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城戸朱理のブログ: 詩誌・詩集評

2008年02月18日

注目する詩誌〜「八色」第3号

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巻頭に詩誌「ウルトラ」の編集長、及川俊哉の
作品とインタビューが掲載されているのだが、
これが傑作で、思わず読み耽ってしまった。

及川俊哉氏は、「ウルトラ」誌上で、
無謀にも、詩を千篇書くという
「The thousand poems project」を宣言、
旺盛な詩作を展開しているが、
ときに遠心力が勝って、脱線したような作品も目にする。
しかし、今回は、萩原恭二郎の
『死刑宣告』を連想させるほどで、
詩誌の誌面から溢れ出すかのような
混沌たる言葉のエネルギーが渦巻いており、圧倒的だった。

インタビュアーは、寶玉義彦氏。
かつて、鎌倉・浄妙寺の田村隆一の墓前で、
詩を朗読して帰ったという強者で、
おそらく、田村さんは苦笑していたに違いない。

それだけにインタビューも生彩に富み、ライヴ感がある。
とりわけ、及川俊哉氏の次の発言は秀逸だと思った。


まあ、みんなパンクなんですよ(詩を書く人は)。
言ってみれば、世の中に対してはパンクなんですけど、
パンクの集団に入ったときにはパンクじゃなくならないと。


たしかに、パンクのなかで、
パンクを気取っていても阿呆なだけだ。
誰かに聞かせたいような名セリフである。

ほかに参加同人は、ほんだふみこ・テラサキミホ・鎌本有紀子・
道草・斎藤民子・縦川きする・青山登貴子・
馬場祐希・木戸多美子・わたのべよしひろ。

これは、和合亮一氏のもとで、
詩作に励む虹色詩人団の詩誌なのだろうか?
だとすると、「八色」という誌名は、
七色の虹を、さらに超えていけという意味が
こめられているに違いない。
posted by 城戸朱理 at 09:56| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

注目する詩誌〜「CANALIS」創刊号

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黒い表紙を赤い糸で閉じる瀟洒な装丁が目を引く
「カナリス」創刊号は、限定150部の刊行。
この造本を見ただけでも、内容への期待が募る。

参加同人は、建畠晢・北辻良央・藤原安紀子。
それぞれに独自の世界を見せて、
手のひらに乗るような小さな詩誌のページから、
異界が広がっていくような印象がある。

黒い表紙は、その異界の言葉が外にあふれ出さないように、
封じるためのものなのか。
ふと、そんなことを思った。
posted by 城戸朱理 at 09:20| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月20日

注目する詩誌〜「ウルトラ」

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00年代の新世代を強力に牽引してきた「ウルトラ」の第11号が、
福田武人・渡辺めぐみを新同人に迎えて刊行された。

最新号の特集は「現代詩フェスティバル2007〜環太平洋へ〜」。

今年、4月に世田谷パブリックシアターで、開催された
環太平洋文化圏の詩という、
新たな視座による国際詩祭のレポートを中心とする特集だが、
このフェスティバルに出演するために、
初めて来日した、アメリカを代表する詩人、マイケル・パーマーの
京都旅行中の姿をインタビューとともに織り成す、
山内功一郎「京都のマイケル・パーマー」や、
レポートの域を超えた考察が展開される
及川俊哉「生命は実在するか」など、
資料として貴重なだけではなく、
示唆に富む充実した内容になっている。

また、川島清、及川俊哉による小特集〈『アメリカ現代詩101人集』を読む〉も、
これまでにないアメリカ詩読解の
局面を切り開いていて、興味深い。

作品は、通常の詩集一冊分を超える、
原稿用紙で100枚もの書き下ろし、
松本秀文「速度太郎の冒険」が、あっけらかんと圧巻。

「ウルトラ」を始めとするゼロプロを主導する、
和合亮一へのインタビュー「詩を手渡しする場所を求めて」は、
詩人にとって個人であること、
詩人と社会、現代における同人誌の意義など、
さまざまな問題を語って、
詩の現在の可能性を示すものとなっている。

それにしても、及川俊哉編集長の「編集後記」によると、
前号が230ページを超える大冊だったため、
今回は「肩肘張らずに、小さくとも実りある良書を」という
コンセプトで編集されたものだというが、
それでも、150ページを超える大冊で、
読み出すと、すぐには閉じられない、
多彩で充実した誌面になっている。

しかも、その「多彩さ」がつねに、
「今日、詩はどのようにして存在しうるのか」という
問いに貫かれ、「充実」ぶりが、その問いに対する、
答えの可能性として提示されているところが、
この詩誌の凄さだろう。
posted by 城戸朱理 at 12:19| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月31日

注目する詩誌〜「紫陽」

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この詩誌の存在を知ったのは、今年のポエケットでのこと。
参加費を抑えて、若い詩人が負担にならずに参加できる
開かれた詩誌を目指すという姿勢は貴重だと思う。
その意味では、アンデパンダン的な詩誌と言えるだろう。

アンデパンダンは、フランス語で「自主独立」を意味し、
無審査・無賞の展覧会をアンデパンダン展と呼ぶ。
事の起こりは、1884年のフランスで、
新しい芸術を認めようとしないサロン(官展)に対抗して、
若い美術家が創立し、ゴッホ、セザンヌ、マティスらが出品、
近代美術の生成と展開に大きな役割を果たした。

日本では、読売新聞社主催による、
読売アンデパンダン展(1949〜1964)が、
戦後美術の舞台となったことを、忘れてはならないだろう。

「紫陽」の編集は、京谷裕彰と藤井わらび。
第13号では、このブログの「難民化する世代」でも紹介した、
革命家、松本哉を始めとして、
佐藤雄一、窪ワタル、竹村正人らが寄稿し、
アナーキーなエネルギーが、
渦を巻くような紙面となっている。
そして、それは、ここから
何かが始まるに違いないと思わせるような
種類の出来事のようにも思われる。
posted by 城戸朱理 at 18:33| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月29日

注目する詩誌〜「生き事」

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世界がどのように見えるか、
あるいは、世界とどのように向かい合うのかは、
年齢によって、違う形を取らざるをえない。

その意味では、年齢を重ねるにつれて、
若い時期の切実さのようなものは
薄らいでいくところがあるのは否めないが、
それは、切実さを失ったわけではなく、
それが、緩やかさのなかに
深く内在化するようになるのだと言えるだろうか。

そうした例を「生き事」に見ることが出来る。

魅惑的な表紙の版画は、大野隆司によるもの。
参加同人は岩佐なを、阿部恭久、松下育夫と
50代の練達の書き手が集う。

いずれも、80年代から、
独自のライトヴァース的な詩世界を展開してきた詩人たちだが、
「生き事」という誌名が示すように、
それぞれの場所で「生きる」ことの意味を、
詩によって、問いかけ、確かめようとする、
たしかな言葉の呼吸を、この詩誌に聞くことが出来る。
posted by 城戸朱理 at 09:33| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月26日

注目する詩誌〜「月暈」

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先に紹介した詩誌「KaderOd(カデロード)」は、
160ページを超える大冊で、
400ページに及ぶ「ガニメデ」、
330ページを超える「ウルトラ」に次ぐほどの重量を誇っている。

それに対して、「月暈(げつうん)」は、
表紙から数えても、わずか8ページ。
2枚の紙をホッチキスで留めて、
ふたつ折りにしただけの、
ささやかな、葉っぱのような詩誌である。

しかし、そのささやかさ、ひそやかさ自体が、
「月暈」という詩誌のあり方を
示しているのではないだろうか。

世界に対して、いちばん、ひそかやかな場所から、
声を発していくこと、それは、
暈(かさ)がかかった月のように、
おぼろげなことなのだが、
それ以上は、何も譲ることが出来ない場所からの
切実な詩の声なのだと言っていい。

創刊号の参加同人は、文月悠光・望月遊馬・大谷良太。
それぞれの方法で、揺らぐ主体を探るような詩篇は、静かなのだが、
忘れがたい印象を残す。
posted by 城戸朱理 at 09:17| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月25日

注目する詩誌〜「KaderOd」(カデロード)

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00年代の新世代を牽引してきた「ウルトラ」は、
和合亮一から及川俊哉に編集長が交代し、
いまだに疾走している。
そして、「ウルトラ」以降も、
小笠原鳥類・キキダダマママキキらによる「鐘楼」、
三角みづ紀、久谷雉(怪鳥!)、三木昌子らによる
「母衣(ほろ)」といった詩誌が刊行され、
来るべき時代の詩が、次第に姿を現しつつあるという感を強くしていたが、
残念なことに「母衣」は、
編集・発行人の久谷雉氏が翼を休めたため、休刊らしい。

そうしたなか、さらに新しい世代による、
圧巻の詩誌が届けられた。

それが「KaderOd」なのだが、
たんに作品を発表する場としての詩誌ではなく、
現代と向かい合う切実さを、
作品と批評を始めとする散文の交錯のなかから、
浮かび上がらせるような切迫した誌面が印象的だった。

同人は、久米一晃・佐藤雄一・佐原怜・白鳥央堂・田代深子・伊達風人・広田修の7人。
現代詩手帖賞の佐藤雄一、
現代詩新人賞評論部門奨励賞の佐原怜、
さらにテアトロ新人戯曲賞の久米一晃と、
強力な布陣だが、そうした目につきやすい事項よりも、
実際に手にして、その内実に触れてもらいたいと思う。

創刊号では、志樹慧香、そして、
詩集『MELOPHOBIA』が話題を呼んだ安川奈緒が、
ゲストとして参加しているが、
巻末の佐藤雄一と安川奈緒の「往復書簡」も
実にスリリングな内容で、
思わず、読みふけってしまった。

「KaderOd」の今後の展開に期待したい。
posted by 城戸朱理 at 09:32| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月12日

鹿児島縦断!

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午前2時すぎまで騒いでいたのに、翌朝、柳美里さんは、またもや城山公園までランニング、なんという体力だろうか!



富岡幸一郎さんと私は、9時半の開館を待って、鹿児島市立美術館で開催されている「絵画の現在」展を見に行った。

鹿児島出身の画家6人の回顧展なのだが、そのひとりに、鎌倉の近代美術館の主任学芸員、是枝開氏も選ばれているのだ。


是枝さんの絵を見るのは初めてだが、富岡さんも私も愕然、かつ感嘆、セザンヌや北斎の構図をモチーフにしたという、その作品は、いわば絵画をエレメントに還元して、再構築するものと言えるだろうか。


図録を見て、藤沢さんも「いいねえ」と感心していたが、色彩のセンスも抜群で、これからは、是枝さんのことを是枝画伯と呼ばなければならないと、意見が一致したことだった。


鹿児島の3日目は、昨夜、到着した新保祐司夫人の智子さんも御一緒することに。

智子さんは洗練された美人で、MIKIMOTOのデザイナーをされているそうだが、新保さんの愛妻家ぶりもうなずけるというもの。

ふたりが出会うきっかけを作り、仲人をつとめたのが、詩人の岡田隆彦さんだったというのだから、世の中は面白い。



さらに、私のブログで「鎌倉文士、鹿児島で語る」の告知をを見て、「これは何事!? ぜひ参加しなければ」と東京から駆けつけてくれた荒井香織(かおる)さんも、鹿児島観光に同行することになった。

荒井さんは、女性的な名前だが、実は男性、メジャーな雑誌各誌で活躍中のフリーライターである。


総勢10人は、高岡さんの運転で、まず、薩摩半島最南端の長崎鼻へ。

薩摩富士と呼ばれる開聞岳は海に浮かんでいるかのようで、素晴らしい眺めである。


長崎鼻には、珍しい芋焼酎をずらりと並べている店があって、私は訪れるたびに宅急便で送ってもらうのだが、今回は、鹿児島でもこの店でしか扱っていない幻の焼酎、「無瀬の浜亀」を始めとして、6本を頼んだ。

6升あれば、当分、芋焼酎に不自由することはないだろう。



長崎鼻をあとにしてからは、ひたすら北上。

池田湖で巨大ウナギ、イッシーを見物してから、唐船峡で、そうめん流しの昼食。

唐船峡は今は合併して指宿市(いぶすきし)になっているが、合併前は開聞町で、唐船峡の豊かな湧水を利用したそうめん流しをかつての町長が助役時代に考案、実用新案を取得し、町は大いに潤ったのだとか。


関東では「流しそうめん」と呼ぶが、こちらは「そうめん流し」。

水がいいせいか、添えられた鯉の洗いや鯉こく、鱒の塩焼きも実に美味い。

鹿児島は、連日、30℃と、いまだに夏のような気候だから、ビールも旨い。


この唐船峡のそうめん流し、高岡さんがお連れした俳人の金子兜太氏もたいそう喜ばれていたそうだ。



昼食のあとは、知覧へ向かい、知覧特攻平和会館を見る。
 
知覧は、島津氏の外城があったため、武家屋敷が残り、太平洋戦争末期に、特攻隊基地があったことで知られているが、日本屈指の茶の産地としても知られる美しい町である。

知覧特攻平和会館には、若くして散った兵士たちの遺品や手紙が展示されており、藤沢さんや私は、思わず涙ぐんでしまった。


平和会館の売店で、知覧茶と、鹿児島でイベントをするたびにお世話になっている、相星雅子さんの著書『華のときは悲しみのとき』(高城書房)を購入。

知覧で軍指定の食堂、富屋を営み、特攻隊の少年たちから母のように慕われた、鳥浜トメさんの物語である。



知覧特攻平和会館のあとは、薩摩イギリス館へ。

ここには、幕末、薩英戦争の時代のイギリス側の資料が展示され、英国製の雑貨が並び、カフェも併設されている。

茶葉から自分で栽培したという自家製の紅茶は、イギリスの品評会で金賞を受賞したというのだから、驚く。

その紅茶とスコーンをいただき、小憩。

紅茶派の柳美里さんも感嘆するほど、素晴らしい紅茶だったが、残念なことに、小売り分は品切れで、次回を期することになった。



知覧をあとにしてからは、鹿児島市を通り過ぎて北上し、霧島国立公園の今日の宿、霧の里に向かった。
posted by 城戸朱理 at 09:02| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月05日

今井義行『ライフ』(思潮社)

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簡素な白いカヴァーが、
印象的であるとともに、
すぐに汚れてしまいそうで怖くもある
この詩集は、まさにそうした造本と響き合うかのような
「人生」への思いを綴って、
不思議な読後感を残す一冊である。



ところで わたしは 会社員になるために
この地に 生まれ落ちてきたのだろうか
そのような 答えの解らぬことは
おそらくは 考えないほうがよいのだろう

ところが忽然と考えてしまうこともあった
そのようなときは トイレで
便座にうずくまって 鐘のようにからだを
空洞にして 五分間ほど祈った

わたしという鐘は遂に鳴ることはなかった
(「就業生活や生命保険」より)



世界との違和感を、いささかナイーヴな手つきで
探るようでありながら、
この詩人には、「詩」に対する信仰にも似た強い思いがあって、
それが、現実との対置されたときの強度が、
詩篇を成立させる力学として
作用しているように思われる。

ナイーヴなようでありながら、
実は、ここにこそ、
今日の叙情詩のありうべきひとつの方位が、
示されているのではないだろうか。



幸せが広がってほしいと祈れば
人々の背中を神の指先が射してつらぬく
私もそれに震撼した事がある
詩霊が帆をかかげた光りの瞬間であった
(「詩を、泣かせるな」)
posted by 城戸朱理 at 07:46| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月03日

大谷良太『ひなたやみ』(ふらんす堂)

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最近、興味深く読んだ論文に、
ヘザー・ボーウェン=ストリュイクの
「プロレタリア文学」(島村輝訳)がある。

「世界を見通すにあたって、それがなぜ大切なのか」という
副題が付されているが、
内容的には、日本のプロレタリア文学を、
帝国主義、グローバリゼーション、
そして資本主義といった
今日の諸問題に、深い関わりを持つ文学として、
再評価する世界的な気運についてレポートするもので、
たいへんに刺激的だった。

プロレタリア文学と聞くと、
ソ連崩壊とともに過去のものとなった、
コミュニズムと資本主義の対立のなかで、
書かれたものと思いがちだが、
むしろ、冷戦の解消とともに、
プロレタリア文学は、
さらに多様な構図から研究され、
その豊かな可能性が注目されているというのだ。

たしかにネオリベラリズムのもと、
第二次世界大戦以前のような
格差社会が復活してしまった
今日のアメリカや日本において、
プロレタリア文学は、過去のものではなく、
再び、現在の問題になりつつあるのだと言っていい。

そして、今のところ、
こうしたことに自覚的な
唯一の詩人ではないかと思われるのが、大谷良太だ。

その詩は、イデオロギーではなく、
日常のなかから、言葉を汲み上げることによって、
主義や主張を語るのではなく、
今日の切実な現実を詩化するものと言えるだろう。

『ひなたやみ』というタイトルが象徴するように、
その現実とは、白昼の明るさのなかにも、
暗くわだかまっているようなものでり、
この詩集は、単純に希望や絶望を
語ることができない時代の気配を
鮮やかに映し出している。
posted by 城戸朱理 at 07:06| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月07日

ウェブマガジン「いんあうと」、特集「城戸朱理を見よ」!

大冊の「ウルトラ」第10号、
「特集・城戸朱理」に続いて、
ウェブマガジン「いんあうと」の
「特集・城戸朱理」がアップされた。

題して「城戸朱理を見よ」。

そんなことを言われても、本人は困るが(笑)、
12氏もの評論や書評が並ぶ
「ウルトラ」の特集と連動する企画だけに、
読み応えのあるものとなっている。

内容的には、私と和合亮一氏の対談から始まって、
小川三郎・河上政也・キキダダマママキキ・
清野雅巳・杉本つばさ・橘上・
竹内敏喜・平井謙・森川雅美・
渡辺玄英・ヤリタミサコ、
なんと全11氏もの評論やエッセイが並び、
作品として、私が昨年、制作した
「漂流物」シルクスクリーン・ヴァージョンを
写真図版で紹介するというもの。

さすがに、これだけ論考やエッセイが並ぶと、
たいへんな文字量だけに、
いちどで読めないほどの重量感がある。

執筆されたみなさんはもちろん、
松本秀文編集長を始めとするスタッフのみなさんは、
さぞや苦労されたことだろう。
この場で、感謝の言葉を捧げたい。

もうひとつの特集「新しい詩人」も刺激的だ。

「いんあうと」のアドレスは、下記の通り。


http://po-m.com/inout/menu.htm


アクセスして、和合亮一プロデュースによる、
詩の大洪水「ゼロプロ」の熱気に
ぜひ触れてみて欲しい。
posted by 城戸朱理 at 06:24| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月05日

「ウルトラ」第10号、特集「城戸朱理」




編集/及川俊哉、発行人/和合亮一による
「ウルトラ」第10号が刊行された。

特集は、「城戸朱理〜発生の原点から実践せよと城戸朱理は言う〜」。

なんと、私の特集ではないか!
たしかに、そういう話はあったが、
何となく、刊行は、もっと先に
なるのではないかと思っていたものだから、
届けられた「ウルトラ」最新号に、
いささか驚いたのだった。

ともあれ、何よりも圧倒されるのは、その分厚さである。
総ページは、234ページ、
特集だけでも、122ページに及ぶ。
これが、同人誌か?

手にしたとき、よくぞ、編集したものと思ったが、
及川俊哉編集長を始め、
編集に携わった方々の苦労は、
並大抵のものではなかっただろう。

特集は、及川俊哉氏による緒言、
和合亮一氏による私へのインタビュー、
「ウルトラ」同人である、
和合亮一、遠藤朋之、石田瑞穂氏に
ゲストとして山内功一郎氏を迎えた座談会、
城戸朱理論を、松本秀文、遠藤朋之、
川島清の同人3氏が執筆し、
さらに松尾真由美、高岡修、田野倉康一、
野村喜和夫、山内功一郎の5氏が寄稿、
合計8本の論考が並ぶうえに、
手塚敦史、水無田気流両氏による
『パウンド長詩集成』についての書評が掲載されている。
特集の最後は、和合亮一氏が締めているが、
この特集だけで、優に通常の
単行本一冊分の分量があるように思う。

分量のみならず、内容も充実したものだが、
自分自身が特集の対象なだけに、
内容については触れずにおこう。

詩作品には、最果タヒ、望月遊馬氏らの新鋭も参加、
松本秀文、川島清ら同人諸氏は、作品と批評で気を吐いているが、
とくに前号から編集長になった及川俊哉氏は、
詩作品、論考「四次元戦争論」、
連載「ディラン・トマスの韻律の分析」と
炸裂ぶりを見せており、圧倒的なものがある。
前編集長、和合亮一氏といい、
「ウルトラ」の編集長は、活火山タイプ(!)の詩人が、
踏襲していくのだろうか?
posted by 城戸朱理 at 13:19| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月13日

杉山久子句集『春の柩』(愛媛県文化振興財団)

第2回芝不器男俳句新人賞の
受賞者、杉山久子氏の句集『春の柩』が、
現在、刊行準備中である。

タイトルは、5人の選考委員全員が、
そろって称揚した一句、

人入れて春の柩となりにけり

から採られたもの。
この一句には「名句」の
風韻が感じられるように思う。

私が感銘を受けた句は、
ほかにも次のようなものがあった。


雲よりも白き犬ゐる海の家

日盛りや仏は持てり金の舌

くちなはのめざせる先の翁かな

無花果を喰み口中の闇ふやす

七人といはず敵ゐて鯨喰ふ


第1回目の受賞者、冨田拓也氏の
先鋭さに比べると
伝統的な俳句の印象が強いが、
伝統にとどまるだけではなく、
呪術的な趣が、俳句に奥行きを
与えているように思う。

また一方で、この俳人は、


いちはつや好きといはれて好きになる

どうしろといふの目高を二匹くれて

なぐさめはいらぬ冷奴をおくれ


といったように、現代的な軽みを
帯びた句も発表しており、
今後、どのように独自の詩的世界を
構築していくのか、
期待されるところである。
posted by 城戸朱理 at 01:55| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月12日

冨田拓也句集『青空を欺くために雨は降る』(愛媛県文化振興財団)

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冨田拓也氏は、私も選考に携わっている
芝不器男俳句新人賞の
第1回目の受賞者であり、
副賞として、愛媛県文化振興財団から
刊行されたのが、
写真の第一句集である。

1979年生まれ、結社に属さず、
現代の俳句に対しては、
むしろ批判的な立場に立つ。
その旧態に組みせぬ態度と
新興俳句の復興を目指すかのような
斬新な作風は、俳壇に
少なからぬ衝撃を与えることになった。

その後、目覚ましい活躍をされているが、
若くして、伝統ある俳誌「鷹」の
編集長に就かれ、俳壇の注目を集める、高柳克弘氏とお会いしたときに、
高柳氏が冨田拓也氏を
ライバルだと思っていると
語られていたのも印象深い。

大石悦子選考委員長が、
「恐るべき新人」と呼んだ冨田拓也氏が
芝不器男俳句新人賞の
ひとつのイメージを決定したのは、
間違いないところだと思う。

『青空を欺くために雨は降る』から、
私が、感嘆した句をいくつか紹介しておきたい。


月の夜や心に貝の渦見えて

胃の中に雪降る如き訣(わか)れかな

頭蓋に漆黒の蛇黙しをり

曼珠沙華墓の隙間を溢れ出づ

何時よりか肺を彷徨ふ螢かな

蝶凍てて夢の奥処(おくが)に逼塞(ひっそく)す

死とはただ供花の枯れたる姿かな
posted by 城戸朱理 at 00:49| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月23日

読めない詩篇?

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広瀬大志による個人誌「妖気」は、
毎号ごとに版型も造本も違う特異な形態で、
注目を集めているが、その最新号が届けられた。

なんと、中身は、読めない詩篇である!

御覧のように詩篇は縮小され、粒子化した文字が、
色彩のパターンを形成している。

上は、詩篇200行が、下は、なんと詩篇1600行が印刷されており、
顕微鏡でもなければ、読みとることは出来ないだろう。

収録作品は「Day of the Dead」、
この作品じたいは、「Street of the Dead」と題されている。
一見、美しく見えても、だまされてはいけない。
詩篇は、タイトルから推測できるように、
ホラーな内容に決まっている。

これは、今までに例のないヴィジュアル・ポエトリー、
とりわけ、逆転したコンクリート・ポエトリーの試みと言えるだろうか。

さらに2枚のポストカードも添えられているが、
この「妖気」、限定6部の制作のため、
広く手にしてもらうことが出来ないのが、残念だ。
posted by 城戸朱理 at 13:27| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月16日

松井茂『オルガ・ブロスキーの墓』(アロアロインターナショナル)

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今年、第一詩集『同時並列回路』を送り出したばかりの
松井茂が、早くも第二詩集を刊行した。
松井氏は、言うまでもなく、
現在、もっともアヴァンギャルドな活動を
旺盛に展開している「詩人」だが、
その作品は広義のヴィジュアル・ポエトリーに属するもので、
方法論的、かつ分析的である。
それだけに、理念が先行するきらいがあって、
第一詩集は、理解できない人もいたのではないかと思うのだが、
今回は、第一詩集よりも、より視覚的であり、
広く受け入れられやすいものになっているように思う。
しかし、松井茂の「詩」を本当に理解するためには、
何よりも、「方法」の理解が必要とされているのだが。

『オルガ・ブロスキーの墓』には、
ヴィジュアル/コンクリート・ポエトリーの
数少ない継承者として、その理論と実作が
世界的な注目を集めたドイツの
クラウス・ペーター・デンカー(1941〜)の序文が寄せられており、
そこで、彼は「具体詩は、50年代から70年代に最盛期を迎えた後、
斬新な試みを欠いていた。
その正当な後継者をもし見いだしうるとすれば、
それは若い、1975年生まれの松井茂においてのことである」と、
その仕事を高く評価している。
当分の間、松井茂から目を離すことは出来ないようだ。

また、松井茂氏は、府中市美術館で開催されている、
「第3回府中ビエンナーレ〜美と価値 ポストバブル世代の7人」
(10月21日〜12月24日)にも、参加しており、
この興味深い展覧会には、私も、ぜひ足を運ぼうと思っている。
posted by 城戸朱理 at 00:17| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月05日

浜田優『ある街の観察』(思潮社)

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ぼくたちはともに生まれ、ともに育った。
あのとき、あの川のほとりに立って
ぼくはおまえを連れて渡っていけなかった。
おまえはすべてを受け入れた。


本書は、堀田展造の写真と浜田優の詩による共作展(2001年)のために
書き下ろされた詩をもとに、まとめられた連作詩篇である。
共作展の案内をもらったとき、
そこに印刷されていた一篇の詩に魅了された私は、
著者と会ったときに、
ぜひ、詩集にまとめてほしいと語ったことがあるが、
それが、ようやく実現したことを喜びたい。
本書は、刻々と変化していく街角の表情を写真とは違う方法で、
言語化しようとする試みであり、
その詩行の運びは、午後の傾いていく日の光にも似て、
静謐でありながら、深い影を伴っており、印象深いものがある。
著者は、巻末の「覚書」で、次のように語っている。
「街は潜在的にはつねに廃墟であり、
路は場所ではなく、場所の欠如である」と。
現実の街並みのなかに、
潜在性としての廃墟までを透かして見ることで、
詩の言葉は、重層化していく。
この詩集は、本年度の歴程新鋭賞を受賞したとのこと、
浜田優の詩的世界は、
この一冊をきっかけにして
さらに開かれていくことになるだろう。
posted by 城戸朱理 at 10:09| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月08日

北園克衛と新国誠一をめぐるCD

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日本における視覚詩の2人の先駆者、北園克衛と新国誠一のテクストをベースとするCDが発売された。


題して「記号説/う・む 高橋悠治による北園克衛と足立智美による新国誠一」。


原案は、松井茂。発売は水牛+ナヤ・コレクティブ。


高橋悠治は北園克衛の詩の朗読にエリック・サティのピアノ曲をミックスし、
足立智美は新国誠一の詩を音響詩としてとらえる新しい解釈のもと、音楽化をはかっている。


このCDは、16の音源のほかに、実物を目にすることが少ない新国誠一のテクストなどを
エキストラ・トラックとして収録し、PCで映像を見ることが出来るようになっている。


私も日本最初のコンクリート・ポエトリーの詩集である、新国誠一の『0音』は、

高橋昭八郎さんの御好意で、いちど実物を手にしたことがあるだけで、今日、その作品に触れるのは極めて難しい。

それを思うと、この配慮は実に行き届いたものだと思う。


来年は新国誠一没後30年。


『0音』を始めとする、その仕事が再刊されるのを望みたいところである。
posted by 城戸朱理 at 11:09| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月28日

江尻潔『るゆいつわ』(思潮社)



結論から言おう。


これは驚くべき書物である。

この詩集は、内容的には、いわゆる行分けの詩でも散文詩でもない。

クロース貼りの表紙と裏表紙の間には、一枚の紙が折りたたまれて、本文を成している。

その意味では、1ページの本とも言えるし、そこに呪術的に配された言葉を見ると、言葉による詩集であるとともに、視覚詩的な要素も多分に合わせ持っていると言っていい。


しかも、文字の配置から成るだけに、その仕事は視覚詩(ヴィジュアル・ポエトリー)の発端としてのコンクリート・ポエトリー(具体詩)に近い印象を受ける。


日本最初のコンクリート・ポエトリーの詩集として知られているのは、言うまでもなく、新国誠一による『0音』(1963年)だが、
ある意味では、日本語におけるコンクリティズムは、新国誠一によって行きつくところまで行ってしまっていたので、
その後、より広義のヴィジュアル・ポエトリーに解消されていくことになったわけだが、
江尻潔は、新国誠一が、むしろ消去しようとした意味性を文字の配列に帯電させることで、
従来のコンクリート・ポエトリーには見られなかった新たな可能性を開示することに成功している。


その意味性とは、1冊の詩集において、言語の発生じたいを図像化するといったものなのだが、
その意味では、この詩集は、吉増剛造の近作のプレテクストでもあり、一時期の高貝弘也の詩的世界に通底するものでもあると言えるだろう。


また、北園克衛が主導した「VOU」に在籍したのち、「VOU」を離れてから、独自の活動を繰り広げたアーティストに、寺山修司、白石かずこ、松沢宥らがいるが、
言葉による詩から、言葉によるコンセプトアートへと進み、瀧口修造をも感嘆させた松沢宥の仕事と、江尻潔の仕事は並行するものがあるようにも思われる。


しかし、もっとも重要なのは、この書物が「詩集」として刊行されたことで、さまざまな名前を引きながら、
江尻潔の仕事について語ってきたが、本当は、誰かとの対比などどうでもいいことでしかない。


この詩集の卓越は、実際に手に取ってもらうしかないだろう。
posted by 城戸朱理 at 08:57| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月02日

中右史子『夏の庭』(えこし会)

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すりもようの散らされたガラス窓は、
今、ぴしりと閉められていて、刻みきれない光りをくみ込む。

正午にはサイレンが鳴って、それきり団地から人は
出て来なくなった。

庭に光りは溺れそうだ。

夏の 濁りの 水そうのなかを 古ぼけもせず
みちた金魚が泳いでいる。

(「夏の庭」後半部)


簡素だが、瀟洒な造本が印象的な、この詩集は、
繰り返し開くたびに、感銘が深まっていくような一冊と言えるだろう。
詩篇は現在形をたたみかけ、
あらゆる出来事が今まさに終えられたような
フランス語の「半過去(サン・パセ)」に似た印象を残す。
ところが、その結果、現れてくるイメージは、
逆にノスタルジックな気配をたたえており、
現在ではなく、むしろ過去の事象が像を結んでいくかのようにも思われる。
世界の複数化、多数化のなかで、
私という主体も分裂を余儀なくされる今日、
「私とは誰か?」という主題にそって書かれる詩は少なくないが、
この詩集は、その問いに先立つ問いを
生きようとするものであると言えるだろう。
その問いとは、私はどこから来たのか、
ここは、どこなのかという問いであるとともに、
その背後に、「あなたとは誰か?」という問いを
沈めたものであるように思われる。
本書は初版200部限定。入手は難しいかも知れないが、
興味のある方は、発行元に連絡してみてもらいたい。
連絡先は、えこし会(東京都練馬区豊玉南1ー8ー9ー103)。
posted by 城戸朱理 at 19:28| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする