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城戸朱理のブログ: 詩誌・詩集評

2020年06月19日

永澤康太「すべてのうたをわすれて あたらしいうたをうたう」

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3枚、あるいは4枚の紙をふたつ折りにすると、冊子が生まれる。

そこには数篇の詩が印刷されている。


永澤康太による「すべてをわすれて あたらしいうたをうたう」は簡素でありながら、実に魅力的なたたずまいを見せる。

作品は、日常のなかで、その常同性に抗いつつ、生命の光芒を探すもので、ここに至って、作者は自分なりの詩法を獲得した感がある。



傷は、傷のままで残った
かさぶたにはならなかった
とめどなくながれた結果
内と外が入れ替わった
魑魅魍魎があふれだした
蜘蛛の糸をつたって這ってでた
じゃぶじゃぶ池の真ん中で
遊んでた娘もまつさおに染まった
(「蒼白」より)




どの詩にも諦念がわだかまっているように思えるのだが、決して、そこに留まろうとしているわけではない。

作者の家庭や生活をうかがわせる詩行も散見するが、生活そのものを語ろうとしているわけではない。

現代の閉塞感と通低する息苦しさのなかで、狂気に傾きがちな心を抱えながら、正気を保とうとする静かな闘いの記録として読んだ。
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2020年06月13日

新たな詩誌「ココア共和国」

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今年の4月に創刊された月刊「ココア共和国」(電子本と紙媒体の本)は、投稿作品を主体とする新しい形態の詩誌である。

発行は一般財団法人「あきは詩書工房」で、秋亜綺羅氏が主宰し、編集は昨年、歴程新鋭賞を受賞した佐々木貴子氏。

「ココア共和国」のホームページ
https://www.youyour.me
からテキストを添付して応募すると、編集部の選で作品が掲載され、さらに年間で複数回(2回以上)掲載された人は、自動的に20歳以上なら秋吉久美子賞、いがらしみきお賞の候補に、20未満であればYS賞の候補になる。

これらの賞はそれぞれ、女優の秋吉久美子さん、漫画家のいがらしみきおさん、そして、YS賞は秋亜綺羅さん、佐々木貴子さんが選考に当たり、賞金は各20万。

YS賞は、詩誌「詩想」を主宰した佐藤幸雄氏の遺志によって設けられたものだという。

詳細はホームページで確認してもらいたい。


私は5月号に秋吉久美子さんとともにゲストとして、詩「長い夜」を寄稿したが、秋亜綺羅、佐々木貴子両氏のエッセイと詩も掲載されており、力のある誌面で、視覚詩の試みのような「4コマ詩」もたいへん面白かった。
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2020年06月11日

及川俊哉「水熊通信」第一号

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封筒に封入されているのは、A4の紙が2枚。

散文記事一葉と手書きの詩作品のコピーが一葉で構成されている。

それが、及川俊哉氏が5月6日に創刊したばかりの個人通信「水熊通信」だ。



インターネットが当たり前の時代に、あえてアナログな紙片の郵送という形にした理由を、及川氏は「自分のなかで過剰な情報から逃れたい気持ちもあり、皆様とネット上ではない時間を共有したいとの思いもありました」と書いている。

記事は「折口信夫『水の女』を読む」と「菅原道真の漢詩の超訳」で、どちらも興味深いものだが、詩作品はコロナ禍における「現代祝詞」の新作「瀬織津姫大神(せおりつひめのおおかみ)に新型コロナウイルスを息(やす)ませることを冀(こいねが)う詞」で、「水熊通信」は、紙2枚とは思えぬ重みを持っている。


「瀬織津姫大神」は「大祓詞(おおはらえのことば)」に現れる神で、天照大神の荒魂をいい、本居宣長は禍津日神(まがつひのかみ)と同体としたそうだが、「折口信夫『水の女』を読む」とも響き合うように、及川氏の「現代祝詞」が文字以前の言葉の呪力を詩作の場において取り戻そうとする果敢な試みであることには、やはり目を見張るものがある。


「水熊」とは福島の伝説に登場する妖怪で、その正体は巨大なカワウソとのことだが、得体の知れないものを拒絶するのではなく、向かい合うという姿勢は、新型コロナウイルス禍にある世界にとって、今まさに必要な態度なのではないだろうか。

「水熊通信」は、年に三回の発行を目標とし、30部のみの限定刊行。

マンデリシュタームからパウル・ツェランに受け継がれた「投壜通信」の詩学に改めて出会うような思いを抱いた。
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2019年12月12日

『現代詩文庫 新国誠一詩集』(思潮社)

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近年、順調に刊行が続いている『現代詩文庫』だが、今年はついに(そう、ついに!)『現代詩文庫 新国誠一詩集』が刊行された。

第二次世界大戦後のヨーロッパ、ブラジル、そして日本で、同時多発的に発火したコンクリート・ポエトリー(具体詩)の、わが国における先駆者であり、藤富保男とともに芸術研究協会を設立し、機関誌「ASA」によって活動を展開した新国誠一は、海外で高く評価されながらも、日本では長らく、忘れられた存在となっていた。

海外では日本以上の高値を呼ぶ、幻の詩集『0音』は、新国が生前、刊行した唯一の詩集だが、私が実物を初めて見たのは、高橋昭八郎さんの蔵書の一冊で、新国さんは、北園克衛には敵愾心を抱いていたようだが、一方で、北園さんが率いる「VOU」のメンバーだった高橋さんを高く評価し、何度も「ASA」に誘ったらしい。


そして、建畠晢さんが大阪の国立国際美術館の館長をされていた2009年に初めての回顧展「新国誠一の《具体詩》〜詩と美術のあいだに」が開催され、この展覧会に合わせて、全詩集である『新国誠一 works1952〜1977』(思潮社)が刊行されるに至って、その仕事の全容を通覧することができるようになったのだった。



それに先だって、2007年には私の企画・監修でテレコム・スタッフが「Edge Special 新国誠一」 篇を制作、私も国立国際美術館の展覧会会期中に催されたトークに出演し、「現代詩手帖」新国誠一特集(2009年2月号)の鼎談にも参加したが、そうした新国誠一再評価の気運の高まりが、『現代詩文庫 新国誠一特集』までたどり着いたわけで、感慨深いものがある。


今回の文庫化は、長年、新国誠一の研究と紹介にいそしんできた建畠晢さんのお力によるものだと思うが、建畠さんのみならず、「ASA」のメンバーだった向井周太郎、ヴィジュアル・ポエトリー研究の第一人者、金澤一志が解説を執筆、さらに「ASA」のメンバーだった砂田千麿へのインタビューを収録し、20世紀後半の前衛の所在を明らかにするものとなっている。



新国誠一は、言葉の意味をそぎ落とし、文字の形象による「見る詩」としての具体詩を創造したが、同時に言語を音の粒子にまで解体した音声詩も残している。

それは暗喩さえも排除した、もうひとつの戦後詩にほかならなかったわけだが、さらに、新国誠一は、フランスのピエール・ガルニエとの共同制作によって、言語の意味性から解放された詩を試み、これを「超国家詩」と呼んだ。


その果敢な営為が、文庫化によって、若い世代に開かれたことを喜びたい。
posted by 城戸朱理 at 11:45| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月05日

「現代詩手帖」と「詩と思想」11月号

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「現代詩手帖」と「詩と思想」の11月号が届いた。

「現代詩手帖」は「瀧口修造、没後40年」と「追悼・長谷川龍生」の二本立ての特集、「詩と思想」は特集「詩人・画家の死生観」で、私は「現代詩手帖」に長谷川龍生さんの追悼文を寄せ、「詩と思想」の特集の座談会に参加している。


「瀧口修造コレクション」が刊行される前、私は『現代詩読本 瀧口修造』の著作一覧のコピーをいつも持ち歩き、古本屋で、単行本のみならず瀧口さんが寄稿した雑誌まで探して歩いたほど瀧口さんの仕事に敬意を抱いていたので、「現代詩手帖」の瀧口修造特集が実現したのは、本当に嬉しい。


また、高校時代、私は詩を書き始めるとともに「ユリイカ」に投稿を始めたのだが、そのときの選者が長谷川龍生さんだった。

そして、長谷川さんに「新鋭詩人」に選んでいただいたのが今日に至る発端となったわけだから、その長谷川さんの追悼文を自分が書くことになったのも、感慨深いものがある。


一方、「詩と思想」の特集の巻頭座談会は小川英晴さんの司会で、ジャーナリストの徳山喜雄さんと私によるもの。

徳山さんが語る死と隣合わせた戦場取材のことや、闘病生活のはてに3月に亡くなられた奥さんの和美さんをめぐる小川さんのお話には深い感銘を受けた。

「詩と思想」には、私の学生時代からの詩友である田野倉康一氏も寄稿しているが、かつての「詩と思想」と「現代詩手帖」の対立としか言えない関係を思うと隔世の感がある。


今年の第30回歴程新鋭賞では、永方佑樹『不在都市』、佐々木貴子『嘘の天ぷら』、おふたりの受賞が決まったが、永方さんは第22回、佐々木さんは第26回の「詩と思想」新人賞を受賞されている。

歴程新鋭賞は、どちらかと言えば「現代詩手帖」寄りの詩人が受賞する傾向があったが、こうしたところからも、かつての垣根がなくなりつつあるのを感じる。

また、詩歌・評論と文学の諸領域をともに深めながら、旺盛な活動を展開する山崎修平氏が、SNSで「現代詩手帖」「詩と思想」両誌の12月号の「展望」の原稿依頼を受けたことを語られていたが、これも、今日の詩壇の有り様を示す出来事なのではないだろうか。

こうした動きは歓迎すべきことだと思う。
posted by 城戸朱理 at 03:14| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月29日

「みなみのかぜ」第七号

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2016年4月。

初めて気象庁震度階級で最大となる震度7が2回、さらに6強が2回、6弱が3回と激しい地震が発生した熊本地震。

台風、豪雨、洪水とさまざまな自然災害が多発し、被災地が拡大していくなかで、熊本地震の記憶も風化しつつある。

だが、熊本地震をきっかけに刊行が始まった「みなみのかぜ」を開くと、その記憶がよみがえってくるかのようだ。


参加同人は、菊石朋、清水らくは、津軽清美、平川綾真智、広瀬大志、寄稿が藤崎正二。

全員が熊本出身や在住というわけではないし、直接、被災に触れた作品が並ぶわけでもない。


だが津軽清美「眠らないのか眠れないのか、狂四郎」、将棋の棋譜に詩を織り込んでいく平川綾真智の「藤井システムの排卵」のアナーキーぶりはどうだろう。

まるで、現代の萩原恭次郎『死刑宣告』のようだ。


広瀬大志は、相変わらず禍々しく、輪廻をテーマとする清水らくは「Nichtsein」も異想の展開が際立つ。

詩の〈くらい穴〉に入って書いたという山崎正二の散文詩も異界を覗くようだし、参加者全員の危機と向かい合う姿勢が、熊本地震を呼び起こすのかも知れない。

今日、もっとも充実した詩誌のひとつだと思う。


ここでは、巻頭の菊石朋「海辺の植物園」の冒頭を紹介しておこう。



他人のことばのような砂を
足の裏でつかみ
水のいろへと消えゆくまで

あの漣は、
海洋生物の空腹を忘れ
とおいところから
やってくる

陸では今も
浅瀬の波に打たれ
立っている
枯れた肉食獣たち
誤解された牙はどこまでも伸びて
どこにも向かわず
みんなぽつりと立ち尽くす
黄金に騒めき乾いていく空は
語ることばをもたないから
わたしたちに夢を与えなかった
posted by 城戸朱理 at 11:22| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月10日

「みなみのかぜ」第4号

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熊本大地震をきっかけに、熊本にゆかりのある詩人たちが集う「みなみのかぜ」の第4号が刊行された。


参加同人は、村上由起子・麻田あつき・菊石朋・清水らくは・津留清美・平川綾真智・広瀬大志・豆塚エリ。


だが、必ずしも被災地の現状や悲嘆が語られているわけではない。

むしろ、大震災という日常の亀裂を見つめることで、非日常を生きるために紡がれた言葉なのではないだろうか。



村上由起子「再会」の第一連を紹介しておこう。


偽りの建造物が次々と
建てられてゆく
それを命じたのは私で
突き崩すのもまた私
全てが無になるまで
導かれてここに在る
打ち上げられたこの身を
怖れがふたたび包む時



「打ち上げられたこの身を」といった一行に、実は依るべない存在の本質が露出する。


平川綾真智による破天荒な作品「おつかい郵便」や力作評論「瀧村鴉樹と音声詩の越境」も読み応えがあった。


「みなみのかぜ」が運んでくるもの、それは危機に隣り合わせた私たちの生の息吹にほかならない。
posted by 城戸朱理 at 08:49| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月26日

村口宜史『最後の夏』(七月堂)

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『最後の夏』は著者の第一詩集。

村口宜史という詩人に関しては、1971年、三重県生まれということ以外、何も知らないが、その作品は、ずっと読んできた。

村口さんは、私が選者をつとめる「岩手日報」の投稿欄「日報文芸」の常連だったからである。


「日報文芸」の常連のうち、昨年は菊石朋さんが『耳の生存』(七月堂)を刊行されたが、菊石さんが書き下ろしの長篇詩で第一詩集をまとめたのに対して、村口さんは「日報文芸」掲載作14篇を含む20篇で詩集をまとめた。


句読点を多用した作品は、生を死の側から見つめるような静謐さに満ち、不思議な熱をたたえている。


ここでは「薄氷」という一篇を紹介しておこう。




湖面に立つ女。
波紋の伝播。
空気が氷点下となる朝に
女の足元は
薄く氷に覆われた。

朝日の昇る影の先に
ひとつの
人柱があった。

男は、その空気に
頬を切られる。

一夜で、水面は
固体へと、変わったのだ。

静かさの中
墓標のような
氷柱に
男はそっと触れると
女の澱が
胸の底に沈んでいるのを
感じた。




恋愛詩として読むこともできるが、独自の呼吸が生む詩行の運びには、生の秘蹟が隠されているかのようだ。

簡素きわまりない造本も、瀧口修造を思わせて好ましい。




「岩手日報」の投稿欄は、かつて選者の村野四郎が『動物哀歌』の詩人、村上昭夫を見いだした場でもある。

菊石さん、村口さんに続く、新たな才能の登場を期待したい。
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2018年03月15日

及川俊哉『えみしのくにがたり』(土曜美術社出版販売)

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渾身の「現代祝詞」を含む及川俊哉の新詩集が、ついに刊行された。


著者は「あとがき」で、大和朝廷の神話である「アマガタリ」に地方の神話である「クニガタリ」が繰り込まれていく過程で、捨象された「辞の葉の腐葉(コトのハのイサハ)」(折口信夫)があったであろうことを指摘し、
東日本大震災で露出した東北地方という問題に対峙するために、東北の先住民たる蝦夷の神話の再創造を自らに課したことを語っている。

いわば、「クニガタリ」を祝詞という形式でもって再創造するわけだが、それは、そのまま東北の再生への祈念でもあり、可視化されたものではないにしろ、民族の怒りが底流にあるのではないだろうか。


「えみしのくにがたり」は四部で構成されている。

最終章は「にゃんこに語る正法眼蔵」「悟ったら一発逆転でつち」(「現成公案」)のように、ネットスラングを多用して、道元の思想を語る快作もあるが、
「一瞬の自戒」「わっしょい!生命!」と最後まで読み進めるならば、「甦り」を主題とするものになっていることが分かるだろう。

それは、たんなる復興ではない。


新たな「クニガタリ」をベースに、辺境の精神の新生を賭けた詩業が、ここにある。
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2017年01月18日

菊石朋『耳の生存』(七月堂)

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文庫本のサイズで、本文は44ページ。

小さくて薄い、蕭洒な本だが、その見かけとはうらはらに、一冊で一篇の長篇詩を収録する力作が登場した。

『耳の生存』とは、不思議なタイトルだが、耳という言葉が示すように、言葉を聞くことの可能性と不可能性をめぐって、生者と死者、自己と他者の輪郭をなぞっていくかのような趣きがある。



わたしは見ていた
それが
名前を与えられるようなはじまりならば
終わりはなくなる 泥土の深い静けさの中で
頭骨は輝いているのだと それは、
わたしの頭の中の ときめきのような痛みで
共鳴しあい、そこから涙があふれるようだ
孤独というのならば
夏の空よりも晴れ 雨より冷たく
わたしのからだは目覚めている


これが長篇詩の始まりなのだが、これから何かが起こるのではなく、すでに何事かが起こってしまったかのような事後の感覚に満ちた始まりだと思う。

その感覚は、一冊を貫くものの予兆であるとともに、主題を指し示しているのではないだろうか。


なかほどに村上昭夫『動物哀歌』の「雪」の引用をはさんで、ゆるやかに繰り広げられるのは、生の鼓動と死の呼吸にほかならない。

『耳の生存』は、著者の第一詩集。

ひとりの詩人の誕生を刻む、鮮やかな一冊である。
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2016年11月23日

瓜南直子へのオマージュ――「妃」18号

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田中庸介氏を編集・発行人とする「妃」18号に、鎌倉に生きた日本画家、瓜南直子さんに寄せる月読亭羽音さんの連作詩「游心記」が掲載されている。


「游心記」の語るところによると、東大阪在住の作者は、今年の3月5日に、姫路で見た「画家の詩、詩人の絵」展で、瓜南直子の「夜の図鑑」「あきつしま」「望月」、3点の絵と出会い、閉館時間まで、絵の前から動けないほど魅了されたのだという。

帰宅して、画家のブログを探り当て、瓜南さんの言葉に、絵画に、さらに酔った月読亭羽音さんは、瓜南さんが通い、看板を描いた店が鎌倉にあることを知り、3月25日に北鎌倉を訪ねる。

その店とは、侘助。


店主の菅村睦郎さんは私の高校の先輩で、作家、藤沢周さん、香港でブレイク中のアーティスト、稲田吾山さんらが集う。

瓜南直子さんや伴清一郎画伯もかつては常連で、睦郎さんの依頼を受けて瓜南さんが描いた看板が、今でも掲げられている。

月読亭羽音さんは、侘助に寄られたのだろうか?


「妃」も創刊から20年以上を経て、18冊目。

編集・発行人の田中庸介さん以外の同人の顔ぶれは、創刊当時とはすっかり変わってしまったが、ベテランの鈴木ユリイカさんや文化人類学者でもある菅啓次郎さんも加わり、仲田有里、後藤理絵、広田修氏ら、幅広い世代の同人を擁する同人誌になった。


田中庸介氏は、東大医学部に籍を置く研究者でもあり、その論文は世界的に権威のある学術誌「ニュートン」にも掲載されているが、ひとつのテーマの研究には、およそ10年がかかるのだという。

医学と詩をともに生き抜く姿勢が、田中さんの詩にも反映されている。
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2015年11月02日

気になる松本秀文詩集『環境』の予告篇

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ここのところ、文学フリマが活況のようだ。

800組もの出店があるというのだから、さぞや壮観に違いない。

いちど覗いてみたいと思いながら、まだ果たせないでいるが、スケジュールが合わないのだから、こればかりは仕方がないだろう。


驚いたのは、東直子さんが送ってくれた「エフーディ」第一号だった。

これは、三浦しをん(作家)、平田俊子(詩人)、神野紗希(俳人)、石川美南、川野里子、東直子(歌人)という、いずれも廃墟好きの豪華メンバーが、松山の別子銅山に吟行に行ったあと、文学フリマで売るために作った雑誌で、全員が売り子もしたらしい。

今年も別の廃墟に吟行に行ったと聞いたので、第2号が出るのだろうか?


ほかにも気になるものがあった。


文学フリマが近づくと、ツイッターで、持参する雑誌等を紹介する人が増えるが、そこで見かけたのが、写真の小冊子、松本秀文詩集『環境』予告篇である。

予告篇というのが奮っているが、表紙のキャットフードの缶詰の猫は、川上澄夫装幀の萩原朔太郎『猫町』のパロディというところもいい。

比較のために手元にある朔太郎『猫町』の写真もアップしておく。


後日、松本秀文氏から送っていただいたので、ようやく実物を見ることができた。


詩集『環境』は五章から成り、第五章は「野良太郎全詩集」と銘打たれている。

野良太郎は博多生まれ、最初は飼い猫だったが、飼い主の没落とともに野良猫に。

生涯、朔太郎の詩を愛していたという設定で、つまりは野良猫が書いた詩、ということになる。

だから、表紙もキャットフードなのかと納得したが、納得している場合ではない。


こんな奇妙な設定を思いついた人は、今までいなかったことだけは確かだ。


ところで、本体の詩集『環境』は刊行されたのだろうか?
posted by 城戸朱理 at 06:36| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月08日

「エフーディ」vol. 1 松山・別子銅山吟行編

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去年、もっとも驚いた雑誌が「エフーディ」だった。

これは、石川美南(歌人)、川野里子(歌人)、神野紗希(俳人)、東直子(歌人)、平田俊子(詩人)、三浦しをん(小説家)という豪華メンバーが、
廃墟となった愛媛の別子銅山を訪ねて吟行した俳句・短歌・詩・エッセイをまとめたもの。


俳人・鈴木真砂女が開いた小料理屋、銀座の卯波で月一回、開かれているのが、エフーディの会で、句会と歌会を毎月交互に開催しているのだという。

会員は、ほぼ女性で、肩身が狭い男性会員が、野村喜和夫氏。

相変わらず場違いな感じが、さすが野村さんである。


ちなみに、エフーディとは、三浦しをんさんの詠草に登場するティッシュの妖精なのだとか。

ティッシュペーパーが取り出しやすいように箱のなかで手助けしてくれる妖精がいるとは知らなかった――


ここまでなら、分かる。

神野紗希さんによれば「異業詩交流歌会句会」が、エフーディ。

その例会で、なぜか廃墟の話で盛り上がって、別子銅山行きが決まったらしい。

ここまでも分かる。

せっかく行くのなら、吟行にしようというのも、エフーディの会なら当然だろう。


分からないのは、ここから先である。


四国旅行の詩とエッセイも書いて、冊子にして、秋の文学フリマで売ろうというあたりから、分からなくなる。

そう提案したのは、石川美南さんらしい。


文学フリマは、文芸同人誌の即売会だが、去年は全国から八百組が参加するほど盛況だったと聞いた。

とはいえ、いつも締切に追われているに違いない顔ぶれで、同人誌を作って、文学フリマで売ろうということ自体、意外すぎないか?

しかも、当然、このメンバーが売り子をするわけだから、豪華すぎないか?


文学フリマは、ちょうど東直子さんの京都ロケが始まる前日だったから、東さんも売り子をしてから京都入りしていたのだが。

しかも、東さんは東京に戻ったら、「エフーディ」の発送作業をするのだと言っていた。

旅先にまで、ゲラを抱えてくることが珍しくない東さんが、発送のための宛名書きをしているのを想像するだけでも愉快だが、
なにはともあれ、廃墟好きの廃墟紀行である「エフーディ」、作品もエッセイも面白く、読み耽ってしまった。

平田俊子さんの「いよいよ伊予」から。


男らの悪口いえば女らの旅の車内はいよよ華やぐ


野村さんの肩身の狭さが、充分にうかがえる一首である(笑)。


気になるのは、vol.1となっていること。

ということは、今年はvol.2が出るのだろうか?
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2014年08月28日

和合大地個人誌「赤蒸気」

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和合大地の個人誌「赤蒸気」創刊号が刊行された。

1998生まれ(!)、高校一年での個人誌の刊行は異例と言っていい。

大地くんは、和合亮一氏の御子息。

親子二代で、詩に取り組んでいることになる。


創刊号では、和合大地が2篇、ゲストとして広島の春野涼音(1999年生まれ!)が3篇を寄稿している。

題字は、福島在住の書家、石上香艸によるもの。

本文18ページ、表紙を入れても20ページのシンプルな冊子だが、そこに籠められたエネルギーは、尋常ではない。


ここでは、和合大地「SCREW」の後半を紹介しておこう。




網戸から新たに生まれる昆虫には悲哀は分かるまい。ブラウン管が類焼したような焼け跡。
この「ような」を「やうな」と変換するきみの、美しい手首の、滴る人影の、凄惨さに憧
れた、鳥の首を眺める。並べる。灰を積もらせる。

ゆっくりと一転二転三転前転後転逆回転していく雨の軒先で詩行を廃棄する。




書くことを意識化したうえで、詩篇に織り込み、さらに最終行で詩の定立じたいを問う展開は、瞠目せざるをえない。

春野涼音による作品も、異様なまでの完成度で、圧倒された。


彼らの年齢のとき、自分が何をしていたかを考えると蒼くなるが、詩は年齢ではないことを改めて確認することに。

今後の展開に期待したい。
posted by 城戸朱理 at 07:34| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月16日

「杉中昌樹詩論集 I」

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小樽で個人誌を編集・発行している杉中昌樹氏の詩論集が届いた。

手製らしく、無綴だが、逆に品位のある仕上がり。

今日では、さまざまな活動の仕方があるのを教えてくれるが、
内容的には、私も含めた4人の詩人の1冊の詩集を取り上げて論じるもので、
このテクストに寄り添う姿勢は貴重だと思う。


感覚的に好悪や良し悪しを語るのでは、読書感想文にもならない。

一篇の詩を、そして一冊の詩集を、きちんと読み解くむという、
忘れられがちな詩論の基本が、ここでは踏まえられている。


取り上げられているのは、以下の4冊。


瀬尾育生『ハイリリー・ハイロー』

杉本真維子『袖口の動物』

城戸朱理『非鉄』

野村喜和夫『言葉たちは芝居をつづけよ、つまり移動を、移動を』


この選択じたいに、論者の現代に対する視点と詩観が現れているのだろうが、
I巻ということは、続きも刊行される予定なのだろう。

次は、どんな詩集が取り上げられるのか、楽しみだ。
posted by 城戸朱理 at 07:14| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月05日

「木槿通信」第32号〜震災後の言葉

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「木槿通信」は、『単独者のあくび 尾形亀之助』の著書もある吉田美和子氏の個人誌。

作品やエッセイのみならず、文学をめぐる旅行記も掲載され、
ひととき、読むことの愉悦を約束してくれるが、
この号は東日本大震災後の6月に刊行されたもので、大震災以前の号とは様子が違っており、
「詩・ぼんやりした煩悶〜ことばは震災にどう向かいあうのか」という長文の論考を興味深く読んだ。


「大震災に放りこまれた時、みんながその衝撃を名付けられなかった。
自分が直面したものは、自分が感得したものは、いったい何だったのか」


東日本大震災を岩手県盛岡市で経験した吉田氏は、
停電して、闇のなかにいたという。

そのなかで、見知らぬ世界に触れるように短歌を詠み、
3日後に通電して、ようやく外界の様子が分かるようになる。


「――みんなは、どうしているんだろう。みんなは、この事態をどう語っているのだろう。
盛岡は被災地ではないから、灯油ガソリンが滞った以外には、さしたる被害はない。
けれども欲しい救援物資は「言葉」だったのである。
それも、「東北は負けない」だの、「頑張ろうニッポン」だのではなくて、
詩は生き残ったのか、詩はどうするのか、ということであった。
ありていに言えば、谷川俊太郎は、吉増剛造は、城戸朱理は、△△は、××は、
…どう語り出すのか、ということであった」


寒冷地の盛岡で、停電し、灯油ガソリンが滞るというのは、
実は死活問題であるはずなのだが、沿岸部に比べるならば、
倒壊・半壊家屋もなかった盛岡は、被災地とは言えない。

しかし、私は、この吉田氏の「欲しいのは言葉」という一節に、
何かを教えられたような気がした。


この論考は、長谷川櫂『震災詩集』と谷川俊太郎「言葉」(「朝日新聞」5月2日)への微妙な違和感を語ったあと、
和合亮一『詩の礫』、辺見庸「眼の海――わたしの死者たちに」(「文學界」6月号)、
そして、私の「コバルトの空」(「ユリイカ」5月号)に論及しているのだが、
『詩の礫』の作品としての評価と「文化化」された社会現象としてのそれを、分けたうえで、
語られていることは、もっとも早い時期の精確な批評というべきだと思う。


また、詩壇では語られることのない辺見庸の、
「詩の礫」の大衆性の対極に位置する「眼の海」への評言も的を得たものだと思った。


「辺見の詩は魔王のように険しいから、若い人は畏れて近寄ってこないかもしれない。
誰もこの道を通ってはこの先には行けないだろうからである。
群れることを拒否する彼の周りには人影が見えない」


たしかに、辺見庸の詩は、凡百の凡庸な追悼詩を一蹴するほど、鬼気迫るものがある。


吉田氏は和合亮一「詩の礫」と辺見庸「眼の海」を震災詩の双璧として語ったあと、
私の作品にも言及しているのだが、私は震災についての詩は、いまだに書いていない。

吉田氏は、「コバルトの海」から、私の真意を推測しているのだが、
これも当たっていたので、いささか驚いた。


「ぼんやりした煩悶」は、明確ではない煩悶に、
明確な形を与えるために書かれたのだろうが、
この煩悶だけは、いまだに消えないままだし、安易な解消は、いらない。

それが大震災以後の耐え方なのではないか。
posted by 城戸朱理 at 10:25| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月06日

「ウルトラ」第14号、吉岡実特集刊行!

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「ウルトラ」第14号、特集「吉岡実2011」が刊行された。

昨年の吉岡実没後20年を期に企画されたもので、なんと「現代詩手帖」や「ユリイカ」より分厚い400ページの大冊。


特集は2部に分かれ、第一部の「吉岡実2011」は、澤正宏福島大教授へのインタビュー(聞き手/和合亮一、及川俊哉)、城戸朱理インタビュー(聞き手/及川俊哉)、
白石かずこの寄稿、及川俊哉、高塚謙太郎、タケイ・リエのエッセイなどで構成され、吉岡実の今日的な意義を検証するとともに、
第二部の「吉岡実 この一篇」では、同人のほかに、文月悠光、山田亮太、松尾真由美、杉本徹らが、吉岡実から一篇を選んで論じ、その魅力と秘密に迫るものになっている。


同人誌で、これだけ充実した特集が組まれるということは貴重だが、これまで「ウルトラ」が特集してきた詩人を見ると、田村隆一、堀川正美、そして、今回の吉岡実と、同誌ならではの詩的系譜が浮かび上がるところも興味深い。


編集・及川俊哉、発行・和合亮一の体制になってからの「ウルトラ」は、ひたすら分厚くなる傾向があるが、次号の特集にも期待が募る。

いや、特集だけではない。

今回よりも分厚い「ウルトラ」が出る日は来るのだろうか?
posted by 城戸朱理 at 11:03| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月20日

和合亮一『詩の礫』、一気に3冊刊行!

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マグニチュード9. 0の巨大地震から、5日後、ツイッター上で発表が始まった和合亮一の『詩の礫』は、被災地からの切実な声として、また東日本大震災以降の言葉の力の所在を示すものとして注目を集め、新聞・週刊誌・テレビ・ラジオとメディアを賑わせたが、早くも単行本化が実現した。



『詩の礫』(徳間書店)
『詩ノ黙礼』(新潮社)
『詩の邂逅』(朝日新聞社)


この3冊で構成されるのが「詩の礫」シリーズで、詩歌としては、1980年代の記録的なベストセラー『サラダ記念日』以来の話題作となっている。


怒りと祈りの間を、絶望と希望の間を揺れ動きながら、叩きつけられる言葉は、壮絶。


『詩の礫』に関しては、「毎日新聞」6月22日夕刊に掲載予定の月評で触れたが、近日中に「現代詩手帖」短期集中連載の詩論でも論じるつもりである。



刊行に当たっては、私も和合亮一氏から電話で相談を受けたので、この3冊の出版を、まずは喜びたい。


また、『詩の礫』は、10数年来の徳間書店の私の担当である加々見正史氏が編集を手がけたが、私も意見を求められ、ツイッターと同じく横組み、日付ごとにその日に起こった東日本大震災関連の出来事を記載するといった提案をした。

ツイッター発表時から、「詩の礫」を注視し、
揺り動かされた加々見さんの手によって、この本が日の目を見たことにも、運命のようなものを感じてならない。



ひとりでも多くの人に、この叫びのような書物を、手に取ってもらいたいと思っている。
posted by 城戸朱理 at 09:46| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月11日

高橋昭八郎『ペ/ージ論』(思潮社)

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伝説の視覚詩人、高橋昭八郎、待望の新詩集が刊行された。


高橋昭八郎といえば、わが国の前衛運動の拠点となった、北園克衛の「VOU」の後期を代表する存在であり、もっぱら海外でのみ知られてきたその詩業が、このような形で日本でも開示されつつあることを喜びたい。


海外でも高い評価を得る「VOU」は、近年、古書値も高騰しており、実際に手にすることは難しいが、
西脇順三郎や田村隆一、鮎川信夫ら「荒地」の詩人たちまで、会員だった時代もあり、戦後の一時期はモダニズムの拠点でもあったようだ。


そして、前期「VOU」が、寺山修司や白石かずこらの巨大な才能を輩出したのに対して、後期「VOU」を代表する高橋昭八郎らは、北園克衛の詩的精神を継承し、詩という形式じたいを問いつづけた。


『ペ/ージ論』も、まさに、その成果であり、「VOU」最後の会員であった奥成達氏による帯文は、高橋昭八郎の詩業の骨格を実に見事に語るものと言っていい。

次のようなものである。



ヴィジュアル・ポエット高橋昭八郎の魅力は、
ひとえにその繊細な日本的感性の美しさにある。
北園克衛の後を引き継ぐ「詩の純粋形式への限りない探索」は、
止むことなく続けられ、
過剰な文学的〈意味〉によって遮断されてしまっていた
詩の可能性が、ここに新たに浮かび上がってくる。



高橋昭八郎自身による装丁も素晴らしく、ラディカルな問いとともに開かれるべき一冊と言えるだろう。

本書に関しては、機会を見て、論考を発表したいと考えている。
posted by 城戸朱理 at 09:11| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月02日

現在と対峙する詩誌「紫陽」

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リーマン・ショックが、ネオ・リベラリズムの終焉を露わにするとともに、世界的に進行する雇用破壊を背景に、日本でも、小林多喜二『蟹工船』がベストセラーになり、さらに徳永直『太陽のない街』、そして石川啄木が次々と文庫化されるなど、いきなりプロレタリアート文学が復権した感がある。

経済に政府が介入せず、市場の自由競争にすべてを委ねるネオ・リベラリズムのもと、企業に都合がいい労働力のダンピングが進み、ワーキングプア層を生んだが、
それが、ようやく社会問題になったところで、世界的な金融危機と不況に直撃されて、企業も危機的な状態に陥り、派遣切りに見られるように、雇用までもが破壊されつつあるのは、
およそ、20世紀後半には、経験したことがなかったような出来事であり、こうした変化は、当然のように、今日を生きる人間の心理にも長い影を落とすことになるのは言うまでもないだろう。

私たちが直面する、こうした現在に、もっとも自覚的に対峙してきた先駆的な詩人のひとりとして、『薄明行』『ひなたやみ』の詩人、大谷良太がいるが、リアルな「現在」に向かい合っている詩誌として、京谷裕彰・藤井わらび編集の「紫陽」も忘れることはできない。

たんなる詩の良し悪しを超えて、誌面に渦巻く混沌としたエネルギーは、時代の転変の予兆のようでもある。

最新の17号では、藤井わらびの「夜双曲」に目を見張った。

また、「毒舌編集後記」の旧詩壇とジャーナリズム批判は必読。

よくある「毒舌」ならば、評者の無能を示すだけであって、なんということもないが、ここで語られているのは、まさに正攻法の批判と言っていい。
posted by 城戸朱理 at 11:43| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする