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城戸朱理のブログ

2017年03月23日

宮澤賢治と洋食など



森荘巳池『森荘巳池ノート』が、あまりに面白いので、3回も通読してしまった。

この本は、これまで紹介してきたように、著者と宮澤賢治、草野心平、横光利一らとの交遊を語るものなのだが、賢治が占める割合がもっとも多い。


賢治が花巻で教員生活を送っていたころ、天ぷら蕎麦にサイダーを好んだ話は有名だが、賢治にはベジタリアンのイメージがある。

たしかに菜食生活を送った時期はあるのだが、必ずしも、それを通したわけではなかった。


まだ旧制中学生だった森荘巳池は、賢治に盛岡の大洋軒という西洋料理店で洋食のフルコースを御馳走になったことを回想しているが、これを賢治は「洋食の一番立派なもの。おごりの頂上の定食」と語っていたそうだ。

賢治は、上京したおりに、「神田で労働者が一番好きな牛丼」や「本郷で大学生が一番好きなカレーライス」を食べたらしく、故郷に帰ってからも、盛岡の肉屋が兼業でやっている食堂で牛丼を食べたり、花巻の精養軒の支店でカレーライスを頼むことがあったという。

賢治の母親は、東京で賢治がきちんと食事をしているか心配したらしいが、それに対して、賢治は、東京には飯屋というものがあって、とりわけ労働者や苦学生が食べる丼物、天丼、親子丼、鰻丼が山盛りで美味しいものであることを伝えたというのだから面白い。

森荘巳池は、鰻丼と天丼が、賢治のもっとも好きな食べ物だったことを語っている。


宮澤家は、素封家だけに、賢治も食事で困るようなことはなかったのだろう。

そして、貧しい農民に比べて豊かな自分を恥じるところが賢治にはあったし、その贖罪の意識が、作品にも反映されているのは言うまでもない。


賢治の生活が一変するのは、祖父が建てた宮澤家の別宅を改装して、羅須地人協会を作り、無償で稲作の指導や肥料の設計を始めてからだろう。

ここでの暮らしは、形を変えた出家のような趣きさえある。


賢治は、杉林のなかにカマドを作り、3日分の米を炊いては、御飯をザルに入れ、井戸に吊るして「天然冷蔵庫」に保存した。

森荘巳池が羅須地人協会に泊ったときには、新巻き鮭の頭と骨をいれたあら汁を御馳走になったという。

このあら汁は、森荘巳池の自宅で作るように、酒粕や高菜を刻んだものが入っていなかったので、荘巳池は物足りなかったようだが、このころの賢治は、衣食に無頓着だったことが、さまざまな人の証言からも分かる。

賢治には、もっと大事なことがあったし、その眼には、イーハトーブの広やかな世界が映っていたに違いない。
posted by 城戸朱理 at 13:25| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月22日

アート・ドキュメンタリー「H(アッシュ)」の現在



「Edge」公式ホームページのことを報告したが、2014年から、井上春生氏のハグマシーン制作によるアート・ドキュメンタリー「H(アッシュ)」も制作されている。


「H(アッシュ)」は、やはり、私の企画・監修で、京都の真澄寺別院・流響院を舞台に、ほかにも京都各地でロケを重ねて制作されるコンテンツ。

これまで、作家・柳美里さんと宗教学者・山折哲雄先生の対談から始まって、
歌人・東直子さんによる春夏秋冬の4本、俳人・高柳克弘、神野紗稀夫妻による四季の吟行風景が、今春で完成、
歌人・水原紫苑さんによる京都の桜を詠むコンテンツが、今春で3本目、
宮澤政人さんの「ごたん宮ざわ」で詩人・石田瑞穂・みゆ夫妻が、和食の四季を紹介する番組が、春と秋の2本を終えて、進行中である。


また、詩人・吉増剛造さんが、四季の京都を訪ねる4本の番組が完成、現在、映画化し、海外の映画祭に向けて、英語字幕を付けるとともに、英語のプレスリリースを準備中。

映画公開は、今秋になる。


「H(アッシュ)」の公式ホームページも、来年には準備したいと思っている。
posted by 城戸朱理 at 08:49| Edge | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月21日

宮澤賢治の森のベッド

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ちくま文庫版の『宮澤賢治全集』は、いつでも開けるように書斎のデスク脇に置いてある。

賢治の著作で、生前に刊行されたのは、周知のように『春と修羅』、『注文の多い料理店』の2冊だけ。

ともに大正13年(1924)、賢治29歳のときに出版されたものだが、どちらも驚くような古書値がついており、手が届かない。

それで、もっぱら文庫版全集で賢治を読んでいるのだが、それでも、手が届くものと出会ったときは、つい購入してしまう。


童話集『グスコーブドリの傳記』(羽田書店、昭和16年初版)
『宮澤賢治歌集』(日本書院、昭和21年初版)
詩集『雨中謝辞』(創元社、昭和27年初版)などなのだが、
このうち最初の2冊は、盛岡の古書店で求めたものである。

『宮澤賢治歌集』は、原稿用紙を束ね黒いクロースの表紙をつけた歌稿を単行本化したもので、森荘巳池による校註。

『雨中謝辞』は、『春と修羅』第二〜四集のカード式詩稿と残されたノートの詩稿をまとめたもので、賢治の弟の宮澤清六さんの「後記」によると、なかには丹念に消しゴムで消された原稿を復元したものまであるという。

こうした先人の努力がなければ、賢治自身が自作の取捨選択に厳しい人だったから、その作品のかなりの部分が、散逸してしまったことだろう。



賢治の詩で、もっとも長いのは「小岩井農場」で825行。

では、もっとも短い詩はというと、次の作品である。



さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張って居ります



わずか、2行。

しかし、長短に関係なく、本当に素晴らしい。


こんな詩が、どうすれば書けるのか、考えても分かるものではないが、生前の賢治と親交があった森荘巳池の『森荘巳池ノート』を繰り返し読んでいると、さまざまな発見がある。


賢治は、よく歩く人だったらしい。

しかも、夜中に散歩することが多く、いつも10銭の黒い手帳を持ち歩き、闇のなかで詩想を書きとめていたそうだ。

なかでも、森荘巳池が賢治と一緒に、岩手山麓まで歩いたときの話が面白い。


小岩井農場を過ぎ、岩手山麓に近い姥屋敷を過ぎて、松林の高原に至ったときのこと。

突然、賢治が「ベッドをさがしましょう――」と言った。

驚く森荘巳池に、賢治は「高原特製の、すばらしいベッドですよ」と笑う。

そのベッドとは、羽布団のように、もくもくと枯葉が積もった落葉松の低木で、ふたりで枯葉に潜り込むと、賢治は「岩手山ろく、無料木賃ホテルですナ」と森荘巳池を笑わせたという。

5月とはいえ、月のない夜。

真の暗闇が、ふたりを覆っていたのは間違いないが、賢治には、それを恐れる様子もない。


それからのあれこれは省略するが、ふたりは朝を迎えると、岩手山麓の大きな泉で顔を洗い、賢治が盛岡からハトロン紙に包んで持ってきた一本の食パンを、湧水を手ですくって飲みながら、食べたのだという。

賢治の生き方自体が、まるで彼の童話のようだが、こんなふうに自然のなかで呼吸していた人にしか見えない世界があるのは納得できる。

たいしたものだという言葉は、こういう人のためにあるのだろう。
posted by 城戸朱理 at 10:47| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月20日

アート・ドキュメンタリー「Edge」公式ホームページ準備中!



2001年から、私の企画・監修で始まったアート・ドキュメンタリー「Edge」は、テレコムスタッフ制作のポエトリー篇と宮岡秀行氏のスタジオ・マラパルテ制作のシネマトグラフ篇で構成され、公式ホームページも立ち上げたが、この何年かホームページが閉鎖されていた。


現在、テレコムスタッフの平田潤子ディレクターが中心になって、「Edge」公式ホームページを新たに準備中であり、これまで制作してきたコンテンツを紹介することが出来ると思う。

執筆陣も石田瑞穂、菊井崇史氏ら詩人から、プロのライター陣によるもので、批評的にも充実したものになりそうだ。


Edgeは、現在も制作が進んでおり、スタジオ・マラパルテによる「原民喜篇」が完成、「土方巽篇」が制作中、テレコムスタッフは、「暁方ミセイ篇」(平田ディレクター)、「カニエ・ナハ篇」(熊田草平ディレクター)に続く「杉本真維子篇」(伊藤憲ディレクター)が、編集に入っている。

また、来年度以降は、テレコムスタッフ、スタジオ・マラパルテ以外にも制作を依頼していくことになるかも知れない。


公式ホームページでは、部分的に映像を試聴出来るようにしたり、進行中の番組の様子を伝えるブログの開設も考えているが、充実したものになるよう平田ディレクターが奮闘中で、
私も執筆者未定のコンテンツを次々と押しつけらられ(?)、番組を見直しては原稿を書いているところだが、貴重なアーカイブになっていることを改めて確認した。


公式ホームページが開設したら、このブログでお知らせする予定。
posted by 城戸朱理 at 15:14| Edge | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月19日

洋野菜が珍しかったころ



母から聞いた戦前の話である。

新しいもの好きの母の兄、つまり私にとっての伯父が、見たことのない野菜の苗を植え、大きな青唐辛子のような実がなったそうだ。

茄子の味噌炒めを作っているとき、姉(伯母)に、あの大きな青唐辛子を入れてみようと言われ、伯母と母は、大きな青唐辛子のような実を「辛そうだね」と言い合いながら、刻んで、茄子の味噌炒めに入れたらしい。

さぞや辛いに違いないと、食べてみたら、これが、まったく辛くない。

この野菜が、ピーマンだったそうな。


今なら当たり前の洋野菜も、初めてのときは、こんなふうに珍妙かつ愉快な話になってしまうのが、面白い。


このピーマンを植えた伯父は、徴兵されて、戦後、シベリアに抑留されたが、奇跡的に生還し、長寿をまっとうした。


宮澤賢治と親交があった森荘巳池の『森荘巳池ノート』を読んでいたら、賢治は、ハイカラな人で、
「花畑、花園ですか、それを造ることは、詩を作ることよりも、ずっとおもしろいことは、おもしろいのですがねえ」と語り、
ドイツやイギリスから種を買って、花を育てていたという。

同様に、大正9年(1920)ごろからトマトやセロリ、パセリなどの洋野菜も栽培していたそうだが、家族には「西洋くさくて、食えない」と不評だったそうだ。

この「西洋くさい」という言い方が愉快だが、森荘巳池も賢治にトマトを勧められたとき、当時、トマトは人肉の味がするという俗説があったそうで、おっかなびっくり口にしたことを述懐している。

賢治はトマトの薄皮を剥き、塩をぱらぱらと振って、食べていたそうだ。

宮澤賢治とトマト、これも不思議な取り合わせである。


森荘巳池の実家は八百屋を営んでいたが、当時、普通に食べられていた野菜は、人参、大根、ゴボウにネギくらいのものだったという。
posted by 城戸朱理 at 14:03| 美味しい話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月18日

第三次こけしブーム???

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戦前、そして高度成長期に続いて、現在は、第三次こけしブームなのだとか。

手作りの伝統工芸品なのに、数千円で入手できることから、若い女性を中心に人気が高まり、こけし女子、略して「こけ女」なる言葉まで生まれたほど。


不定期月刊(?)のこけしと温泉の専門誌「こけし時代」もひそかに人気らしいが、実は、この雑誌を編集しているのは、バンビことパンクな彼女の友人なのである!


ちなみに、こけしは、江戸時代から東北地方で作られてきたが、地方ごとに呼び名は違ったそうだ。

それが、昭和15年(1940)に宮城県の鳴子温泉で「全国こけし大会」が開催され、こけしという名称が定着することになったらしい。


第一次こけしブームは、昭和6年(1931)に刊行された『こけし這子(ほうこ)の話』がきっかけだったという。

著者は、児童文学者の天江富弥。

初めて、こけしを系統別に体系化した本なのだが、この影響でコレクターが急増。


第二次こけしブームは、昭和30年代後半から40年代前半にかけての高度成長期で、道路や交通機関の整備が進んだおかげで、賑わうようになった温泉地の土産物として、こけしが飛ぶように売れたのだとか。

第一次こけしブームが、民芸品や骨董の収集家や都市部のインテリ層によるものだったのに対して、第二次ブームの中心になったのは、サラリーマン。

それだけに、売れ行きも凄く、最近、骨董市を覗くと、異様にこけしが目につくが、この第二次ブームのときに買われたこけしが売りに出されているのだろう。


現在の第三次こけしブームは、女子が中心で、素朴なゆるキャラとして人気を博している。


そして、バンビは、こけしが静かなブームになる前から、こけし風の髪型にして、生きているこけし=生(なま)こけしになって遊んでいたわけだから、先見の明があったと言えなくもない。

いや、ちょっと待てよ。

こけしを飾って和むのと、自分がこけしになるのでは、かなり違うか。
posted by 城戸朱理 at 11:25| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

死者を見送って

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2010年の暮れに受け取った岩手日報学芸部長・一戸彦太郎さんの急逝の知らせは、ショックだったが、翌年3月には、東日本大震災が起こり、2万を超える方が犠牲となった。

南相馬で入院中だった父方の伯母は、ヘリコプターで搬送された病院で亡くなり、さらに原発事故で双葉町から福島市に避難した母方の伯父が亡くなった。

翌年には、友人の日本画家・瓜南直子さんが病で急逝、さらに父が倒れ、入退院を繰り返して亡くなった。

2年前には、母も逝き、去年は、母方のもうひとりの伯父も亡くなった。


何やら、死者を数える日々が続いているような気さえするが、両親が暮らした家を訪ねても、かなしい気持ちにしかならなかった。

鍵を持っていないので、中には入れなかったが、この家で、25歳の私は、第一詩集『召喚』のゲラに手を入れ、「三ツ石伝承」(『戦後詩を滅ぼすために』所収)を書いたのだった。

それから、30余年を経て、家も記憶のなかに沈みこんでいるかのようだ。
posted by 城戸朱理 at 11:23| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月17日

森荘巳池『森荘巳池ノート』(もりおか文庫)

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光原社で森荘巳池の著作を見つけた。

朝日新聞岩手版に、昭和55年(1980)6月2日から、昭和60年(1985)9月23日まで、週一回で連載された250篇の随筆のうちから218篇を収録したものだった。


著者の森荘巳池氏(1907〜1999)は、昭和19年(1944)に第18回直木賞を受賞した作家であり、『山村食料記録』の詩人でもある。

旧制中学在学中に、宮澤賢治の訪問を受けてから、賢治との交流が始まり、最初の『宮澤賢治全集』編集のため、岩手日報学芸部長を辞した。

いわば、作家であり、詩人であるとともに、賢治の仕事を草野心平らとともに後世に伝えた方である。

「―新装再刊 ふれあいの人々 宮澤賢治―」という副題からも分かるように、宮澤賢治との交友のあれこれが綴られており、実に興味深く読んだ。

巻頭の「公刊本までの推敲の跡」は、宮澤賢治の死から始まる。



 昭和八(一九三三)年九月二十一日、宮沢賢治が亡くなった。人びとが賢治のまわりに集まっている座敷から、私は何となく裏庭に出た。
宮沢家で「遠裏(とおうら)」といっている畑の真ン中に、家を建てる土台が並んでいるのが見えた。そこに行ってみた。長期にわたっていた賢治の療養のために建てようとしたものだと思った。



そこで、森荘巳池が見たのは、賢治の病室から持ってきた三、四冊の『春と修羅』だったという。

そのうちの一冊を手に取って、森荘巳池は、次のように書いている。



 賢治が、熱心に改稿した書きこみがあり、斜線でサッと、抹殺の意志を現したページも多かった。ことに巻頭に多かったのを見た。
 死の前日まで推敲した跡だ。「日光消毒」にこうしてあるのだとすぐ気がついた。原稿を何べんも推敲しているということは、聞いていた。が、公刊本の『春と修羅』まで、熱心に推敲していたわけだ。
「いつまでたっても、作品は完成することなはない」と推敲していたことを目の前にして、驚かない人はないにちがいない。
「大変な人が生まれたものだ。そして、さっさと死んだものだ」と、私は、一冊の『春と修羅』を、ページをひらいたまま、むしろの上に置いて、座敷に帰った。



この宮沢家の「遠裏」の離れは、賢治の没後に完成し、東京から疎開してきた高村光太郎が住んだが、昭和20年(1945)8月10日、アメリカ軍の空襲によって焼失したという。


死の前日まで、詩集を推敲していた賢治の姿も鬼気迫るものがあるが、それよりも、私は森荘巳池の「大変な人が生まれたものだ。そして、さっさと死んだものだ」という感懐が、ひどく気に入った。


新装版の解説は、森荘巳池氏の娘さんで、詩人の森三紗さん。

宮澤賢治生誕120年の昨年に刊行されたものだが、東京や鎌倉では、気づけなかった本に出会えたのが嬉しい。
posted by 城戸朱理 at 14:33| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月16日

宮澤賢治の手帳

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賢治の詩のうちでも、もっとも広く知られているのは「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」だが、これは詩として発表されたものではなく、
賢治の没後に発見された手帳のメモであり、賢治自身が自ら、こうありたいという姿を綴ったものである。

「雨ニモマケズ」が記されているのは、賢治が、闘病中の1931年に使っていた黒い手帳の51ページから59ページにかけてで、11月3日の日付を持つ。

筆跡から見ても、一気に書き上げたのは間違いないが、賢治自身、この走り書きのメモが、後世、自分の代表作のひとつになるとは思っていなかっただろう。

また「雨ニモマケズ」の後には「南無無辺行菩薩/南無上行菩薩/南無多宝菩薩/南無妙法蓮華経/南無釈迦牟尼仏/南無浄行菩薩/南無安立行菩薩」と「法華経」を中心に諸仏を列記したページもあり、法華経に深く帰依した賢治の姿が浮かび上がってくる。


この手帳は、研究者に「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれているが、光原社で、その復刻が売られていたので、求めてみた。


鞄に入れておくと、ごく普通の手帳にしか見えないが、なかに記されている言葉を思うと、何の変哲もない手帳が、精神性を帯びるかのようで、心地よい緊張がある。

「雨ニモマケズ手帳」は、およそ三分の二が白紙のままなので、私も手帳として使うつもりだが、自分が、どんな言葉を書きつけることになるのかは、分からない。
posted by 城戸朱理 at 10:40| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

吉田屋のこぼれイクラサーモンハラス焼き弁当

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3月12日(日)は、バンビことパンクな彼女が、新宿のオリンパスギャラリーで開催されている東日本大震災復興支援写真展「空でつながる」に出品作家として在廊するため、ひと足早く帰途に着いた。

私は、中村屋のアワビステーキやワイン漬けのイクラ、アワビの肝のバターライス、佐助豚など、お土産を買ってから、盛岡駅へ。


みどりの窓口で、新幹線を早い便に変更し、昼食に駅弁を選んだ。

八戸の吉田屋の「こぼれイクラサーモンハラス焼き弁当」である。

吉田屋は創業明治25年、東北の駅弁の老舗だが、東日本では珍しく、鯖と紅鮭の押し寿司の「八戸小唄弁当」が名物で、両親が好きだったのを思い出す。

関西とは違って、押し寿司自体が珍しかったからだろう。

吉野から手作りの柿の葉寿司を両親に送ったときも喜ばれたが、押し寿司には江戸前の握りとは違って、本来の寿司が持っていた練れた味わいがある。


「こぼれイクラサーモンハラス焼き弁当」は、国産のサーモンのハラスに三陸産イクラを散らしたお弁当で、シンプルだが、素材を生かした駅弁だった。
posted by 城戸朱理 at 10:39| 美味しい話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする