く用意 右城暮石〉

家庭で鮎雑炊をするなら、大ぶりの鍋で雑炊を仕立て、
煮え立ったところへ焼いた鮎を一人当たり一尾入れ、蓋をして蒸らします。
化粧塩は適当に落としておきます。



この項目を執筆したのは、大石悦子さんだが、
どのページも鑑賞に留まらず、
食材をめぐる好エッセイとなっていて、実に楽しい。


それにしても、文中に引用されている
右城暮石の俳句はどうだろう。

読んで、そのまんまの意味である。

ほかにも、


ビードロに洗ひ鱸を並べけり(正岡子規)

浅漬がよけれさつまいもの茎も(茨木和生)


と、単刀直入、そのまんまという句が散見する。

子規の一句など、ガラスの皿に
鱸(すずき)の洗いを並べたというだけのことで、
英訳したら、詩ではなく、
ただの文章になってしまうだろう。

このあたりも、日本人だけに分かる
俳句の面白さというものだろうが、


白魚は仮名ちるごとく煮えにけり(阿波野青畝)

若狭には仏多くて蒸鰈(森澄雄)


などには、唸ってしまった。


詩人による句も収録されている。


人間にうわの空ありとろろ汁(清水哲男)

おでん煮ゆはてはんぺんは何処かな(辻征夫)


詩人の俳句は、どうしたことか
凡庸きわまりないものが多いが、
清水哲男さんはさすが、
辻征夫さんの一句もとぼけた風味が、
辻さんその人を前にしているような
気持ちにさせてくれる。
posted by 城戸朱理 at 11:42| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月03日

山崎方代のこと、その2〜湯川晃敏写真集『方代さん』(BeeBooks)

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山崎方代の短歌を何首か紹介しておこう。



間引きそこねてうまれ来しかば人も呼ぶ
死んでも生きても方代である


夕日の中をへんな男が歩いていった
俗名山崎方代である


貧乏な詩人が一人住みついて
酒をたしなみめしは食べない



こんな調子で、自己言及が
きわめて多いのが方代短歌の特徴なのだが、
それが、また短歌的だと言えるかも知れない。

また、方代さんの歌には、
貧乏暮らしをモティーフにしたものが少なくないが、
嘆きや湿っぽさとは無縁で、
笑いが響いてくるようなところがある。

次の一首などは、その好例だろう。



大きな波が寄せてくる
大きな笑いがこみあげてくる



朝から酒を飲み、鎌倉の山を歩いては山菜を摘み、
海岸を歩いては、海藻を拾う。
まるで、縄文人のような生活を送りながら、
歌を詠み続けた山崎方代の生前の姿を
まとめたのが、写真集『方代さん』。


これも、思わず笑いがこみあげてくるような本である。
posted by 城戸朱理 at 09:47| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする