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城戸朱理のブログ: 本

2009年10月21日

柳美里『オンエア』上・下(講談社)

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柳美里の新作『オンエア』が、いよいよ刊行された。

帯に躍る〈山本モナ絶賛!〉とか、〈「本格「女子アナ」小説〉といったコピーにまず度肝を抜かれたが、
読み始めると、いきなり、3人の女子アナの濃密なセックスの描写から物語が始まる。

これは・・・テレビドラマになりそうな小説である。


まだ上巻の途中なので、詳しくは読み終えてからアップするが、登場人物の誰も幸せにならなさそうな予感が。


とにかく読み始めると、先が気になって仕方がない。

ということは、極上のミステリーのような面白さもあるということなわけだが、柳美里の作品となると、それだけで終わるはずがない。


すぐに書店に走ろう。
posted by 城戸朱理 at 12:06| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月20日

高橋順子『緑の石と猫』(文藝春秋)

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高橋順子さんのファンタジー10篇を収録するのが、本書。


詩人とファンタジーといえば、
エドガー・アラン・ポー以来、縁が深いし、
高橋順子さんのゆるやかなファンタジーの世界は、
心身ともに疲れた人に、慰めの鐘のように
響いてくることだろう。


さらに、表紙の装画は、このブログでもおなじみの
日本画家、瓜南直子(かなん・なおこ)氏によるもの。


私も昨年、瓜南さんに注文して描いてもらった画を
居間に飾っているが、
その世界は、神話的で、
柔らかな静謐さが、
あたりを満たしていくかのようでもある。

しかも、その静謐さは、不思議な充足感とともにある。

まるで、その静けさのなかに
生命そのものが胚胎されているかのように。


この装画は高橋順子さんの指名で描いたものだというが、
やはり、瓜南さんならではの魅力的な世界が、
高橋順子さんのファンタジーと響き合って、
美しいたたずまいの本になっていると思う。
posted by 城戸朱理 at 14:36| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月05日

藤沢周『キルリアン』(新潮社)

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「風のなかの蝶の重力、かと思っていた」。


開巻の一行目からして、いきなり、特異にして独自の世界が開示される。


この小説を書き上げて、まだ「新潮」誌に掲載される前のこと、藤沢さんは、執筆に集中し、
誰とも口をきかない時間を過ごしていたたものだから、リハビリのように鎌倉を飲み歩いていたのだが、そのときのことである。


ふつう、新作を脱稿したあとは、そのあらすじを話してくれるのだが、


「ストーリーがないんだ」と藤沢さん。


どういうことかと思ったが、たしかに、この小説には「物語」が、まったくない。


作者と同年齢、知命を迎えた作家が、鎌倉の寺や飲み屋を行き来し、その内心を独白していくといった内容である。


では、物語なしに、200枚もの小説を成立させているものは何なのか?


それこそが、この小説の主題にほかならないのだが、それをここで語るような無粋な真似は避けよう。


ただ、酔いを深めていった藤沢さんが、「もう、読者も編集者もどうでもいい」と晴れやかな顔で語ったのが、忘れられない。


もちろん、それは、読者がいらないとか、編集者が必要ないという意味ではない。

その言葉は、読者や編集者に期待されるものを書くのではなく、内発的な欲求だけに従って、
自分の書きたいものを書き上げた自負を言うものであり、そのとき、私は、長年の親友を本当に羨ましく思ったのだった。


『キルリアン』、そこに描かれているのは、生の明滅にほかならない。
posted by 城戸朱理 at 10:49| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月01日

蒲原有明『夢は呼び交わす』(岩波文庫)

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岩波文庫の復刊が、最近、面白い。


田山花袋『温泉めぐり』の復刊も意外だったが、
蒲原有明『夢は呼び交わす』の復刊には、さらに驚いた。


花袋も有明も、すでに文学史上の人物だが、
花袋はテーマが温泉だけに、まだ分かる。

しかし、有明のほうは自伝的短篇小説集。

象徴詩の大成者と目されながらも、
つづく口語自由詩の隆盛のなかで、
むしろ批判の対象となり、
忘れ去られた詩人の
自伝的小説を読みたいと思う人が、
今、どれだけいるだろうか?


そして、たしかに有明の小説には、
自分が置かれた立場の
苦さのようなものが、立ちこめているように思う。


私には、たいへん興味深い復刊だったが、
やはり、意外な感は否めない。
posted by 城戸朱理 at 09:09| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月16日

柳美里さんからもらった本

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ランニングから帰ってきた彼女が、
「これ、柳さんが城戸さんにって、
買ってくれたんだよ」と言って、
文庫本を差し出した。

何かと思ったら、細木数子先生の
六星占術による『木星人の運命』ではないか!


知らなかったが、私は、
六星占術だと「木星人」になるらしい。



なんでも、柳さんや千恵子コーチと、
細木数子先生の本を見て盛り上がり、
柳さんが買ってくれたのだとか。

しかも、3人とも水星人なのだというから面白い。



木星人は、大器晩成型で、控えめでもの静か、
つきあい下手、恋愛下手・・・。


「骨董品は木星人に幸運をもたらす」という記述があって、
柳さんに受けていたそうだが、
骨董はかなり所持しているものの、
幸運とは無縁なのは何でだろう?



当たっているところもあれば、
外れているところもあるような気もするが、
大器晩成型ということは、
要するに、これからだということか。



六星占術では、運命星のほかに、
干支によって、陽(+)と陰(−)に別れるが、
私は木星人(−)になるらしい。


木星人(−)の有名人は、アントニオ猪木(やった!)、
矢沢永吉(やった!)、
宮崎駿、福山雅治に織田裕二、
女性だと、天海祐希、宇多田ヒカルにしょこたんこと中川翔子などなど。


結構、嬉しいが、来年から大殺界に入るというのだから、
喜んではいられない。



日本人の占い好きは有名だが、
私も占いは嫌いではない。

若いころは、占星術に凝ったこともあり、
ホロスコープも書ける。

占星術だと、私は双子座で、
詩人だと、ダンテやホイットマン、
W.B.イエイツ、アレン・ギンズバーグと同じ。

日本だと、稲川方人、ねじめ正一氏らが双子座である。


ところが、双子座の12年に一度という幸運期の年、
私は離婚はするは、PTSDで苦しんだあげくに、
吐血して生死の境をさまようはと
生き地獄のような日々を送り、
幸運期でさえ、こうなのだから、
自分は幸運とか順境とは縁がないのだと悟って以来、
占いという占いは、目にしないようになった。


久しぶりに見たら、来年から大殺界とは、
やはり、よほど運がないのだろう。


ただし、もう騒ぐ気もない。

良寛が語ったような、災難に遭うときは、
災難に遭うのが災難を避けるコツというものである。



すると、彼女が、


「柳さんは来年、大殺界を抜けるんだけど、
千恵子コーチと私は大殺界だし、
珍念さんも中殺界だから、
3人でザ・サッカイズを結成することにしたんだよ。

城戸さんもザ・サッカイズに入る?」
・・・


なんなんだ、ザ・サッカイズって?

ただし、マイナスの運気のときに、
マイナスなことをすると、
マイナス×マイナスでプラスに転じると
細木数子先生も言っているので、
意外と名案なのかも知れないが・・・
posted by 城戸朱理 at 06:45| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月14日

ノンフィクション誌「g2」(講談社)創刊!

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小説が、現実よりもリアルな虚構(フィクション)を描き、
逆に現実を照らし出すものであるのに対して、
ノンフィクションとは、
あくまでも現実と向かい合うことで、
現実そのものを解析しようとするものであるわけだが、
現実とは決して単純なものではないし、
誰にとっても等しく、その姿を見せるものでもない。


立場や視点が違うと、ある出来事は、
まるで違うものに見えることも珍しくないわけで、
その意味では、私たちが漠然と現実だと思っていることは、
それぞれの視座からの、
およそフィクショナルなものであると言ってもいい。


だからこそ、現実のリアリティを追求するメディアとして、
ノンフィクションがあるわけだし、
現在のように社会が混迷を極める過渡期には、
その役割は、さらに重要なものになっている。


ところが、出版不況のあおりを受けて、
ノンフィクションを掲載する総合誌・オピニオン誌は、
「正論」「諸君!」と休刊が相次いでいる。


むしろ、今こそ、ノンフィクションというジャンルが、
注目され、読まれるべきだと思っていただけに、
こうした状況を残念に思っていたら、
「月刊現代」の後継メディアとして、
総合誌以上にノンフィクションに
特化した「g2」が創刊された。


この一冊、下手な単行本より、読み応えがある。

ぜひ一読をお勧めしたい。
posted by 城戸朱理 at 10:17| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月02日

「おに吉」と荻窪の古本屋

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この10年、ブックオフ的な「新古本屋」は増えたものの、旧来の古本屋さんは、全国的に減少傾向にある。


そうしたなかで、神田とともに、特徴ある古本屋が増加しているエリアとして注目されているのが、西荻窪だ。


ちなみに地元の人は「にしおぎくぼ」ではなく「にしおぎ」と呼ぶ。


そこで、古本エッセイで名高い岡崎武志氏を編集長に西荻窪を中心とするミニコミ誌「おに吉 古本案内」が刊行され、
イベントも催されているのは、ネットで知ってはいたが、今回は荻窪のささま書店で念願の「おに吉」をもらうことが出来た。


「荻窪」の「お」、「西荻窪」の「に」、それに「吉祥寺」の「吉」を取って「おに吉」。


このミニコミ誌、古本屋の地図ももちろん載っているが、エッセイ、マンガと盛り沢山の内容で、
とりわけ表紙裏の「おに吉」のテーマ曲(?)、「ほんの屋根 本屋の屋根」には爆笑してしまった。


作詞・作曲は加藤千晶さん。

歌詞は次のようなものである。




「黄ばんだ頁にぽつぽつ虫喰い穴♪
星降る ほんの屋根 いっぱい ほしい
古本の屋根♪
星降る 本屋の屋根 古本屋の屋根♪」



本好きの家族に本好きなし。

家族は呆れるか、嫌がりそうな歌だが、本好きならば、喜ばずにはいられない歌だろう(?)


いずれは「おに吉」を片手に、西荻窪と吉祥寺の古本屋も回ってみたいが、今回は荻窪だけを回ってみた。


いすれも荻窪で暮らしているときは、週に何度も覗いていたお店だが、
私が荻窪を離れてから、もう10年以上になるだけに、かなりの変化も見られる。


線路添いの竹陽書房は、西荻窪から移転してきた店だが、「おに吉」に「探し出すよろこびがあります」と広告を出しているだけに、狭い店には、昔よりも本があふれかえっている。


しかも、あえて分類・整理していないのか、かなり雑多な印象で、たしかに探さないと、何があるかさえ分からない。

これも戦略だろうか?


竹中書店は「明治37年創業、現在三代目」。

ここは昔となにひとつ変わらず、黒っぽい良書が、きちんと整理されて並んでいる。


駅前の岩森書店は、私には、いちばんなじみ深い。

荻窪に住んでいたころは、不用になった本は年に2、3回は、岩森書店に来てもらって処分していたし、ここで求めた本も多い。

久しぶりに覗いたが、さすがの品揃えである。



いちばん変化したのは、ささま書店。

「広くて楽しい古本屋」がキャッチフレーズだが、昔は、在庫は多いものの、アダルトやアイドル写真集なども並ぶ雑多な古本屋だった。

ところが、今や、アダルト・アイドル本はなくなって、分類・整理も行き届いている。

しかも、思いがけない本があれこれ見つかるし、詩集が充実しているのも嬉しい。


結局、今回はささま書店で3冊を購入した。


笠井叡『神々の黄昏』(現代思潮社、1979年・初版)

舞踏家、笠井叡のエッセイ集。

めったに見かけない本である。

舞踏家の言葉は詩的だが、その理由を澁澤龍彦の帯文が見事に語っている。


「肉体を酷使している舞踏家が、
その肉体から抽象言語をしぼり出しているのを
見る時くらい、感動的なものはない。
肉は言葉をなぞり、言葉は肉のかたちをとるだろう。
笠井叡は、現代日本のもっとも
真摯な魂の一つであると私は信じている。
真摯であればこそ、
彼はパラドックスを少しも恐れないのである」


この文章には、吉岡実が舞踏に深く関わった理由が、語られているような気がしないでもない。


あと2冊は、ともにマックス・エルンストの
大判の美術書である。


『慈善週間 または七大元素(小説)』
(巖谷國士訳、河出書房新社、1977年・初版)


言わずと知れた20世紀の奇書。

シュルレアリスムは、文学においては、自動記述と夢の記述を特徴としているが、美術においては、それに呼応するのは、
フロッタージュとコラージュであり、それらは、シュルレアリスム運動と関わる前に、エルンストが独自に創案したものだった。

コラージュによる「ロマン(小説)」の試みが、
『百頭女』、『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』、そして『慈善週間』であり、
いずれも河出書房新社の「眼は未開の状態にある叢書」として刊行されている。

この叢書名がアンドレ・ブルトンの『シュルレアリスムと絵画』開巻の一行、
しかも瀧口修造訳のそれであることは、言うまでもあるまい。


『美しき女庭師の帰還』
(田部淑子訳、河出書房新社、1977年・初版)

これはエルンスト展記念出版として刊行されたもので、図版はドイツのデュモン社による印刷で、限定2000部。

1960〜70年代の美術書は、グラビア印刷ではなく、
より手間がかかったコロタイプ印刷によるものが多く、素晴らしいものが見つかることがある。

コロタイプは別名アートプレスと言われるように、版画作品としても扱われることがあるほどで、コロタイプによる画集を見つけるのは、私にとっては、古書店回りの楽しみのひとつだ。


今回の買い物は、しめて1万3千円。

神田よりは明らかに安いが、そもそも、その内容を考えるならば、本ほど安いものはない。
posted by 城戸朱理 at 08:53| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月05日

宇多喜代子・大石悦子・茨木和生『旬の菜時記』(朝日新書)

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「歳時記」ならぬ「菜時記」。

季語の食材を詠みこんだ俳句と、
3人の俳人によるエッセイ、
さらに、その食材を使った料理を
カラーで紹介する好企画である。


たとえば、杉田久女の
「笹づとを解くや生き鮎真一文字」という一句を掲げ、
この句の鑑賞と鮎をめぐるエッセイが。



久女の句は、到来の鮎を詠ったもの。
獲れたばかりの、瑞々しい笹の葉にくるまれた見事な鮎に、声を上げている様子が想像されます。(中略)

吉野の宮滝辺りで獲れる天然遡上の鮎は、
桜鮎という美しい名前で呼ばれ、味も姿も格別です。
河原で火を焚き、桜鮎を焼いて楽しんだ後、
残りを鮎雑炊にするという贅沢をしたことがあります。

〈生鮎に塩打ち振って焼く用意 右城暮石〉

家庭で鮎雑炊をするなら、大ぶりの鍋で雑炊を仕立て、
煮え立ったところへ焼いた鮎を一人当たり一尾入れ、蓋をして蒸らします。
化粧塩は適当に落としておきます。



この項目を執筆したのは、大石悦子さんだが、
どのページも鑑賞に留まらず、
食材をめぐる好エッセイとなっていて、実に楽しい。


それにしても、文中に引用されている
右城暮石の俳句はどうだろう。

読んで、そのまんまの意味である。

ほかにも、


ビードロに洗ひ鱸を並べけり(正岡子規)

浅漬がよけれさつまいもの茎も(茨木和生)


と、単刀直入、そのまんまという句が散見する。

子規の一句など、ガラスの皿に
鱸(すずき)の洗いを並べたというだけのことで、
英訳したら、詩ではなく、
ただの文章になってしまうだろう。

このあたりも、日本人だけに分かる
俳句の面白さというものだろうが、


白魚は仮名ちるごとく煮えにけり(阿波野青畝)

若狭には仏多くて蒸鰈(森澄雄)


などには、唸ってしまった。


詩人による句も収録されている。


人間にうわの空ありとろろ汁(清水哲男)

おでん煮ゆはてはんぺんは何処かな(辻征夫)


詩人の俳句は、どうしたことか
凡庸きわまりないものが多いが、
清水哲男さんはさすが、
辻征夫さんの一句もとぼけた風味が、
辻さんその人を前にしているような
気持ちにさせてくれる。
posted by 城戸朱理 at 11:42| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月03日

山崎方代のこと、その2〜湯川晃敏写真集『方代さん』(BeeBooks)

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山崎方代の短歌を何首か紹介しておこう。




間引きそこねてうまれ来しかば人も呼ぶ
死んでも生きても方代である


夕日の中をへんな男が歩いていった
俗名山崎方代である


貧乏な詩人が一人住みついて
酒をたしなみめしは食べない




こんな調子で、自己言及がきわめて多いのが方代短歌の特徴なのだが、それが、また短歌的だと言えるかも知れない。

また、方代さんの歌には、貧乏暮らしをモティーフにしたものが少なくないが、嘆きや湿っぽさとは無縁で、笑いが響いてくるようなところがある。


次の一首などは、その好例だろう。




大きな波が寄せてくる
大きな笑いがこみあげてくる




朝から酒を飲み、鎌倉の山を歩いては山菜を摘み、海岸を歩いては、海藻を拾う。

まるで、縄文人のような生活を送りながら、歌を詠み続けた山崎方代の生前の姿をまとめたのが、写真集『方代さん』。


これも、思わず笑いがこみあげてくるような本である。
posted by 城戸朱理 at 09:47| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月01日

山崎方代のこと、その1〜田澤拓也『無用の達人 山崎方代』(角川ソフィア文庫)

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現代日本の格差社会を背景に、
小林多喜二の『蟹工船』がベストセラーになり、
徳永直や石川啄木の文庫化が続いたが、
山崎方代の文庫化も、時を得たものと言えるだろう。


放浪の歌人、山崎方代(1914〜1985)。


太平洋戦争で重症を負い、右目を失明。
左目もかすかな視力しかなかった方代は、
生涯、定職につかず、結婚もせず、
酒を飲んでは、ひたすら短歌を詠みつづけた。


職がないのだから、金もない。

方代は、晩年の20年を鎌倉で過ごしたが、
彼の理解者が庭に建ててくれた小屋に住み、
お寺に行っては小遣いを貰うという暮らしぶりだったという。


放浪の歌人が生きたのは、
日本の高度成長期からバブル前夜まで。

その時代に、こんな生活をしていた歌人がいたことを知って、
興味を抱き、目につくかぎり、
本人の著作や関連書をこれまで求めてきたのだが、
まさか、評伝がこんなに早く
文庫化されるとは思っていなかった。


方代の短歌は平面で破調が目立つ愛すべきもので、
いずれは、石川啄木や種田山頭火のように、
広く愛唱されるのではないかと私は思っている。
posted by 城戸朱理 at 16:03| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月24日

古書店街に2泊3日

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旅先で古本屋を覗くとき、土地勘のない街だと、古本屋に行き着くのに、ひと苦労することがある。


そこで、私が考えたのが、古書店が集中しているエリアに、泊まり込んで、古本屋を回るという企画だった。


ブックオフのように均一の値付けで、文庫にコミック、CDを主力商品とするタイプの店を
旧来の古書店と区別して「新古本屋」とか「新古書店」と呼ぶが、

そうした新古本屋が全国的に増えたのと、ネットでの検索が当たり前になったので、『全国古本屋地図』(日本古書通信社)は、2000年度版以来、改訂版が出ていない。



このガイド本をたよりに、横浜や神戸の古書店を回ったことがあるのだが、閉めた店があまりに多く、壊滅的な状態だった。


一方、2000年度版で約140軒と紹介されている神田古書店街は、昨秋の段階では、約180軒と増加しており、ほかにも西荻窪など、増加傾向にあるエリアもある。


となると、まず古書店の所在じたいから確認しなければならない。


とりあえずは、ネットで検索してから、『全国古本屋地図』と照らし合わせて、泊まる街を選び、ホテルにチェックインしてから、職業別ハローページを借りて、さらにチェックすれば、
古書店組合未加入の店も把握できて、万全の体勢になることだろう。


初日は、ざっとひと通り回り、翌日は気になる店だけを重点的に見ていく。

最終日は、もし購入した本を宅急便で送り出してから、身軽になって、もういちど気になるものをチェックすることもできるではないか。



我ながら名案である。


問題は、どのエリアを選ぶかだが、
神田や本郷、早稲田といった名高い古書店街以外に、どこに泊まりに行くかのほうが問題だろうな。


夢中で計画を練っていたら、彼女に言われた。



「家族が泣いて嫌がるマニアックな企画だね!」
・・・


返す言葉がないが、前から計画していたギリシア旅行は来年になりそうだし、今年はとくに旅行の予定もないので、まあ、いいんじゃないだろうか。


私の経験だと、京都だけは別格だが、本はやはり、東京及びその近郊に集中している。

となると、交通費は高が知れているし、ビジネスホテルに泊まれば、宿泊費も2泊で2万円以内でおさまるだろう。

高価な初版本などを探そうというわけではないので、京都に行くのに比べたら、ぜんぜん安上がりというものである。


もちろん、こんなことをしなければ、お金もいっさいかからないわけだが、こういうことは、考えているだけで楽しい。


ただし、真夏の猛暑日では、古本屋回りもできない。


秋になったら、やらかすことにしよう。
posted by 城戸朱理 at 08:02| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月22日

町田の古本屋



町田には、20軒近い古本屋があるらしいが、私が把握しているのは、そのうち半分もない。


今回、詩友とともに訪れた高原書店は、なかでも見応えがある古書店だと思う。

高原書店は、すべて定価の半額というそれまでなかった小売りで話題になり、あのブックオフがモデルにしたとも言われている古本屋。


今は、一冊ずつ値付けがされているが、在庫15万冊は、やはり圧倒的である。

しかも膨大な在庫がきちんと分類・整理されているため、本が見やすいのも嬉しい。


全員が何冊ずつか買い物をしていたのだが、「神田では見かけない本がある」という広瀬大志くんの発言が、高原書店の特徴を物語っている。


神田古書店街ではあまり扱われない1970〜80年代の本が、きわめて充実しているのだ。

田野倉康一くんは「久しぶりに古本を見る醍醐味を感じた」と言っていたが、ひと通り見るだけでも最低2時間は必要だろう。


詩集が充実しているのも貴重だが、なかには、私の『非鉄』、田野倉くんの『産土』、野村喜和夫さんの『稲妻狩り』などもあった。

これらは、すべて2000円。

野村さんと私の共著『討議 戦後詩』と『討議 詩の現在』は、2700円と2500円だった。

自著を古書店の棚に見いだすのは、気恥ずかしくも、喜ばしいものである。


今回、私が驚いたのは洋書の棚である。


決して量は多くないのだが、まず、目についたのは『ジャック・スパイサー全詩集』。

20世紀後半のアメリカの詩と美術の震源地となったブラック・マウンテン・カレッジを代表する詩人、ロバート・ダンカンとも親交があったスパイサーの全詩集となると、日本ではアメリカ詩の研究者しか持っていないのではないだろうか。

驚いて、棚の前に座り込み、丹念にチェックしてみたら、ジョン・アッシュベリの詩集を始めとして、チャールズ・バーンステイン、ロン・シリマンからマイケル・パーマーら、言語派の著作まで並んでいる。

アメリカ詩の研究者が手放したものとしか思えないラインナップである。


私が選んだのは、ロバート・ブライ『This Body Is Made of Camphor and Gopher Wood』。

ジェンドロン・ジャンセンのドローイングも魅力的な、1977年の初版。

アメリカ的父権の復活を語ったエッセイ『アイアン・ジョン』が90年代にベストセラーになり、
一躍、その名を高めたブライは、内省的なディープ・イマジズムの詩人として知られているが、私の好きな詩人のひとりである。


ブライやルイ・シンプソンら、ミネソタの詩人たちによるディープ・イマジズムは、シュルレアリスムのアメリカ的受容のひとつの形態という側面も持っており、翻訳で読んでも、美しい。


それに、ルイ・ズーコフスキー『A TEST OF POETRY』、こちらは1980年の再版で、ブライは800円、ズーコフスキーは1000円だった。

アメリカではモダニズムの巨匠として評価が高いズーコフスキーだが、日本では、ほとんど紹介されていないのが、残念。

ただし、代表作とされる長篇詩『A』などは、言語の音楽性にのっとったものなので、翻訳は、ほとんど不可能だろう。


洋書以外で私が買ったのは、書籍5冊と文庫2冊と雑誌3冊。

合計で14300円だった。


書籍は、高田美一『フェノロサ遺稿とエズラ・パウンド』(近代文藝社)、これが今回の買い物ではいちばん高く、3500円。

ただし、定価5000円の極美本なので文句はない。

さらに高田美一監訳『T.E.ヒュームのイメージ論』(角川書店)、これは出版されたことさえ気づかずにいた一冊。

ほかには、大岡信『超現実と抒情』(晶文社)、棚橋一晃『奇僧円空』(人間の科学社)、宮坂宥勝『密教思想の真理』(人文書院)。


文庫は、ともに絶版の『年譜 宮澤賢治伝』(中公文庫)と「現代俳句の世界5 富安風生 阿波野青畝集』(朝日文庫)。


中公文庫は宮澤賢治研究に欠かせない貴重な資料。

朝日文庫の「現代俳句の世界」全16巻は、もっとも充実した現代俳句の入門書だが、私の手元にあるのは、現在、8冊。

いずれは全巻を揃えて読み耽りたいものである。

高原書店は絶版文庫もきわめて充実している。腰を据えてチェックしたら、文庫だけで半日はかかりそうだ。


雑誌は、「夜想13 シュルレアリスム」、瀧口修造のアンドレ・ブルトン訪問記である「アンドレ・ブルトンの書斎」が掲載された「みづゑ」1959年3月号、そして、「ヴィジュアル・ポエトリーの実験」特集の「みづゑ」1975年6月号を購入。

雑誌は、いずれも百円だったが、「みづゑ」はどちらも長年、探していたものだから、嬉しかった。


ただし、59年3月号は、やはり瀧口修造を愛してやまない高貝弘也くんに柿島屋でプレゼントすることに。

ブルトンと瀧口の写真を見て、「この有名な写真は、この雑誌に初めて紹介されたんですね」と高貝くんも感慨深げである。

高貝くんは吉田一穂編『北原白秋詩集』を買っていたが、終戦の翌年、昭和21年の刊行で、版元は鎌倉書房。

住所を見ると、鎌倉市極楽寺である。

現在、鎌倉にある出版社は、かまくら春秋・冬花社・港の人の3社だが、以前は鎌倉書房という会社もあったらしい。

こんなことが分かるのも、古書のささやかな楽しみのひとつだろう。


ほかのみんなは何を買ったのだろう?


柿島屋で聞いておけばよかったと後悔している。
posted by 城戸朱理 at 08:28| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月25日

サトリとサトエリと酒の詩



以前、このブログで「サトリ」と「サトエリ」は、一字違いだが、エラい違いであると書いたことがあった。

しかし、サトエリが「ブルータス」の特集で、好きな詩に、田村隆一を挙げたときには、「サトエリ」と「サトリ」は、さすがに、わずか一字違いだけのことはあると大いに納得したものだった(?)。


それにしても、サトエリの「キューティーハニー」は、はまり役だったが、ミッチーもよかったったな。


こんなことを考えているのは、頭が働いていない証拠である。

そして、そんなときに抜群に効くのが、『万葉集』巻三、大伴旅人「酒を讃むる歌十三酒」だろう。


なかなかに人とあらずは酒壺に
成りにてしかも酒に染みなむ


人間よりも酒壺になって、
酒に染みたいというのだから、凄い。

もう一首。


あな醜(みにくし)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ
人をよく見れば猿にかも似る


酒を飲まずに賢しらにすましている奴は、猿みたいだというのだから、いくら私でも、これはやりすぎだろうと思うが、
酔っているときに読むと「そうだ、そうだ」と古の歌人に賛同してしまうあたりが、酒徒というものである。


酒の詩といえば、良寛にも素晴らしい漢詩があるが、やはり、日本よりも中国に名篇が多い。


そんなわけで、青木正兒『中華飲酒詩選』は、私の座右の書なのだが、日本の現代詩には、酒をめぐる詩はあまり見当たらないような気がする。

酒の詩といえば、やはり田村隆一だろうが、『田村隆一飲酒詩選』を編んだら、これは極楽本になるやも知れぬ。
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2009年06月18日

北尾トロ『ぶらぶらジンジン古書の旅』(文春文庫)

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本好きが高じると、本について書かれた本が、
楽しくて仕方がなくなるが、この文庫を駅の売店で見つけたときも、「おっ!」と思ったものだった。


往復の電車の時間が楽しいものになるのは、間違いないではないか。


著者は『裁判長! ここは懲役4年でどうすか』『裁判長! これで執行猶予は甘くないすか』(ともに文春文庫)などで知られるライターだが、古本好きが高じて、ネット古書店まで始めたという人物。


本書は、その古本好きが仕入れもかねて、日本全国の古書店を旅して回るというもので、たしかに、これは帯の惹句にあるように、「これぞ、古本好きの夢」と言っていい。


自分が欲しい本と仕入れとして考えたときの
価格のせめぎ合いも面白いが、これは、古本好きとプロの差というものか。



文芸書は苦手で、雑本好きを自任するだけに、
著者が手にする本は、ほとんど私とは縁がないものばかりなのだが、それもまた興味深いし、
文芸書は苦手といいながら、金子光晴の著作をせっせと買っているあたりも面白い。



私も出張先では、必ずといっていいほど、古本屋を覗くが、実は同じような企画を考えたことがある。


とはいっても、私がやろうとしたのは、日本全国ではなく、東京及び近郊で、古書店が集中しているエリアで、ホテルに2泊3日して、本を漁り、その記録を写真入りでエッセイにするというもの。

某社に企画書を出してあるが、実現するか、どうかは分からないし、実現するとしても、今、抱えている仕事をまずクリアしなければならない。

しかし、こんな本を読むと、「古書の旅」をしたくなるのが、嬉しくも困ったところである。
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2009年06月08日

岩佐東一郎『書痴半代記』(ウェッジ文庫)

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この本を、文庫の新刊の棚に見つけたときは、さすがに仰天した。

著者の岩佐東一郎は、詩人。

しかし、忘れられた詩人と言っていいだろう。


1905年、東京は日本橋生まれ。

北園克衛より3歳、瀧口修造より2歳年下になる彼は、暁星中学で堀口大學に、法政大学で日夏耿之介に師事し、「パンテオン」「オルフェオン」などの詩誌に参加、『ぷろむなあど』『航空術』など10数冊の詩集を発表し、モダニズムの一画を担った。


ただ、その詩風はモダニズムとしては、徹底を欠き、今では文学史上の人物と言っていい。



ところが、この日本橋生まれ、神田育ちの詩人は、たんなるモダニストではなく、江戸っ子ならではの通人としての顔も持ち合わせていた。

詩は忘れられたが、その随筆は古書好きにひそかに人気を博し、実は私も古書店を回るときは、岩佐東一郎の本がないか、心がけていたのである。


しかし、それがいきなり文庫化され、しかも、内容は古書をめぐるエッセイとあっては、喜びと驚きをともに感じざるをえない。

さっそく読みふけったが、戦前の古書店の風情や古書事情が浮かび上がってくるような、雅味あふれるものだった。

こんな詩人がいた時代というのは、やはり、ある意味では、豊かな時代だったのだろうと、しみじみと思う。
posted by 城戸朱理 at 10:18| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月15日

藤沢の古書店で



先週、こもれび山崎温水プールに泳ぎに行った話をアップしたが、私の普段着はジャケットにブーツだから、プールに行くのには、どう考えても向いていない。

スポーティーなTシャツとかジャージのほうがいいだろうと思って、買い物に行ったのだが、結局、プラダで黒のTシャツと白のUネックのTシャツ2枚を求めただけだった。


今度はナイキショップに行ってみよう。


帰りは、藤沢で降りて、古書店を回る。

鏡島元隆『道元禅師と引用経典・語録の研究』(木耳社)、
菅沼晃編『道元辞典』(東京堂出版)など5冊を購入。


それから、北鎌倉・侘助店主の菅村睦郎さんとメールで連絡を取り、鎌倉小町の海月で飲むことにした。

海月では地鶏の天ぷらや酒盗の和風ピザなどを頼み、ビールで乾杯してから芋焼酎。

睦郎さんは、私にとって高校の先輩でもある。


なんと睦郎さん、昨年から、コタツで寝てしまうことが多く、疲れがたまっているのだとか。

たしかにコタツで眠ると、喉は渇くし、体はだるいし、いいことがない。

幸いなことに、私の家にはコタツがないので、コタツで寝ることはないが、睦郎さんには注意してもらいたいものである。


さらにマイクスに席を移して、カクテル。

すると、近代美術館の主任学芸員にして画家の是枝開氏が美女2人とともに現れた。

是枝さんは、いつも若い女性に人気だが、これは、是枝さんの精神の若さゆえだろうか。


見習いたいところだが、いつも鬱々としている私には無理である。

しかし、鬱っぽいわりには、よく外出しているのも事実で、元気な病人といった感じではある(?)。
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2009年02月26日

『萩原朔太郎撮影写真集 完全版』(みやま文庫)

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萩原朔太郎は、一時期、写真に熱中し、
そのことについてのエッセイもいくつか残しているが、
詩人が撮影した写真を網羅する、
完全版の写真集が刊行された。

朔太郎の写真といえば、
すでに新潮社から『のすたるじあ』が刊行されているが、
今回は、朔太郎研究家の野口武久氏が、
長年にわたって探し求めた全写真と
その撮影地の調査結果を集成するもので、
これまで発表されたことがない「ガラス乾版」「立体写真」、
そして、朔太郎が鎌倉に暮らした時代の「フィルムネガ」を
含むものになっている。

朔太郎は、自らの写真を、
「僕はその器械の光学的な作用をかりて、
自然の風物の中に反映されてる、
自分の心の郷愁が写したいのだ」と語っており、
その意味では、彼の写真とは、
その詩と共鳴するものと言っていい。

出版は、群馬の風土と文化をテーマとする本を
出版する会員制の出版団体、みやま文庫で、
書店には流通していないようだが、
朔太郎の鎌倉時代の写真を含むためか、
鎌倉の書店では、平積みになっていた。

それで、私は手にすることができたのだが、
興味のある方は、「みやま文庫」で検索を。
posted by 城戸朱理 at 10:19| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月23日

鎌倉ペンクラブ会報創刊!

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初代会長が芥川賞作家で詩人の三木卓さん、副会長に直木賞作家の井上ひさしさん他で、2001年に再結成された鎌倉ペンクラブは、
これまで、「鎌倉カルタ」の刊行、建長寺における鎌倉カルタ大会の開催、公開講座や講演会などの活動を展開してきたが、
大石直記編集長と石川洋一・里舘勇治氏ら、編集委員の尽力で、待望の会報が創刊された。


残念だったのは、刊行前に第二代会長、直木賞作家の早乙女貢さんが急逝されたことで、急遽、創刊号は早乙女貢さんの追悼号になった。


現在は、歌人・作家の尾崎左永子副会長が、
会長代行をされているが、

次の総会では、正式に新会長を決めなければならないことになる。


「鎌倉ペンクラブ会報」創刊号は、頒価500円。


内容は、「私が出会った鎌倉の文人」「私の年賀状」「自著を語る」「近況」「短歌・俳句」など。

安西水丸、齋藤榮、藤沢周氏など会員が寄稿しており、私も「近況」の短文を寄せている。


鎌倉市内の一部書店で入手できるが、御希望の方は、早見芸術学園内・鎌倉ペンクラブ事務局
(TEL 0467ー24ー4002)に問い合わせを。
posted by 城戸朱理 at 15:03| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月29日

季刊詩誌「びーぐる」(澪標)

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昨年、大阪で新たな商業誌として創刊されたのが、「びーぐる」である。


「詩学」の廃刊、そして「ミッドナイト・プレス」「るしおる」の休刊といった詩誌の廃刊・休刊が相次ぐなか、山田兼士・細見和之・四元康祐・高階杞一の4氏を編集委員に迎え、新たな詩の場所を作るべく、企画されたものらしい。


創刊号での編集委員による座談会「新しい船出に向けて」を読むと、かつての「詩学」のように「現代詩手帖」と「詩と思想」のどちら寄りでもないニュートラルな編集方針を掲げている。



刊行されたばかりの第2号の特集は、「モダニズム・異端の系譜 北園克衛から藤富保男へ」。


私も論考「曲線の幾何学ー北園克衛と藤富保男」を寄稿しているが、たしかに、これは他誌では実現できない企画であり、20世紀の前衛運動の先駆となったマリネッティの「未来派宣言」から100年目となる今、20世紀の前衛の所在を問うという意味でも貴重な特集だと思う。


「びーぐる」には高階杞一・四元康祐両氏を選者とする投稿欄もあり、また、神尾和寿氏による「詩集時評」と細見和之氏による「詩誌時評」、ともに細やかな目配りを怠らない真摯な態度の、稀に見る好時評となっている。

現在のところ、「びーぐる」は、編集委員4氏の尽力によって、充実した誌面になっているように見受けられるが、新しい詩誌の船出に大いに期待したい。
posted by 城戸朱理 at 08:46| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月20日

21世紀の出版形態

出版不況が言われて久しい。

実際、出版業界はこの10年以上、
毎年、500億もの減収となっている。
それなのに、出版点数は増える一方で、
書店には本があふれかえっているのは、どうしたことだろう?

それだけに、本の寿命も短くなっていて、
かつては、岩波新書や中公新書といえば、
10〜20年は流通するほどの寿命があったが、
今では新書の寿命は、一年あるかないかだし、
文庫にいたっては、ごく一部の古典をのぞくと、
新刊書同然の消費のされかたである。

こうした状況のなかで、文芸書の市場は、
縮小の一途をたどっており、小説ならば、
エンターテイメントが、かつての純文学ていどの売上に、
純文学は、かつての学術書なみの売上になってしまった。

では、詩集はというと、もともと売れるものではないので、
相変わらずというところだが、
一方で茨木のり子や加島祥造のように、
20万部、40万部といったベストセラーが、
現れたりするのが、面白い。

詩集というものは、初心に帰るならば、
私家版でも構わないわけで、
これからは、注文部数だけを適宜、制作していく、
オンデマンドでの出版も考えていくべきだろう。

DTPで版下まで制作できれば、オンデマンドの場合、
20、30万円ていどで出版が可能になるという。

また、版下を制作できれば、出版社に刊行を委ね、
別装の著者本を制作するのも難しくない。

現在、知人がオンデマンドでの出版を試しているところだが、
私もさまざまな形での本造りを考えていきたいと思っている。
posted by 城戸朱理 at 09:06| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする