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城戸朱理のブログ: 本

2009年08月05日

宇多喜代子・大石悦子・茨木和生『旬の菜時記』(朝日新書)

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「歳時記」ならぬ「菜時記」。

季語の食材を詠みこんだ俳句と、
3人の俳人によるエッセイ、
さらに、その食材を使った料理を
カラーで紹介する好企画である。


たとえば、杉田久女の
「笹づとを解くや生き鮎真一文字」という一句を掲げ、
この句の鑑賞と鮎をめぐるエッセイが。



久女の句は、到来の鮎を詠ったもの。
獲れたばかりの、瑞々しい笹の葉にくるまれた見事な鮎に、声を上げている様子が想像されます。(中略)

吉野の宮滝辺りで獲れる天然遡上の鮎は、
桜鮎という美しい名前で呼ばれ、味も姿も格別です。
河原で火を焚き、桜鮎を焼いて楽しんだ後、
残りを鮎雑炊にするという贅沢をしたことがあります。

〈生鮎に塩打ち振って焼く用意 右城暮石〉

家庭で鮎雑炊をするなら、大ぶりの鍋で雑炊を仕立て、
煮え立ったところへ焼いた鮎を一人当たり一尾入れ、蓋をして蒸らします。
化粧塩は適当に落としておきます。



この項目を執筆したのは、大石悦子さんだが、
どのページも鑑賞に留まらず、
食材をめぐる好エッセイとなっていて、実に楽しい。


それにしても、文中に引用されている
右城暮石の俳句はどうだろう。

読んで、そのまんまの意味である。

ほかにも、


ビードロに洗ひ鱸を並べけり(正岡子規)

浅漬がよけれさつまいもの茎も(茨木和生)


と、単刀直入、そのまんまという句が散見する。

子規の一句など、ガラスの皿に
鱸(すずき)の洗いを並べたというだけのことで、
英訳したら、詩ではなく、
ただの文章になってしまうだろう。

このあたりも、日本人だけに分かる
俳句の面白さというものだろうが、


白魚は仮名ちるごとく煮えにけり(阿波野青畝)

若狭には仏多くて蒸鰈(森澄雄)


などには、唸ってしまった。


詩人による句も収録されている。


人間にうわの空ありとろろ汁(清水哲男)

おでん煮ゆはてはんぺんは何処かな(辻征夫)


詩人の俳句は、どうしたことか
凡庸きわまりないものが多いが、
清水哲男さんはさすが、
辻征夫さんの一句もとぼけた風味が、
辻さんその人を前にしているような
気持ちにさせてくれる。
posted by 城戸朱理 at 11:42| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月03日

山崎方代のこと、その2〜湯川晃敏写真集『方代さん』(BeeBooks)

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山崎方代の短歌を何首か紹介しておこう。



間引きそこねてうまれ来しかば人も呼ぶ
死んでも生きても方代である


夕日の中をへんな男が歩いていった
俗名山崎方代である


貧乏な詩人が一人住みついて
酒をたしなみめしは食べない



こんな調子で、自己言及が
きわめて多いのが方代短歌の特徴なのだが、
それが、また短歌的だと言えるかも知れない。

また、方代さんの歌には、
貧乏暮らしをモティーフにしたものが少なくないが、
嘆きや湿っぽさとは無縁で、
笑いが響いてくるようなところがある。

次の一首などは、その好例だろう。



大きな波が寄せてくる
大きな笑いがこみあげてくる



朝から酒を飲み、鎌倉の山を歩いては山菜を摘み、
海岸を歩いては、海藻を拾う。
まるで、縄文人のような生活を送りながら、
歌を詠み続けた山崎方代の生前の姿を
まとめたのが、写真集『方代さん』。


これも、思わず笑いがこみあげてくるような本である。
posted by 城戸朱理 at 09:47| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月01日

山崎方代のこと、その1〜田澤拓也『無用の達人 山崎方代』(角川ソフィア文庫)

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現代日本の格差社会を背景に、
小林多喜二の『蟹工船』がベストセラーになり、
徳永直や石川啄木の文庫化が続いたが、
山崎方代の文庫化も、時を得たものと言えるだろう。


放浪の歌人、山崎方代(1914〜1985)。


太平洋戦争で重症を負い、右目を失明。
左目もかすかな視力しかなかった方代は、
生涯、定職につかず、結婚もせず、
酒を飲んでは、ひたすら短歌を詠みつづけた。


職がないのだから、金もない。

方代は、晩年の20年を鎌倉で過ごしたが、
彼の理解者が庭に建ててくれた小屋に住み、
お寺に行っては小遣いを貰うという暮らしぶりだったという。


放浪の歌人が生きたのは、
日本の高度成長期からバブル前夜まで。

その時代に、こんな生活をしていた歌人がいたことを知って、
興味を抱き、目につくかぎり、
本人の著作や関連書をこれまで求めてきたのだが、
まさか、評伝がこんなに早く
文庫化されるとは思っていなかった。


方代の短歌は平面で破調が目立つ愛すべきもので、
いずれは、石川啄木や種田山頭火のように、
広く愛唱されるのではないかと私は思っている。
posted by 城戸朱理 at 16:03| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月24日

古書店街に2泊3日

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旅先で古本屋を覗くとき、土地勘のない街だと、
古本屋に行き着くのに、ひと苦労することがある。


そこで、私が考えたのが、
古書店が集中しているエリアに、
泊まり込んで、古本屋を回るという企画だった。


ブックオフのように均一の値付けで、
文庫にコミック、CDを主力商品とするタイプの店を
旧来の古書店と区別して
「新古本屋」とか「新古書店」と呼ぶが、
そうした新古本屋が全国的に増えたのと、
ネットでの検索が当たり前になったので、
『全国古本屋地図』(日本古書通信社)は、
2000年度版以来、改訂版が出ていない。

このガイド本をたよりに、
横浜や神戸の古書店を回ったことがあるのだが、
閉めた店があまりに多く、壊滅的な状態だった。


一方、2000年度版で
約140軒と紹介されている神田古書店街は、
昨秋の段階では、約180軒と増加しており、
ほかにも西荻窪など、増加傾向にあるエリアもある。


となると、まず古書店の所在じたいから
確認しなければならない。


とりあえずは、ネットで検索してから、
『全国古本屋地図』と照らし合わせて、泊まる街を選び、
ホテルにチェックインしてから、
職業別ハローページを借りて、さらにチェックすれば、
古書店組合未加入の店も把握できて、
万全の体勢になることだろう(?)。

初日は、ざっとひと通り回り、
翌日は気になる店だけを重点的に見ていく。

最終日は、もし購入した本を宅急便で送り出してから、
身軽になって、もういちど
気になるものをチェックすることもできるではないか。


我ながら名案である。

問題は、どのエリアを選ぶかだが、
神田や本郷、早稲田といった名高い古書店街以外に、
どこに泊まりに行くかのほうが問題だろうな。


夢中で計画を練っていたら、彼女に言われた。


「家族が泣いて嫌がるマニアックな企画だね!」
・・・


返す言葉がないが、
前から計画していたギリシア旅行は来年になりそうだし、
今年はとくに旅行の予定もないので、
まあ、いいんじゃないだろうか。


私の経験だと、京都だけは別格だが、
本はやはり、東京及びその近郊に集中している。

となると、交通費は高が知れているし、
ビジネスホテルに泊まれば、
宿泊費も2泊で2万円以内でおさまるだろう。

高価な初版本などを探そうというわけではないので、
京都に行くのに比べたら、
ぜんぜん安上がりというものである。


もちろん、こんなことをしなければ、
お金もいっさいかからないわけだが、
こういうことは、考えているだけで楽しい。

ただし、真夏の猛暑日では、古本屋回りもできない。

秋になったら、やらかすことにしよう。
posted by 城戸朱理 at 08:02| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月22日

町田の古本屋



町田には、20軒近い古本屋があるらしいが、私が把握しているのは、そのうち半分もない。


今回、詩友とともに訪れた高原書店は、なかでも見応えがある古書店だと思う。

高原書店は、すべて定価の半額というそれまでなかった小売りで話題になり、あのブックオフがモデルにしたとも言われている古本屋。


今は、一冊ずつ値付けがされているが、在庫15万冊は、やはり圧倒的である。

しかも膨大な在庫がきちんと分類・整理されているため、本が見やすいのも嬉しい。


全員が何冊ずつか買い物をしていたのだが、「神田では見かけない本がある」という広瀬大志くんの発言が、高原書店の特徴を物語っている。


神田古書店街ではあまり扱われない1970〜80年代の本が、きわめて充実しているのだ。

田野倉康一くんは「久しぶりに古本を見る醍醐味を感じた」と言っていたが、ひと通り見るだけでも最低2時間は必要だろう。


詩集が充実しているのも貴重だが、なかには、私の『非鉄』、田野倉くんの『産土』、野村喜和夫さんの『稲妻狩り』などもあった。

これらは、すべて2000円。

野村さんと私の共著『討議 戦後詩』と『討議 詩の現在』は、2700円と2500円だった。

自著を古書店の棚に見いだすのは、気恥ずかしくも、喜ばしいものである。


今回、私が驚いたのは洋書の棚である。


決して量は多くないのだが、まず、目についたのは『ジャック・スパイサー全詩集』。

20世紀後半のアメリカの詩と美術の震源地となったブラック・マウンテン・カレッジを代表する詩人、ロバート・ダンカンとも親交があったスパイサーの全詩集となると、日本ではアメリカ詩の研究者しか持っていないのではないだろうか。

驚いて、棚の前に座り込み、丹念にチェックしてみたら、ジョン・アッシュベリの詩集を始めとして、チャールズ・バーンステイン、ロン・シリマンからマイケル・パーマーら、言語派の著作まで並んでいる。

アメリカ詩の研究者が手放したものとしか思えないラインナップである。


私が選んだのは、ロバート・ブライ『This Body Is Made of Camphor and Gopher Wood』。

ジェンドロン・ジャンセンのドローイングも魅力的な、1977年の初版。

アメリカ的父権の復活を語ったエッセイ『アイアン・ジョン』が90年代にベストセラーになり、
一躍、その名を高めたブライは、内省的なディープ・イマジズムの詩人として知られているが、私の好きな詩人のひとりである。


ブライやルイ・シンプソンら、ミネソタの詩人たちによるディープ・イマジズムは、シュルレアリスムのアメリカ的受容のひとつの形態という側面も持っており、翻訳で読んでも、美しい。


それに、ルイ・ズーコフスキー『A TEST OF POETRY』、こちらは1980年の再版で、ブライは800円、ズーコフスキーは1000円だった。

アメリカではモダニズムの巨匠として評価が高いズーコフスキーだが、日本では、ほとんど紹介されていないのが、残念。

ただし、代表作とされる長篇詩『A』などは、言語の音楽性にのっとったものなので、翻訳は、ほとんど不可能だろう。


洋書以外で私が買ったのは、書籍5冊と文庫2冊と雑誌3冊。

合計で14300円だった。


書籍は、高田美一『フェノロサ遺稿とエズラ・パウンド』(近代文藝社)、これが今回の買い物ではいちばん高く、3500円。

ただし、定価5000円の極美本なので文句はない。

さらに高田美一監訳『T.E.ヒュームのイメージ論』(角川書店)、これは出版されたことさえ気づかずにいた一冊。

ほかには、大岡信『超現実と抒情』(晶文社)、棚橋一晃『奇僧円空』(人間の科学社)、宮坂宥勝『密教思想の真理』(人文書院)。


文庫は、ともに絶版の『年譜 宮澤賢治伝』(中公文庫)と「現代俳句の世界5 富安風生 阿波野青畝集』(朝日文庫)。


中公文庫は宮澤賢治研究に欠かせない貴重な資料。

朝日文庫の「現代俳句の世界」全16巻は、もっとも充実した現代俳句の入門書だが、私の手元にあるのは、現在、8冊。

いずれは全巻を揃えて読み耽りたいものである。

高原書店は絶版文庫もきわめて充実している。腰を据えてチェックしたら、文庫だけで半日はかかりそうだ。


雑誌は、「夜想13 シュルレアリスム」、瀧口修造のアンドレ・ブルトン訪問記である「アンドレ・ブルトンの書斎」が掲載された「みづゑ」1959年3月号、そして、「ヴィジュアル・ポエトリーの実験」特集の「みづゑ」1975年6月号を購入。

雑誌は、いずれも百円だったが、「みづゑ」はどちらも長年、探していたものだから、嬉しかった。


ただし、59年3月号は、やはり瀧口修造を愛してやまない高貝弘也くんに柿島屋でプレゼントすることに。

ブルトンと瀧口の写真を見て、「この有名な写真は、この雑誌に初めて紹介されたんですね」と高貝くんも感慨深げである。

高貝くんは吉田一穂編『北原白秋詩集』を買っていたが、終戦の翌年、昭和21年の刊行で、版元は鎌倉書房。

住所を見ると、鎌倉市極楽寺である。

現在、鎌倉にある出版社は、かまくら春秋・冬花社・港の人の3社だが、以前は鎌倉書房という会社もあったらしい。

こんなことが分かるのも、古書のささやかな楽しみのひとつだろう。


ほかのみんなは何を買ったのだろう?


柿島屋で聞いておけばよかったと後悔している。
posted by 城戸朱理 at 08:28| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月25日

サトリとサトエリと酒の詩



以前、このブログで「サトリ」と「サトエリ」は、一字違いだが、エラい違いであると書いたことがあった。

しかし、サトエリが「ブルータス」の特集で、好きな詩に、田村隆一を挙げたときには、「サトエリ」と「サトリ」は、さすがに、わずか一字違いだけのことはあると大いに納得したものだった(?)。


それにしても、サトエリの「キューティーハニー」は、はまり役だったが、ミッチーもよかったったな。


こんなことを考えているのは、頭が働いていない証拠である。

そして、そんなときに抜群に効くのが、『万葉集』巻三、大伴旅人「酒を讃むる歌十三酒」だろう。


なかなかに人とあらずは酒壺に
成りにてしかも酒に染みなむ


人間よりも酒壺になって、
酒に染みたいというのだから、凄い。

もう一首。


あな醜(みにくし)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ
人をよく見れば猿にかも似る


酒を飲まずに賢しらにすましている奴は、猿みたいだというのだから、いくら私でも、これはやりすぎだろうと思うが、
酔っているときに読むと「そうだ、そうだ」と古の歌人に賛同してしまうあたりが、酒徒というものである。


酒の詩といえば、良寛にも素晴らしい漢詩があるが、やはり、日本よりも中国に名篇が多い。


そんなわけで、青木正兒『中華飲酒詩選』は、私の座右の書なのだが、日本の現代詩には、酒をめぐる詩はあまり見当たらないような気がする。

酒の詩といえば、やはり田村隆一だろうが、『田村隆一飲酒詩選』を編んだら、これは極楽本になるやも知れぬ。
posted by 城戸朱理 at 08:12| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月18日

北尾トロ『ぶらぶらジンジン古書の旅』(文春文庫)

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本好きが高じると、本について書かれた本が、
楽しくて仕方がなくなるが、
この文庫を駅の売店で見つけたときも、
「おっ!」と思ったものだった。

往復の電車の時間が楽しいものになるのは、
間違いないではないか。


著者は『裁判長! ここは懲役4年でどうすか』、
『裁判長! これで執行猶予は甘くないすか』(ともに文春文庫)などで
知られるライターだが、
古本好きが高じて、ネット古書店まで始めたという人物。


本書は、その古本好きが仕入れもかねて、
日本全国の古書店を旅して回るというもので、
たしかに、これは帯の惹句にあるように、
「これぞ、古本好きの夢」と言っていい。


自分が欲しい本と仕入れとして考えたときの
価格のせめぎ合いも面白いが、
これは、古本好きとプロの差というものか。


文芸書は苦手で、雑本好きを自任するだけに、
著者が手にする本は、
ほとんど私とは縁がないものばかりなのだが、
それもまた興味深いし、
文芸書は苦手といいながら、
金子光晴の著作をせっせと
買っているあたりも面白い。


私も出張先では、必ずといっていいほど、古本屋を覗くが、
実は同じような企画を考えたことがある。


とはいっても、私がやろうとしたのは、
日本全国ではなく、東京及び近郊で、
古書店が集中しているエリアで、
ホテルに2泊3日して、本を漁り、
その記録を写真入りでエッセイにするというもの。

某社に企画書を出してあるが、
実現するか、どうかは分からないし、
実現するとしても、今、抱えている仕事を
まずクリアしなければならない。

しかし、こんな本を読むと、
「古書の旅」をしたくなるのが、
嬉しくも困ったところである。
posted by 城戸朱理 at 11:55| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月08日

岩佐東一郎『書痴半代記』(ウェッジ文庫)

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この本を文庫の新刊の棚に
見つけたときは、さすがに仰天した。

著者の岩佐東一郎は、詩人。

しかし、忘れられた詩人と言っていいだろう。

1905年、東京は日本橋生まれ。

北園克衛より3歳、瀧口修造より2歳年下になる彼は、
暁星中学で堀口大學に、
法政大学で日夏こう之介に師事し、
「パンテオン」「オルフェオン」などの詩誌に参加、
『ぷろむなあど』『航空術』など10数冊の詩集を発表し、
モダニズムの一画を担った。


ただ、その詩風はモダニズムとしては、徹底を欠き、
今では文学史上の人物と言っていい。


ところが、この日本橋生まれ、神田育ちの詩人は、
たんなるモダニストではなく、
江戸っ子ならではの通人としての顔も持ち合わせていた。

詩は忘れられたが、その随筆は、
古書好きにひそかに人気を博し、
実は私も、古書店を回るときは、心がけていたのである。


しかし、それがいきなり文庫化され、
しかも、内容は古書をめぐるエッセイとあっては、
喜びと驚きをともに感じざるをえない。

さっそく読みふけったが、
戦前の古書店の風情や
古書事情が浮かび上がってくるような、
雅味あふれるものだった。

こんな詩人がいた時代というのは、
やはり、ある意味では、
豊かな時代だったのだろうと、しみじみと思う。
posted by 城戸朱理 at 10:18| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月26日

『萩原朔太郎撮影写真集 完全版』(みやま文庫)

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萩原朔太郎は、一時期、写真に熱中し、
そのことについてのエッセイもいくつか残しているが、
詩人が撮影した写真を網羅する、
完全版の写真集が刊行された。

朔太郎の写真といえば、
すでに新潮社から『のすたるじあ』が刊行されているが、
今回は、朔太郎研究家の野口武久氏が、
長年にわたって探し求めた全写真と
その撮影地の調査結果を集成するもので、
これまで発表されたことがない「ガラス乾版」「立体写真」、
そして、朔太郎が鎌倉に暮らした時代の「フィルムネガ」を
含むものになっている。

朔太郎は、自らの写真を、
「僕はその器械の光学的な作用をかりて、
自然の風物の中に反映されてる、
自分の心の郷愁が写したいのだ」と語っており、
その意味では、彼の写真とは、
その詩と共鳴するものと言っていい。

出版は、群馬の風土と文化をテーマとする本を
出版する会員制の出版団体、みやま文庫で、
書店には流通していないようだが、
朔太郎の鎌倉時代の写真を含むためか、
鎌倉の書店では、平積みになっていた。

それで、私は手にすることができたのだが、
興味のある方は、「みやま文庫」で検索を。
posted by 城戸朱理 at 10:19| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月23日

鎌倉ペンクラブ会報創刊!

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初代会長が芥川賞作家で詩人の三木卓さん、副会長に直木賞作家の井上ひさしさん他で、2001年に再結成された鎌倉ペンクラブは、
これまで、「鎌倉カルタ」の刊行、建長寺における鎌倉カルタ大会の開催、公開講座や講演会などの活動を展開してきたが、
大石直記編集長と石川洋一・里舘勇治氏ら、編集委員の尽力で、待望の会報が創刊された。


残念だったのは、刊行前に第二代会長、直木賞作家の早乙女貢さんが急逝されたことで、急遽、創刊号は早乙女貢さんの追悼号になった。


現在は、歌人・作家の尾崎左永子副会長が、
会長代行をされているが、

次の総会では、正式に新会長を決めなければならないことになる。


「鎌倉ペンクラブ会報」創刊号は、頒価500円。


内容は、「私が出会った鎌倉の文人」「私の年賀状」「自著を語る」「近況」「短歌・俳句」など。

安西水丸、齋藤榮、藤沢周氏など会員が寄稿しており、私も「近況」の短文を寄せている。


鎌倉市内の一部書店で入手できるが、御希望の方は、早見芸術学園内・鎌倉ペンクラブ事務局
(TEL 0467ー24ー4002)に問い合わせを。
posted by 城戸朱理 at 15:03| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月29日

季刊詩誌「びーぐる」(澪標)

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昨年、大阪で新たな商業誌として
創刊されたのが、「びーぐる」である。

「詩学」の廃刊、そして、
「ミッドナイト・プレス」、「るしおる」の
休刊といった詩誌の廃刊・休刊が相次ぐなか、
山田兼士・細見和之・四元康祐・高階杞一の
4氏を編集委員に迎え、
新たな詩の場所を作るべく、
企画されたものらしい。

創刊号での編集委員による座談会
「新しい船出に向けて」を読むと、
かつての「詩学」のように
「現代詩手帖」と「詩と思想」のどちら寄りでもない
ニュートラルな編集方針を掲げている。

刊行されたばかりの第2号の特集は、
「モダニズム・異端の系譜 北園克衛から藤富保男へ」。

私も論考「曲線の幾何学ー北園克衛と藤富保男」を寄稿しているが、
たしかに、これは他誌では実現できない企画であり、
20世紀の前衛運動の先駆となった
マリネッティの「未来派宣言」から100年目となる今、
20世紀の前衛の所在を問うという意味でも
貴重な特集だと思う。

「びーぐる」には高階杞一・四元康祐両氏を選者とする投稿欄もあり、
また、神尾和寿氏による「詩集時評」と
細見和之氏による「詩誌時評」、
ともに細やかな目配りを怠らない
真摯な態度の稀に見る好時評となっている。

現在のところ、「びーぐる」は、
編集委員4氏の尽力によって、
充実した誌面になっているように見受けられるが、
新しい詩誌の船出に大いに期待したい。
posted by 城戸朱理 at 08:46| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月20日

21世紀の出版形態

出版不況が言われて久しい。

実際、出版業界はこの10年以上、
毎年、500億もの減収となっている。
それなのに、出版点数は増える一方で、
書店には本があふれかえっているのは、どうしたことだろう?

それだけに、本の寿命も短くなっていて、
かつては、岩波新書や中公新書といえば、
10〜20年は流通するほどの寿命があったが、
今では新書の寿命は、一年あるかないかだし、
文庫にいたっては、ごく一部の古典をのぞくと、
新刊書同然の消費のされかたである。

こうした状況のなかで、文芸書の市場は、
縮小の一途をたどっており、小説ならば、
エンターテイメントが、かつての純文学ていどの売上に、
純文学は、かつての学術書なみの売上になってしまった。

では、詩集はというと、もともと売れるものではないので、
相変わらずというところだが、
一方で茨木のり子や加島祥造のように、
20万部、40万部といったベストセラーが、
現れたりするのが、面白い。

詩集というものは、初心に帰るならば、
私家版でも構わないわけで、
これからは、注文部数だけを適宜、制作していく、
オンデマンドでの出版も考えていくべきだろう。

DTPで版下まで制作できれば、オンデマンドの場合、
20、30万円ていどで出版が可能になるという。

また、版下を制作できれば、出版社に刊行を委ね、
別装の著者本を制作するのも難しくない。

現在、知人がオンデマンドでの出版を試しているところだが、
私もさまざまな形での本造りを考えていきたいと思っている。
posted by 城戸朱理 at 09:06| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月09日

女性誌の新しい方向性

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書店で、女性誌のコーナーを久しぶりに覗いて驚いた。

出版不況が言われて久しく、
女性誌の不振もよく話題になるのに、
新雑誌が次々と創刊されて、
競合がますます激しくなっているではないか。

女性誌の内容は、ファッション・コスメ・グルメなどが中心で、
内容的にそれほど変化があるわけではない。

しかし、90年代よりも年齢による細分化が進み、
30代向け、40代向け、50代向けといったように、
年齢別に読者層を想定した雑誌が登場し、
結果として、数が増えたようだ。

もともと雑誌の読者数は、
決して増えているわけではなく、減少傾向にあるで、
雑誌数が増えるということは、
読者を取り合うことになり、
各雑誌の部数は、ますます伸び悩むことになる。

それでも女性誌が増えているのは、
こうした雑誌が、実際の売上ではなく、
広告収入によって、利益を上げる体質になっているからなのだが、
雑誌媒体への広告費じたいが落ち込んでいる今、
やはり、読者のみならず、
広告費も決まった額を
競合誌で奪い合うことになるわけだから、
結果としては、やはり出版不況を招くことにしかならない。

本が売れないから、出版点数を増やし、
出版のハイパーインフレーションを招いた結果が、
出版不況だったわけだから、
同じことを女性誌市場も繰り返していることになると言っていい。

そして、広告収入に頼っている以上、
その誌面は、読者の購買意欲を誘うように編集されるわけだが、
この不況下で、およそ、80年代、90年代と変わらぬ
編集の仕方で、ひたすら購買を促すという
雑誌のあり方じたいが、
時代から取り残されていくのも仕方がないことだろう。


ところで、そうしたなか、
ある女性誌に意外な特集を見つけた。

その雑誌とは「STORY」(光文社)1月号。

特集は、〈時には、「買わない知性」もある私〉というものだった。

内容的には、新しい洋服やバッグを買わずに、
流行遅れになって、タンスに眠ったままの洋服を
今風にリフォームしたり、
昔、流行ったアクセサリーやバッグを
コーディネートで現代風にアレンジするというもので、
巻頭に高価なハイブランドの広告が並ぶ
女性誌には、まったく異例の特集と言っていい。

不況だから買わないのではなく、
「買わない知性」でもって、
手持ちのものを生かすという特集では、
読者の購買意欲をそそることはできないが、
こうした特集が時代の要請であるのも間違いないと思う。

ただし、この特集、何度も組むわけにはいかないだろうが。
posted by 城戸朱理 at 01:48| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月17日

団塊の世代の蔵書について

京都で林哲夫さんと山崎書店の御主人が話していたとき、
団塊の世代の蔵書のことが話題になった。

団塊の世代もリタイアの年代を迎え、
蔵書を整理しようとする人が増えている。

しかし、古書業界では常識なのだが、
全共闘・団塊の世代の蔵書は、
まったくと言っていいほど値がつかない。

よほどの趣味人を除くと、
その世代の蔵書は、団塊の世代以外は、
今や読む人がいない吉本隆明を中心とした
思想書や社会学系の本ばかりで、
しかも人口が多いわりには、価値観が画一的なため、
同じような本ばかりが書架に並ぶ傾向があるからだ。

そうなると、人口が多いだけに、
同じ本が大量にあることになり、稀少価値は、まるでないし、
団塊の世代が信じているほど、
彼らの読んでいたものに永続性があるわけでもない。

もちろん、これは、どの世代であっても同じことだが、
それが分かっていないのが、団塊の世代の特徴かも知れない。

しかも、若い時分には熱心に読んだ分だけ、
線引きや書き込みがある本が多い。

そうなると、ますます値はつけられなくなる。

古書店としては、当然、売れもしない本を
引き取るわけにはいかないから、
結局、団塊の世代の蔵書のあらかたは、
有料の廃棄物として処理するしかないことになる。

これは古書業界においては、
ベストセラーはゴミにしかならないという常識が、
ある世代をめぐって起こったとでも
言うしかないような出来事であり、
団塊の世代の完全なリタイア後に、
古本の世界がどう変わるのかは、
なかなか楽しみでもある。
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2008年12月02日

『藤富保男詩集全景』(沖積舎)

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藤富保男氏の実質的な全詩集が刊行された。
題して『藤富保男詩集全景』。

未刊行詩集を含む29詩集を集成し、
1160ページを超える大冊である。

装幀は、伝説の視覚詩人、高橋昭八郎によるもの


詩人24歳の第一詩集『コルクの皿』から、
78歳にして、今年刊行された新詩集『逆説祭』までを収め、
ユーモアに満ちたエレガントな前衛でありつづける
稀有なる詩人の全景を提示する待望の一冊と言っていい。


栞には、私も解説の短文を寄せているが、
関西で新たに商業誌として創刊された「びーぐる」も
「北園克衛と藤富保男」特集を予定しているし、
日本現代詩歌文学館でも藤富保男展が企画されていると聞く。

藤富保男の仕事の本当の評価が、
今まさに始まろうとしている。
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2008年11月04日

フリーマーケットで買った絵本

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私の住まいから近い自動車販売店を会場にして、
年に何度か、フリマをやっている。

出店しているのは、主婦の方々なので、
並んでいるのは、婦人服やらバッグがメインなのだが、
子供服や頂き物の箱に入ったままの
未使用のグラスや食器類なども並ぶ。

別に欲しいものもないが、
フリマというのは、他人の家のなかを覗くような
不思議な感覚があって、奇妙な気分になるものだ。

日曜日にフリマをやっていたので、
覗いてみたら、子供服やディズニーのビデオと一緒に、
絵本が並んでいるブースがあった。

しかも、ひと目でそれと分かる
井上洋介の絵本があるではないか。

百円だったので、
さっそく求めたのだが、
それが、写真の『おどりのすきなとら』(太平洋出版社)である。

作・松谷みよ子、絵・井上洋介で、1999年刊行の初版。

物語は朝鮮が舞台で、悲しくもユーモラスなもの。

絵は期待通りに、自在で素晴らしく、
李朝の民画を思わせる虎がたくさん出てくる。


私の愛読書に清時代の蒲松齢『聊斎志異』があるが、
怪異談四百余話を集成する志異を
名訳の誉れ高い柴田天馬訳、
角川文庫の分厚い4冊本で
初めて読んだのは15歳のときだった。

その角川文庫は、今でも大切にしているが、
この挿し絵が、やはり、井上洋介によるもので、
私にとっての「東洋」とは、
井上洋介が描く世界の
イメージなのかも知れないと思うことがある。

『おどりのすきなとら』も、まさに、そんな東洋の世界。

一冊の絵本から、歴史のひとこまが、
映像をともなって、浮かび上がってくるような気がする。
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2008年11月02日

京都の古書市で買った本



関東大震災と太平洋戦争で、あらゆるものが焼けてしまった東京と違って、戦災にあっていない京都では、古いものが、いまだに生き残っている。


そして、本もまた例外ではない。


知恩寺の「秋の古本まつり」を歩いて、そのことを痛感した。

青空古本市だというのに、戦前の本や江戸時代の和綴じ本まで並ぶ光景は、東京では決して見ることができないものと言えるだろう。


百円均一の棚から始まって会場を歩き回り、私が求めたのは、次のようなものである。

石川淳『夷斎小識』(中央公論社)、昭和46年・初版。

井伏鱒二『小黒坂の猪』(筑摩書房)、昭和49年・初版。

この2冊は、ともに百円。
小説の名手によるエッセイ集である。

ロアルド・ダール『オズワルド叔父さん』(早川書房)、昭和58年・初版、田村隆一訳。

この一冊は二百円均一棚から見つけた。


田村隆一訳ロアルド・ダールといえば、『チャーリーとチョコレート工場』の名訳があるが、こちらは、大人のためのエロチックなメルヘン。

西脇順三郎『あざみの衣』(大修館書店)、昭和36年・初版。

西脇順三郎のエッセイ集。1500円。

これは、すでに持っているが、安かったので、求めた。
いずれ、誰かにプレゼントしよう。

岩倉具忠訳註『ダンテ俗語詩論』(東海大学出版会)、昭和59年・初版。4000円。

学術語であったラテン語ではなく、イタリア語のトスカーナ地方の方言で、『神曲』を書いたダンテによる詩論。

すでに図書館で読んではいるが、いずれ手元に置こうと思っていた一冊。

増谷文雄『阿含経典』(筑摩書房)全4巻。6000円。

阿含(あごん)経典は、釈尊の言行をとどめる初期仏教の経典群だが、それを増谷文雄がパーリ語原典から口語訳したもの。

この経典群なしには、釈尊の思想も仏教も理解できないのは言うまでもない。

中村元訳の岩波文庫で、主要なものは読めるが、増谷文雄訳も参照してみたいと思って、購入した。

以上8冊。資料として求めたものや、関心があるものを求めたのだが、石川淳と井伏鱒二のエッセイ集あたりをのぞくと、いささか面白みのないセレクトで、やはり、もの書きの買い物という気がする。

それにひきかえ、林哲夫さんや、その仲間たちが選ぶ古本は、『ナマコとウニ』とか(!)、団地生活の入門書の『ホーム・ガイド』とかユニークな本ばかりで、視点が違うのが面白かった。

しかし、自分が関心をもって求めたものや、資料や書評用、そして献呈本と、一年に2千冊を超えるペースで、本が増え続けているわが家で、私が『ナマコとウニ』まで手を出し始めたら、足の踏み場さえなくなるのは、火を見るよりも明らかである。

あと、私がアスタルテ書房で求めたのが、
富澤赤黄男の句集『天の狼』復刻版(沖積舎)。

これは昭和16年に刊行された前衛俳句のモニュメントを復刻したもので、350部の限定版。


蝶堕ちて大音響の結氷期


赤黄男(かきお)のこの一句は、俳句が現代詩でもあることを高らかに宣言したものと言っていい。

平成16年に出た本だが、現物と出会うまで、刊行されたことさえ知らなかった。

古本屋では、そういう本と出会うことがあるのが面白い。

結局、以上の9冊を京都で求めたのだが、かなりの重さになるためルイ・ヴィトンのボストンバッグに詰めて、宅急便で送り出した。

荷重20s以上に耐えられる鞄は、ルイ・ヴィトン以外には、そうないが、ジョージ・クルーニー主演の映画「スリーキングス」では、金塊をヴィトンに詰めて運ぶシーンがあったっけ。

本好きは、金塊ではなく、本を運搬するために、ひたすら頑丈な鞄が必要なのである(?)。
posted by 城戸朱理 at 08:27| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月12日

鎌倉の古書店を散策すると



鎌倉の古書店には、黒っぽい本が多い。

ちなみに、古書業界では、出版されてから、それほど時間がたっていない本を「白っぽい」、時間がたっている本を「黒っぽい」と呼ぶので、鎌倉の古書店には古い本が並んでいることになる。

それだけに、散歩がてら何軒かを覗くのは、時間をさかのぼっていくような感覚があって、なかなかに楽しい。


まず、鎌倉駅東口を出たら、左手の小町通りに入る。

この小町通りを中心に3軒の古書店を回ることができる。

最初の交差点を左折し、踏切を超えた左側にあるのが游古堂。

ウィンドウには、古伊万里などの骨董が積まれているが、なかはれっきとした古本屋である。

ここでは、萩原朔太郎『詩の原理』や、折口信夫『死者の書』、小林秀雄『無常といふこと』などの初版本を始めとして、あれこれと本を求めてきたが、2回に1度は何か買うものがあるほど、充実している。


再び、小町通りに戻って、駅を背に直進し、3つ目の交差点を左折して、すぐ右手にあるのが、藝林荘。

美術書を始めとして、能、茶の湯、歌舞伎など古典芸能関係の本や鎌倉本を扱う。

骨董や陶芸関係の本があるのも嬉しい。


さらに小町通りを鶴岡八幡宮方向に向かって歩いていくと、左側にあるのが、木犀堂。

ここは、文学や美術書を扱い、本のコンディションも良い。

ガラスケースのなかには、志賀直哉『暗夜行路』初版や、小林秀雄のサイン本などが並び、平台にディスプレイされた本もユニークならば、
品揃えも素晴らしく、志賀直哉のサイン入り『樹下美人』や、『ヘルダーリン全集』など、この店で求めた本も、たいへん多い。


御主人に頼んで、田村隆一のエッセイを何冊か、探してもらったこともあるが、御主人が生前の田村さんを訪ねたときの話も面白かった。

先日も、私の座右の書である柳宗悦『蒐集物語』初版を棚に見つけて、迷っているところである。

鎌倉駅をはさんで反対側の由比ヶ浜通りにある公文堂も、ときおり立ち寄るが、ここも黒っぽい本がずらりと並んでいる。

せっかく鎌倉に住んでいるのに、外出が多くて、古本屋を覗きがてら、ふらりと散歩に行くことがあまり出来ないのは、残念なことのひとつだ。
posted by 城戸朱理 at 08:31| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月16日

澤田直訳編『海外詩文庫 ペソア詩集』(思潮社)

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異名者、フェルナンド・ペソア(1888〜1935)。

20世紀を迎えたポルトガルの詩人たちにとって、
最大のテーマは、ルネッサンス期の
叙事詩『ウズ・ルジアーダス』の作者にして、
国民詩人、ルイス・デ・カモンイスを
いかに超えるかであったという。

そうしたなかで、姿を現した巨人が、ペソアだった。

彼の作品は、本人以外にも、
無数の異名者の署名のもとに発表されたが、
それは近代的な自我の解体であるとともに、
人間の不可解な複数性を
明らかにするものでもあったと言えるだろう。

その意味では、エズラ・パウンドの
「ペルソナ(仮面)」の詩法などとも
通底するものがあるわけだが、
ペソアの詩は、今日、書かれているあらかたの詩よりも
はるかに新しく、衝撃的である。

待望久しいペソア詩集が、
最適の訳者を得て刊行されたことを喜びたい。
posted by 城戸朱理 at 01:10| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月03日

『ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ自叙伝』(アスフォデルの会訳、思潮社)

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20世紀初頭。まだ、アメリカが、文化的にも
「なかば野蛮な国」(エズラ・パウンド)だったころ、
若い芸術家は、ヨーロッパを意識し、
大西洋を超えて、ヨーロッパに渡ったが、
そうしたなか、ただひとり、アメリカに留まり、
アメリカン・イディオム(アメリカ語)の
詩の可能性を切り開くとともに、
「土着」の意味を追求し、
ビート・ジェネレーションを始めとする
後続世代に絶大な影響を与えた
モダニズムの巨星、ウィリアムズ。

その大部の自叙伝の翻訳が、ついに刊行された。

これは、芸術の「レポック・エロイーク(英雄時代)」と呼ばれた時代の
貴重な証言であるとともに、
生き生きとしたダイアローグが印象的な
アメリカ語による、先駆的な仕事であり、
魅力的な文学作品と言えるだろう。

この大著の翻訳を成し遂げたのは、
1972年以来、今は亡き十国修氏を中心に、
四国でウィリアムズに取り組んできた
十川敬、蓮井宣昭、今西弘氏によるアスフォデルの会。

会の名称は、ウィリアムズ最後の詩集『ブリューゲルの絵その他の詩』に収められた長篇詩で、
オクタビオ・パスが、現代における愛の詩として
絶賛したウィリアムズの名篇、
「アスフォデル、あのみどりの花よ」に由来するものである。

まだ、電子辞書など存在しなかった時代に、
私も、分厚い『ランダムハウス英和辞典』をかたわらに、
この原書を読みすすめたものだった。

それが、日本語で読むことができる日がきたことを喜びたい。

アメリカ詩のみならず、20世紀の前衛芸術に
関心を持つ人ならば、必読の一冊である。
posted by 城戸朱理 at 05:56| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする