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城戸朱理のブログ: 本

2011年03月01日

田村隆一のエッセイ、その3


『田村隆一全詩集』で書誌と年譜を担当した田野倉康一氏によると、田村さんのエッセイのうち、何冊か見つかりにくいものがあるそうだ。


それは、『あたかも風のごとく』(風濤社、1976)、『もっと詩的に生きてみないか』(PHP研究所、1981)、『ボトルの方へ』(河出書房、1982)、『土人の唄』(青土社、1986)あたりである。


こうした本は古書店でも雑本扱いで、古書値がつかないため、専門店化している神田や早稲田の古書店街では、逆に見つかりにくい。


もちろん、ネットで検索すれば、ほとんど見つかるが、こうした本は、ふらりと入った町の古本屋で見つけるのが楽しい。

急いで田村さんの全エッセイを揃える必要があるわけではないので、私などは、むしろ探すこと自体を楽しんでいるところがあるのだが、
仕事の資料として急ぎ必要な本は、ネットで注文するが、それ以外は、現物を手に取って、後書きや奥付を確認してから買うというのが、習い性になっているせいもあるのだろう。


実際、「日本の古本屋」や「スーパー源氏」のおかげで、ネットで本を探すのは極めて容易になった分、古本屋を回る意味も大きく変わったように思う。


今では、古本屋を回るのは、むしろ探していない本と出会うためで、そのついでに、まだ手元にない田村さんのエッセイを見つけることが出来たら、それはそれで嬉しいではないか。


田村隆一のエッセイ集は、初期のごく一部を除くと、古書値は500〜1000円ていどのものだから、文庫本を買うように気軽に求めることが出来るし、
内容的には、戦前から戦後に至る昭和という時代の雰囲気や香気が封じ込められていて、休日の午後に読み耽るのにふさわしい。


同じネタが多いのに、そのつど読ませるのは、やはり名人芸というところだろう。


そして、ときには、詩人、田村隆一の詩作の秘密を垣間見たりすることもできるのだから、なおさら面白いのだが。
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2011年02月27日

田村隆一のエッセイ、その2

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田村隆一の書誌を確認したとき、誰でもすぐに気づく特徴がある。

それは、『ぼくの〜』というタイトルの本が多いことだ。

具体的には、次のようになる。



『ぼくの遊覧船』(1975)
『ぼくの交響楽』(1976)
『ぼくの憂き世風呂』(1980)
『ぼくの東京遊覧』(1980)
『ぼくの中の都市』(1980)
『ぼくが愛した路地』(1985)
『ぼくのピクニック』(1988)
『ぼくの東京』(1989)
『ぼくの草競馬』(1990)
『ぼくの人生案内』(1998)



ちなみに『ぼくが愛した路地』だけは、「ぼくの〜」ではなく「ぼくが〜」だが、印象はさして違わないような気がする。


全40冊のエッセイのうち、10冊、4分の1が『ぼくの〜』という書名なわけだから、これはもう田村さんの専売特許と言っていい。


『ダンディズムについての個人的意見』というタイトルも、「ぼくの意見」という意味だろうから、この範疇で考えることができるだろう。


この「ぼくの〜」という形容は、垂直的な初期の詩群からイメージされる詩人像にはそぐわないが、
あくまでも個人的な意見であることを表明するとともに、軽妙さも感じさせ、後期田村隆一の詩作品のイメージには、極めて似つかわしいものだと思う。


ちなみに、田村さんがエッセイ集に初めて「ぼくの〜」というタイトルを採用した『ぼくの遊覧船』が刊行されたのが、1975年。

それ以前に刊行されている単行詩集は、『四千の日と夜』『言葉のない世界』『緑の思想』『新年の手紙』の4冊だけで、
エッセイ集に「ぼくの〜」というタイトルが現れるようになってから、ほとんど年次詩集のような多産な時代を田村さんは迎えることになる。


その意味では、「ぼくの〜」という言葉は、田村隆一の詩の本質的な変化に関わる問題であると言ってもいい。


そういえば、『ぼくの海日誌』というタイトルの詩集もあったっけ。


これも素晴らしい詩集である。
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2011年02月24日

田村隆一のエッセイ、その1

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田村隆一はアガサ・クリスティを始めとするミステリーの翻訳などを含めると、生涯に何と180冊もの本を刊行している。


田野倉康一による労作「田村隆一書誌」によると、そのうち、エッセイ集は、没後、刊行された『自伝から始まる八十章』を入れて、40冊になる。

これは対談集や聞き書きなども含めてだが、特徴は、いわゆる詩論や批評が見当たらないことだろう。


もちろん、詩に対する言及はいたるところにあるし、田村さんの最初の散文集であり、文庫化もされた『若い荒地』(1968)のように、貴重な時代の証言はあるのだが、真っ向から詩を論じたものがないのは、いかにも田村さんらしい気がする。



内容的には、早川書房のポケット・ミステリーを創刊した初代編集長で、クリスティーの翻訳者でもあるだけに、『田村隆一のミステリー料理事典』(1984)や『書斎の死体』(1978)、『殺人は面白い』(1991)といったミステリー関係、
あるいは酒仙として知られた詩人だけに、『ウィスキー讃歌』(1979)『ボトルの方へ』(1982)、『酒飲みのちょっと気になる話』(1983)といった酒関係のエッセイも多い。


そして、それ以外は、いわゆる身辺雑記のエッセイ集である。



それだけに、古本屋でも雑本扱いで、ごく初期のものを除くと古書値はつかないが、詩人、田村隆一の変遷や成熟を考えるうえで貴重な資料となるものがあるのも事実だろう。


装幀も洒脱な『詩人のノート』(1976)や『鳥と人間と植物たち』(1979)はとくに重要だと思う。

田村隆一の詩が好きな人は、ぜひ読んでみてもらいたい。



個人的には、『ダンディズムについての個人的意見』(1990)や「新潮45」に連載された晩年の日記、『退屈無想庵』(1993)と『すばらしい新世界』(1996)も好きな本だ。

ところが、どちらも新潮社が版元なのに、後者などは、古本屋でもめったに見かけない。(つづく)
posted by 城戸朱理 at 17:50| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月19日

装幀者から贈られた本

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佐賀県は唐津にお住まいの高橋昭八郎さんから、書籍小包が送られてきた。

開けてみると、ジョン・ソルト著『北園克衛の詩と詩学』(思潮社)ではないか。


注文しようと思っていた矢先のことだったので、驚いたが、なぜ、高橋さんがジョン・ソルトの本を送って下さったのか、不思議に思っていたら、高橋さんが装幀を担当されていたことが分かった。


その経緯をジョン・ソルトは「原著者による謝辞」において、次のように語っている。




「本書の英語版が制作されているとき、その英語版の表紙のデザインを
高橋昭八郎にお願いできないものかと編集者に依頼した。
私の意見では、高橋は北園と新国誠一以来の偉大な視覚詩人であり、
しかもVOUの同人であったからだ。
私の願いは拒絶されたが、ハーバード大学アジア・センターには専属のデザイナーがいて、
また、他の出版された本との一貫性を守りたいというのがその理由であったので、私も納得した。
だから、思潮社がーー高橋昭八郎の歴史的な重要性を理解してーー
彼を起用することに同意してくれたときは二重に嬉しかった。
高橋の創造性と美的感受性には脱帽だ」




ジョン・ソルトは北園克衛研究でハーバード大学より博士号を取得、1987年からエドウィン・O・ライシャワー日本研究所研究員をつとめているが、
前衛運動の研究者である彼に偉大な視覚詩人と呼ばれ、北園克衛、新国誠一と並び称されている高橋昭八郎の世界的な評価には、嬉しくなったことを告白しておこう。


書籍が刊行されたときには、装丁幀者は2冊を受け取るはずだが、高橋昭八郎さんは、そのうちの一冊を私に送って下さったのだろう。



かつて、吉岡実氏が『ウンガレッティ詩集』(筑摩書房)の装幀を担当されたとき、装幀者分の2冊から、私に一冊を贈って下さったことがあったが、吉岡さんは自著ではないからと言って、後ろの見返しにサインを入れてくれたことがあった。



高橋昭八郎さんは、献呈札に万年筆でサインをして下さっているが、私にとって、この本は高橋昭八郎さんのおかげで、より貴重なものになったのは間違いない。
posted by 城戸朱理 at 11:07| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月06日

出石尚三『スーツの百科事典』(万来舎)

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スーツをめぐる本邦初の百科事典。

版元からいただいた本だが、まず、その分厚さに圧倒された。


内容的には男性用スーツの変遷を、小説を始めとする資料を駆使して語る文化史から始まって、
歴史的なスーツ・ドレッサーとされる人々や着こなしのヒント集から、おしゃれな小話、

さらには、仕立職人用語辞典まで、およそスーツを巡って考えられるコンテンツのすべてを集成した本と言っていい。


スーツの文化史で最初に登場するのは、言うまでもなくジョージ・B・ブランメルである。

19世紀初頭に身だしなみがいいというだけの理由で、イギリス国王ジョージ四世に偏愛され、
ボウ(美装子)・ブランメルとも呼ばれた稀代のダンディ。


やはり、ダンディで知られたロマン主義の詩人、バイロン卿は、
「ナポレオンになるより、ブランメルになりたい」と語り、
バルザックはブランメルに取材して『風俗のパトロジー』を書いた。

ブランメルの功績は、それまでは装飾的だった貴族たちのスタイルを徹底的に簡素で洗練されたものに変えたことで、著者もそこに紳士服の近代化を見ている。


本書でも紹介されているブランメルの次の言葉は、彼の哲学をよく語るものだろう。



「街を歩く見知らぬ人が君を振り返って見たなら、君の着こなしは失敗である」



ただただ、洋服を美しく着ることだけに、生涯を賭けた男、ブランメル。

それは、なんと奇妙な人生であることか。


ともあれ、ブランメルを転回点に、紳士服は近代化し、19世紀なかばには、正装であるフロック・コートやイヴ二ング・コートではなく、ラウンジでくつろぐためのラウンジ・スーツが生まれ、これが今日のスーツの原型になった。



本書を手にしてもらえば分かるが、たぶん、たいていの人が、とくに意識することもなく身につけているスーツは、語り始めると、尽きせぬ背景と逸話があるものらしい。



私がいちばん興味を引かれたのは、著者の友人だという技術者の話だった。


彼は、「ごくまっとうな人物」だそうだが、ひとつだけ趣味があって、ミリタリーマニア、

つまり、軍服のコレクターなのだという。


その彼が出張で、紛争が多い某国を通過しようとしたとき、税関で止められ、下着まで脱がされる厳重な取り調べを受けることに。

理由は、服装にあった。

彼が着ていたのは、御自慢の古い米軍のカモフラージュ柄の野戦服だったのである。


笑うに笑えない話だが、もし彼がスーツを着ていれば、そんな災難にあわずに済んだのも事実だろう。


なるほど、人間は見かけではないが、いちいち、すべての人と話し込んで、その人間性を確認しているわけにはいかない。

戦場で迷彩服を着ていれば兵士と見なされるし、丸の内でスーツを着ていたら、会社員だと思われるのが普通である。


スーツが世界中の男性の標準的な衣服となったのは、言うまでもなく、今日の世界が欧米の覇権のもとにあるからだが、それだけに、服飾に関しても、ルールを知る必要があるということか。
posted by 城戸朱理 at 06:38| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月16日

『伊東静雄日記 詩へのかどで』(思潮社)

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伊東静雄(1906〜1953)の若き日の日記が公刊された。


これは著者、17歳から23歳、旧制佐賀高校2年から京都帝国大学を卒業、大阪府立住吉高校に勤務するまでの約5年半分で、大学ノート5冊に記されたものなのだという。


「日本浪漫派」や「四季」に拠って、昭和初期に鮮烈な叙情詩を残した詩人の若き日の日記が、没後半世紀以上を経て出てくるのだから、何が起こるか分からない。


実は、この日記、かつての恋人のことや女性関係が書かれているだけに、新妻に配慮して、結婚前に静雄が実弟に託したものなのだとか。


「詩へのかどで」というタイトルは、詩人自身によって、大学ノートの一冊目に記されたものなのだというから、伊東静雄自身が、
この青年期の記録を、詩に対して確信を深めていく過程として把握していたことが分かるが、ひとりの詩人が誕生するまでの精神の軌跡を描いて、興味が尽きない一冊である。


「図書新聞」に書評を寄稿したので、詳しくはそちらで。
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2010年06月10日

松浦弥太郎『日々の100』(青山出版社)

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最近、古本屋で「暮しの手帖」のバックナンバーを探す若者が増えているという。


最近、私も手に取る機会があったのだが、たしかに、これが面白い。


日本画家の瓜南直子さんが、昔の「暮しの手帖」をたくさん持っていたはずだから、今度、見せてもらおうと思ったが、バックナンバーばかりではなく、
新しい号も定期購読しようかと考えているときに出会ったのが、「暮しの手帖」編集長の松浦弥太郎さんの本だった。



これは、ハンカチや靴から始まって、文房具や本に至るまで、暮らしを彩る物をめぐる随筆集なのだが、物の写真と随筆という組み合わせは、
よく女性誌の連載をまとめた本で目にするものの、この本は、たんなる物の紹介では終わらず、むしろ、随筆のほうに主眼があるのがさすがだと思った。


著書は、高校を中退して、宅急便配送所の深夜労働で貯金をし、18歳で渡米、アメリカの書店文化に魅了され、中目黒と青山に古書店カウブックスをオープン、
古書店主のかたわらで執筆・編集活動を続け、2006年から「暮しの手帖」の編集長という、いささか変わった経歴の持ち主。


選ばれている100の品々は、いずれも著者の経験に裏打ちされたもので、そのあたりは、たしかに「暮しの手帖」的である。


しかし、私にとって楽しかったのは、やはり、本についての随筆だった。


著者が17歳のときから読み続け、いまだに肌身離さず(!)置いているというジャック・ケルアック『路上』とヘンリー・ミラー『北回帰線』。

谷川俊太郎と和田誠の共著で、まだ若かりしふたりがなけなしの資金を投じ、私家版で500部だけ刊行したという『しりとり』。


あるいは、『高村光太郎詩集』。

その一節を引用してみよう。




 『高村光太郎詩集』は、まさに暗闇の中にいた僕を
引っぱり上げてくれた存在だ。
幼い頃からつねに想い続けていた、本当のことは何か。
その問いにはじめて答えてくれた一冊だった。
 「最低で最高の道」という詩がある。
僕はこの詩に出合ったからこそ、こうして今を生きている。
命の恩人とさえ思っている。
 『高村光太郎詩集』とは十二歳の時に出合った。




なんと素晴らしい本との出会いだろうか。

この一節を読んで、私も久しぶりに『高村光太郎詩集』を開いた。
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2010年06月03日

「暮らしの手帖」300号記念特別号(2002年12月)

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鎌倉宮に近いカフェに入ったら、
珍しくも「暮らしの手帖」が並んでいた。

そのとき、手に取ったのが、写真の特別号。


まず圧倒されたのは、再録されたエッセイの執筆陣だった。

佐藤春夫、志賀直哉、柳宗悦、
井伏鱒二、吉川英治、草野心平、
坂口安吾、壇一雄といった顔ぶれに、
川端康成、堀口大學、大佛次郎、高見順と鎌倉文士の先達も並ぶ。

まさに、錚々たる顔ぶれと言うしかない。


たとえば、安吾のエッセイ「わが工夫せるオジヤ」は、
新聞小説を書き上げた解放感から、飲みすぎて、
吐血までした安吾が、もっぱらオジヤを
食べるようになったという話なのだが、
多量のアルコールを摂取した結果、
「人間に幾つもあるわけではない
胃を酷使したことになったのである」といった調子で、
今日の小説家には、とても書けないような、
ユーモアと緩やかさに吹き出してしまった。


ほかの記事も、生活という側面からの
昭和という時代の貴重な証言になっており、
これは、ぜひ手元に置きたい一冊と思って、
北鎌倉は侘助の常連で
「暮らしの手帖」編集部の矢野太章(たかふみ)氏に
ツイッターで問い合わせたところ、
さっそく、侘助に持ってきてくれた。

矢野くん、ありがとう。


それ以来、食卓の傍らに置いて、
機会があるたびに開いているのだが、これが本当に愉しい。

それは、昭和という時代への
ノスタルジーのせいもあるのだろう。

しかし、それだけではない。

日本人が失ったものは何なのか、見えてくるところがあって、
考えさせられたりもする。

そのあたりが貴重だと思う。
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2010年04月10日

童心に帰る本

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先日、大船の古本屋で面白いものを見つけた。

H.G.ウェルズ『透明人間』(創元社)である。


収録されているのは、「タイムマシン」「透明人間」「モロー博士の島」の3篇で、ウェルズの代表作が並んでいる。


刊行は1956年。

「世界大ロマン全集」の一巻で、この全集、ラインナップが面白い。


アレクサンドル・デュマやH.R.ハガード、コナン・ドイルやモーリス・ルブランに、『西遊記』や『金瓶梅』、はてまたシェンキーヴィッチの『クオヴァディス』やアンドレ・ジッド『田園交響楽』などが同居しており、百花繚乱。


今日ならば、古典文学、幻想小説、SF、ミステリーとジャンル分けされてしまうだろうが、とにかく、読んで面白いものなら、何でも入れてしまえといった破天荒さがある。


まだ、テレビもない時代だけに、読書にも娯楽性が求められた、そんな時代相が見えてくるようではないか。


昔、同じシリーズのブラム・ストーカー『魔人ドラキュラ』を荻窪の岩森書店の店頭ワゴンで見つけ、400円で、求めたことがあるのだが、『透明人間』も同じく400円だった。



ドラキュラも透明人間も、子供向けの版で読んだり、映画で見たりして、知っているような気分になっているが、 意外と原作は読んでいないものだから、こうした本を読みふけるのは、童心に帰るようなところがあって、実に愉しい。


『魔人ドラキュラ』のほうは、平井呈一訳で、本邦初訳であるため、今では、3〜4千円の古書値がつく。



今回は、ほかに「ヴェルヌ全集」(綜合社)の『二年間のバカンス』(1967)と『気球に乗って五週間』(1968)も発見。

前者は、800円。言うまでもなく『十五少年漂流記』という邦題で親しまれている物語だが、ジュール・ヴェルヌの評価を決定した後者は、今は邦訳が手に入らないのではないだろうか。

これには千円の古書値がついていたが、さすがにプロは、そのあたりの事情まで踏まえて、値付けをするらしい。
posted by 城戸朱理 at 11:21| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月09日

ブックオフの活用法



私は吉田健一のエッセイが好きなので、古本屋で彼の著作を見つけたときは、求めるようにしているが、別に集めているわけではないので、吉田健一の少なからぬ著作が揃う日はないだろう。


そういえば、荻窪の岩森書店で、吉田健一の著作初版一括という揃いを見たことがある。


10年以上前の話だが、一冊一冊は、さして古書値を呼ぶものではないのに、揃いとなると話は別で、25万円くらいだったろうか。

とにかく、すぐに手が出るような値段ではなかった。


おそらくは、吉田健一と同時代を生きた読者が、刊行のたびに求めたものなのだろうが、たしかに、同時代の作家ならば、その全著作を揃えるのは、不可能ではない。

同世代の作家だと、第一作から著作を送ってくれている人もいるので、自然と全著作が揃うことになる。

私にとっては、藤沢周、堀江敏幸両氏が、そうした作家に当たるが、ブックオフを回っているうちに、あることに気づいた。


御存知のように、ブックオフでは、本の内容や稀少性とは関係なしに、定価と新しさによって値付けがされているが、
一定期間、売れないままだと売値が次第に下がっていき、最後は、105円になる。


最近では、小説は文庫化されたとたんに、単行本には古書値がつかなくなるので、ブックオフを覗くと小説は意外と充実しているし、しかも安い。


もし、同時代の作家でこれと思う人がいたら、もちろん、新刊本で買うべきだが、過去の著作に関しては、ブックオフを利用するのもいいだろう。

もし、ある作家の著作が初版揃いで一括となったら、今度は逆に古書値を呼ぶかも知れないし、本棚に並んだ様子は、気持ちがいいに違いない。

問題は、誰の著作を集めるかだが、それは人それぞれ、私もひそかに買い集めている作家がいる。
posted by 城戸朱理 at 13:24| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月01日

新書の楽しみ方



鎌倉駅前の東急ストアでは、ときどき古本市をやっている。

市といっても一店舗だけの出店だから、正確には出張古本屋というところだが、昨日も古本市に遭遇し、状態のいい寺山修司『幻想図書館』(PHP)初版や海野弘『酒場の文化史』(サントリー博物館文庫)など4冊を購入した。

面白いのは、最近、古本を見ていると、以前なら買わなかった新書を比較的、よく求めるようになったことで、昨日も樽見博『三度のメシより古本!』(平凡社新書)を求めたのだが、ブックオフを覗くときも、最近は、新書の棚を、よく見るようになった。


古書店主にして直木賞作家の出久根達郎氏は、
古本屋では、新書を扱わないと書いていたが、
その理由は、時代に即した入門書的な内容のものが多いからだとか。



たしかに、うなずける話である。

しかもゼロ年代になってからは、新書の性格じたいがさらに変化したのではないだろうか。


各社が新書市場に参入、新書からベストセラーが何冊も生まれたが、その一方で過剰なまでの点数の新刊が刊行されるようになった。

書店の棚にはスペース的に限界があるから、刊行の翌年に、まだ棚に並んでいるものは、よほど話題になったものばかり。

内容もまるで雑誌の特集のように気楽なものが増え、もはや飽和状態と言ってもいい。


これでは、新書に古書値がつかないのも当たり前だが、少なくとも、90年代までは、岩波や中公の新書は、10年ていどの寿命を持っていたことを思うと、隔世の感がある。


刊行点数が増えただけに、出たことを気づかない新書も増え、すぐに絶版になってしまうので、面白いものがあっても、行き当たらないことも少なくない。

実際、かつての講談社現代新書など、そのまま講談社学術文庫に入ってもおかなしくないほど、充実したものもあっただけに、最近は、そうしたものを探すようになった。

もちろん、新書だから、どれも安い。


けれども、なかには面白いテーマや高度な内容のものもあったりして、読みふけることがある。
posted by 城戸朱理 at 12:52| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月22日

2日間の古本屋巡り



『世界-海』に続いて『幻の母』の入稿原稿を
思潮社に送りだしてから、大船に出かけて覗いたのが、昨年、秋にオープンしたブックオフだった。



ここは、リサイクルのブランド品や古着なども扱う大型店舗。

しかし、私のお目当ては、あくまでも本だけである。


結局、文庫3冊、新書5冊、単行本3冊の計11冊を購入。

しめて、3715円だったが、面白いのは、池田憲章・高橋信之編著『ウルトラマン対仮面ライダー』(文藝春秋)、850円。

そして、私にとっての掘り出し物は、眞淳平『海はゴミ箱じゃない!』(岩波ジュニア新書)、105円だった。


別に珍しい本ではない。

けれども、私が構想している詩的テクスト『漂流物』の資料になるかも知れない。

ふだん、書店で岩波ジュニア新書の棚は見ないから、知らなかったわけだが、古本屋を回るのは、こういう本と出会うためだと言ってもいい。

探している本を見つけるのなら、ネットで十分だが、古本屋を歩くのは、むしろ、探していない本と出会うためなのである。




翌日は、詩論集『都市の文書』入稿作業のため、倉庫に収納してある本の山のなかから、執筆誌を探し出すのにひと苦労したが、午後には気分転換に、藤沢方面の古本屋を覗くことにした。


藤沢駅行きのバスに乗り、まず手広のブックオフへ。

ここもリサイクルの家電や楽器、古着などまで扱う大型店舗だが、オーディオと楽器をチェック。
ラックスマンの真空管アンプやマランツのプリメインアンプなど、なかなか気になるものがあったりする。

しかし、買うのは、やはり本だけである。


結局、文庫3冊、新書2冊、単行本4冊の計9冊を2880円で購入。


ケッサクなのは柳田理科雄著の『ゴジラvs柳田理科雄』(メディアファクトリー)、650円。

やったと思ったのが、『月のUFOとファティマ第3の秘密』(トクマブックス)、105円。

著者は、「空間物理研究家」を名乗るコンノケンイチ。

いわゆる、UFOネタのトンデモ本だが、シュレディンガーの量子力学やハイゼルベルクの不確定性原理まで持ち出して、UFOを熱く語るあたりは、本当に面白い。


最近は、トンデモ本の刊行が減少し、古書にも値がつくようになったが、やはり、こういう本は百円くらいで買いたいものである。

嬉しかったのは、初沢克利写真集『パリ』(集英社)。

これは、70年代から現在までのパリの日常の風景を1000点を超える写真で伝えるもので、700ページを超える大冊。

定価は4000円だが、450円で買えた。



ブックオフのあとは古本小屋を覗き、さらに藤沢駅まで歩いて、古本屋を回ったのだが、ずしりと重い荷物も、本だと思うと、気にならないのが、我ながらおかしい。


藤沢には、ブックオフのような新古本屋ではなく、昔ながらの古本屋も10軒ほどあって、なかなか充実しているが、こちらは、また機会を改めて語ることにしよう。
posted by 城戸朱理 at 10:43| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月09日

思潮社のホームページ

かねてから準備中だった
思潮社のホームページが、ついに開設された。

アドレスは以下の通り。


http://www.shichosha.co.jp/


トップページの「詩の本の思潮社」という書は、
西脇順三郎によるもので、
この額は、今でも思潮社編集部にかけられている。

HPで在庫の確認や注文も出来るので、
便利になるのではないだろうか。
posted by 城戸朱理 at 12:00| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月25日

南陀楼綾繁『一箱古本市の歩き方』(光文社新書)

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著者の南陀楼綾繁(なんだろう・あやしげ)氏は、本好きのライターであると同時に、「一箱古本市」の発案者でもある。


一箱古本市とは、店舗の店頭を借りて、ひとりが一箱分の古本を販売するという、誰でも参加できるイベント。


旧来の古書市がプロによるものだったのに対して、本好きならば、素人でも参加できるというのがポイントだろう。


この一箱古本市、2005年に「谷根千」と呼ばれる東京の谷中・根津・千駄木エリアで「不忍ブックストリートの一箱古本市」が南陀楼綾繁氏とその友人たちによって開催されて以来、全国的な広がりを見せているらしい。


一箱古本市の楽しさは、プロもアマチュアも入り乱れて、わずか、一箱のなかに古本によって、各自の個性を発揮するところで、
70〜80年代のロック本ばかりを集めては、一箱古本市に出店している知り合いがいるが、ひと箱のなかに、出店者のミクロコスモスが展開されているところが、本業の古本屋さんとは違う面白さだと言えるだろう。



詳しくは、本書を読んでいただきたいが、本文中でも紹介されている早稲田・目白・雑司ヶ谷の本に関わる本好きのグループ、「わめぞ」や、
荻窪・西荻窪・吉祥寺の古書店と本好きのイベント集団、「おに吉」など、電子書籍だ出版不況だと、何かと騒がしい業界とは無縁に、本当の本好きによるムーヴメントが起こりつつあるのは、何よりも愉しいし、心強いことだと思う。


ここには、電子書籍では起こりえない、書物ならではの楽しみと、本を仲介にした人間の交流の様子が語られており、書物をめぐる関係性のひとつの可能性が示されている。
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2010年01月13日

紙の本がなくなるとき、その5



音楽をダウンロードして買う場合、パソコンや端末があれば、楽曲のデジタル・データだけを購入することになるわけで、
そこには、ヴァイナルと呼ばれるアナログ・レコードやCDのように物のとしての形は存在しない。

今、あえてCDを買うのは、特定のミュージシャンが好きで、ジャケットまでを含めた形ある物としてCDを自分が所有したいと思っている人に限られることになってしまったのかも知れない。


電子書籍の発達も同じ道をたどることになるのだろうが、主流は、形あるメディアではなく、
キンドルのように、ネット上の電子書籍書店から、端末にダウンロードする形になるのは間違いない。


音楽と同じように、テキストのデータだけを購入することになるわけで、そこには、紙の本のような物質性は存在しないことになる。


これは、ある意味ではすがすがしい。


古典作品は手元に置かなくても、いつでも購入して確認できるわけだし、書斎のスペースもかなり節約できるのは間違いない。

端末さえあれば、本もCDも手元に置く必要がない生活、なるほど、それは20世紀のSFが夢見た世界が、現実になったようなもののようにさえ思われる。


大手ネット書店、アマゾンが電子書籍リーダーのキンドルを発売したことへの危機感から、日本の出版社も、ついに電子書籍化に向けて本格的に動き始めた。

講談社、小学館、新潮社など、大手21社が「日本電子書籍出版社協会」(仮)を設立、電子書籍に本格的に向かうことになったらしい。

日本の出版社は一説に2千を超えると言われているが、実際に活動しているのは千ていど、
デスクとパソコンに電話さえあれば、ひとりでも始められるのが、出版社である。


しかし、実際は大手20社ほどで、コミックをのぞけば、売上の9割を占めている。

その大手21社が協定を結んで、電子書籍を手がけようというのだから、おそらく、10年以内に紙の本と電子書籍の売上は逆転することだろう。


出版も今やコンテンツ産業にシフトしようとしているわけだが、このことがもたらす結果は、想像する必要もないほど単純なものになるに違いない。(つづく)
posted by 城戸朱理 at 12:24| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月12日

紙の本がなくなるとき、その4



ブルーレイ、DVD、VHS、そしてフィルム。
映像メディアの耐用年数は、意外なことに生まれが古いものほど長い。

フィルムは約100年、VHSが30〜40年、そして、DVD、ブルーレイが20〜30年。


そして、文字を記録するとしたら、和紙に墨で書かれたものは、1000年を超える耐久性を持っているが、ふつうの紙の本でも数百年は残り続ける。

電子書籍と紙の本の関係も映像メディアと同じようなものになるのかも知れない。


電子書籍が次第に一般化すれば、紙の本は特殊なものになっていくわけで、ある種の贅沢品となる可能性もある。

また、紙の本のほうが耐用年数が長いものになるとしたら、電子書籍の刊行と同時に限定版として、紙の本が刊行されるというようなケースもありうるかも知れない。


前回、語ったように電子書籍は、ハードも含めて耐用年数が紙の本より短いため、もし、保存しようとしたら定期的にコピーを取るしかない。
その意味では、紙の本よりもメディアじたいが自然に淘汰される要素を持っているわけで、残るものだけが残るということになるのだろう。


一方、紙の本は次第に減ってはいくのだろうが、こちらも完全になくなることはないような気がする。


詩歌を始めとする文学や美術書など、特別なジャンルのみかも知れないが、紙の本は残っていくのではないだろうか。

紙の質感と、それをめくるという身体性を好む人は、いまだに少なくないし、そもそも、本という形態じたいを愛するビブリオフィルも存在する。

しかし、そうした嗜好や趣味的な理由をいっさい考慮しなくても、保存という点で、人類はいまだに紙以上のものを発明していないのだから。


ネットの発達と普及はコミュニケーションの可能性を飛躍的に拡大したが、それだけに、実際に会うということの重みが増したように、電子書籍の普及は、紙の本のリアリティを改めて確認させることになるかも知れない。


詩に関していうならば、全詩集的な本は、研究や批評のためには電子書籍が便利だとは思うが、一冊、一冊の詩集は、やはり紙の本で読みたいと思う。

それは個人的な嗜好というよりは、詩というものが、音楽と同じように時間芸術であって、その時間の持続を、ページをめくるという身体性を通して、改めて確認させてくれるからにほかならない。
posted by 城戸朱理 at 09:53| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月11日

紙の本がなくなるとき、その3



趨勢として、紙の本から電子書籍への移行は必然であり、こうした変化は、つねに不可逆的なものにも思われる。


たとえば、音楽に関しても、この20年ほどで、レコードからCDへ、さらにはiPodの普及を背景とするダウンロードへという変化があったわけだし、今やネットからのダウンロードとCDの売上は逆転している。

しかし、音楽に関しては、人間の可聴音域以外の低音域と高音域をカットしたデジタル録音よりも、可聴音域以外も記録されたアナログのレコードのほうが音がいいのも事実で、
すでにCDの時代であった90年代初頭に、アナログ・レコードを利用してハウスという新しい音楽が生まれたりもしたし、いまだにCDとともにアナログ盤をリリースするアーティストも存在する。

つまり、一部の好事家にとっては、いまだにアナログ・レコードは生き続けているわけである。


あるいは、紙の本がたどるのも、同じような道なのかも知れない。


これは、ふだん私たちがあまり意識しないことだが、DVDやCD・Rといったメディアの耐用年数は20年ほどで、紙の本よりはるかに短い。


ただし、紙の本も戦後1945年から80年代初頭にかけて出版されたものは、本文紙が酸性紙で、

漂白のために使われた薬剤が、空気中の水分と反応して劣化していくため、保存する場所によっては数十年でぼろぼろになってしまう。

古書店主にして直木賞作家の出久根達郎氏は、古本の買い取りに行ったとき、物置に置かれていた本を持ち上げようとしたとたん、

下の何冊かが、埃になって飛び散ったことをエッセイで書いていたが、それが酸性紙の本がたどる運命ということになる。


電子書籍も同じように、数十年で読み取ることができなくなるのだろうし、それはそれで、すがすがしいような気がしないでもない。(つづく)
posted by 城戸朱理 at 10:45| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月10日

紙の本がなくなるとき、その2



雑誌の休刊・廃刊が相次ぎ、出版不況が深刻さを増している。

昨年の出版市場の売上は2兆円を切り、1989年の水準まで落ち込んだ。

出版業界のピークは1996年だが、それ以降、ひたすら売上が落ち込み続けてきたことになる。


だが、バブル期の89年と同じ水準ならば、騒ぐ必要もないはずだし、それ以降の売上増もマンガとゲーム攻略本の売上によるものだったことを思えば、本質的な問題は、版元と流通にあるのも間違いない。


日本の書籍刊行点数は、年間6万冊を超えている。
1日に200点もの新刊が刊行されているわけで、これは出版社が、売上減を刊行点数を増やすことで補おうとした結果、業界が陥ったハイパー・インフレーションにほかならない。

しかも、ごくひと握りの意識が高い書店を除くと、ほとんどの書店は取次からの配本を機械的に店頭に並べているだけだから、日本中の書店が画一化し、売れ線の本ばかりが並ぶようになってしまった。


いわば、良書もユニークな出版物も、すべて本の洪水に飲みこまれてしまう状況になってしまったわけである。


そうしたなかでの、ベストセラーというと、ビジネス本やノウハウ本がほとんどなので、読者は、それが電子書籍であろうが、紙の本であろうが、気にすることはないだろう。

実際、新聞はいっさい取らず、ニュースはすべてネットで確認しているという勝間和代の著作が、紙の本である必要はない。

こう考えると、いわゆる売れ線の本から、まず電子書籍化が進んでいくのではないだろうか。(つづく)
posted by 城戸朱理 at 11:32| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月09日

紙の本がなくなるとき、その1



アメリカでは昨年、電子書籍リーダーが600万台売れ、クリスマス商戦では、電子書籍の売上が紙の本を上回ったという。

日本でも昨年末に刊行された、前田塁『紙の本が亡びるとき?』(青土社)が話題を読んだが、今や、電子書籍は紙の本の質感まで再現するようになっており、そこにないのは紙の質感だけと言ってもいい。


はたして、紙の本はなくなるのか?

実は、このことは昨年、12月に松浦寿輝さんとも話し合った。
結論からいえば、紙の本は、次第になくなっていくのではないかと、私は思っている。(つづく)
posted by 城戸朱理 at 12:13| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月15日

鎌倉のお土産に著者サイン入り『オンエア』を

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鎌倉に暮らす文学者はいまだに少なくないが、散歩中の井上ひさしさんを見かけたり、飲み屋で養老孟司先生とばったり出会うことはあっても、鎌倉の書店で、鎌倉在住の著者のサイン本が置いてあることはめったにない。


不思議といえば不思議だが、最近では、藤沢周『キルリアン』(新潮社)のサイン本が若宮大路の島森書店にあったし、
今ならば、鎌倉のどの書店にも、柳美里『オンエア』(講談社)のサイン本がある。


上巻は「今から今へ」、下巻は「私は今 遠くへ行く」と識語も違うし、黒の見返しに、上巻は金のマーカーで、下巻は銀のマーカーで、識語と署名が書かれている。


これは秘密だが(?)、すでに3刷りまで増刷されているのに、丹念に探すと、まだ初版が見つかったりすることも。


写真は、鎌倉駅西口のたらば書房で、先日、求めたものだが、これも初版だった。



鎌倉散策のお土産は豊島屋の鳩サブレーとは限らない。

鳩サブレーと井上蒲鉾の梅花はんぺんと著者サイン入りの『オンエア』がお勧めだ。
posted by 城戸朱理 at 09:30| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする