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城戸朱理のブログ: 詩誌・詩集評

2006年05月28日

翼あるもの

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鳥には翼がある。小笠原鳥類氏は、「鳥類」という名前だが、翼はない。当たり前である。

ところで、翼があるのではないかと思えるものが、もうひとつあって、
それは何かというと「お金」である。たまにしかやって来ないのに、気づくとパタパタとどこかに行ってしまっている。

まったく情けない話である。もし、お金が駝鳥だったら、翼はあっても飛べないが、
やはり走って逃げていくことだろう。待てよ、もし、お金が鶏だったら、どうだろうか?

うまいことケージで飼うことが出来たら、卵を産んで勝手に増えてくれるかも知れないぞ。

いや、ケージよりも平飼いのほうがいいかな?

お金があちこちで勝手に増えていったら、とんでもないインフレのあげくに資本主義社会は崩壊するに違いない。


さて、こんなバカなことを考えたのは、ほかでもない、鳥ではないのに翼があるとしか思えぬ「詩」があることを思い出したからだ。

「翼ある詩」、そう、伝説的な視覚詩人高橋昭八郎のヴィジュアル・ポエトリーである。

その作品は、詩を書物のページから飛び立たせて、
美術・写真・デザイン・書物、そして言語といったジャンルを貫き、
私たちに詩とは何かという自問を促す輝かしい謎となる。


届けられたばかりの詩誌「青焔」第63号(2006年春号)を開いたら、
白石かずこ氏による連載「VOUとその周辺」で、高橋昭八郎氏が取り上げられており、嬉しく読んだ。

白石さんの文章は高橋昭八郎におけるアヴァンギャルディズムの所在を的確に捉えており、
高橋昭八郎という希有な詩人を、全存在的に抱擁するかのような白石さんならではのものとなっている。

北園克衛が主導した「VOU」の前期を代表する存在である白石かずこから、
「VOU」後期にあって、北園克衛のプラスチック・ポエムの発展的継承者として、
世界的な評価を得るに至った高橋昭八郎へと架けられた、それは、言葉の虹だったのではないか。


これまでEdgeでは、2003年に高橋昭八郎篇「Edge2 今を、いきる〈言葉を超え、境界を超える詩〉」を制作し、
2004年には青山のオン・サンデーズで「Edge in Gallery 高橋昭八郎展〜翼ある詩」を企画、
さらに高橋昭八郎展初日にはオープニングとしてオン・サンデーズで、
さらに翌日にはワタリウム美術館で高橋昭八郎氏のパフォーマンスとトーク、シンポジウムからなるイベントを開催し、
その様子は「LIVE! Edge 高橋昭八郎篇 翼ある詩」として番組化されているが、
高橋昭八郎という謎めいた存在へのアプローチは、これからも続くことになるだろう。



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2006年04月19日

荒木時彦『静かな祝祭 ー パパゲーノの後日談』(草原詩社)

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関西の新世代を主導する詩人、平居謙プロデュースによる草原詩社の現代詩叢書の刊行が始まった。
帯のコピーによると、「現代詩の原野を疾走する和合亮一が推薦する
究極現代詩叢書、ここに発進! 未曽有の感動に蒼ざめよ、読者。」
キャッチコピーとしては1行目で「する」が重複しているところが難だが、
派手なところはなかなか悪くない。75点。
しかし、内容と造本は、コピー以上に眼を見張るものがあった。私も推薦したい。
「パパゲーノとその後日談」という副題からも分かるように、
この詩集はモーツァルトの歌劇『魔笛』を下敷きにしたもので、
その物語とともに詩篇が展開されることを作者が明らかにしている。
しかし、この詩集の卓越は、詩篇が、モーツァルトの歌劇をなぞるのではなく、
むしろ並行するように、現代を生きる詩的主体の物語が、
『魔笛』の神話的世界と重層化していくところではないだろうか。


このオレンジの
「この」について考えてみる
そこには魂のようなものがあるのだろうか?
〈針葉樹の森〉
バリウムを入れた胃の様な魂の姿なのだろうか?

シャワーを浴びた後
僕は夜のようになる
夜のようになって
おびえていた街角へ向かう


言葉は平明だが、内容は簡単なわけではない。この詩集が向かい合おうとするもの、それは確かな存在理由(レーゾン・デートル)というものを失った現代の人間という存在の不安であり、
それゆえの言語的な彷徨なのだと言えるだろう。
言葉が彷徨のうちにあること、それはとりもなおさず、存在もまた、彷徨のうちにあることにほかならない。
ヤリタミサコによる解説「形而上詩、荒木時彦の場合」も、この詩集の意義を語って、明晰である。






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2006年04月03日

松井茂『Simultaneous Parallel Circuits』(アロアロインターナショナル)

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ヴィジュアル・ポエトリー(視覚詩)というものは、
20世紀なかば以降の印刷技術の進歩、とらわけ写真植字によるオフセット印刷の発展・普及と深い関わりを持っているが、
デジタル化が当たり前になった今日において、新しい視覚詩の方向を模索している詩人として、
松井茂の名前は、今後、無視しえぬものになるのではないだろうか。
その作品、「同時並列回路 第1ー210番」を収める第一詩集が本書である。
この詩集は、通常の詩集のように読むことは出来ないし、
通常の視覚詩のように視覚的に鑑賞するものでもない。
この詩集じたいをオブジェと見なすことも出来るが、
それは著者の意図するところではないように思われる。
そう、この詩集は今のところ、何かではない。
何かではないという行為としての詩というものがあるとしたら、まさにこういうものだろう。
解説として付された貫成人「死産された芸術/回文」、
桐山孝司「形態素辞書から回文を生成する」も、
解説というよりは、この詩集の意図と並行するものであって、
作品じたいとは、決して交差することがない。
このもどかしさと退屈さのなかで、どのような「詩」が生成しうるのか。
松井茂が一冊の詩集によって、投げ出す問いは、およそ、そのようなものである。
はたして、これは死産された芸術なのか、それとも死産の芸術化なのか。
ここから始まり、そして終わるものを見届けてみたいと思う。


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2006年03月27日

高岡修句集『蝶の髪』(ジャプラン)

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『高岡修全詩集』(ジャプラン)、さらには土井晩翠賞を受賞した『犀』、『屍姦の都市論』(ともに思潮社)で、
一気に詩壇の注文を集める高岡修氏は、俳句誌「形象」を主催する俳人でもある。
俳句で培われた言語の凝集力が、その詩作にも反映されていることは、言うまでもないだろう。
「形象」は新興俳句の拠点となった吉岡禅寺洞の「天の川」の流れを汲み、
前原東作のあとを継いで、高岡修氏が主宰を継承しただけに、
その作風は有季定型に安住することなく詩的かつ実験的である。
当然、高岡修の俳句も季節感や叙景をもっぱらにするものではない。
それは、世界最短の俳句という詩型でもって、絶対的な詩の時空を探求しようとする、飽くなき実験なのである。
詩人として、すでに10冊もの単行詩集を刊行している高岡氏だが、
意外なことに、今回、刊行された『蝶の髪』は『幻象学』に続く第二句集。
1991以降の作品から選ばれた163句を収める。
印象に残った句のうちから、25句を次に引こう。



繰のあと日本海峡へゆくスミレ

虚無の世に舌入れている縄の端

昼の馬あおい湖底を吐いている

水たまり空の深さで死んでいる

霧のなか霧の臓腑を噛む牛馬

次の世へ水くさりつつ動悸する

シネラリア死んで駅出る人の群れ

明日を買いにゆくおとうとの背の裂けめ

雉一羽、暗喩の森を踏みまよう

梨花の空へ鳥肌が木をのぼりゆく

猟銃の美しい思想である紅葉

死者の眼に朝の湖底となる葡萄

鳩くさる野の一行にはぐれつつ

転生は北半球の花あやめ

たれもみな未完のさくら死にゆかむ

その眼もて空滅ぼせよ山ざくら

水のそら蝶生(あ)れるまで蝶を書く

春山へ斧の動悸を持ってゆく

断崖の輝(て)りの無名を父となす

前の世のその前の世をよぎる馬

氷河期の記憶へ垂らす蝶の髪

夢の世を醒めてはほぐす蟹の肉

稲びかり水鋼鉄のごとく在る

白鬼となるまで咲かむ山ざくら

天の扉(と)が招じ入れたる梅の影



ぜんたいにメタ・ポエム的な要素が強く、抽象度が高いが、
そのことが逆に存在する事物をより鮮やかにしていくようなところがある。
これこそが、俳句の権能というものだろう。
この句集は1300円だが、書店では入手出来ない。注文は『高岡修全詩集』、『幻象学』と同じく版元のジャプランへ。
TEL 099ー251ー3783
FAX 099ー251ー0735


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2006年03月16日

「水声通信 特集 野村喜和夫」(水声社)

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「水声通信」第5号、特集「野村喜和夫 詩の未来に賭ける」が刊行された。
いよいよ謎めく書き下ろしの長詩「不詳肌」、
さらに、野村詩学の根源を解き明かす山内功一郎氏との対談〈「空間のてにをは」のほうへ〉から始まって、
作家、藤沢周、中沢けい、フランス文学・思想の小林康夫、舞踏の山田せつ子から、
新井豊美、ヤリタミサコ、森川雅美、小笠原鳥類といった詩人たちの論考までが並び、
逸脱し続ける詩人、野村喜和夫を多角的に検証するものとなっている。
さらにマイケル・パーマーと山内功一郎による英訳の野村喜和夫選詩集が掲載されているのも快挙と言っていい。
すでに12冊の単行詩集を上梓し、90年代以降の現代詩の第一線に立ち続けている詩人の特集が、
これまでなかったということ自体が不思議だが、何はともあれ、その刊行を喜びたい。
「水声通信」としては、「荒川修作の《死に抗う建築》」、「小島信夫を再読する」
「村山知義とマヴォイストたち」、「ロシア・アヴァンギャルド芸術」に続く、初の詩人の特集になる。
それにしても、野村喜和夫特集を仏文系の出版社が企画し、現代詩の新世代のアンソロジーが短歌や俳句をおもに扱う出版社が刊行しようとしているのだから、
詩壇ジャーナリズムの現在性の不在ぶりがいよいよ露わになりつつあるとしか言いようがない。
追悼と回顧ばかりに腐心しているのでは、ジャーナリズムとしての、
鼎の軽重が問われるというものである。
また、この特集で新井豊美氏以外に先行世代の詩人が、誰ひとりとして参加していないのも問題だろう。
聞くところによると、編集部は依頼したのだが、新井氏以外は、誰も執筆しなかったらしい。
こうした出来事は、自分たちは論じられたいが、後続世代に関しては、無視するか、
さもなければ批判していればいいという先行世代の甘ったれた根性が、露呈しているとしか思えないところがある。
「現在」のないジャンルは、必ず滅びる。この四半世紀の現在を不問に伏し続けてきた負債は、
戦後詩のフィールドに留まり続けようとした詩人たちが、
後続世代による忘却という自らの滅びによって支払うことになるだろう。
それは、決して遠い未来の話ではない。
誰も負債の返却を求めなかったとしても、この私は、決して忘れない。
覚悟してもらおうか。
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2006年02月23日

今井義行『オーロラ抄』(思潮社)

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今日における抒情詩の、もっとも美しい詩的思考を語り続ける詩人として、
今井義行を忘れることは出来ない。最新詩集『オーロラ抄』もまた、
この詩人だけに可能な詩の抒情性を生き抜く透明さと強度に満ちている。


世界は目立つ部分から消毒されていった 成人も児童も動物も花も
等しく愛さなければならないことになり 煩わしさが現れたのだ
ぼくは坊や と呼ばれてもいい 自分の女性的な指を憎んでいない

それらが「わたし」という言葉だったら それでいいと思うのです
それらが「あなた」という言葉だったら それも素敵じゃないかな
それらが「きぼう」という言葉だったら それでいいと思うのです


この詩人は真情を吐露することを恐れない。
もっとも、それだけでは語られた言葉が詩になるはずもなく、
この詩人の卓越は、ダイレクトに語られた心情が、見慣れた意味を超えて、謎と化していくところにある。
今井義行、彼は辻征夫亡きあとの、今日の抒情詩の可能性を真に生きる詩人であるのかも知れない。
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2006年02月21日

大谷良太『薄明行』(詩学社)

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著者については何も知らないし、この薄い詩集は、注意しなければ、読み過ごしていたかも知れない。
一読しただけでは、作者の心情をそのまま言葉にしたような平明な抒情詩に見える。
そして、実際に平明な抒情詩、しかも極めてセンスのいいそれであるのは間違いないのだが、決してそれだけではない。


部屋の隅で膝を抱えていると眠くなってくる。
光を照射するように扇風機を自分に向けている。
ここで終わってもいいのだと思う。
きみはいない。

昼間、熱に浮かされたようにきみは歩いていた。目が覚めるのは午後になってからの方が多い。
白い車が横を何台も通り過ぎた。夏なのに枯れているあの並木は絶対におかしい。


詩集巻末に収められた「未遂」の冒頭を引いた。
おそらく、この詩集は「絶対におかしい」という世界への違和感に対峙することから、生まれた詩なのであり、
そのとき「ぼく」という主体も確かなものとしてあるのではなく、薄明の希薄さを生きている。
この詩集のタイトル「薄明行」は、そうしたことを物語るものでもあるのだろう。
「私」という主体を疑うことなく、書き出だされるのが、凡百の抒情詩だとすると、
この作者は、そのことに明らかに自覚的であり、
まさに現代における抒情詩のひとつの方位を示してみせるものと言えるかも知れない。
著者は、おそらくは20代の若者ではないかと思う。今後の活動に注目したい。




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2006年02月20日

渡辺玄英『火曜日になったら戦争に行く』(思潮社)

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「私」という主体が引き裂かれ、分裂していくような現代に生きる感覚を、もっとも鮮やかに詩語化した一冊として、その鮮烈な装幀とともに深く印象に残ったのが、渡辺玄英による最新詩集である。

ここでは「私」という主体までもが、分裂し、複数化し、今日の捉えがたい世界の諸相を、分裂する主体との関わりにおいて、定位させることに成功している。



火曜日になったら
戦争に行く
野ウサギがはねる荒野の中を
画面の野ウサギにカーソルをあわせたら
引き金を、ひいてくらさい
ピコピコと動くのは、夢の中だけれす
きょうがいつだか、わからないけど
(ぼくの弾丸は届くだろうか?
(ぼくの言葉が届かないように?
(わかりませんわかりません
とりがあ(引き金)をひくときは
ヤギの乳をしぼるように、と
ウサギの首を締めるように、と
マニュアルには書かれています



表題作の冒頭部分である。なぜ、火曜日になったら戦争に行かなければならないのか、その理由は説明されていない。

しかも、地球を襲うのは「野ウサギ」で、なぜ、野ウサギが地球を襲うのかは

「それは誰にもわかりませぬ」。


この一見、アニメ的でもあり不条理でもある詩的世界は、わたしたちの存在という問題を、原理的にではなく、現象として捉えることから生まれたものだと思われる。


なぜ、そうなのかは分からない。けれども、そうであることだけは疑う余地がない。


およそ、そういった世界の不可解さに、ここまで真摯に対峙した詩集が、ほかにあっただろうか?


言葉の正しい意味において、この詩集は、真に「現代的」だと言えるだろう。




posted by 城戸朱理 at 11:33| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月20日

広瀬大志の個人誌「妖気」最新号

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広瀬大志の最新の長篇詩「約束の場所」を抄録する
「妖気」14号が刊行された。
限定100部なので、入手はむずかしいかも知れないが、
この詩人の新たな世界を開示する必読の長篇である。
写真のように、わが国のコンクリート・ポエトリーの指導者、新国誠一を思わせるような、
視覚詩的なタイポグラフィーが採用されているページもあるが、
主題的には、「わたし」という主体と人称が、
どのような場において生成し、成立するのかを探る詩的探求の長篇詩と言ってよい。


「どこに行くんだ?」

たちまち少年は破裂しそうな幽霊に瞳が宿る

蹴られているものは何

時間は破れて生まれてくる

ふしぎな花よ

再び霞の中へ。
いつのころ、いかなる過去か、
いかなる過去もまた通り去るだけのわずかな行程の
瞬間にさんざめく認識値の形成に過ぎないと、


1冊の詩集としてまとまる日が、待ち遠しい。

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2005年10月19日

海埜今日子『隣睦』(思潮社)

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世界文学史上、ヒョウ柄の詩集というのは、
この本が初めてになるのではないだろうか。
世界初のヒョウ柄詩集の著者は、海埜今日子氏。
タイトルは「りんぼく」と読む。
あたかも、隣の斑点に触れているようで、なおかつ隔てられているような、ヒョウ柄に似て、
人間と人間の計り難い距離を、詩の言葉で探っていく。
それは、不定形の関係性をなぞることで、
私と他者の存在を確認していくことでもあるのだろう。
たいへん美しく、読み終えたところから、
再び任意のページを開きたくなるような魅力的な詩集である。
海埜今日子氏は友人から「うみきょん」と呼ばれているらしいが、
私の知るかぎり、身につけているものは、
服からストッキング、靴やカバンに至るまで、すべてヒョウ柄である。
あれは、たしか今年のポエケットでのこと。
いかにも夏らしい透明ビニールのトートバックまでヒョウ柄だったのに、私が絶句していたら、
私の隣にいたEdgeプロデューサーの清田さんが、
「あそこまでヒョウ柄だと、
世界中のヒョウ柄を買い占められているような気分になりますね」と語っていたっけ。
私は、酔った「うみきょん」に何度もからまれたが、
格闘技好きで、中国北派最強をうたわれる八極拳の使い手でもある大男の私に
いくら酒の勢いとはいえ、堂々とからんでくる女性は、
ヒョウ柄の詩集と同じくらいに珍しい。
著者、詩集ともに希有な存在だと言えるだろう。


posted by 城戸朱理 at 12:25| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月03日

里都潤弥『空にからだの船、青く』(草原詩社)

著者の名前は「りっと・じゅんや」と読む。1976年生まれ。
自らのホームページ「文字式」に発表してきた詩をまとめたもので、
この詩集が第1詩集になるようだ。
一読して、その新鮮な感覚に目を見張った。
「笑いハム」と題された一篇から。


畑の柵は琥珀色の
かぶりつきが前提で
ハムが秋風にゆれてる
微笑が肉の色だよ


この詩人は、決して自分の心情を
ストレートに語るようなことはしない。
むしろ、さまざまな事物や事象に託して、
生きている実感を語ろうとしているかのようだ。
こうした詩集が生まれるということは、
「ネット詩」も成熟のための時間を経て、
新しいフェーズを迎えつつあるということなのだろう。
posted by 城戸朱理 at 07:40| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

松本秀文『角砂糖の庭』(梓書院)

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「序曲」と「終曲」にはさまれた50篇から成る連作詩を集成する。
著者は1979年生まれの新鋭で、作品は昨年度の「現代詩手帖」投稿欄でも、よく目にしたが、一冊になって、その詩的世界は、より明確な姿を見せているようだ。
「バーチャルで確信犯的な箱庭世界」と栞で渡辺玄英氏が指摘しているが、このバーチャルな詩的世界は、なかなかにしたたかである。
それは「現実」にリアリティを感じることが出来なくなった世代が選んだ新しい方法なのだろう。


角砂糖の庭で
クマが冷凍鮭をあたためながら
鯨バイクの背に乗って草のうえを滑走する
バイクのエンジンはガンガン燃えているというのに
鮭は一向にあたたまる気配がない

恋人たちが
偶然について
語り始める


展開は意外性に満ち、
ロールプレイング的な感覚もある。
最終行は、

僕は僕に似ることが出来て幸せです

というもの。「僕」が疑いもなく「僕」であることが出来ない時代の、真摯な主体の詩的考察が、ここにはあるのだと思う。





posted by 城戸朱理 at 07:39| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月01日

美しい装いの詩誌

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「repure」第1号。竹内敏喜編集。
写真では十全にお伝えできないかも知れないが、
稀に見る美しい造本である。
和紙を思わせるマットな表紙に
誌名は黒の箔押し、号数は赤の箔押し、
執筆者は金の箔押しと
信じがたいことに3版の印刷、
さらに赤い糸で中綴じにするという凝りようで、
品位ある仕上がりに、まず息を呑んだ。
誌名はフランス語で、「ル・ピュール」と読む。
意味は英語の「ピュア」と同じ。
8人の同人作品を掲載するが、
有働薫の「鎮魂」の凄みと白井明大「くさまくら」の現代的な軽みが、印象に残る。
また竹内敏喜によるエッセイと後記は、
詩のラディカルな問題を語って、本誌の位置を明らかにしている。
あくまでも「詩そのもの」に向かい合おうとする、この姿勢は、貴重だ。
詩集が注目を集めた手塚敦史も参加しており、
今後の展開が期待される。

posted by 城戸朱理 at 00:08| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

和合亮一の個人誌

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「DAWN」第2号。和合亮一氏が「ウルトラ」以前に刊行していた個人誌で、創刊号は寄稿からなる普通の詩誌の体裁だったが、第2号は、1000行の長編詩を一気に掲載する。

「夜明け」を意味する誌名が、いかにも和合亮一氏にふさわしい。
また、この語に定冠詞theをつけると、「発端」「出現」「誕生」といった意味になる。
第3詩集『誕生』は、このとき、すでに予告されていたのか!?
中原中也賞を受けた第1詩集『AFTER』の初出形が、ここにある。

90年代は、音楽もファッションも、70年代のリバイバルだった。
その70年代は50年代のリバイバルだったわけだが、詩においても70年代のラディカリズムの反復が見られたように思う。
しかし、世界が激しく変化しているときに70年代を反復して何になるというのか?
たとえば「気風の持続を負う」という稲川方人氏の発言は、70年代においては切実な意味を持っていたのだと思う。
しかし、それを90年代に反復しても、牧歌的なだけである。
そんなのどかなことを言っている場合ではないだろう。
和合亮一の登場は、そうしたいっさいを一気に過去のものにした。


僕の手はスイッチだ。
手を振ると画面が変わる。
手を振ると天気が変わる。
手を振ると地獄が凍る、


世界を革新する意志。

圧倒的な長編詩である。
その意義は今後、さらに明らかになっていくことだろう。
この貴重な詩誌は、東京ポエケットで初めて見かけて購入したもの。
定価は500円なのだが、
「じゃあ、100円で」と和合くん。
いいのか、ホントに?





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新しいコンテンツ



すでにお気づきの方もいるかも知れないが、
このブログに「エッセイ」と「詩誌・詩集評」という新しいコンテンツを追加した。

これまで「日記」としてアップしてきた内容は、気ままなエッセイであることが多かっため、新たに「エッセイ」を追加したのだが、
「日記」と「エッセイ」の違いは、今日あったことと考えたこと、一方は、以前、経験したことや思い出したことくらいの違いだと思っていただきたい。

「詩誌・詩集評」は、おりに触れて気になった雑誌や詩集に言及していくための新コンテンツだが、とくに新しい世代の仕事を取り上げ、感想を語っていきたいと考えている。
批評というほどのものではなく、ごく簡単なコメントていどしか書く余裕がないかも知れないが、新世代による新たな詩の動きに併走していきたい。
明日、迎える朝が、今日の朝とは違うものであるように、
日々が狂おしいほど、新しいものであるように、
立ち止まることがないものを名づけるために。

posted by 城戸朱理 at 00:06| 詩誌・詩集評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする