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城戸朱理のブログ: エッセイ

2017年10月21日

機屋でコーヒー&ポストカード

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10月15日(日)。

グランドホテル・アネックスをチェックアウトして、まずは自宅用のコーヒーを買うべく機屋へ。


80年古木ティピカ種のグァテマラが100gだけあったので、それと、珍品だというエチオピア・サンイルガチェフ、それにコロンビア各200gを包んでもらった。


バンビことパンクな彼女は、ロケ中、自分で淹れていたスマトラ・マンデリンを、私はヤンニハラールモカ中深煎りをオーダー。

やはり、お湯の温度に細心の注意を払ったネルドリップだけに、お店で飲むコーヒーは複雑な味わいである。


さらにバンビは、大通りのさわや書店で買った岩手の風景写真のポストカードを取り出し、手紙を書き始めた。

私も勧められたので、30年近く愛用しているモンブランのマイスターシュテュック149を取り出し、友人に葉書を書く。


バンビは、旅先で必ず友人に葉書を書いているが、楽しい習慣だと思う。
posted by 城戸朱理 at 09:53| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月19日

ロケに立ち会うときの靴とスタイル

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久慈の小袖海女センターでのロケは氷雨のなかで、すっかり冷えきってしまったが、私はタートルネックセーターにカシミアのジャケット、さらに防水性の高いパーカにジーンズという重装備で臨んだので、凍えないで済んだ。


柳美里さんに「城戸さんがジーンズって珍しいですね」と言われたが、ロケのときはジーンズとスニーカーが必須である。




今回は、新幹線の車中ではスーツにチャッカブーツ、沿岸のロケのときは、水に強くグリップがいいパラブーツのUチップを履いていたのだが、

フランスのパラブーツは、オイルを染み込ませたリスレザーを使っているので、撥水性が高く、雨雪に強いので、旅やロケの立ち会いのときには重宝する。




チャッカブーツは、1921年創業、イタリアのストール・マンテラッシのもので、フィンランドやニューヨークにも持参した。


ストール・マンテラッシは、イタリアの名優マルチェロ・マストロヤンニが愛用したことが知られているが、イタリアで長く暮らしたエズラ・パウンドも顧客だったので、私には思い入れがある。




スニーカーはルイ・ヴィトンのハイカットを持ったのだが、これは結局、ホテル内でしか履かなかった。




テクニカル・スタッフはロケのとき、登山用品を愛用している人が多いが、機能性を考えると、それが正しい選択なのかも知れない。
posted by 城戸朱理 at 15:36| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月18日

美里&バンビの腹のさぐり合い???

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柳美里さんとバンビことパンクな彼女が並んで立っている。

すると、柳さんの手がバンビのお腹にそっと伸びていく。

バンビのお腹を確認して、笑顔になる柳さん。

すると、バンビの手が柳さんのお腹に。

今度は、柳さんが固まる。


毎度、恒例、美里&バンビの腹のさぐり合いである。


こうやって相手が、どれくらい太ったかを確認してから、ふたりで何キロ太ったと報告しあって、
来年の夏までにダイエットしてビキニを着ようと盛り上がるのだが、毎年、同じことをしているような気がする。


コーチも交えて毎週走っては、マラソン大会にエントリーしていた2009年には、柳さんもバンビも一気に痩せてしまったが、
その後、柳さんは南相馬に転居してしまったし、ランニングはひとりで走ると味気ないものだから、どうしても運動不足になるのは仕方がない。

だいたい、仕事に追われると、運動する時間を確保するのも難しいのが現実だろう。


バンビは定期的にプールに泳ぎに行く計画を立てていたが、はたして、どうなるか。

来年の夏が楽しみである。


恒例、腹のさぐり合いが終わったところで、記念撮影。

浄土ヶ浜をバックに、ふたりがポーズを決めたところで、井上春生監督の「もっと傘を高く上げて下さい!」という指示が入る。


さすが、井上監督、資生堂のCMを手がけ、北川景子から平祐奈までアイドル映画も手がけてきただけに、スナップでさえ見事なディレクションだった。



(撮影=井上春生)
posted by 城戸朱理 at 16:21| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月09日

土方巽の漬物と大野一雄の鮭



1985年に、私が第一詩集『召喚』を刊行して間もないころ、ひと抱えもある宅急便が届いた。

差出人を確認して、愕然としたのを今でも覚えている。


「アスベスト館 土方巽」


なんと、舞踏の創始者からの宅急便ではないか!


慌てて開けてみると、出てきたのは木桶で、中身は金沢の鰤と蕪の漬物だった。

手紙も何も添えられておらず、届いたのは漬物だけ。

訳も分からぬまま、いつか、土方さんにお会いする日が来たときにお尋ねしようと思ったのたが、翌年、1月21日に、土方巽は世を去った。

あの漬物は何だったのだろうか?


それから、17年後。

あれは、2002年のことだったと思う。

ある日、大きな宅急便の包みが届いた。

差出人は、大野一雄先生である。

大野先生が何を送って下さったのだろうと、急いで包みを開けてみたら、なんと大振りな時鮭が出てきた。

やはり、手紙などは添えられていない。

鮭が一尾。

時鮭がまるごと一尾。

時鮭(ときしらず)は、夏に水揚げされる白鮭で、産卵期ではないため、身に脂が乗っている。

出刃包丁でさばき、絶品の時鮭をいただいたのだが、こちらは翌日、大野先生からお電話があって、先生から問い合わせがあった詩篇が収録されている詩集を私が調べてお伝えしたことへのお礼であることが分かった。


しかし、この二度にわたる突然の贈り物のおかげで、私のなかでは舞踏家のイメージが、鰤と蕪の漬物や時鮭と繋がってしまったのも事実である。

突然、送られてくる発酵食品やまるごとの魚。

それは、土方巽の「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」という言葉と響き合うような気がしないでもない。
posted by 城戸朱理 at 15:59| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月06日

デニムの聖地、岡山

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岡山は、デニムの産地として世界的に名高い。


先日、和光大学でパウンド協会の合宿があったとき、遠藤朋之准教授が面白いデザインのジーンズを穿いていた。


聞けば、岡山の児島ジーンズだという。

デニム地とストライプ地が切り返しになったジーンズで、Tシャツには漢字で「次男」というプリントが。

大学の先生とは思えぬユニークなコーディネートだが、よく似合っていた。


遠藤くんは、児島ジーンズの前に、やはり岡山の鬼デニムを購入したそうだ。

鬼デニムはブランド名で、70代の老職人しか扱えない古い織機でデニムを織り上げている。

雑誌等の取材は受けないので、知る人ぞ知るデニム。

なんと、20オンスという極厚のデニムで、遠藤くんによると、馴染むまで半年はかかるらしい。

古い力織機で織られたセルビッチのリーバイスXXデニムでも14オンス、それでも、まるでベニヤ板のようなのだから、それを上回る頑健さだろう。


今や、世界に流通しているジーンズの三分の一は、中国で生産されている。

中国のデニムの産地は新塘(しんたん)で、日産が、なんと80万本。

年間だと2億9200万本で、その40%が、アメリカのウォルマートなどの廉価店に流通している。


それに比べると、岡山デニムは、ごく少量しか生産されておらず、生地、縫製ともに世界最高の品質を誇る。

なにせ、アメリカではセルビッチデニムを織ることが出来る工場は今やコーンミルズにしかないが、岡山ならば、いくつものメーカーが古い力織機を所有しているほどなのだ。


ジョルジオ・アルマーニやラルフ・ローレンが、ハイエンド・ラインのジーンズを岡山に発注するのも納得できるが、鬼デニムは、東京だとアメ横でしか手に入らないらしい。


今度、遠藤くんに連れていってもらおう。

上野で美術館を見て、アメ横に回ったら、さぞや楽しいに違いない。


ジーンズは、かなり持っているが、この何年か穿いていなかったので、久しぶりに引っ張りだした。

数えてみたら、リーバイスが6本(うち3本がXX)、アルマーニが9本、ラルフ・ローレンが3本など、計20本もある。

横浜に行くとき穿いたのは、アルマーニ・ジーンズ。

大腿部にデニムと同色の糸でイーグルが刺繍され、ダメージ加工をほどこした一本で、パラブーツに合わせたが、デニムだとオールデンのコードバンとの相性もいい。


今年の秋は、ジーンズで過ごすことにしよう。
posted by 城戸朱理 at 18:05| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月02日

ウタマロ洗濯石けん

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かつてなら鎌倉の海岸を歩くと、よく目についた桜貝がほとんど見つからなくなってしまった。

桜貝は、汚れた海には棲まないので、水質汚染の目安となるが、それだけ鎌倉の海も状態が悪くなったのだろう。

バンビことパンクな彼女は、桜貝を見つけると拾ってガラス瓶に入れているが、ほとんど増えない。


水質汚染の原因は、家庭排水である。

とりわけ、環境に悪いのは、界面活性剤を使った各種洗剤と食用油だと言われている。


それもあって、わが家では、食器洗いも洗濯も石鹸を使っている。

入浴時もボディソープなどは一切、使用せず石鹸である。


バンビが、浴室に新しい石鹸が出してくれたのだが、ミントが配合されていて、爽快感が夏にふさわしい。

これは、ハワイのノースショアの手作りソープ・ショップで買ったものだったっけ。


シリアのオリーブオイルを主原料とする無添加のアレッポの石鹸は、必ずストックしてあるし、消耗品だから、
旅先でも機会があるたびに石鹸を求めているが、京都の東急ハンズで、石鹸を物色しているとき、写真の「ウタマロ洗濯石けん」なるものを見つけた。


「ウタマロ洗濯石けんなら、昔からあるよ!」とバンビ。


私は知らなかったので、試しに買ってみた。

旅が多い生活を送っているので、入浴時に下着やハンカチなど細かいものを手洗いするのが習慣になっているものだから、浴室に置いて使ってみたのだが、これが実に優秀で、必需品になってしまった。

とりわけ、白い衣類を白く洗い上げるための部分洗いに威力を発揮する。

シャツの襟の汚れは、繊維の奥に入り込んだ皮脂が酸化したものだが、ウタマロを使うと、黄ばみまで消えるのだ。

長寿の商品には、やはり長寿の理由があるらしい。
posted by 城戸朱理 at 22:47| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月01日

レコード、カセット、写ルンです

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あらゆるものがデジタル化され、情報として流通するようになった時代に奇妙なことが起こっている。


カメラ付きが当たり前のスマートフォンとデジタルカメラの普及で、今や誰でも気楽に写真を撮れる時代だが、
カメラ女子と呼ばれる写真好きの女性を中心に、ひそかに「写ルンです」が人気を呼び、雑誌で特集まで組まれた。

若手写真家の奥山由之さんも「写ルンです」を愛用していたりする。


「写ルンです」は、富士フィルムが、1986年に発売した、レンズ付きフィルム。

一般には、使い捨てカメラと思われているが、正しくは「レンズ付きフィルム」である。

絞りもシャッタースピードを気にせず、デジカメと同じように気楽に撮影できるが、現像して紙焼きするまで、どんな写真が撮れたかは分からない。

それだけ、手間がかかるわけだが、若者にはコピーもレタッチも出来ない一回性と、デジカメとは違うフィルムの質感が、逆に新鮮に映るらしく、思いがけないアナログ回帰が起こっている。

「写ルンです」のみならず、やはり富士フィルムのインスタントカメラ、チェキの人気も再燃しているが、同じ理由だろう。

あのライカが、インスタントカメラ「ゾフォート」を発売したのも、そうした流れを汲んだものなのだろうか。

私もライカ「ゾフォート」を発売直後に購入したが、インスタントカメラは、一眼レフとは、また違う楽しさがある。



さらに、今や、CDよりも配信が中心になった音楽業界でも、レコードとカセットが売れるという不思議な現象が起こっている。

20世紀の遺物と思われていたカセットが復権する日がくるとは思ってもみなかったが、ジャスティン・ビーバーが、

アルバム「パーパス」をリリースするとき、カセット版も出したのがきっかけとなって、音楽ファンの間で人気が再燃したらしい。



また、レコードの売上げも、飛躍的に増加しているが、こちらは分からないでもない。

CDは、人間の可聴音域以外の低音域と高音域をカットしているが、レコードには、人間の耳には聞こえない音まで録音されている。

そのため、音に広がりと深みがあり、コアな音楽ファンは、CDの時代になっても「ヴァイナル」と呼ばれたレコードを探して歩き回ったものだった。


その傾向が、最近、世界的に加速し、アメリカでは、アナログ・レコードが、前年比49%アップ、800万枚ものセールスを記録したという。

イギリスではレコードの売上げがデジタルを上回ったほどで、日本でも、2009年に約10万枚と最低を記録したレコードは、2015年には約66万枚と売上げが増加している。


こうした一連の動きは、たんなるアナログ回帰なのではなく、むしろ、身体性に関わるものなのかも知れない。

そして、これは書物はもちろん、実は詩にも関わる問題なのではないだろうか。
posted by 城戸朱理 at 13:39| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月31日

またもや、金魚注意報!!!

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お小遣いをあげたら、バンビことパンクな彼女が、さっそくパタパタと出かけてしまった。

そして、嬉しそうに帰ってきたのだが――


「金魚を買ってきたよ!」
!!!


バンビは、御成通りのペットショップに寄って出目金を買ってきてしまったのである!


「黒いコと赤黒のコと白赤のコの3匹にしたんだよ!」
・・・・・・


「黒いコが、形がシュモクザメっぽいから、シュモクちゃんだよ!」

サメとは、ほど遠いと思うのだが――

「白赤のコは、モヒカンちゃん、赤黒のコは根来ちゃんでどうかな?」

根来!?


紀州の根来寺で使われていた漆器は、黒漆のうえに朱漆を塗り放ったもので、根来塗りと呼ばれる。

使ううちに朱漆が剥げ、下地の黒漆がのぞくようになる。
そうした経年変化を、骨董の世界では珍重するのだが、金魚に漆塗りの名前を付けるのは、やはりヘンである。



しかし、バンビは得意気だから、何を言っても無駄だろう。


とりあえず、白いボウルに出目金を入れて、モミーこと「もみじ」の金魚鉢の隣に置いたのだが、モミーも「なんかいる」といった様子で、ボウルを覗いているのが面白い。


それにしても、増えるのは金魚ばかりとは、これいかに?
posted by 城戸朱理 at 12:44| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自由の意味???

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「んふ」

バンビことパンクな彼女が、情けない声を出している。

どうしたのだろう?


「最近、お小遣いをもらってないんだよ」
!!!

「前はもっと貰えたのに」
・・・

「懐かしのお小遣い」


「郷愁のお小遣い」
!!!


よくもまあ、あれこれ思いつくものである。

あまりに面白いので、500円玉貯金から2万円分をお小遣いにあげることにした。


「やったね!」

「いいコにしてた甲斐があったなあ!」

「いいコ」になるのは、お小遣いをもらうときだけなのである。


「自由に使っていいお金、お小遣い」

お小遣いなのだから、当たり前だが。

「自由の響き、お小遣い」
!!!


どうやら、バンビの頭のなかでは、お小遣い=自由という変換がなされているらしい。


「じゃ、行ってくるよ!」
!!!!!!


そして、どこかにバイクで出かけてしまったのである。


さっそく、お小遣いを使おうという魂胆なのは間違いない。


パンクだから仕方がないが、いいのだろうか、これで?
posted by 城戸朱理 at 12:44| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月30日

戦争の記憶、その4〜「暮しの手帖」特集「戦争中の暮しの記録」

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由比ヶ浜通りの古書店、公文堂で、先日見つけたのが、「暮しの手帖」1968年夏季号である。


これは、一冊まるごと、戦争中の生活の記録なのだが、読者から募集したエッセイによって編まれたもの。

応募総数は、1736篇だったという。


ふだん文章を書くことがない方々の、これだけは書き残しておきたいという思いが、紙面からあふれ出るようで、雑誌とは思えぬ重量感がある。


東京大空襲の話がある、広島と長崎の原爆被害の話がある。

経験者の語る記憶は、いずれも壮絶としか言いようがない。


「詩と思想」の座談会でお会いした元朝日新聞のジャーナリスト、徳山喜雄さんによると、この特集号は、刊行当時のみならず、その後も折りにふれて話題になったものだというが、読んでいると納得できる。


戦時中は、地域によって程度の差こそあれ、誰もが食糧難に直面した時代でもあった。




 すべての物は品すくなく、第一番米が配給、始(はじめ)はよかったが、だんだん少なく、一ヵ月に五、六日分、十七才を頭(かしら)に親子六人家族、食べ盛りの小供で、毎日食料さがしで必死の思い、山へ川へ、口に入る物なら何んでも取り、
(「さまざまのおもい」静岡市・村上せん)



「犬をつれて」(三鷹市・池田ゆき子)という一篇を読んでいたら、思いがけない話があった。



配給のお米が、細長い外米から、次第にとうもろこしのくだいたものや、高粱や糧秣厰で研究して藁から作ったという白い粉末など、見たこともない物が配給されるようになると、もう、動物、ことに犬はなるたけ供出するようにという回覧板がまわった。



人間が食べるものがないのだから、犬を飼っている場合ではないということなのだろうが、供出された犬は、殺して毛皮を飛行帽につけるということだったそうだ。

筆者は、知恵をしぼって愛犬を守るのだが、戦争がペットにまで影響するとは考えたことがなかった。


空腹のあまり、沼でカエルを捕まえ、家族でむさぼるように食べた話もあったが、とにかく誰もが空腹だった時代、そして、死体がまわりに転がっていたような時代。


「あとがき」で、花森安治編集長は「編集者としてお願いしたいことがある。この号だけは、なんとか保存して下さって、この後の世代のためにのこしていただきたい」と語っている。


編集部に再版を望みたい一冊だ。
posted by 城戸朱理 at 11:57| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月24日

大岡信さんと会食したときに



大岡信さんが亡くなり、「現代詩手帖」を始めとして追悼特集が相次いで組まれたが、ふと思い出したことがある。


1998年のこと。

『現代詩文庫 続続・大岡信詩集』に、私も作品論を執筆したのだが、やや長めだったため、所定のページ内におさめるべく、担当の佐藤一郎氏とやり取りしながら、原稿を削るのに苦労したことがある。

そして、「現代詩文庫」が刊行されてから、「詩人論・作品論」の執筆者だった永原孝道、野沢啓両氏と私を、大岡さんが招いて下さり、恵比寿のフレンチで御馳走になったことがあった。


そのとき、大岡さんが備前の陶芸家、藤原雄氏と親交があることを知り、藤原雄氏が人間国宝になったことをお伝えしたら、大岡さんが大層、喜ばれていたのを覚えている。

大岡さんは、海外にいらっしゃることが多く、藤原雄氏が人間国宝に指定されたことを御存知なかったのだ。


備前で人間国宝の指定を受けたのは、桃山陶を復元し、「備前焼き中興の祖」と呼ばれた金重陶陽が最初で、陶陽没後には、藤原啓が指定を受けた。

藤原啓は、詩人を志し、生田春月との共著で『ハイネの訳詩集』も刊行しているが、自分の才能に限界を感じて備前に帰り、40歳から陶芸の道に入ったという変わった経歴の持ち主である。


藤原啓のあとは、轆轤の名手として知られる山本陶秀が人間国宝になり、1994年に陶秀が没して、2年後に藤原雄が人間国宝の指定を受けたのだった。

藤原雄は、藤原啓の長男なので、親子で人間国宝になった唯一の例だが、生まれつき弱視で、視力がほとんどなく、そのためか作品は肉感的で、独特の魅力がある。


実は、人間国宝になる前に、藤原雄作のぐい呑みを求めたことがあるので、大岡さんが親交があることを知って驚いたのだが、美術家と交流が深かった大岡さんが、陶芸家と交流があったのも、今にして思えば、当たり前かも知れない。
posted by 城戸朱理 at 10:19| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月23日

戦争の記憶、その3



藤原てい『流れる星は生きている』(中公文庫)を久しぶりに読み直した。

記憶が定かではないが、この本を初めて読んだのは、小学生のときだったかも知れない。

そうだとすれば、久慈小学校5、6年の担任だった高橋武志先生の影響だろう。

私は父の転勤で、盛岡の仁王小学校から久慈小学校に転校し、中学2年まで久慈で過ごした。

NHKドラマ「あまちゃん」の舞台となったところである。


当時、高橋先生は、まだ若く、独身。

授業は面白く、生徒にたいそう人気があった。

高橋先生の影響で、歴史好きになった生徒も多く、私もそのひとりだった。

忘れがたい先生だが、もし、小学生の私が『流れる星は生きている』を読んだとすると、高橋先生の影響しか考えられない。


本書は、終戦間際の昭和20年8月9日、ソ連参戦の夜から始まる満州からの引き揚げの記録。

満州新京の観象台に勤務していた夫と引き裂かれた著者が、6歳、3歳の長男と次男、生後一ヵ月の長女、3人の子供を連れて、満州から朝鮮半島を経て、帰国するまでの脱出行であり、昭和24年の刊行時には、ベストセラーになったという。


歩いて、38度線を超え、アメリカ軍に助けられるまでの道行きは、壮絶で、足の裏は肉まで無数の小石が食い込み、医師から摘出の処置を受ける。

故郷の諏訪にたどり着いたときには、栄養失調で、幽霊そのままの姿であったという。


再読するのは、久しぶりだが、いくつも覚えている場面があった。


著者の夫君は、満州で丸一年の捕虜生活を送ったが、帰国。

ちなみに、夫君は作家の新田次郎である。

「あとがき」によると、夫婦の間でも「引き揚げ」の話は禁句だったというが、語り合うことさえ、はばかられるほど過酷な体験というものがあるのだろう。


私の母方の伯父も、シベリアに抑留され、その死を覚悟した家族が葬儀を営んでから、突然、帰国して、みんなを驚かせたが、シベリア時代のことを語ることはなかったそうだ。
posted by 城戸朱理 at 12:19| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月22日

戦争の記憶、その2



佐藤勝彦という画家がいる。

画壇に属さぬ、この画家のことを私が知ったのは、古本屋で手にした季刊「銀花」の特集号「佐藤勝彦 現代仏道人生」(1974)によってだった。

当時の「銀花」の発行部数は、7万部。なんと、佐藤勝彦はこの特集のために編集長の要請に応えて、7万枚もの絵を描き、全冊にに肉筆の絵が封入されている。



当時、佐藤さんは高校で美術の教師をされていたはずだが、季刊雑誌のスパンで7万枚の絵を描くのは、常軌を逸した試みとしか言いようがない。

それ以来、古書店で目にするたびに、肉筆画を確認しては、「銀花」同号を求めたので、10冊ほどが手元にある。


今では実現しえない企画だろう。



佐藤勝彦氏は、1940年、満州大連生まれ。終戦の2年後、1947年に貨物船で日本に引き揚げたという。


その佐藤氏が、「銀花」の別の号で終戦後の大連の思い出を語っていた。


1945年の敗戦で、満州にはソ連兵が進駐したが、現地の日本人はソ連に徴用さる労働に従事するとともに、食糧難で餓えに苦しんだ。

そんなとき、アカシアの花の蜜が甘いという話が広まり、子供たちはアカシアの樹に登って、ひたすら花を集めては蜜を吸っていたところ、そこにやって来たソ連兵が、銃を連射し、子供たちは次々と樹から落ちたのだという。 



俳優の宝田明さんも、満州のハルビンで終戦を迎えたとき、ソ連兵が侵攻し、略奪、暴行、凌辱のかぎりを尽くしたことを回想しているが、駅のホームで見回りのソ連兵に撃たれ、麻酔も手術道具もないなか、元軍医だった人に手術を受け、一命をとりとめたそうだ。


そうした経験があって、ロシアには素晴らしい芸術があるのは知りながらも、拒否してしまうようになったというが、当然のことだろう。


注意したいのは、宝田明・佐藤勝彦両氏の語っていることが、終戦後に起こっているということだ。


暦のうえでは、1945年8月15日で太平洋戦争は終わったが、庶民にとっては、そこから、さらに悪夢が始まったことになる。 


消し去りがたい記憶というものがある。 


忘れたいと思っても、そして、忘れたつもりでいても、何度でも襲ってくる記憶がある。 


その意味では、戦争とは、それを経験した人にとって、生涯、終わらないものなのではないだろうか。
posted by 城戸朱理 at 10:53| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月21日

戦争の記憶、その1



戦国時代から安土桃山時代に、隆盛を見た茶の湯を主導したのは、織田信長や豊富秀吉といった戦国大名だったが、明治以降、茶の湯に新風をもたらし、その隆盛を担ったのは、三井財閥の指導者たる益田隆(鈍翁)を始めとする財界人だった。


実際、近代の財界人は茶器の収集と茶の湯を通して、交流を深めた感さえある。


とりわけ、横浜屈指の財閥を築いた原富太郎(三溪)と、今日の電力会社の基を築き「電力王」「電力の鬼」と呼ばれた松永安左衛門(耳庵)は、益田鈍翁と並んで、近代の三大茶人と称される。

また、小田原を拠点に近代の茶道を極めた「近代小田原三茶人」にも、益田鈍翁、野崎廣太(幻庵)とともに松永耳庵の名が挙がるが、その伝記を読んでいたとき、実に印象深い記述があった。


松永耳庵(1875〜1971)は、長崎県壱岐の裕福な商家に生まれたが、その幼少期に、元寇のときの惨禍をさんざん聞かされて育ったというのだ。


モンゴル帝国とその属国、高麗王朝による日本侵攻である元寇は、文永の役(1274)と弘安の役(1281)の二度で、鎌倉時代なかばのこと。

なんと、壱岐では、13世紀の出来事を、600年後の19世紀まで、脈々と語りついできたことになる。


九州上陸前に侵攻を受けた対馬と壱岐の被害は、とりわけ甚大で、島民は惨殺され、子供は奴隷として連れ去られたわけだが、元軍が、捕虜とした女性の掌に穴を空けて縄で繋ぎ、舷側の並べて矢よけにしたなどといった信じがたい様子が、日蓮聖人らの記述によって伝えられている。


中国や韓国では、この侵攻のことを歴史で教えていないようだが、その惨禍は、現地では語り継がれていたわけで、私は、戦争というものが、たとえ終わっても、それを経験した人々にとっては、決して終わらず、遺恨とともに語り継がれていくものであることを思い知ったのだった。


おそらく、侵略を受けたすべての人間にとって、それは同じなのではないだろうか。


そして、いちどは文学史上の出来事になってしまった小林多喜二『蟹工船』といったプロレタリア文学が、格差社会と貧困が社会問題になると復権したように、戦争の記憶もまた、その気配とともに何度でも呼び起こされていくのだと思う。
posted by 城戸朱理 at 12:26| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月14日

手乗り金魚???

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バンビことパンクな彼女は、金魚すくいが得意である。

お正月に鶴岡八幡宮で、金魚すくいをすると7、8匹をすいすいとすくってしまうのだが、金魚はすぐに死んでしまうのが、悲しい。

ところが――


「モミちゃーん、モミちゃーん!」


バンビが金魚鉢に呼びかけると、水面に浮かんでくるのが、モミーこと「もみじ」。

バンビが10年以上前に、すくってきた金魚である。

しかも、バンビの指に吸い付き、頭をなでられたり、顎をなでられたりしているではないか。


「もみじは、今や、世にも珍しい手乗り金魚なんだよ!」
・・・・・・


さすがに、10年は生きているだけに、金魚とは思えぬほど大きい。


「モミちゃんは、金魚じゃなくて、本当は鯉なんだよ!」


嘘である。

たんに大きくなった金魚である。


しかし、金魚が名前を呼ばれて分かるのだろうか?

おまけに、なでられて不快ではないのだろうか?

飼い主がパンクなだけに、金魚もひと筋縄ではいかないキャラに育ってしまったらしい。

面白いことは面白いが、いいのだろうか、これで?
posted by 城戸朱理 at 12:49| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月09日

仙台弁こけし!? その2

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仙台弁こけしの向こうを張って、バンビことパンクな彼女が、「博多弁こけし」と自称するようになってしまった。

たしかに、バンビは博多弁を話せるが、博多弁こけしと言いながら話すのは仙台弁なのである。


「まぼいっちゃ!」

「はかはかするう!」


「まぼいっちゃ」は「かっこいいね」、「はかはかする」は「ドキドキする」という意味。

私が気に入っているのは、「ぺったらこい」(ひらべったい)である。

しかし、私もバンビも単語と言い回しを10ほど覚えただけなので、かなり出鱈目な仙台弁なのは間違いない。


仙台に行く機会があったら、着ぐるみの仙台弁こけしにも会ってみたいものだと思っていたら、公式ツイッターで仙台弁こけし切手が発売されることを知った。

しかも、仙台の郵便局限定――

これは、欲しい。

どうしても、欲しい。

そこで、仙台在住の富田真人氏にお願いしてみた。

富田さんは快諾して下さり、そして、届いたのである「仙台弁こけし オリジナルフレーム切手 夏だっちゃ!」が!


「はかはかするっちゃ!」とバンビ。

「ぺったらこい!」と私。


「夏だっちゃ!」ということは、これから「秋だっちゃ!」や「冬だっちゃ!」も出るのだろうか?

ともあれ、仙台弁こけし切手で、手紙を出しまくろう(?)。


切手のみならず、富田真人氏が21歳のときに出した詩集『usubakagerou』のコピーが同封されていたのも嬉しい。

この詩集に関しては、別に紹介したい。
posted by 城戸朱理 at 17:35| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月06日

仙台弁こけし!? その1

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「はかはかするう!」

キッチンからバンビことパンクな彼女の声が聞こえてきた。

はかはかしているのである。

「まんずどうもねー」

今度は何かに感謝しているらしい。

「はかはかする」は「ドキドキする」、「まんずどうもねー」は「どうもありがとう」という意味の仙台弁。

なんで、わが家で仙台弁が流行っているかというと、仙台のゆるキャラ、仙台弁こけしのせいである。


最初に発見したのは、ツイッターだった。

「いぎなしなまってるこけしだっちゃ!」

何なんだ、このキャラは!?

「いぎなし」は仙台弁で「とても」という意味らしい。

「仙台弁で宮城の魅力ば伝えっぺす!」


着ぐるみも存在し、仙台の東急ハンズでいづぬづ(一日)店長をしたりもしているが、こけしだから、当然、腕はない。

あまりにケッサクなキャラである。


バンビは、こけし風の髪型にして、生きているこけし=生(なま)こけしになって遊んでいたくらいだから、気に入らないはずがない。

それで、わが家では仙台弁が飛び交うようになったのである。


さらに、バンビが仙台に行ったとき、仙台弁こけしグッズをお土産に買ってきてくれた。


仙台弁こけし手拭い、仙台弁こけしシール付きの仙台弁こけし白石温麺、さらに仙台弁こけしお弁当トートバッグである。

トートバッグには、仙台弁こけし缶バッジを付けて、ヴァージョンアップ(?)している。
posted by 城戸朱理 at 12:47| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月02日

湯治の達人?

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温泉なら、何度も行ったことはあるが、一週間の湯治となると初めてだから、当初は原稿を書いたりしようと思っていたのだが、これは間違いだった。

バンビことパンクな彼女も、PCを持ち込み、写真を整理して、DVDに焼いては送り出したり、柳田国男『遠野物語』を読んだりしていたが、自炊部の湯治客は、見事なまでに何もしていない。


いつもパジャマ姿のお婆さん3人組など、温泉に浸かっては、寝ているだけ。

部屋の前を通ると、いつも、3人が布団を並べて目刺しのように横たわっているのだから、これが正しい湯治客かと感心してしまった。

だいたい、浴衣さえ借りず、御食事処やはぎに現れるときさえパジャマ姿なのだから、いつでも寝れるという意思表示をされているような気分になる。

ここまで行けば、湯治の達人だろうが、湯治とは、温泉に浸かる以外は何もしないことなのだろう。


結局、私も本は読んだが、執筆はしなかった。

バンビも後半になって、ようやくそのことに気づき、温泉に入ってはお昼寝するようになったが、これが正しい湯治というもの。


ただし、何もしないという贅沢に慣れるのは難しい。
posted by 城戸朱理 at 08:13| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月01日

宮澤賢治と大沢温泉

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大沢温泉の自炊部・湯治屋では、部屋には扇風機だけ。

クーラーが入っているのは帳場の隣の待ち合いだけである。


戦前の雰囲気をたたえる待ち合いには、宮澤賢治が、浄土真宗の熱心な信徒だった父親に連れられて、花巻仏教会の講習会に来たときの写真が掛けられている。

賢治は、子供のころ、仏教講習会に連れられ、何度も大沢温泉を訪れたそうで、自炊部・湯治屋に泊まったこともあるのだろう。

曲がり橋の上で撮った少年時代の集合写真も残されている。


また、学生時代には、悪ふざけをして、湯を汲み上げる水車を止めてしまい、大騒ぎになったという愉快な逸話も。


後年、花巻農学校の教師をしていたときは、生徒を連れて来たこともあるそうだ。


岩手なら、温泉はいたるところにあるので、宮澤賢治にとっては、大沢温泉も日常のなかにあったのだろう。
posted by 城戸朱理 at 07:05| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自炊部・湯治屋の共同炊事場

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今回の大沢温泉滞在では、夕食3回を共同炊事場で準備した。

豊泉豪さんが泊まった夜は、佐助豚のしゃぶしゃぶがメイン。

しゃぶしゃぶ用に白菜を刻み、フルーツはメロンとさくらんぼ。

とうもろこしを茹で、佐助豚のソーセージをボイルし、佐助豚のコンフィを温め、シャンパンを開けた。

高橋昭八郎さんの思い出などを語り合いつつ飲んだのだが、忘れがたい一夜である。


自炊部・湯治屋の共同炊事場は、鍋に土鍋、フライパンや食器が完備され、電子レンジやトースターもある。

ガスは、10円を入れると7〜8分使える仕組みになっているが、なんともレトロで面白い。


バンビことパンクな彼女が、包丁やまな板、ゲランドの塩を始めとする調味料まで持ち込んでいたので、調理は手早く済んだ。



面白かったのは、共同炊事場で調理をしていた方々である。

自炊しているのは、男性ばかり。

山男の比率が高く、持ち込んだ食材で、手早く5、6品の料理を作っていたりする。

鰹とタコを引いて、プロとしか思えない見事なお造りを仕立てている人もいれば、自分で栽培した無農薬野菜や糠床まで持ち込んでいる人もいた。

女性はひとりしか見かけなかったが、冷房病で苦しみ、毎年、夏には2、3ヵ月を大沢温泉の湯治屋で過ごしているのだという。

共同炊事場にいると、互いに名前も知らないまま、なぜか話が弾み、顔見知りになってしまうが、これも自炊部ならではと感じ入った。
posted by 城戸朱理 at 07:04| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする