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城戸朱理のブログ

2017年08月24日

大岡信さんと会食したときに



大岡信さんが亡くなり、「現代詩手帖」を始めとして追悼特集が相次いで組まれたが、ふと思い出したことがある。


1998年のこと。

『現代詩文庫 続続・大岡信詩集』に、私も作品論を執筆したのだが、やや長めだったため、所定のページ内におさめるべく、担当の佐藤一郎氏とやり取りしながら、原稿を削るのに苦労したことがある。

そして、「現代詩文庫」が刊行されてから、「詩人論・作品論」の執筆者だった永原孝道、野沢啓両氏と私を、大岡さんが招いて下さり、恵比寿のフレンチで御馳走になったことがあった。


そのとき、大岡さんが備前の陶芸家、藤原雄氏と親交があることを知り、藤原雄氏が人間国宝になったことをお伝えしたら、大岡さんが大層、喜ばれていたのを覚えている。

大岡さんは、海外にいらっしゃることが多く、藤原雄氏が人間国宝に指定されたことを御存知なかったのだ。


備前で人間国宝の指定を受けたのは、桃山陶を復元し、「備前焼き中興の祖」と呼ばれた金重陶陽が最初で、陶陽没後には、藤原啓が指定を受けた。

藤原啓は、詩人を志し、生田春月との共著で『ハイネの訳詩集』も刊行しているが、自分の才能に限界を感じて備前に帰り、40歳から陶芸の道に入ったという変わった経歴の持ち主である。


藤原啓のあとは、轆轤の名手として知られる山本陶秀が人間国宝になり、1994年に陶秀が没して、2年後に藤原雄が人間国宝の指定を受けたのだった。

藤原雄は、藤原啓の長男なので、親子で人間国宝になった唯一の例だが、生まれつき弱視で、視力がほとんどなく、そのためか作品は肉感的で、独特の魅力がある。


実は、人間国宝になる前に、藤原雄作のぐい呑みを求めたことがあるので、大岡さんが親交があることを知って驚いたのだが、美術家と交流が深かった大岡さんが、陶芸家と交流があったのも、今にして思えば、当たり前かも知れない。
posted by 城戸朱理 at 10:19| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月23日

戦争の記憶、その3



藤原てい『流れる星は生きている』(中公文庫)を久しぶりに読み直した。

記憶が定かではないが、この本を初めて読んだのは、小学生のときだったかも知れない。

そうだとすれば、久慈小学校5、6年の担任だった高橋武志先生の影響だろう。

私は父の転勤で、盛岡の仁王小学校から久慈小学校に転校し、中学2年まで久慈で過ごした。

NHKドラマ「あまちゃん」の舞台となったところである。


当時、高橋先生は、まだ若く、独身。

授業は面白く、生徒にたいそう人気があった。

高橋先生の影響で、歴史好きになった生徒も多く、私もそのひとりだった。

忘れがたい先生だが、もし、小学生の私が『流れる星は生きている』を読んだとすると、高橋先生の影響しか考えられない。


本書は、終戦間際の昭和20年8月9日、ソ連参戦の夜から始まる満州からの引き揚げの記録。

満州新京の観象台に勤務していた夫と引き裂かれた著者が、6歳、3歳の長男と次男、生後一ヵ月の長女、3人の子供を連れて、満州から朝鮮半島を経て、帰国するまでの脱出行であり、昭和24年の刊行時には、ベストセラーになったという。


歩いて、38度線を超え、アメリカ軍に助けられるまでの道行きは、壮絶で、足の裏は肉まで無数の小石が食い込み、医師から摘出の処置を受ける。

故郷の諏訪にたどり着いたときには、栄養失調で、幽霊そのままの姿であったという。


再読するのは、久しぶりだが、いくつも覚えている場面があった。


著者の夫君は、満州で丸一年の捕虜生活を送ったが、帰国。

ちなみに、夫君は作家の新田次郎である。

「あとがき」によると、夫婦の間でも「引き揚げ」の話は禁句だったというが、語り合うことさえ、はばかられるほど過酷な体験というものがあるのだろう。


私の母方の伯父も、シベリアに抑留され、その死を覚悟した家族が葬儀を営んでから、突然、帰国して、みんなを驚かせたが、シベリア時代のことを語ることはなかったそうだ。
posted by 城戸朱理 at 12:19| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月22日

戦争の記憶、その2



佐藤勝彦という画家がいる。
画壇に属さぬ、この画家のことを私が知ったのは、古本屋で手にした季刊「銀花」の特集号「佐藤勝彦 現代仏道人生」(1974)によってだった。

当時の「銀花」の発行部数は、7万部。なんと、佐藤勝彦はこの特集のために編集長の要請に応えて、7万枚もの絵を描き、全冊にに肉筆の絵が封入されている。


当時、佐藤さんは高校で美術の教師をされていたはずだが、季刊雑誌のスパンで7万枚の絵を描くのは、常軌を逸した試みとしか言いようがない。

それ以来、古書店で目にするたびに、肉筆画を確認しては、「銀花」同号を求めたので、10冊ほどが手元にある。

今では実現しえない企画だろう。


佐藤勝彦氏は、1940年、満州大連生まれ。終戦の2年後、1947年に貨物船で日本に引き揚げたという。

その佐藤氏が、「銀花」の別の号で終戦後の大連の思い出を語っていた。

1945年の敗戦で、満州にはソ連兵が進駐したが、現地の日本人はソ連に徴用さる労働に従事するとともに、食糧難で餓えに苦しんだ。

そんなとき、アカシアの花の蜜が甘いという話が広まり、子供たちはアカシアの樹に登って、ひたすら花を集めては蜜を吸っていたところ、そこにやって来たソ連兵が、銃を連射し、子供たちは次々と樹から落ちたのだという。 



俳優の宝田明さんも、満州のハルビンで終戦を迎えたとき、ソ連兵が侵攻し、略奪、暴行、凌辱のかぎりを尽くしたことを回想しているが、駅のホームで見回りのソ連兵に撃たれ、麻酔も手術道具もないなか、元軍医だった人に手術を受け、一命をとりとめたそうだ。

そうした経験があって、ロシアには素晴らしい芸術があるのは知りながらも、拒否してしまうようになったというが、当然のことだろう。

注意したいのは、宝田明・佐藤勝彦両氏の語っていることが、終戦後に起こっているということだ。


暦のうえでは、1945年8月15日で太平洋戦争は終わったが、庶民にとっては、そこから、さらに悪夢が始まったことになる。 

消し去りがたい記憶というものがある。 

忘れたいと思っても、そして、忘れたつもりでいても、何度でも襲ってくる記憶がある。 

その意味では、戦争とは、それを経験した人にとって、生涯、終わらないものなのではないだろうか。
posted by 城戸朱理 at 10:53| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月21日

戦争の記憶、その1



戦国時代から安土桃山時代に、隆盛を見た茶の湯を主導したのは、織田信長や豊富秀吉といった戦国大名だったが、明治以降、茶の湯に新風をもたらし、その隆盛を担ったのは、三井財閥の指導者たる益田隆(鈍翁)を始めとする財界人だった。


実際、近代の財界人は茶器の収集と茶の湯を通して、交流を深めた感さえある。


とりわけ、横浜屈指の財閥を築いた原富太郎(三溪)と、今日の電力会社の基を築き「電力王」「電力の鬼」と呼ばれた松永安左衛門(耳庵)は、益田鈍翁と並んで、近代の三大茶人と称される。

また、小田原を拠点に近代の茶道を極めた「近代小田原三茶人」にも、益田鈍翁、野崎廣太(幻庵)とともに松永耳庵の名が挙がるが、その伝記を読んでいたとき、実に印象深い記述があった。


松永耳庵(1875〜1971)は、長崎県壱岐の裕福な商家に生まれたが、その幼少期に、元寇のときの惨禍をさんざん聞かされて育ったというのだ。


モンゴル帝国とその属国、高麗王朝による日本侵攻である元寇は、文永の役(1274)と弘安の役(1281)の二度で、鎌倉時代なかばのこと。

なんと、壱岐では、13世紀の出来事を、600年後の19世紀まで、脈々と語りついできたことになる。


九州上陸前に侵攻を受けた対馬と壱岐の被害は、とりわけ甚大で、島民は惨殺され、子供は奴隷として連れ去られたわけだが、元軍が、捕虜とした女性の掌に穴を空けて縄で繋ぎ、舷側の並べて矢よけにしたなどといった信じがたい様子が、日蓮聖人らの記述によって伝えられている。


中国や韓国では、この侵攻のことを歴史で教えていないようだが、その惨禍は、現地では語り継がれていたわけで、私は、戦争というものが、たとえ終わっても、それを経験した人々にとっては、決して終わらず、遺恨とともに語り継がれていくものであることを、思い知ったのだった。


おそらく、侵略を受けたすべての人間にとって、それは同じなのではないだろうか。


そして、いちどは文学史上の出来事になってしまった小林多喜二『蟹工船』といったプロレタリア文学が、格差社会と貧困が社会問題になると復権したように、戦争の記憶もまた、その気配とともに何度でも呼び起こされていくのだと思う。
posted by 城戸朱理 at 12:26| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月20日

熱中症!?





中沢けい、島村輝両氏と、しこたま飲んだ翌日は、危なかった。


この日は、毎日新聞出版に転職した久保奈々子さんが鎌倉に来ることになっていたので外出したのだが、熱中症で倒れかけたのだ。

久保さんは「ローリングストーン」編集部にいたときに、柳美里さんがバンビことパンクな彼女に紹介してくれた編集者。

ロック好きだけにバンビと気が合うらしく、いつの間にか鎌倉で飲む約束をしていたらしい。


鎌倉文学館が見たいというのでお連れしたのだが、私はなぜか異様に発汗、まるでバケツの水をかぶったようになり、吐き気までしたので、急ぎタクシーで帰宅し、シャワーを浴びて、涼しい部屋で休んだ。

前日、韓国料理で焼酎を飲みすぎたのが祟ったらしい。

アルコールを分解するためには体内の水分が大量に消費されるが、そこに猛暑が重なり、脱水症状を起こしかけたのだと思う。


幸い、小一時間休んでいたら回復したが、調べてみたら紛れもなく熱中症の症状だった。

おそらく、体温も上がっていたのだろう。


久保さんとバンビは、海岸を散歩し、由比ヶ浜通りの古書店、公文堂を見てから、クルベル・キャンに入ったという連絡があったので、私も遅れて合流した。


久保さんとバンビは、ブランキー・ジェットシティのベンジーやザ・バースデイのチバユウスケなどロックの話題で盛り上がっている。


頼んだのはトマトのカプレーゼ、ジャガイモのフリット、久保さんは鶏肉がお好きだというので、鶏もも肉の石窯ハーブグリルにミラノ風カツレツ。

ピザはクワトロ・フォルマッジ、パスタはフレッシュ・トリュフのカルボナーラにした。


途中、大船の寿司處もり山の森山さん御夫妻がいらしたので、ご挨拶する。

新子を食べに、もり山さんに行かなくては。


私は熱中症で倒れかけただけに食欲はまったくなく、カクテルを飲んでいた。


久保さんとバンビの話が弾み、気づくと11時をまわっていたので久保さんを鎌倉駅まで送り、タクシーで帰宅。


それ以降、体調を崩し、ブログの更新も空いてしまったのだった。
posted by 城戸朱理 at 13:37| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月19日

三伏に韓国料理を、その2

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そして、お目当てのカンジャン・ケジャン。

蟹じたいが美味いが、御飯をもらって、甲羅の蟹味噌と混ぜると、これがまた絶品。

眞味食堂で食べたときのような衝撃はないが、やはり、韓国料理の白眉だと思う。


ビールを焼酎にかえ、飲みつつ、語り合ったのだが、中沢さんの読書量は相変わらず凄い。


三伏なので、参鶏湯も頼んだのだが、韓国料理で暑気払いもいいものだと思った。


ところで、バンビことパンクな彼女は先約があって来れなかったのだが、カンジャン・ケジャンと聞いては穏やかではない。

「もし、お土産に出来たら、買ってあげて!」と騒いでいたので、聞いてみたら、出来るというではないか。

かくして、バンビも久しぶりにカンジャン・ケジャンにありつくことが出来たのだった。
posted by 城戸朱理 at 12:52| 美味しい話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三伏に韓国料理を、その1

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あれは、10年前、2007年のことだったと思う。

作家の中沢けいさんとソウルで、カンジャン・ケジャンを食べたのは。


警察署があるくらいで観光客が足を運ぶことのない麻浦の路地奥にあった眞味食堂(チンミシクタン)という店で、初めて食べたカンジャン・ケジャンは、思わず笑い出したほど美味だった。

眞味食堂は、バンビことパンクな彼女がネットで見つけた店だが、普通の民家で、メニューはカンジャン・ケジャン定食のみ。


生のワタリガニを唐辛子主体の薬味に漬け込んだヤンニョム・ケジャンは、日本の韓国料理店でも見かけるが、当時は、ニンニクや青唐辛子を入れた醤油に漬け込むカンジャン・ケジャンは、珍しかったし、衝撃的な美味しさだった。

中沢さんとは、それ以来、ときどきカンジャン・ケジャンの話になるのだが、2008年に光州ビエンナーレの帰りに、バンビと再訪したら、店舗が路の反対側に移転していた。


先日もツイッターで、中沢さんと、カンジャン・ケジャンの話題でやり取りしていたら、湯島に韓国料理なら何でもある店があるのでカンジャン・ケジャンを食べに行こうということになった。

店の名は、チョンハクトン(青鶴洞)。


フェリスの島村輝教授にも声をかけたのだが、中沢さんによると、8月11日は三伏で、韓国では暑気払いに参鶏湯を食べる日なのだとか。

たしかに暑い日だったが、上野から御徒町のあたりは活気があった。


まずは、中沢さんとビールで乾杯。

すぐに島村先生も到着し、メニューを決める。


最初に、キムチやナムルなどのパンチャン(おかず)が並ぶのは、韓国流。


まずは、血と餅米の腸詰め、スンデとドトリムクを頼む。

ドドリムクは、ドングリから作った餅で、ワラビ餅に似た食感である。

韓国に詳しい中沢さんによると、韓国ならどこにでもあるそうだが、私は初めてだった。

涼感があって、悪くない。

島村先生も韓国は詳しいし、韓国のあれこれから文学まで、話は尽きない。
posted by 城戸朱理 at 12:51| 美味しい話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月14日

手乗り金魚???

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バンビことパンクな彼女は、金魚すくいが得意である。

お正月に鶴岡八幡宮で、金魚すくいをすると7、8匹をすいすいとすくってしまうのだが、金魚はすぐに死んでしまうのが、悲しい。

ところが――


「モミちゃーん、モミちゃーん!」


バンビが金魚鉢に呼びかけると、水面に浮かんでくるのが、モミーこと「もみじ」。

バンビが10年以上前に、すくってきた金魚である。

しかも、バンビの指に吸い付き、頭をなでられたり、顎をなでられたりしているではないか。


「もみじは、今や、世にも珍しい手乗り金魚なんだよ!」
・・・・・・


さすがに、10年は生きているだけに、金魚とは思えぬほど大きい。


「モミちゃんは、金魚じゃなくて、本当は鯉なんだよ!」


嘘である。

たんに大きくなった金魚である。


しかし、金魚が名前を呼ばれて分かるのだろうか?

おまけに、なでられて不快ではないのだろうか?

飼い主がパンクなだけに、金魚もひと筋縄ではいかないキャラに育ってしまったらしい。

面白いことは面白いが、いいのだろうか、これで?
posted by 城戸朱理 at 12:49| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月12日

ガレットで白ビール

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散歩していたら、バンビことパンクな彼女が、「ガレットでおやつビールはどうかな?」と言い出した。


バンビの「おやつビール」とは、日の高いうちに飲むビールのこと。

これだけ暑いのだから、それくらいは許されるだろう。


お店は、御成通りのガレット専門店「パティスリー・カフェ アンビグラム」。

私は初めてだが、バンビは友だちと来たことがあるらしい。


嬉しいことにヒューガルデンがあった。

コリアンダーやレモンピールで香り付けした白ビールは、やはり、夏こそふさわしい。


まずは、ガレット・コンプレの「玉子・ハム・チーズ」を。

ガレットは、フランス、ブルターニュ地方の伝統的な料理で、蕎麦粉の生地にチーズやハム、野菜などを包んだもの。

同じ蕎麦粉といっても、日本の蕎麦切りとはまるで違うが、そこが料理の面白さだろう。

白ビールのあとは白ワインをもらって、肴にサーディンを頼み、さらにガレット・スペシャリテの「玉子・ハム・ラタトゥイユ」を焼いてもらった。


シェフは、ブルターニュ地方で修行したそうだが、本来はパティシエで、美しいケーキも並んでいた。

しかも、南麻布のイタリアン「アンビグラム」のシェフと双子の兄弟で、南麻布のお店では、パティシエをされていたという。


お酒の品揃えが悪くないと思ったら、シェフも酒好きらしい。


昔は、私もよくガレットを焼いたものだが、久しぶり家でも焼いてみようかと思った。
posted by 城戸朱理 at 10:02| 美味しい話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月11日

日暮里でモツ焼き、その2

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さらにラムのつくねとトマトの肉巻きに塩昆布キャベツを追加。

ラムを使うあたり、最近の流行を踏まえているが、ラム肉と言えば、やはり北海道。

札幌のジンギスカンと北海道限定サッポロ・クラシックの取り合わせは最高だった。


ここまで来ると、もう本格的な飲みモードに。

生レモンサワーをおかわりし、分厚いハムカツに海老のアヒージョも追加したのだが、大衆酒場でありながら、若者向けのメニューも揃っており、活気のある店だった。


鎌倉だと、常連が還暦以上という店ばかりだから、煮込みやもつ焼きは、大船まで行かないとお目にかかれないが、こんな店が、日中から開いている街で暮らしてみたいと思うことがある。
posted by 城戸朱理 at 08:21| 美味しい話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする